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勝負の明暗

 ここは兵庫県宝塚市にある阪神競馬場。阪急今津線仁川駅が競馬場からの最寄の駅ということもあり別名仁川競馬場とも呼ばれている。12月の開催週を迎えてそれぞれの陣営が来年のクラシック戦線に向けてめまぐるしく動いている。その陣営の中に押切・本岡の若手の両厩舎もいた。天気は快晴で芝・ダート共に良という絶好のレース日和であった。押切厩舎は3R・本岡厩舎は3・5Rでそれぞれの2歳馬を出走させる。それぞれのレースの枠順は次の通り。


阪神 3R 2歳未勝利 ダート1800M良 11:00〜発走


1枠 1番 ユーロステイテッド 牡2 51.0▲ 鈴木中 栗・押切

1枠 2番 ラージエルメス   牝2 54.0  柴畑善 美・柴畑政

2枠 3番 アルマイヤゴールド 牡2 54.0  石田  栗・松木博

2枠 4番 エアロピース    牝2 54.0  福沢  栗・仁藤雄

3枠 5番 カニノゼビウス   牡2 54.0  秋川  栗・須江

3枠 6番 ヘイザンシャウト  牡2 54.0  池越  栗・池越

4枠 7番 メガロバニッシュ  牡2 54.0  吉井豊 美・古久保洋

4枠 8番 ナビゲーター    牡2 54.0  下村  栗・芦口

5枠 9番 サロメ       牝2 54.0  岡西  栗・本岡

5枠 10番 テンノマガタマ   牡2 54.0  大牧  栗・葉月

6枠 11番 ライネシオン    牝2 52.0△ 増岡  美・相田

6枠 12番 ハイスコア     牡2 52.0△ 長谷部 栗・天地

7枠 13番 プリンシパリティ  牝2 51.0▲ 川辺  栗・森田

7枠 14番 オートミバースト  牡2 54.0  武井幸 栗・武井邦

8枠 15番 ケイエムチェイサー 牡2 54.0  十和田 栗・石本

8枠 16番 ダイヤプリズム   牝2 54.0  安城勝 栗・松木国


阪神 5R 2歳新馬 芝1400M良 12:20〜発走


1枠 1番 スクエアブラスト  牡2 51.0▲ 吉井瞬 栗・河口

2枠 2番 セツイチカリスマ  牡2 54.0  藤井  美・戸部

3枠 3番 アドニスリンゼイ  牡2 54.0  三井  栗・河口

4枠 4番 クリーンランニング 牡2 54.0  十和田 栗・石本

5枠 5番 トリコロール    牡2 54.0  武井匠 栗・池井寿

6枠 6番 ウイングマリエル  牝2 54.0  佐渡哲 栗・笹見晶

7枠 7番 ネオパイレーツ   牡2 54.0  川村  栗・荒沢

7枠 8番 ヴァルキリア    牝2 54.0  幸田  栗・西園寺

8枠 9番 ジャパンアクロス  牡2 54.0  葛西  栗・中橋

8枠 10番 オンリーゴールド  牡2 54.0  岡西  栗・本岡


 午前10:20分、40分後に3Rを迎える各陣営の調教師が騎手に最後の騎乗指示を伝授していた。ユーロステイテッドを出走させている押切も鞍上のちゅんに最後の激を飛ばす。


「おい、ちゅん。ええか?ここで勝てばウチの厩舎はランキングの関係で馬房減らされずに済むんや。ここで落とすようなことがあったらど〜なっかわかっとんのやろーなぁ?」

「は、はい……。頑張ります……」


 ちゅんは相変わらず頼りなさそうな返事。それもそのはず、水曜日の追い切りの日に重量オーバーが発覚して自厩舎の特製サウナ風呂に3日間すし詰めにされてそれでどうにか2キロ減らしたが、それでも1.5キロ重かったため押切に無理やり下剤を飲まされて半分脱水症状の状態での鞍上しているからである。しかもちゅん自身下剤の影響でトイレが近い雰囲気でそわそわしててなにかと落ち着きがない。


