飯坂温泉珍道中(後編)
時は2005年シーズンの7月2週、レース後の夕刻、押切厩舎スタッフと岡西の合計11人は飯坂温泉の△△旅館へと来ていた。受付も終わらせて一行に用意された寝室は3部屋。松・竹・梅と名づけられた部屋で松は3人部屋で他の2部屋は4人部屋である。部屋割りは車に乗ったときのメンバーと同じで、岡西は押切・小倉橋と松の部屋で寝ることになった。
──松の部屋にて──
「いや~、なかなかええ部屋やなぁ。ご馳走に地酒に名湯、今晩はホンマに楽しみやわぁ!」
押切は上機嫌に浴衣に着替えていた。
「押切先生、食事の場所は『藤の間』です。さっき僕が割引のことで問い合わせに行った時にいろいろと聞いて来ましたので」
「うんうん、いつもあんがとな~。ところで岡西君、地酒が2種類飲めるようになったいきさつはどないな感じやったん?」
「いきさつですか? まあ最初は美浦の知り合いの厩務員さんについての話からはじまりまして、そこからギガクロスブレイクの話が出てきまして、最終的にギガクロスブレイクの乗り手だった僕が色紙と記念写真撮影をしたことで割引と地酒2種類という流れになりました」
「かぁ、ファンサービス精神旺盛で太っ腹やな。岡西君の色紙ごっつプレミアつくで。ワハハハハ!」
岡西から割引のいきさつを聞いて、押切の機嫌はさらにうなぎのぼりによくなり、脳天気モードに拍車をかける一方であった。
「押切先生も小倉橋さんも浴衣に着替え終わったみたいですね。では食事に行きましょうか?」
「おうよ! ほな、行こうか!」
岡西の呼びかけに押切と小倉橋は松の部屋を出た。
「あの~、押切先生……」
「ん? 岡西君、どないした?」
「サングラスかけたまんまなんですけど……。見えにくくないですか?」
「ワハハハハ、グラサンはワシの体の一部みたいなもんやから常に一心同体やでぇ」
「そ、そうですか……」
(外したらどうですかと言ってみたかったんだけど、サングラスの中身を見たらみんな石になりそうだからやめておこう……)
岡西は浴衣姿でも常にサングラスをかけてる押切に違和感や疑問、そしてなんとも説明がつかない恐怖心を抱きながら、他のメンバーと合流して『藤の間』へと向かって行った。
──藤の間にて──
押切達の食事の場所である藤の間の広さは長方形の24畳の大広間で、掛け軸が飾ってある上座側に3つ、出口側と縁側にそれぞれ4つの席と料理が用意されていた。脚付きのお盆の上には様々な馳走が盛り付けられていた。馳走を盛り付けてる食器が黒塗りの漆でできていてそれが一層馳走見栄えを際立たせていた。
「うわぁ、こらウマそうやなぁ。エエ感じなんちゃう?」
押切は目の前の料理に目が眩んでフライングで食べそうになったが、そばにいた小倉橋がさりげなくとめたという。各個人の席の位置は上座側には出口寄りから順に岡西・小倉橋・押切、出口側は上座寄りから順に小橋・大林・古村・谷口、縁側には上座寄りから順にちゅん・渡部・外岡・増本がそれぞれ入った。ちょうどその時、入り口のほうから年配の女将が入ってきた。
「あっ、すいません。みんな揃いましたので飲み物を持ってきてもらえないでしょうか?」
岡西はすかさず女将のところまえ行って飲み物を頼んだ。
「はい、ビンビールをお持ちいたしますのでしばらくお待ちください」
「あっ、あと烏龍茶ありますか? 僕がアルコールがダメなもので……」
「他のお客様はビールでよろしいでしょうか?」
「ちょっと待っててください。押切先生、他の人はみんなビールでよろしいでしょうか?」
「ん? ああ、ええでぇ。ジャンジャン持ってきて~な!」
「わかりました、ということで烏龍茶を2本とビール瓶15本くらいでお願いします」
「はい、すぐお持ちいたします」
そう言って女将は藤の間を後にしていった。
「せやったなぁ。岡西君は酒飲めへんのやったなぁ。地酒まで飲めへんとはもったいないわぁ」
「いやいや、僕の分はみなさんで飲み干してください」
「かぁ~、岡西君はいろいろとサービス精神旺盛やなぁ。いろんな段取りするわ値段交渉で値切りを持ちかけるわでターフ外でも大活躍やなぁ」
押切は岡西の一連の行動にただ感心するばかりであった。
「いえいえ、僕はゲストで呼ばれたんですからこれくらいのことはしないと……」
(値切りについては別に俺が交渉したわけじゃないんだけどね……)
