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ガラスの脚を持つ零細血統馬

 ここは阪神競馬場の控え室。3レースで5着に敗退したちゅんを押切が説教の最中だった。説教の間、競馬場では4レースが滞りなく行われていた。


「えっ、えーっとそれは……」


ちゅんは押切の質問に答えるのに躊躇していた。


「ったくオマエは日頃のプロ意識が欠けてるのがまだわかれへんのか〜! オマエは勝とうとするハングリー精神が全く感じれへん! 騎乗技術以前の問題や〜! 自分が乗ったレースの反省とかやっとんのか? 勝った騎手も負けた騎手もレース後自分の騎乗をモニターで見て反省点とかを自分で分析して次に生かそうとするやろ? オマエはちっとも学習せーへんから先輩騎手はおろか他の同期の連中にも置いてけぼり食らうんや〜!」


押切の説教は周りから見るとヤクザが一般人を脅迫してるように見受けられてしまうが、押切自身ちゅんの騎手としての心構えのなさはちゅんがデビューした時からの悩みの種だった。押切厩舎低迷の原因はちゅんだけでなく押切自身の社交性のなさにも実は問題があった。ちゅんが入る前の押切厩舎の騎乗依頼は、これといった固定騎手はいなくてランダムでやっていた。しかし、ほとんどの確率で断られることがザラだった。そして騎乗機会が少ない空いてる騎手がやむなく乗って満足な結果が得られないという悪循環だった。所属騎手としてちゅんが厩舎に入ってからは騎乗機会を与えて育てていかないといけないというシステムになっている。しかしプロに成りたての所属騎手だけではとてもでないが勝てないのが普通である。そのため腹心の小倉橋も他のいい騎手の確保を提案していたが、押切の日頃の容姿と振る舞いの悪さが人を遠ざけていた。今回のユーロステイテッドの騎乗依頼も選択肢がちゅんしかいなかったためにこういう結果になったわけである。


 押切の説教の間に4レースは終了して5レースの2歳新馬戦へと移る。この5レースには本岡厩舎所属の1頭の2歳牡馬がデビューすることになっている。その競走馬の名はオンリーゴールドという金のたてがみがトレードマークの尾花栗毛の馬で、脚部不安を常に抱えていて血統的にも地味なほうだった。そのためセリ市では1000万以下という低評価で現在の馬主の吉原勝美氏に落札されて、預託先の厩舎が決まっていない状態の時に、岡西が吉原に本岡のことを紹介してこのオンリーゴールドを預託してもらったという経緯がある。入厩したばかりのオンリーゴールドはゲートの中では落ち着いていて他馬を怖がることはなかったが、まともにコースを走れないというところがあった。そのため初夏から真夏にかけての調教内容は栗東トレセン地域の駆歩くほ運動かプールしかできなかった。鞍上に騎手を乗せた乗り込みは9月の中旬に入ってようやくという感じだった。コースではすべて「馬也うまなり」で走らせて常に脚を壊さないように調教していた。そしてデビュー戦を控えた最終追切の日に初めて坂路を「強め」で走らせて、このレースに照準を絞ってきたという。こういう地道な努力を積み重ねてきて出走までこぎつけたが、本岡自身オンリーゴールドが無事に怪我なく戻ってくることだけを祈っていた。


 パドックでは5レースに出走する10頭の2歳新馬が周回していた。騎乗予定の騎手達は3レース同様パドックと控え室の間で一列に並んで待機していた。岡西はこのレースでは大外枠のため向かって一番左側でライバル馬の状態をチェックしていた。


(出来では幸田さんや匠さんの馬がよく見えるなあ。俺が乗るオンリーゴールドは4番人気と伏兵サイドだが上位に割り込む余地は十分ある)