「オマエはしっかりせんか! 圧倒的な1番人気背押っとるしカンカンかて通常より3キロも軽いんやからファンの前で下手なことはできへんで!」


押切は必死でちゅんに激を飛ばす。


「あっ、はい……。でも下剤の影響でトイレ行きたくなったらどうしましょう……」

「はぁ?? オマエのケツの穴にコルク栓詰めて漏れんようにしとけ!!!!!」


ちゅんのしょうもない質問に押切は激高してしまってとんでもない怒号が飛び出してしまった。そのため他陣営の多数の競馬関係者から大失笑を買ってしまった。


 一方サロメ陣営の本岡と岡西のタッグはユーロステイテッド陣営からかなり離れた位置で最後の打ち合わせをしていた。押切の大失言は運よく届いていない。


「うちは真ん中の馬番なのでちょうどいい位置で競馬できると思う。岡西君が気にしている例の馬も出走してるけど1番の馬の位置取りは気にせずに前走と同じ好位から直線に向いて抜け出すか叩き合いになれば勝ち負けまで持っていける」

「もちろん勝ちに行きます……」


 本岡の指示に一言で終わらせる岡西だったが二人にとってこれだけで十分だった。本岡は騎乗技術トップクラスの岡西の騎乗を100%信頼していて岡西自身も競馬関係者の縁故もツテもなく一般から苦労の末、調教師試験を合格した本岡にG1勝ち鞍をいつかはプレゼントしようと心の底から思っていた。このように本岡と岡西の強固な信頼関係は本岡の調教師開業以来から色あせることなく続いている。


「そろそろ集合かかるね。よろしく頼むよ」

「では行って来ます。後でウイナーズサークルで……」


岡西は一言残してパドックに向かっていった。本岡は岡西の背中を見てかすかな勝利の予感を感じていた。


 レース発走の30分前から出走馬16頭が各担当の厩務員に引かれてパドックを周回していた。ここのパドックで競馬ファンは写真を撮るのもいれば歩き方や毛ヅヤ・体つきなどを細かくチェックして馬券購入の見極めをする人もいる。


 レースに出走する騎手達は控え室とパドックの境目で右から馬番順に一列に並んで待機していた。ちゅんは向かって右端、岡西は中央のほうに立っていた。ちょうどちゅんの横にいたベテランの先輩騎手がちゅんに話しかけてきた。


「おい、一年坊主。恥をかくのは着順とズボンだけにしとけよ。それ以上しでかすと乗ってる馬が気の毒だからなあ」


近くにいた内枠寄りの他の騎手はその突拍子なセリフに必死に笑いをこらえていた。さきほどの押切の大失言が内枠寄りの陣営に嫌でも伝わっていたからである。


「あっ、いえ……大丈夫です……」


ちゅんは顔を真っ赤にしながらもに平常を保とうと必死だった。


 一方の岡西は周りの雑談など全く聞かずひたすらパドックの他の馬の馬体などをチェックしてどの馬が順位を脅かす馬かを検索していた。


(やっぱり例の1番の馬は出来が他の馬より飛びぬけていいなぁ。前走よりよくなってるし他馬を威嚇するような雰囲気も持ってるし……。俺が乗るサロメも一般的には上位の出来だが果たしてどこまであの馬に通用するか……。あと引っかかるのは大外の16番の馬といったところだな……)


「とま〜〜〜〜れ〜〜〜〜〜〜!」


 かん高い係員の透き通った声がパドックに響いた。これが騎乗指示の合図である。それと同時に周回していた競走馬は歩くのを停止させて鞍上の騎手が来るのを待つ。騎乗予定の騎手達は一列に並んでパドックの方向に同時に一礼をした後に小走りでそれぞれの騎乗する馬に向かっていく。ちゅんは小倉橋、岡西は西田にそれぞれ下から支えてもらって馬に騎乗した。全馬騎手が騎乗した後に2周ほど周回する。その間に岡西は1番の馬をしきりに気にするしぐさを見せていた。本岡と別れるときに1番の馬は気にしないようにと言われていたが岡西はどうしても気になって仕方がなかった。


