幕間・水上
水上葵は自室のベッドの上で、制服を抱き抱えて寝転がっていた。何の色気もない灰色のスウェットを着ていると言うのに、風呂上がりだからだろうか、火照った肌が何とも艶かしく、制服を見つめる目は、仄暗い色の炎が浮かび上がるかのようにすら感じる、情欲の篭ったものだった。
ぴきり、ぴきりと何かが罅割れるような音がする。葵の皮膚は赤く染まり、また元の肌色に戻る。額からは2本の小さなツノが生えて、かと思えばまるで幻覚かのように元に戻る。
そんな『異変』が繰り返されているにも関わらず、当の本人はまるで気にならないかのように、抱きしめた己の制服に……、もっと言えば血が滲んだそこに顔を埋めれば、幸せそうに破顔する。
すんすんと鼻を鳴らし、肺一杯にその臭いを吸い込めば、トロンとその瞳を蕩けさせ、湯上がりの熱とは別の熱で、頬を赤く染める。
「漱くん……」
うっとりとした様子で名前を呼んだ葵は、今日のことを思い返す。
夕焼け色に染まった、窓のない図書室において、明らかな異常事態だというのに、化け物に1人立ち向かった漱の姿が、葵の脳内には鮮明に思い浮かんだ。
厳密には1人ではなく、ポケットの中にヤツカも居たが、彼女はその姿を見ていない為、漱が自分を守るために1人で立ち向かったように見えた。
まるで創作物に登場するヒーローのような姿は、彼女にはとても格好良く映った。
そもそも、元から葵は漱に対して好感を持っていた。下心全開で接してくる他の男子とは違って、そんな姿は一切見せなかった。あくまでも、ごく普通の、誰に対してもするような対応で、それでいて当たり前のように、親切だった。
優しい後輩だと思っていたし、気になる男の子だとも思っていた。
その上で、今日の件だ。
身体だけじゃなく、心も守ろうとしてくれたのが、なんとなく感じられた。都合の良い思い込みかもしれないけれど、彼の気遣いは温かいものだった。
「ふふふ」
帰り道では自分でも大胆だと思う事をしたけれど、素っ気ない対応の割に、彼の心拍は上がっていて、赤くなった耳に、意識してくれてるのが理解できて、嬉しかった。
どうしようもなく、心と身体が漱を求めているのを自覚する。
そうやって夢中になって嗅いでいたからか、コンコンと部屋の扉をノックする音に、葵は気が付くことが出来なかった。
「葵?入るぞー」
声とともにガチャリと扉が開く。声とともに部屋の中に入って来るのは彼女によく似た美女だった。葵の背をもう少し高くして、髪を短く切り揃えて眼鏡をかけさせたような、そんな容姿の女性だ。
その女性の、よく通るそこそこ大きな声でなされた宣言に、ようやく葵は我に帰る。
「お、お母さん!?ノックしてよ!!」
恥ずかしいのか、そう叫ぶと、美女、葵の母親である水上梢は一瞬目を見開いたかと思えば、娘に起きる異変に分かりやすく狼狽える事なく、呆れたような口調で言う。
「ノックはしたっての。アンタが気付かなかったんでしょうが。
その肌の変色も」
「え……?」
言われて、掌を見てみれば、赤く染まったり、普通に戻ったりを繰り返すその異変を、ようやく正しく認識して、その顔から血の気を引かせた。
「まあ理由は分かるから説明してやるさ。取り敢えず制服置いて下に降りてきな」
パニックに陥りそうになる寸前で、母からの言葉で、顔を青褪めさせたまま、こくりと頷くと、手招きする母親の方へとふらふらと寄っていった。
***
16畳程の広々としたリビング。その中央に置かれた質素な4人掛けのテーブルに、向かい合うように梢と葵は座っていた。
2人の目の前には温かなココアを入れたマグカップが置かれていて、今は異変、異形化と言うべきだろうか、それが落ち着いて、いつも通り、ごく普通の状態の葵は、不安そうな顔でマグカップを両手で持つと、ちびりと、その縁に口をつける。
温もりと甘みを口で堪能して、ゆっくりと嚥下すると、意を決したように問いかける。
「お母さん、私どうしちゃったの……?」
「別に病気とかではないから安心しな。ちぃと厄介なのはまあ確かなんだけどねぇ」
恐る恐る、と言った様子の娘に対し、母はあっけらかんと笑って言えば、マグカップを片手で持って、ぐいっとその中身を呷る。
ごくごくと飲み干せば、ふぅ、と息を吐いた。
「葵にはウチの家系のことについては話して無かったよな?」
「え、うん」
こくこくと頷く葵を見て、梢はよし、と頷く。
「まあめちゃくちゃ簡単に言っちまうと御先祖様が神様なのか妖怪なのかよくわからん存在の家系なんだわ、ウチはさ」
告げられた突拍子のない事に、理解できてない様子の葵は、そのまま首を傾げる。
とは言え、化け物も、怪奇現象も遭遇したのだ、そう言うこともあるのかもしれないと、分からないままに、納得だけは出来た。
「えーと、先祖返り、みたいなこと?」
「ま、そんなとこだよ。宇治の橋姫さまってのがアタシらのご先祖さまらしいが……まあ、あれ見る限り間違いないだろうよ」
思ったより驚かねえんだな、と言う言葉に苦笑いを返しながらも、言われた言葉を咀嚼する。
宇治の橋姫……、それは葵の記憶が正しければ嫉妬に狂った女の成れの果て、1匹の鬼の名前だ。愛と嫉妬の炎で心を焼き尽くし、全てを呪った女。
「鬼……?」
「水神にして鬼神にして人、宇治の橋姫さま、ってね。んでこれがうちのお役目、ってやつに関わるんだわ。アンタはこっちの事情に関わらせたく無かったんだけどね、こうなっちまったら仕方ないし」
今は落ち着いて、でも何故か色が何度も切り替わる、異質な状態にあった肌を見る為か、開いた掌を見つめる。
今は普通の肌色、けど赤く変わった姿はなるほど、鬼と呼べるのかもしれない。少なくとも、普通の人からは大きく外れていることは明白だった。
「一つはこう言ったオカルトが実在することを秘匿する事、もう一つは化け物退治」
ぴっと指を2本立てる母親と、それを黙って見つめる娘。
そうして、夜も深まっていく中で、親から子への内緒話は進んでく。
「鬼の力っぽいのはちゃんと制御できるように鍛えてやるから安心しな!」
「お母さんスパルタじゃん!!」
「ヤツカ?」「なんでしょうか、あるじさま」「何してんの?」「おせなかを、ながそうかと」「恥ずかしいから1人で入らせて」