岡西は勝ち負けに持っていくための展開を頭の中でいろいろとシュミレーションしていた。


 パドックの客席の中に一組の若い大学生らしきカップルがいて、男のほうがそこそこ競馬を知っていて女のほうが男に付き合って競馬場に来ているという感じだった。


「なあ、アンタ何買うか決めたん?」


女は男に買い目を聞いてきた。


「あぁ、このレースは馬連5-8で決まりやろ。堅いと思うで!」


男のほうはこのレースはもらったとばかりに得意気に自慢していた。


「ウチ、あの10番の金のたてがみのお馬さんがすごく綺麗で走りそうな予感するんやけど〜」


競馬のことを知らない女性は見た目の綺麗さでその馬を気に入る傾向がある。この女性のほかにもオンリーゴールドを携帯の写メールで取る女性ファンもけっこういた。


「そんな鬣が他の馬より目立つからって走るとは限らへんでぇ。それで馬券取れるんやったら苦労せーへんわ。気合の入り方から見てても5-8で決まりやわ」


男は呆れながら得意気に語っていた。


「え〜、そうなの〜?」


女は不満気な顔で不機嫌になった。


「んじゃオマエ10番の単勝買ったらどないや?」


男は半分冷やかして提案した。


「うん、それ買ってくる〜!」


女は嬉しそうにスキップしながら投票所に向かっていった。



「とま〜〜〜〜〜れ〜〜〜〜〜!」


若いカップルの女のほうが馬券を買いに行ってる間に係員から騎乗指示の合図が出た。騎乗予定の騎手達はパドックに向かって一礼してそれぞれの騎乗馬に小走りで向かっていく。岡西は菅野に支えてもらってオンリーゴールドに騎乗した。


「岡西君、よろしく頼むわよ」

「ええ、任せといてください。菅野さんがこの日のためにマンツーマンでこのゴールドを世話していたのは僕もよく知っています。あのオーナーの度肝を抜いてやりましょう」


日頃オンリーゴールドを世話してる菅野はもちろんのこと岡西自身もこの馬にはいろいろと思い入れがあった。オンリーゴールドの父はチャイコフスキーという馬で、岡西はかつてこのチャイコフスキーの主戦騎手として、2000年シーズンの朝日杯フューチュリティーSでG1勝鞍を挙げて将来のクラシック候補として名を上げたが、2001年シーズンの春のクラシックのトライアルレースの時に、とある悪馬主所有の競走馬の悪質な騎乗でチャイコフスキーは怪我を患いそのレースを最後にターフを去った。種牡馬となったが種付の牝馬が1頭しかいなかった。種付シーズンを終わらせた約半年後にチャイコフスキーは疝痛せんつう(※注釈1)で急逝してしまった。つまりオンリーゴールドはチャイコフスキーの忘れ形見である。岡西はチャイコフスキーが果たせなかった夢をこのオンリーゴールドに託していた。

 また先ほど岡西が度肝を抜こうと菅野に言ったが、そのオーナーとはオンリーゴールドの馬主の吉原のことであった。吉原は日本のトップクラスの馬主の一人で数多くの良血の有力馬を持つ。そのため評価額が低くなおかつ脚部不安を抱えてるオンリーゴールドには全く期待していない振る舞いをしていた。このため本岡・岡西・菅野の3人は吉原を見返してやろうと燃えていた。


 オンリーゴールドは菅野に誘導されて近場道を通って本場馬へと向かっていった。既に前の馬番のライバル馬の本馬場入場は終わっていてオンリーゴールドは最後だった。ターフに出て関西の一般競走の入場行進曲「炎のウイナー」に乗ってオンリーゴールドはターフを駆けて行った。


 3レース同様、競馬関係者席から本岡は双眼鏡でオンリーゴールド返し馬の様子を見ていた。もちろん腹心の大西も横にいた。


「脚さばきも入厩当時に比べてよくなってる。枠は大外で馬込みに入ることはないので岡西君も競馬はしやすいだろう。あとは無事に走ってくれるのを祈るのみ」


本岡はオンリーゴールドがレースに出れるようになるまでの数ヶ月間の地道な調教の成果を試すときが来て少々緊張気味だった。本岡自身獣医時代に培ってきたノウハウを調教に取り入れて結果に結びつくかどうかは半信半疑だった。


「先生、ずいぶん心配そうな表情してるなあ。まあ無理もないか……。あのオーナーを驚愕させてやろうと思って気合を入れてるつもりが気負ってるみたいだな」


大西は本岡の心理を見抜いてふと声をかけた。


「えっ、そう見えますか?」


本岡はなんでわかったんだろという気持ちで驚いていた。


「ははは、平静を取り繕ってもわたしはわかるよ。吉原さんのような大馬主にまだ2年目の新米調教師が下剋上を叩きつけてるようなものだからなあ。プレッシャーも相当だろうが障害が大きければ大きいほど燃えるのが鞍上にいるからこのレースおもしろいと思うぞ」