「岡西君、どうしたん? ずいぶん浮かない顔して?」


岡西の落ち着かない様子に心配そうに西田が声をかけてきた。


「西田さん、先生に気にしないように言われた1番の馬がどうしても気になって仕方ないんですよ……。あれだけの出来の馬にサロメがどこまで対抗できるかと……」


岡西は本岡の前で言えなかった本音を伝えた。


「せやねえ、俺の目から見てもあの馬が今日最大の難敵やねぇ。岡西君がいつも通りベストを尽くしてくれればどんな結果になっても俺もだけど誰も責めはせーへんよ」


西田の一言に岡西は少し堅さが解けた。二人が話しているうちに出走する競走馬達は近場道ちかばどう(※注釈1)に向かって進んでいく。前の馬から順に本馬場入場に入って「返し馬」(※注釈2)に入る。返し馬の様子を遠くの競馬関係者席から押切が双眼鏡で管理馬のユーロステイテッドの様子を見ていた。


「あんだけ踏み込みのいい走りしてるし毛ヅヤも問題あれへん。アホのちゅんがまともに乗ってくれたらこんだけ苦労せーへんはずなんやけどなぁ」


押切はブツブツとぼやいていた。


「あのー、押切先生……」


 一人の痩せ型でスーツ姿の中年男性が押切に話しかけてきた。


「あっ、これはユーロのオーナーの秘書の福盛さん。いやぁ〜、いつもお世話になってます」


強面の押切も馬主の前ではさすがに腰が低くなる。この福盛は今年「ユーロ」の冠名・迷彩の勝負服で新規で馬主申請した村山毅氏の秘書である。ちなみに今はここにいないがオーナーの村山は大のサバイバル好きで、いつも世界を飛び回っている大富豪でなぜ競馬会に馬主申請したのかは全くの謎。現在は押切厩舎に2頭、本岡厩舎に1頭の競走馬を預託している。所有競走馬の様子を伺いに来るのはいつも代理で秘書の福盛である。


「ウチの馬の状態はどうでしょうか?そろそろオーナーも初勝利が欲しいとおっしゃってたんですけど…」

「そうなんですよねえ〜、出来は出走馬でピカイチで一般的には勝てるはずなんですけどちょっとウチの役立たずの騎手が不安なところですわ」

「オーナーは最低でも重賞レースでないと見に来ませんので来シーズンはぜひとも上のクラスでのレースまで出走できるようにと期待しています」

「はっ、はい! それはもちろん!」


 押切は自分の頭を掻きながら福盛にペコペコと頭を下げっぱなしだった。


 一方別の競馬関係者席の位置では本岡が双眼鏡でサロメの返し馬の様子を見ていた。本岡の横には腹心の大西もいた。


「うん、ウチの馬は本馬場に入っても観客に物怖じせずきれいな走法で走っていた。岡西君が気にしてる例の馬とどこまで対抗できるか」


本岡は勝ち負けまで持っていけると確信を持っていた。


「先生、わたしがもしあの客席の中の馬券師の一人だったら1番の馬は消すだろうな」


大西の大胆不敵な一言に本岡もびっくりした。


「えっ、大西さん大きく出ましたねえ。それはなんでまた?」

「別にたいして難しいことではことではない。消しの要因はヤネ(騎手)の腕だよ。前走・前前走と逃げを打っていずれも後続の馬に差されて捕まってるだろ?たぶんあのヤネは基本の先行策ができないからだろう。たとえ距離延長であの馬の適正距離になったとしても結果は一目瞭然だよ」

「なるほど、では岡西君があの馬を気にする理由は?」

「おそらく自分のお手馬にしたいんじゃないのかな? あの馬の体格などからして能力は申し分ないしな。まあ残念ながら彼とあのチンピラとは今のところ接点がないからなぁ。なんかきっかけがあればいいんだけどねえ」

