米国遠征の試金石
時は2005年シーズンの11月1週、この日の大井競馬場ではJBCスプリントとJBCクラシックの2つの統一G1レースが開催される。馬場コンディションは前日の季節外れの台風の影響のため完全な不良馬場。最悪なコンディションの中、各レースの出走馬はタイトルに向けてしのぎを削りあう。今年は岡西はキタノアルタイルとのコンビでJBCスプリントのタイトルを狙っている。キタノアルタイルはドバイワールドカップ2着以降、地方の交流重賞で戦績を積んできて3戦3勝と負けナシ。ここ3戦のレース内容をダイジェストで紹介。
7月3週 スパーキングレディC G3 川崎 ダート1600M 重
【本編の時期】七夕賞(第25部参照)の3日後
【戦評】
関東地方を覆った集中豪雨の影響で大雨の中のレースとなったこの日。キタノアルタイルはドバイワールドカップから4ヶ月の休み明けでこの日を迎えたが、世界の舞台で激走したのとメンバー中唯一のG1馬ということで単勝1.0倍の断然人気に支持される。重馬場にも関わらずキタノアルタイルはポテンシャルを発揮。2着に大差をつけて力の差を見せつけての勝利。世界を経験した実力を川崎競馬場で見せつけた。
8月4週 サマーチャンピオン G3 佐賀 ダート1400M 不良
【本編の時期】札幌記念(第34部参照)の3日後
【戦評】
このレースの前日に九州地方を通過した台風の影響で馬場状態は泥んこレースといいたくなるほどの見事な不良馬場。ここでもキタノアルタイルは当然のごとく単勝は1.0倍の断然の1番人気。その人気に答えて田んぼのような不良馬場もものともせずに2着馬に8馬身差をつけての圧勝。前走川崎に続いて佐賀でも「砂の女王」の足跡を残してきた。
9月3週 日本テレビ杯 G3 船橋 ダート1800M 良
【本編の時期】セントライト記念(第39部参照)の3日後
【戦評】
ここでも単勝1.3倍の1番人気だったキタノアルタイル。久しぶりの良馬場の競馬に気をよくしてか、好スタートを決めた後に6馬身ほどハナを切る。ダートのレースの中では比較的長い1800Mの距離にも関わらず最後の最後までまったくバテずに2着に8馬身差の逃げ切り勝ちをおさめた。
キタノアルタイルはこのように中央の舞台から離れて地道にパートナーの岡西と共にレースの合間をぬって地方巡りをし続けていたのである。そして地方巡業の集大成として長野が選んだレースがこのJBCスプリントであった。枠順は以下の通り。
大井10R JBCスプリント G1 ダート1200M 不良 19:30~発走
1枠 1番 マグネタイト 牡7 57 木枯 北海道
2枠 2番 ファイアボルト 牡5 57 内川博 大井
3枠 3番 ライネティンクル 牝5 55 蛇奈 JRA
4枠 4番 タイガームートン 牡6 57 吉野実 名古屋
5枠 5番 キングフレイル 牡4 57 池越 JRA
5枠 6番 サマニンヨーデル 牡5 57 的野文 大井
6枠 7番 アイライン 牝4 55 小田部 笠松
6枠 8番 ナイトシャーク 牡5 57 石田 JRA
7枠 9番 インドラジット 牡5 57 武井匠 JRA
7枠 10番 スマイルアゲイン 牝6 55 石垣隆 船橋
8枠 11番 キタノアルタイル 牝4 55 岡西 JRA
8枠 12番 ライトノベル 牡5 57 御厨 大井
現時点で岡西が乗るキタノアルタイルは単勝2.0倍の1番人気。上位人気は中央の5頭が占めてる状態。不良馬場に関しては全く問題はなかったが初のスプリント挑戦ということで岡西の心の中に若干不安な面はあった。しかし今まで裏舞台でコツコツと戦績を重ねてきたことを無駄にしないためにもここは落とせない1戦であった。
──大井競馬場パドックにて──
(う~ん、今は小雨か……。あれ以上馬場が悪くなることはないだろう。さてライバル馬のチェックだ……)
岡西はいつも通りライバル馬を1頭1頭丁寧に歩様や毛ヅヤなどを細かくチェックしていた。