大西は岡西に対して常に絶対的な自信を持っていた。岡西が本岡厩舎の馬に騎乗したときの驚異的な複勝率のアベレージの高さもそうだが、何より大西が感心してるのは岡西が騎乗した馬の故障率の低さである。騎手の乗り方によっては馬に無理をさせて怪我をさせるというケースはザラにあるが、岡西は常に鞍上する馬のコンディションを1頭1頭チェックして怪我をさせないクリーンな騎乗を心がけている。そのため他の厩舎でも岡西が乗った馬のレース後はほとんどといってもいいほど反動がないという。大西は岡西の騎乗理論を知ってるからこそ本岡に独自の激を飛ばすことができるのである。


「そうですね、大西さんより岡西君との付き合いが長いわたしが彼を信じないと」


本岡は照れくさそうに頭を掻きながら冷静さを取り戻した。


「このレースでわたしが馬券買えるなら10番に単勝1万だな。今日レース終わったら祝勝会するんだろ?前に岡西君からもらった栗東周辺のグルメリストの検索をしておくよ」


大西は既に勝利を確信した口調で競馬関係者室を後にしていった。大西は今日の3レースでも本命馬が沈んだのを的中させてるため、本岡にとって大西の言葉はさらなる追い風になった。


 こちらはスタート地点前。5レース出走の10頭の2歳新馬が輪乗り(※注釈2)をしていた。輪乗りしてる出走馬達の中にオンリーゴールドに騎乗してスタートを待つ岡西もいた。発走の時間になって係員のスターターがやってきた。そして係員が白い旗を振って関西の一般ファンファーレが鳴った。


《実況アナ》


 阪神5レース2歳新馬戦芝1400メートル良馬場10頭立てで行われます。係員の誘導で着々とゲート入りが進んでいます。最後に10番オンリーゴールドが枠に入って体勢完了……。スタートしました! ちょっと7番のネオパイレーツのダッシュがつかないか……。まず先頭になったのはウイングマリエル、その横にトリコロール、半馬身後ろにスクエアブラストとアドニスリンゼイ、その後ろにセツイチカリスマとヴァルキリアが併走。その大外にオンリーゴールド、一馬身ほど後ろに4番クリーンランニング、半馬身後ろにジャパンアクロス、殿にネオパイレーツという展開……。


 平均ペースで中間を通過し、3コーナーを各馬が次々と通過して行く。岡西は大外で5番のトリコロールの位置取りを確認しながらレースを進めていた。阪神の1400メートルの芝コースは内回りで直線に入ってからゴール板までの距離が外回りに比べて短いため、前を走る先行馬が残るというパターンがどちらかというと多い。ましてやトリコロールの鞍上が毎年リーディングジョッキーに君臨し続けている武井匠騎手ということもあり、岡西は前を走るトリコロールと自分が乗るオンリーゴールドとの位置取りの距離に細心の注意を払っていた。


(匠さんは予想通り先頭近くで経済コースを走って直線に向いたら逃げ体勢に入るだろう。直線に入るまでに最低でも3馬身近く詰めておかないと逃げ切られる。かといって無理に捲くってゴールドを負傷させるわけにもいかない……)


ゴールまでの道筋を考えてるうちに4コーナーが近づいてきた。ここで8番のヴァルキリアが一気に進出してきた。


(このタイミングで幸田さんが来た。差し切れる!)