「あっ、そろそろ3Rが始まりますね」


本岡の目の先にはスターターの係員が向かってるところが見えた。


 ここはスタート地点。出走馬達がファンファーレを待っていた。スターターが白い旗を振って関西の一般ファンファーレが鳴った。


《実況アナ》


 阪神3レース2歳未勝利戦ダート1800メートル・良馬場で行われます。係員の誘導で奇数番の馬がゲート入り、続いて偶数番の馬も次々とゲートにおさまっています。最後に16番のダイヤプリズム、人気の1頭がゲートに今おさまりました。係員が離れます…スタートしました!きれいに揃ったスタート、まずは押して押してユーロステイテッドがハナを切りました。5馬身ほど離れた2番手の位置にヘイザンシャウト、その外にライネシオン、その後ろにカニノゼビウス、その内にアルマイヤゴールド、各馬コーナーを回って向こう正面じょうめんに向かっていきます。まず先手を取ったのはユーロステイテッド、8馬身から9馬身のリード、2番手の位置にヘイザンシャウト、その外ににライネシオン関東馬、半馬身後ろにアルマイヤゴールドとカニノゼビウス、その外に黄色い帽子9番サロメ、鞍上あんじょうは岡西摩那舞、その1馬身後ろにオートミバースト、内からラージエルメスとプリンシパリティが並んで追走、2馬身離れた後方グループは内からエアロピース、テンノマガタマ、ケイエムチェイサーが並んで追走、大外にダイヤプリズム、お終いから3頭目にハイスコア、最後方に4枠の2頭メガロバニッシュとナビゲーターという展開……


(あの馬飛ばすなあ……届くかどうか……)


 岡西はサロメを好位置キープさせながらちゅんが乗るユーロステイテッドを捕らえるための仕掛けどころを考えていた。14馬身以上ほど離されていたが、1000Mを通過したあたりから好位集団の各馬はジリジリと先頭との差を縮め始める。残り800Mでさらに先頭との差が8馬身ほどに縮まる。ここでサロメが2番手に進出した。先頭のユーロステイテッドとはまだ6馬身差がある。ちゅんのユーロステイテッドは4コーナー先頭で鞭を入れて逃げ切り体勢に入る。岡西はそれを追いかけようと手綱を追おうとした時、背中に強い悪寒を感じた。岡西は特殊な第六感みたいなのを持っていて、直線勝負の時に後ろから迫ってくる馬が来るときにこの悪寒というのが作動する。案の定、人気の1頭のダイヤプリズムが大外からくって(※注釈3)きてサロメに並びかけた。


(いかん! 敵はあの馬だけではない!)


岡西は背中の悪寒と同時に素早く気持ちを切り替えて、ダイヤプリズムが抜こうとする直前にサロメに鞭を入れて追いに入った。前を走っているユーロステイテッドのことは忘れて迫ってきたダイヤプリズムに神経を集中させた。


《実況アナ》


 残り400を切った! ユーロステイテッドまだ粘っているが。外からサロメとダイヤプリズムが並んで突っ込んできた! 先頭はここでサロメに替わった! ダイヤプリズムもすぐ後ろで食らいついている! サロメ! ダイヤプリズム! 2頭の叩き合いだ! ユーロステイテッドは一杯になったか? サロメ! ダイヤプリズム! サロメ! ダイヤプリズム! 並んでゴールイン! わずかに内サロメ体勢有利。3着に13番プリンシパリティ! 1番人気ユーロステイテッドは掲示板までか? 着順掲示板は3着まですでに点灯しています。1着9番サロメ、2着16番ダイヤプリズム、3着13番プリンシパリティ、4着争いは1番のユーロステイテッドと10番のテンノマガタマの2頭の写真判定。確定までしばらくお待ちください!


(あれ? 勝ってしまったよ……。俺の見間違えかなのかなあ?あの馬に逃げ切られるかなと思ったら差し切ってしまったよ。おかしいなぁ……)


レースを終わらせて走り終わらせた馬を走らせながら岡西は腑に落ちない表情で首を傾げていた。


「どうしたんだい? 勝ったのに腑に落ちないような表情して?」


2着に入線したダイヤプリズム鞍上の騎手が不思議そうに岡西に話しかけてきた。


「あっ、アンカツさん。実は1番の黒鹿毛の馬がものすごく気になっていていたんですがあっさり勝ってしまって……。アンカツさんが捲くりで迫ってきたのを直感で感じてそっちに神経を集中させた結果勝てたんですけど……」


岡西は自分の心境をアンカツという先輩騎手に話した。このアンカツというベテラン騎手の本名は安城あんじょう勝臣かつおみと言って元々は地方競馬所属の騎手だったが2年前に中央に移籍してきて通算勝利数は中央在籍年数が長い岡西よりは少ないが、G1勝利数は安城のほうが岡西より10近く水を開けている。現在は栗東が誇るトップジョッキーの一人である。


「うーん、確かにあの1番の馬はデキは飛びぬけていたけど走り方からみてどうも鞍上の騎手との呼吸が合ってないように見えたねえ。君との追い比べの時にちらっと1番の馬を見たけど先頭に立って走る気を失くしてたように走ってたようにわたしは見えたよ」