(俺が見たところどうやらアルタイルよりデキが上回るライバル馬はいないようだな。レース展開はスタートさえミスらずになおかつ好位置につけれれば勝ち負けだろう。しかしなんでアルタイルのレースの時って高い確率で天候不良に見舞われるんだろ? 原因は絶対あの人であることは間違いないんだけどな……)
他愛もないことを考えてる時、雨がっぱを着てキタノアルタイルの手綱を引いて歩いている星崎の姿がちょうど岡西の目の前を通りかかった。そのタイミングでちょうど騎乗指示の合図がかかり、出走する騎手はパドックに向かって並んで一礼して各騎乗馬のところに小走りで向かっていった。雨が降ってるということで各騎手は勝負服の上に雨避け用の専用のカッパを着ていた。
「交流G1の舞台で雨とはツイてないわね。大変だと思うけど頑張ってね。この子はどんな状況でも懸命に走ってくれてるんだから」
岡西は星崎に支えられてキタノアルタイルに乗りこんだ。
「そうですね。確かにアルタイルの蹄の形は不良馬場に対応してますからね。勝ち負けまでは持っていけますよ」
「フフ、頼もしいこと言ってくれるわね。三冠ジョッキーになったからかしら? ところで摩那舞君、さっきわたしと目が合ったときになにかよからぬ事思いつかなかった?」
「え? 気のせいだと思いますけど……」
(アンタはエスパーかよ……)
岡西は星崎の問いかけにギクリとしながらどうにか平静を装った。星崎は雨女のレッテルを貼られてることを昔から気にしていた。その裏づけの話の1つとして今から7年ほど前の夏、長野厩舎内で岡西が他の厩務員数人と雑談をしてた時、ちょうどその週のレース当日の天気の話になって予報は大雨というのを知った。その時、岡西が通りかかってる星崎の存在に気づかず「え~、レース日雨ですか? 原因はあの人でしょ絶対」と口を滑らせてしまった。その数十分後、星崎がスタッフ全員分の氷入りの麦茶を差し出してきた。岡西の分のコップは他の人のに比べて少し大きめだった。岡西はそのコップに入った麦茶を飲んだのと同時に違和感を感じた。その麦茶の中には岡西が苦手な梅干のエキスが入っていておまけに即効性の下剤が少量盛られていたのである。それを飲んでしまった岡西は悶絶しながらトイレに駆け込んだ。その時以来、星崎の前で天気の話をするのは厳禁というのを身をもって知ってしまったという。
「そう、ならいいんだけど」
「あっ、そろそろ本馬場に入りますね……」
(悟られてないよな?)
笑顔の星崎に対して岡西は昔のトラウマのことも重なってるためか異様な恐怖心を抱いていた。本馬場に入って急いで星崎から離れないといけないと岡西は本能で思っていた。本馬場に入った後、キタノアルタイルは不良馬場を元気に駆け抜けていった。
──レース発走前──
こちらはスタート地点前。出走馬12頭が降りしきる雨の中、ファンファーレが鳴るまで輪乗りをしていた。岡西もゴーグルに付着してくる雨粒を手でぬぐいながら視界を確保していた。ナイター競馬に雨という組み合わせは各騎手の視界を容赦なく悪くする。数分後、雨合羽を着たスターターの係員がやってきて合図の旗を振ったのと同時に大井競馬場のファンファーレが鳴った。各出走馬は係員に誘導されて次々とゲート入りしていく。
《実況アナ》
お待たせしました。大井10R、2005年シーズン農林水産大臣賞典JBCスプリント、今年は12頭立てで争われます。天候はあいにくの雨、現在1番人気のキタノアルタイルもゲートに入りました。続いて偶数番の馬が次々と順調にゲートに入っていきます。最後に地元大井のライトノベルが入りまして体勢完了……。スタートしました! きれいに揃ったスタート! まず最初の先頭争い、押して押してハナを切ったのは4番・名古屋のタイガームートン、並んで7番・笠松のアイラインと東海勢がハナの奪い合い。その後ろに6番サマニンヨーデル、その外に12番ライトノベルと大井勢が続いています。