岡西はヴァルキリアが通過するのと同時にスパートをかけて直線勝負に出た。そしてヴァルキリアの半馬身後ろを走る展開に持ち込んだ。


《実況アナ》


 残り400を通過! 先頭はトリコロール! 1馬身のリード! 2番手にアドニスリンゼイ! 外からヴァルキリアとオンリーゴールドが迫ってきた! トリコロール突き放しにかかる! ヴァルキリアが外から一気にやってきた! アドニスリンゼイは一杯か? 残り200を切った! トリコロール粘っているが、ヴァルキリア先頭に立った! オンリーゴールドも食らいついている! ヴァルキリアとオンリーゴールドの競り合い! 外からオンリーゴールドじわじわ迫ってくる! ヴァルキリア! オンリーゴールド! オンリーゴールド並んだ! オンリーゴールド差し切った! ゴールイン! 勝ったのはオンリーゴールド! 勝ち時計1分22秒7、上がり3ハロン35秒7!着順掲示板も上がっています。1着10番オンリーゴールド、2着に8番ヴァルキリア、3着に粘った5番のトリコロール、4着3番のアドニスリンゼイ、5着に後ろから伸びてきた4番クリーンランニングがそれぞれ入線。確定までしばらくお待ちください!


 ヴァルキリアを差しきって勝った岡西は3レースで勝ったサロメの時とは違ってしてやったりという表情でオンリーゴールドのたてがみの部分を軽く叩いた。ゴール板を過ぎてオンリーゴールドを誘導させてる時、ヴァルキリア鞍上の幸田騎手が岡西に話しかけてきた。


「おめでとさん、お前の馬はノーマークだったからしてやられたよ」

「あっ、ありがとうございます。今回は展開に助けられた感じでした。実は新馬教育も兼ねてレースに挑んでちょうど直線勝負のところで幸田さんの馬と並んで併走したおかげでいい競馬ができました」

「ほう、勝ったのはこのヴァルキリアのおかげなのか?」

「そうですね、結果的にそうなりました。もし幸田さんの馬がもっと内枠寄りだったら着順も変わってたかもしれません。コイツは併せると走るタイプなので、直線でもし単走状態だったら絶好の気配だったヴァルキリアはおろか、前を走っていた匠さんが乗っていたトリコロールも抜けなかったと思います」

「全くお前にはかなわんよ。俺のほうがお前より騎手暦3年も長いのに通算勝利数は俺より上だしな」

「いえいえ、僕自身もまだまだですよ。ここ4年ほどG1勝ってませんし。昨シーズンの幸田さんみたいに牝馬三冠の記録とかも樹立したいですし」

「まあ、お互い頑張らないとな。次は俺も負けんぞ」


そう言って幸田は先にヴァルキリアを検量室前の2着のゲートに誘導させるため走り去っていった。岡西もすぐにオンリーゴールドを1着のゲートに誘導させるために走らせた。ゲートの先には各陣営の調教師がそれぞれ待機していて、1着のゲートの先には本岡と菅野が待っていた。岡西は1着のゲートの中でオンリーゴールドから降りた。


「いや〜、岡西君。ご苦労さん! 無事に走ってくれればよかったと思ってたけどまさか勝てるとは思ってなかったよ。ありがとね」


本岡は嬉しそうにねぎらって岡西とガッチリ握手を交わした。


「私にとって今シーズン最初で最後のレースだったから直線勝負の時はすごく力入っちゃったわ。やっぱり自分が世話してる子が勝つと嬉しいわね」


菅野は5レースの時、子供が走る運動会を熱心に応援する親のようになっていたことを照れくさそうに語った。


「はっはっは、僕自身もゴールドにはチャイコフスキーの分まで頑張ってもらいたいという強い思い入れありましたから追うのに力入りましたよ。もちろん脚のこともちゃんと計算した上でのことですけどね。では後検量に行って来ます」


岡西は足早に検量室に向かっていった。ほとんどの騎手が後検量を終わらせて最後に岡西が鞍などの馬具を持って体重計に乗って、前検量と同じ斥量が確認された。そして1〜7着に入線した騎手達が順番に並んだ後、裁決委員の号令でレースは確定した。


 その頃、控え室では未だに押切のちゅんに対するお説教タイムが継続中であった。始まってすでに2時間が経過しようとしていた。押切の怒号は衰えることを全く知らない。本岡厩舎所属の馬が3レースに続いて5レースでも勝ったことが災いして勢いが増してしまった。


「ま〜た真向かいの厩舎が勝ち鞍上げたやんけ〜! あっちは今日2戦2勝、ワシんところは今年出走数多くてやっと2勝。なんなんやこの差は? あぁ?」


押切は電光掲示板で5レースの勝ち馬オンリーゴールドの詳細の中に、本岡厩舎の名を確認したのと同時に、低迷する自厩舎の原因をサングラス越しに睨みつけながらちゅんに問い出した。