読者の中にはなぜ押切厩舎所属ではないゲストの岡西が自主的に渉外などでいろいろと動いてるのかと思う人もいると思うが、大きな理由は「方言の壁」である。福島の東北弁の訛りに対応できる人が押切厩舎のスタッフにはいないし、方言の壁によって押切が様々なトラブルを引き起こしてしまう可能性があるからである。岡西は藤枝厩舎所属の草野厩務員から東北弁の特徴を教えてもらっていたので対策はバッチリであった。また、岡西と旅館の女将の会話は標準語で表されていたが、女将の話し言葉は実際のところ東北弁である。
「お待たせしました。ビールをお持ちしました」
数人の女将が注文どおりに飲み物を持ってきてそれぞれのコップにビールを注ぎ始めた。岡西はもちろん烏龍茶でる。
「先生、では乾杯の音頭を……」
「おうよ!」
押切の隣にいた小倉橋の呼びかけで押切はビールが入ったコップを自分の頭の位置あたりの高さまでかかげて一言言った。
「おう、今日はお疲れさん! 1日3勝なんて開業以来はじめてやなぁ。これも岡西君を主戦騎手として迎え入れたおかげや~! 岡西君にはホンマに感謝してる。これかもよろしゅう頼むわ~。他の連中は暗黒時代の4年間を取り戻す気持ちでこれからも働くんやでぇ。まあ今日はたらふく食べてたらふく飲めや~! ほな、乾杯や~!」
「カンパーイ!」
押切の音頭の後に各個人は食事をはじめた。
(変な音頭だったなぁ。まあ押切先生らしいっていえばらしいんだけど……)
岡西は1人のんびりと馳走を楽しんでいた。最初の1時間は平穏そのものだったが……。
──PM20:00頃──
「お~い! ちゅんはどこ行ったちゅんは~~~~!」
すっかりできあがっている押切は寄った勢いでちゅんの居場所をわめいていた。
「ちゅん君はさっき廊下で誰かと電話で話してたみたいですけど……」
近くにいた渡部が恐る恐る押切に伝えた。
「はぁ? 電話やてぇ。あのアホタレが~! おい、孝平! ちゅんを引っ張って来い!」
「え? 僕がですか?」
「せや、はよいってこい!」
「は、はい~!」
酔っ払った押切の指令にあわてて飛び出す増本。
「おい、渡部! 地酒やぁ~! 飲めや~!」
「あ、あの~。僕、お腹いっぱいで……」
「はぁ? まさかオマエはワシの注ぐ酒が飲めへんちゅうのか? あぁ?」
「い、いえ……。そんなわけでは……」
「じゃあ飲めや~!」
「は、はい~」
苦しみながらも押切に注がれた地酒を必死で飲む渡部。押切の無茶振り指令は酔っ払っても健在だった。
(うわぁ、やっぱこのパターンになってしまったか。俺、酒の場の雰囲気は何年経っても好きになれないなぁ)
押切から離れた位置で小橋と他愛のない話をしながら気が滅入りかけてる岡西。すぐ近くでは大林・古村・谷口がいつもとは違うハイテンションで語っていった。レースでは大活躍の岡西も酒の場ではどうしても空気キャラになってしまうのである。その時、1人の女将がデザートの苺シャーベットを持ってきた。それを見るや岡西は自分の席に戻って食しはじめた。
(やっぱ苺はいいなぁ)
岡西は飲み会での唯一のささやかな楽しみを堪能していた。
(摩那舞は相変わらず苺に目がないなあ……。そこもアイツらしいところなんだけどね)
小橋は岡西が苺アイスを嬉しそうに食べてる光景を見てしみじみと昔の思い出の1つを回想していた。騎手学校の1年の1学期頃、地域の人から差し入れでもらった苺を2つ上の上級生に理不尽な理由で1.2年の分を没収された時、当時15歳だった岡西が怒り狂って投げつけるための凶器を持って3年の教室に殴りこみに行ったというエピソードである。その時の岡西は「苺返しやがれ~!」とわめきながら見境なく3年の教室内に向けてモノを投げつけまくり、止めに入ろうと近づいた3年生にあらかじめ近くの場所で確保していた消火器を発射させて教室を白粉まみれにしたという黒歴史を残している。それ以来1年以上地域から騎手学校に対する差し入れがタブーになってしまったという。
ちょうど岡西がデザートを食べ終わった時、小倉橋が岡西に話しかけてきた。
「岡西君、温泉に行こうか?」
「えっ、先に僕らだけで行ってよろしいのでしょうか?」
「みんな泥酔状態ではラチがあかないので先に入ったほうがいいと思う」
「わかりました」