その間に1番人気11番のキタノアルタイル、1馬身後ろ内に3番ライネティンクル、半馬身後ろに2番ファイアボルト、5番キングフレイル、8番ナイトシャークが並んで併走、1馬身ほど後ろに9番インドラジット、お終いから2番手に10番・船橋のスマイルアゲイン、そして最後方に1番・北海道のマグネタイトという展開。キタノアルタイルじわじわとポジションをあげてきた。後方待機の中央勢も徐々に進出してくる。第4コーナー最後の直線、先頭はここでライトノベルに替わる勢い。すぐ内からキタノアルタイルも迫ってきた! さあ最後の追い比べ! キタノアルタイル先頭に替わった! リードは1馬身、2番手争いにナイトシャークとインドラジットが懸命に迫ってくる! しかし先頭はキタノアルタイル! 完全に抜けた! ゴールイン! 勝ち時計1分10秒フラット! ドバイワールドカップ2着の底力を見せつけました! 2着に8番のナイトシャーク、3着に9番のインドラジット、4着争いは内3番のライネティンクルと5番キングフレイル、掲示板は中央勢が完全独占しました。確定までしばらくお待ち下さい……
(アルタイル、さすがだな。いろいろと癖が多い3歳世代に比べて1つ年上のお前は一番折り合いがつけやすいぜ。やっぱマイルから短距離までがコイツにはちょうどいいな)
岡西は不良馬場を懸命に走って、1着でゴール板を駆け抜けたキタノアルタイルの鬣を優しく撫でてねぎらった。ちょうどその時、池越が岡西に話しかけてきた。
「いやぁ、岡西先輩。おめでとうございます」
「ああ、謙か。ありがとよ」
「やっぱG1馬は強いですね。今日はこの不良馬場が僕の馬にはかなりこたえましたよ」
「だろうな。後ろのほうで競馬してた他の中央馬は着を拾うのが精一杯だったんでは? その点アルタイルは不良馬場では滅法強いから」
「次のJBCクラシックには出るのですか? 僕は今日はこれで終わりなんですけど」
「いや、残念ながら次のレースは乗り鞍ないんだよな。ほんとはとある3歳馬で狙ってたんだけど先生に回避されたからなぁ。1日でのダブル交流G1制覇狙ってたんだけどなぁ」
岡西は不満気な表情で池越に胸のうちを伝えた。
「岡西先輩らしい野望ですね」
「まあ過ぎ去ったことをあれこれ言ってもはじまらん。騎手は競馬関係者の中では立場上ほとんど下っ端のようなものだから。とりあえずこの泥まみれの体をシャワーで洗い流さないとな。このままではマジで風邪ひく……」
「そ、そうですね」
「んじゃまた後でな」
岡西は池越に一声かけてキタノアルタイルを着順ゲートに誘導させた。着順ゲートには長野・星崎が待っていた。
「摩那舞、ご苦労さん。イヤなコンディションの中よく勝ってくれた」
「あっ、ありがとうございます」
馬を降りた岡西は真っ先に話しかけてきた長野とガッチリ握手をした。
「目標のレースも獲れたし来年は米国遠征に集中できるな」
「おお、ダートの本場での米国馬とガチ勝負ですか? それは楽しみですね」
「たぶんあと1戦くらい地方交流重賞を使ってから米国重賞のローテを考える予定なので。来シーズンお前は日本と海外を行き来することになるだろう」
「来シーズン僕は忙しくなりそうですね。では後検量済ませてきますね」
岡西は長野との会話を切り上げて後検量へ向かった。そしてレースは無事に確定した。
──約30分後、競馬関係者控え室にて──
レースを終えた岡西は着替えをした後に後輩の池越と一緒に11RのJBCクラシックを観戦していた。パドックでの出走馬の動きなどを見ていろいろと話していた。
「うーん、やっぱ匠さんが乗るグラディエーター気配いいなぁ」
「そうですね。たぶんあの馬で決まると思いますよ。そういや岡西先輩が今日乗ってた馬でグラディエーター負かしたことありましたよね?」
「ああ、いちおう2回ほどな。平安Sの時(第9部参照)は相手が本調子じゃなかったし、フェブラリーSの時(第10部参照)はたぶん距離適正の差で勝てたんだと思う。グラディエーターは古馬のダート戦線では間違いなく1級戦だよ。帝王賞・マイルCS南部杯と交流G1いずれも快勝してるからな」