安城は岡西に自分なりの見解を言った。


「なるほど、そう見えましたか……」


岡西自身本心は納得はいかなかったが安城を困らせないように納得した表情で答えた。


「さあ、後検量(※注釈4)に行かないと。裁決委員の人達を待たせたら色々面倒だから」

「あっ、そうですね」


安城に促されて岡西はサロメを検量室前に誘導した。検量室前には入線した馬が入るゲートがあり岡西は1着のゲートにサロメを誘導した。その先には本岡と西田がいた。


「いや〜、岡西君、ご苦労さん! いい騎乗だったよ。これでこの馬の来シーズンも楽しみになってきた」


本岡は満面の笑みで岡西を出迎えた。


「いえいえ、追切の成果を本番に出せたからですよ。僕は普通に騎乗していただけで、追い風になったのはパドックの時に西田さんからリラックスさせる言葉をもらったからです」


岡西はサロメから降りながら淡々と勝因を語った。


「え? 西田君が?」


本岡は不思議そうに岡西に聞いてきた。


「実は岡西君は僕に勝ち星プレゼントしようとしてたんですけど、例の1番の馬をしきりに気にして気負っていたのでいつもの騎乗で結果を気にせずに挑むように言っただけですわ」


西田はパドックでの舞台裏を本岡に伝えた。


「先生には1番の馬は気にしないように言われたんですけどどうしてもあの馬が気になってしまって……」


岡西は照れくさそうに告白した。


「ははは、まあ岡西君の性分なら仕方ないか。まあ勝たせてもらったんだから結果オーライだよ。さあ後検量に行かないと」


本岡は笑顔で岡西を促した。


「では行って来ます」


岡西は後検量に向かった。


 一方5着に敗れたちゅんは心臓をバクバクさせた状態で戻ってきた。5着のゲートの先には小倉橋だけがいた。


「あっ、あの……。先生は?」


ちゅんは恐る恐る小倉橋に尋ねた。


「たぶん検量室の隣の部屋にいるんじゃないのかな?」


小倉橋は神妙な面持ちでちゅんに答えた。


「そうですか……。あ〜、どうしよう……。勝てなかった……」


ちゅんは今にも泣き出しそうな表情で検量室に向かって行った。


 検量室では入線した騎手が次々と後検量をしていた。岡西やちゅんも後検量に入り規定の規格内の斥量だったのでパスになった。レース自体も公正に行われたのを裁決委員が確認をして着順通り横一列に並んだ騎手達に礼の号令を出して着順は確定した。レースが確定すると電光掲示板のランプが赤になり「確」の印が出る。


 確定が決まったのと同時に押切が検量室に乱入してきて無言でちゅんを別の部屋に連れ出した。押切の怒りのゲージはすでに最高潮に達していて爆発するのも時間の問題だった。


「このアホンダラがぁ!!! 勝てるレースも勝てへんでどないするんやぁ!!! 普通やったら逃げ切り勝ちできるレースやで! なんで直線で後続の馬に4頭も差されるんや〜! そのうちの1頭はま〜た真向かいの厩舎やんけ〜! ただでさえ勝ち星ないくせに他厩舎に勝ち星プレゼントしてどないするんや〜!!!」


控え室にちゅんを連れてきたのと同時に押切の頭の中のマグマが噴火した。


「いや〜、その……。直線向いて鞭を入れて追っていたんですけど思ったように進まなくて……」


ちゅんは恐怖に引きつりながら敗因を述べた。


「はぁ? 走る気なくした馬のやる気起こさせて走らすのが騎手の役目やろ〜が! 馬との折り合いもロクにつけきれんし、アホの1つ覚えの逃げ戦法だけでオマエはどうやって騎手で食っていくつもりなんや! あぁ?」


押切の怒号が控え室全体に嫌でも響く状態だがそれを諌めようとする他の競馬関係者は誰もいない。むしろ押切とちゅんを避けるようにみんな素通りしていた。押切には全身黒のレザーとガラの悪いサングラスで人を寄せ付けないなんとも言えない威圧感が常に漂っていて、とてもでないが気軽に話しかける雰囲気ではなかったからである。押切のちゅんに対するお説教の時間は最終レースが終わるまで延々と続く…。