そう言って岡西は小倉橋と共にコッソリと藤の間を後にして一旦松の部屋に戻り、着替えをもって温泉に向かって行った。
(小倉橋さんはほんとに神だよ)
自分の心境を察してくれた小倉橋の機転を利かせた行動に岡西は安堵の表情だった。また、岡西と小倉橋がいなくなっても藤の間では押切の大暴走が21時まで続いたという。
──入浴中にて──
「はぁ~、小倉橋さんいい湯ですね。心が落ち着きますよ」
「うん、そうだね」
「しかし絶妙のタイミングで藤の間を出れたのが嬉しかったです。僕の心境がよくわかりましたね」
「うん、周りがハイテンションの中、岡西君だけが1人ポツンと取り残されていた感じだったからひょっとしたらとわたしは思ってたんだ」
「そうだったんですか、僕は前から酒の場ってのがどうしてもダメなんですよ。酒が飲めないというのもあるんですけど……」
「まあ飲めないのは仕方ないよ」
「でもこうやってみんなで宿泊つきでどこかに行くというのはほんとに久しぶりです。競馬会に入ってからというものの追い切りとレースの繰り返しばかりでしたから」
「うんうん。あっ、そうだ。ユーロステイテッドについてなんだけどジャパンダートダービーの後に短期放牧に出したんだ。たぶん8月に入る前には戻ってくると思う。次走は盛岡で行われるダービーグランプリなんだけど1ヶ月で完全に仕上がれるかどうかの保証がないかも。まあ先生なら急仕上げで体を絞ってくるとは思うけど」
「なるほど、まああの馬は故障とは無縁ですのでハードに調教積んでも大丈夫ですよ」
「うん、でもわたしが気がかりに思ってるのは当日までにユーロにレース勘が戻ってるかどうかだね」
「レース勘?」
「ユーロが入厩してから放牧は今回が2回目だけど、最初のときはレース感覚が10週以上空いていたから無駄なく仕上げられたけど今度はその時の半分の期間で仕上げないといけないので」
「なるほど、わかりました。頭に入れておきます」
「あっ、ごめんね。骨休めのつもりだったのに競馬の話してしまって」
「いえいえ、職業病の1種ですかねえ? 本業の話してたほうがなぜか僕は安心してしまうんですよ」
このように酔っ払いの難を逃れた岡西は小倉橋と様々なことを語りながら温泉の湯を楽しんでいた。
──PM21:00頃、旅館内の廊下にて──
「ホンマに飲みすぎたわぁ。あの地酒のうまさは反則やでぇ。2種類とも1ダースずつ買って帰ろうかな? レースでごっつ稼がせてもらったさかい、ワハハハハ!」
「先生、しっかりしてくださいよ……。足が相当ふらついてるんですけど……」
岡西と小倉橋が去って行ってからもひたすら飲み続けた押切。すでに思考回路はほとんど麻痺状態で通常の判断ができないくらいだった。その押切に飲まされたメンバーも自分達だけで飲んでいたメンバーも押切ほどではないがほぼ泥酔状態であった。
「アホンダラ! ワシの肝臓は鋼鉄のように丈夫やさかい簡単に死にはせ~へんわぁ! ところで温泉どこやぁ? まだ着かへんのか? ワシの足を棒にするつもりか? あぁ?」
「た、たぶんこっちだったと思いますけど……」
自信なさげに発言するちゅん、それと同時に彼はしきりに自分の携帯メールをしきりに見ていた。その時、ちょうど見回りをしていた女将に出くわした。
「せや、あのおばちゃんに聞いてみるか……。あの~、すんません。風呂場どこにあるか教えてもらえへんでしょうか?」
「あ~、ここからですたら向こうにむえるつくあたりをむぎに曲がりまして、ぬ番目のずう字路をすだりに曲がったところにございます」
(標準語訳:ここからでしたら向こうに見える突き当りを右に曲がりまして、2番目の十字路を左に曲がったところにございます)
「はぁ? なんやて~? なんやねんつくあたりにむぎって? ぬ番目ってなんやねん! わけわかれへんわ~! おい! 誰か通訳呼んで来い! 通訳!」
押切は渉外自体を人任せにしていたため聞き慣れない東北弁に大苦戦していた。その怒声は旅館中に響いたという。
再び温泉に場所を戻して、岡西と小倉橋は嫌でも聞こえる押切のわめき散らす怒声に嫌な予感を感じた。
「あちゃー、恐れていたことが起こってしまった……」
岡西は左手を額に当ててうなだれた。
「ある程度温まったしここは引き上げたほうがいいみたいだね」
面倒事に巻き込まれるのを察知した小倉橋は撤収を提案してきた。