「えっと、それはその……。今までのレースが展開に向かなかったとか……。あとは距離適性とか…」

「はぁ〜? オマエはワシのローテにケチつけるんか? あぁ?」

「いえいえ、ケチつけるなんてそんな…。あくまでも可能性の問題で……」

「可能性いうことはワシにケチつけとるいうことやんけ〜! それに展開が向かへんってどういうことや〜? アホの一つ覚えの逃げ戦法しかできへんくせに〜! さっきのレースかて、オマエはアホみたいに飛ばしおってハイペースにしたんやから先着した4頭に差されたんやろうが〜! レース展開も読めへんくせに展開が向かんとかオマエにはわかるんか? あぁ?」

「い、いや……それは……」

「わかるんかわかれへんのかどっちや!!!!」

「す、すいません……。わかりません……」

「わかれへんのやったら展開のどうのとか言うな! アホンダラ!!!」


押切はちゅんの頭を平手でぶった。こうなるとこの二人のやりくりは第三者の見方からすると人によっては「ドつき漫才」みたいに見える人もいる。他の競馬関係者の中にも、笑いをこらえながら通り過ぎる人も何人か出始めた。しかし、激高中の押切には周りの状況は全く見えない状態だった。この二人のやりくりは最終レースが終わる16:30分まで続いたという……。


 場所は客席のほうに変わって、さきほどの学生カップルはというと……。オンリーゴールドの単勝を買った女のほうは単勝11.2倍で2000円買っていたため22400円の払い戻しになり大はしゃぎ。


「すご〜い! こんなに払い戻しが来るなんて!」


学生は基本的に週4くらいアルバイトをしてやっと1万超える収入を得るものだが投入した2000円が10倍以上にもなって返ってきたため女はすっかり舞い上がっていた。一方馬連5-8で5000円買っていた男のほうは頭を抱えて自分の予想が外れたことに地団駄を踏んでいた。


「アカンわ〜! 岡西がいらんことしよったさかい今月はバイト代入るまでピーピーやわ〜!」


男のほうは舌打ちをしながらハズれた勝馬投票券を地面に叩きつけた。そのハズレ馬券は冬の風に飛んでいった。その光景は男にとって貴重な5000円札が羽を出して飛んでいったように見えた。


「ヒッヒッヒ、あんちゃ〜ん。さっきのレースの勝馬の調教師と騎手の組み合わせの法則知らへんやったんかいな?」


白髪混ざりのボサボサ頭にボロボロの地味な服・帽子姿のホームレス風の中年男性が、カップルの男のほうにかすれ声の口調で話しかけてきた。


「なんやオッサン!」


男は馬券をはずしたためにかなり機嫌が悪く、話しかけてきた中年男性に食ってかかった。


「ヒッヒッヒ、本岡厩舎の岡西騎手鞍上の馬は買いや〜。おじさんは先週もその法則で複勝転がしておいしい思いさせてもろたでぇ〜。なにしろ12番人気の馬が3着に食い込んだかやからなぁ〜。それにしても連れのね〜ちゃんのほうはよ〜10番を単勝で買えたもんやねぇ〜。おじさんも単勝で行っておけばよかったかなあ〜。怖くて複勝しか買えへんかったけど」


中年の男はワンカップの日本酒を飲みながら陽気に語った。


「おっちゃん、今のレースで勝ったお馬さん今後勝ち続けるかなあ? ウチ、あのお馬さん気にいったんやけど?」


女は中年の男に興味深々に尋ねた。


「ヒッヒッヒ、競馬に絶対の二文字はあれへん。でも好きな馬を追っかけるのも競馬の楽しみの一つやでぇ〜。まああの馬を追っかけたいなら今後出るレースをチェックすることやな〜。まあ頑張って〜な」