「なるほど、ところでさっき岡西先輩が言ってた3歳馬でグラディエーター負かせられたんではないですか?」
「うーん、最初はそう思ってたんだが、よくよく考えたら不良馬場をアイツは経験してないから……。まあこれはレースに出てみないことには一概には言えないけどな」
岡西は腕を組みながら淡々と池越に語っていた。
(押切先生はユーロステイテッドのJBCクラシック出走を回避したんだが、回避の本当の理由はダービーGPで出た不安要素ではなく不良馬場がダメなことを知ってたからか? だがそれだったら普通俺に教えてくれたっていいはずなのに……。ひょっとして陣営の機密事項が漏れないようにするためにあえて俺の前でああいうふうなことを言ったのか? だがあのノー天気な押切先生がそんな緻密な策を持ってるイメージないしなぁ。小倉橋さんが策を立てるならまだしも……)
「岡西先輩? 岡西先輩?」
「ん? なんか言ったか?」
「呼びかけても返事がなかったもので……」
「あぁ、スマン。俺、ちょっと考え事してたので……。それでなんだい?」
「さっきまで降ってた雨やみましたよ」
「マジで? くっそ~、俺らがレースの時に限って降って、そして計算したかのようにやみやがって……。雨人間はどこのどいつだまったく……」
池越から雨がやんだという話を聞いたのと同時に岡西はブツブツと愚痴をこぼしはじめた。
「あっ、摩那舞君。ここにいたね」
「ほ、星崎さん……。ど、どうしたんですか?」
(うっ、このタイミングでこの人来るか……)
噂をすればなんとやらというタイミングでの星崎の突然の登場に焦りはじめた岡西。
「うん、馬主の吉原さんの差し入れのお茶を届けに来たの」
「あっ、ありがとうございます」
「連れのあなたもどうぞ」
「スイマセン、いただきます」
岡西と池越は星崎からお茶入りのタンブラーを受け取った。池越がおいしそうに飲んでるのを見て安心して岡西もお茶を飲み始めた。
「これウマいですね」
「そうでしょ? 今からJBCクラシックを観戦するの?」
「ええ、いずれアルタイルと対戦するライバル馬のチェックもかねて」
「フフ、レース終わっても相変わらず摩那舞君は熱心ね。まあがんばってね」
星崎は微笑みながらその場を去って行った。
「岡西先輩、さっきの女性の方は?」
「あの人は星崎さんという人でさっきのレースで乗ってたキタノアルタイルを世話してる厩務員さんだよ。あの人には昔からいろいろと世話になってるからな。お前にも昔から世話になってる競馬関係者いるだろ?」
「なるほど、ずいぶんやさしそうな人ですね。あっ、そろそろJBCクラシック始まりますね」
「そうだな」
岡西と池越はモニターでJBCクラシックのレースを観戦し始めた。結果は武井匠騎乗のグラディエーターが3馬身差の快勝で決まった。
「やっぱりあっさり決まったな」
「そうですね。しかしこのお茶うまいですね」
池越は星崎からもらった残りのお茶を一気に飲み干した。
「そ、そうだな。ん?」
岡西は自分が持ってるタンブラーにふと違和感を感じた。
(謙が持ってるタンブラーはシルバー、俺が持ってるのは厩舎でよく使わせてもらうゴールド……。し、しまった! 謀られた!)
岡西の顔は真っ青になりそれと同時に突然腹を下しはじめた。
「お、岡西先輩どうしたんですか?」
「け、謙……。ス、スマン……。正露丸持ってきてくれ……。さっきのお茶に下剤盛られた……」
「ま、まさか。そんな下剤を盛られたって有り得ないですよ、アハハハハ」
「アホ、笑い事じゃねーぞ……。そこの便所行って来るからマジで頼む!」
そう言って岡西は猛ダッシュで近くのトイレに駆け込んだ。
(やっぱり星崎さんはパドックの時に感づいていたのか……。不覚だ……。G1勝った日にこんな酷い思いしたのは生まれて初めてだ……)
その後、大井の最終レースが終わるまで岡西は大トイレに釘付け状態だった。また一緒にいた池越も正露丸の調達などにつき合わせてしまったという。