 押切がちゅんを説教してる時、ウイナーズサークルでは3レースで勝ったサロメ号の「口取り」(※注釈5)が行われた。騎手の岡西はサロメにまたがり他の馬主・生産者・調教師(本岡)・厩務員(西田)は手綱を持っていた。撮影後、馬主が本岡に話しかけてきた。


「確か本岡先生がわたしの所有馬で勝ったのは初めてでしたね?」

「はい、金山さんのおかげで貴重な勝ち星を挙げられました」


本岡は常に謙虚な姿勢で馬主の金山に対応していた。この馬主は金山かなやま正人まさとという競馬業界きっての社長兼馬主である。セリや庭先取引などで競走馬を購入してはG1ホースを多数輩出してきた実績を持つ。本岡と金山をつないだのは紛れもなく岡西で、管理馬が少なく競馬関係者の縁故が全くない本岡のために岡西が金山に頼み込んで確保できた馬がこの勝ったサロメであった。


「いやいや、わたしは何もしていませんよ。岡西君の熱意でサロメ号を本岡先生に半信半疑の気持ちで預託したのですがまさか2戦目で勝ち鞍をあげたので正直ビックリしています。先生は確か元獣医をしていたということでそこで培ったノウハウがきっと勝ち鞍をあげれたんだと思います。もちろん岡西君の騎手の腕も含みますけど」


金山は結果を出した新鋭厩舎の誕生に馬主としての楽しみがまた一つ増えたと思いながら本岡厩舎のスタッフを讃えた。


「金山さん、本岡先生はこれから飛躍していく先生です。ぜひとも金山さんの力添えをよろしくお願いします」


岡西はさりげなく金山に本岡を持ち上げた。


「本岡先生と岡西君のタッグはこの先の競馬を盛り上げてくれそうですね。来年の若駒を購入した時は本岡先生にも競走馬を回すことも検討します」


金山は笑顔で答えた。


「あっ、ありがとうございます」


本岡は嬉しそうにお礼をした。ゼロからのスタートの本岡にとっては競走馬を回してもらうという話は大変嬉しいことである。


「それではわたしはそろそろ失礼致します。またよろしくお願いしますね」


金山は本岡達に挨拶をして去っていった。本岡達も金山に一礼をして次のレースの準備を始めた。本岡と岡西は次の5レースの準備、西田はサロメ号の世話にそれぞれ戻っていった。

《モデル騎手について》


 モデル騎手とは実在するまたは実在していた騎手を元にした人物のことです。この章に出てきた安城勝臣騎手のモデルとなったのは栗東・フリーの安藤勝己騎手になります。話が進むにつれて他にもいろんな先輩・同期・後輩騎手が出てきますがすべてモデル騎手として実在してる騎手を元にしてると思ってください。ちなみにオリジナル騎手は今のところ準主役の岡西騎手と読者を笑わせる鈴木中騎手だけです。


(※注釈1)本馬場とパドックを結ぶ一本道で競馬関係者や記者くらいしか入れないところである。この近場道を通るときの騎手の心理はどんなレースでも基本的に緊張するもので特にG1レースの時は通常の数十倍とも言われる。


(※注釈2)レース発走10〜20分前に脚慣らしや気分を落ち着かせるために馬場を走らせることで馬券を買う競馬ファンの中にはパドック同様この返し馬の動きで馬券の見極めをする人もいる。


(※注釈3)「差し」や「追込」の馬が残り800あたりから一気に進出して前を走る「逃げ」「先行」の馬に早めに並びかけることである。この捲くりができるかどうかというのも一流騎手の騎乗技術のステータスの一つである。


(※注釈4)出走馬ごとに定められた斥量をチェックすることでレース発走の70分前に全騎手に義務付けられてるのを「前検量」と言い、レース終了後に上位7着までの騎手や裁決委員が指定した騎手がするのを「後検量」と言う。もしこの前検量と後検量で斥量が規定の規格±1キロを超えて違ってたら順位に関わらず失格になるという決まりがある。数日前の追切の時、押切がちゅんを強制的にサウナに放り込んだのはあのままの体重では「前検量」で重量オーバーになって失格になるからである。


(※注釈5)勝ち馬が行う記念写真のことでその勝ち馬に関わった馬主・生産者・調教師・騎手・厩務員が揃って記念写真を撮る。

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