そう言って中年の男は払い戻しが行われる場所に向かってよろめきながら去っていった。


「チッ、変なオッサンやなぁ」


男は苦虫をかんだような表情でさきほどの中年の男が去る姿を見ていた。


「なあ、ウチ勝った馬の写メ撮りたいんやけど…」

「ならウイナーズサークルいくで! そろそろ口取り行われるから!」


男の誘導で女はウイナーズサークルに向けて足を運んだ。


 ウイナーズサークルではちょうど口取りが行われていた。オンリーゴールドの鞍上に岡西がまたがり、本岡・菅野・吉原が手綱を持っていた。本岡・岡西・菅野の3人は嬉しそうな表情だったが、馬主の吉原だけは冷静沈着な顔つきだった。撮影終了後、吉原は本岡に話しかけてきた。


「本岡先生、まさか勝てるとは思ってなかったよ。まあクラスが上がってどこまで勝てるかは不明だけどね。まあ頑張りたまえ。ではわたしは失礼する」


吉原は一言残して関係者席のほうに向かって去っていった。吉原の興味はすでに今日のメインのG1レースの阪神ジュべナイルフィリーズのほうに向いていたため、オンリーゴールドの新馬戦勝ちのことなど全く興味はなかったからである。口取りに来たのは形式上のためであった。


「なによあの偉そうな態度! 勝ったのに喜ばないなんて! あのオーナーほんと気悪いわね〜! 嫌になっちゃう!」


自分が管理している馬を褒める言葉を全くかけない吉原に対して菅野は怒り心頭モードだった。


「まあまあ、菅野さん。吉原さんみたいにG1タイトルを常に欲しがってる大馬主の人はだいたいあんな感じですよ。ゴールドがG1タイトル取れるようになるときっと見方変わってくると思いますので今は我慢ですよ」


岡西は慌てて菅野を諌めた。


「うんうん、大馬主の人から競走馬を預託してもらうだけでもありがたいと思わないとね。結果を出せばきっと吉原さんも認めてくれると思うよ。ウチはまだまだ新米だからああいう振る舞いをされても仕方ないよ」


本岡も続けて菅野のフォローに入った。しかし菅野は憮然ぶぜんとした表情だった。


「そうだ、本岡先生。ゴールドの次走はいつになります?」


ナーバス状態の菅野とさりげなく距離を置いて岡西は本岡に尋ねた。


「うーん、そうだねえ。年明けての京都開催で白梅賞あたりにしようかなあと思ってるよ。」

「白梅賞……。確か日経新春杯がある時ですね。わかりました! 目標に向けて着々と勝ち星をあげていきましょう!」


岡西は本岡厩舎スタッフを元気付けた。岡西の一言でナーバスだった菅野もすっかり表情が和らいだ。


「あっ、そうだ、岡西君。今日のレース終わったら何か予定あるかな?」


本岡は岡西に尋ねた。


「いえ、特に予定はないんですけど。なにかあるんですか?」

「実はねぇ。今日ウチでささやかな祝勝会やろう思ってるんだよ。岡西君のおかげでウチの目標だった厩務員全員に勝ち星も達成できたし。今ちょうど大西さんが岡西君からもらった栗東周辺のグルメガイドを見ながら店を探しをしてるところなんだ。ぜひとも岡西君にも参加してもらいたいと思っててねえ」

「なるほど、そういうことでしたか。もちろん喜んで参加させてもらいます」


岡西は笑顔で了承した。


「先生、飲み放題にしてくださいね。今日は飲みたい気分だから」


機嫌をなおしたばかりの菅野は久しぶりの宴会ということもあってやる気満々だった。


「ははは、まあ飲み過ぎないように……」


本岡は菅野にほどほどに飲むように促した。


「僕は次のレースがありますので最終レースが終わったら連絡します。ではまた後で」


岡西は本岡と菅野に一礼して調整ルームのほうに向かっていった。岡西が去った後、本岡は栗東に戻り菅野はオンリーゴールドの世話に入った。

《モデル騎手紹介》


幸田英晴→幸英明(騎手)


(※注釈1)馬の腹痛のことで馬の内科的疾病として昔から最も代表的なものであり、なおかつ発生頻度が高く致死率も高い恐ろしい病気である。


(※注釈2)レース発走前にゲートの後方に集合した馬たちが、枠入りの合図がかかるまで輪を描くように歩きながら待機することである。ファンファーレ前はどのレースでもゲート前で必ず輪乗りで待機するようになっている。

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