「そうですね、でも自分の部屋に戻るにはあの道を通らないといけないのではないでしょうか? ついでに押切先生も諌めないと……」
「いや、道はもう1つある。少し遠回りになるけど。それにあの先生に気を遣いすぎてもキリがないよ。クレームは旅館のスタッフに任せて退散しよう」
「わ、わかりました……」
岡西は小倉橋の指示通りに急いで浴衣に着替えて小倉橋が進むルートの後をついていった。その間にも押切のいろんな内容の怒声が響いていたという。
「う~ん、温泉上がりの一杯のコーヒー牛乳飲みたかったんですけどやむを得ませんね…」
「ああ、おなじみのビン入りの牛乳類は確かわたし達の寝室の近くに自販機があったのでそこで購入できるから大丈夫だよ」
「そ、そうでしたか。わかりました。では向かいましょう……。しかしなんで押切先生の声ってここまで響くんだか……」
「岡西君、今は他人のふりをするのが先決だよ」
「は、はい」
(しかし小倉橋さんの割り切り方ってほんと神だなぁ。俺もいろいろと見習わないと……)
岡西は小倉橋に感心しながら指示通りについてきて押切達泥酔集団を避けて無事に戻ることができた。
──PM23:00頃、松の部屋にて──
温泉も楽しみ入浴後のコーヒー牛乳も満喫した岡西は小倉橋とのんびりくつろいでいた。その時、明らかに音程がズレた下手な歌声が響いてきた。
「いい湯だ~なぁ~アハハ~♪」
その歌声はどんどん大きくなっていく。岡西と小倉橋は一発で押切とわかってしまいがっくりとうなだれる。上機嫌でやや酔いが覚めた押切が部屋に戻ってきた。それでも足取りはフラついていていつバランスを崩してもおかしくなかった。幸い押切は自分の布団の位置までたどりついた。
「ふわぁ、エエ気分やぁ。ほな、寝る~~~。ZZZ......」
押切はバタンとうつ伏せに寝そべった後に速攻で爆睡モードに入ってしまった。押切のいびきはかなりひどく岡西は寝れるかどうか不安だった。横にいる小倉橋はおなじみの耳栓を装着して就寝に入ろうとしていた。
(そうか、あのときにもらった耳栓がここでも役に立つんだ)
小倉橋の行動を思い出して岡西は出発時にもらった耳栓装着した。
「では、電気消しますね。おやすみなさい」
「はい、おやすみ~」
岡西は電気を消して自分の布団にあお向けになって寝た。
(しかし、最近思ったんだけど押切先生絡みのイベントって何で毎回騒動ばっか起こるんだろ……。まああれこれ考えてもしょうがないか……。寝よう……。ZZZ……)
──翌朝──
「う、う~ん……。まあまあ寝れたかな……」
一番最初に目を覚ましたのは岡西だった。首を回したり体を伸ばしたりして眠気を覚ましていた。
「えっと、今何時だろ?」
岡西は自分の携帯のディスプレイを開いて時間をみたところAM6:20と表示されていた。
「職業柄早起きが板についてるからどこにいてもすぐ起きてしまうなぁ」
体の状態を起こしてしばらくボーっとしていた。その時隣の布団で寝ていた小倉橋も目を覚ました。
「あっ、小倉橋さんおはようございます」
「うん、おはよう。昨晩は寝れたかな?」
「そうですね、耳栓が大活躍でした。いびき対策もバッチリで」
「それはよかった」
「あっ、そうだ! せっかく早起きしましたから朝風呂行きません? 朝食は8時30分でまだ時間もありますし」
「うん、いいねえ。ではタオル類を持って温泉に向かおうか」
「はい」
こうして岡西と小倉橋はそれぞれのタオルを探し始めた。押切は大の字であお向けの状態で寝ていて、浴衣はほとんどはだけていた。しかもだらしなく大きく口を開けてサングラスはかけたままという。
(うわ~、すげ~状態。寝てるときもサングラスかけたまんまだよこの先生は……。あっ、そうだ!)
岡西は悪巧みを閃いて自分の携帯を取り出して現在の押切の寝てる姿を携帯の写メで激写した。
(ぶっ、われながらすごいベストショット!)
岡西は自分が撮った写真の出来のよさに思わずふき出しそうになった。
「ん~、写真はハンサムに撮らなアカンでぇ、ムニャムニャ……」
(うわ、ビックリした! って寝言か……)
押切の寝言に一瞬焦った岡西だったがすぐに平静を取り戻した。
「岡西君、まだかな?」
「あっ、はい。今行きます~」
小倉橋の呼びかけに岡西はあわてて自分の携帯をバックに入れた後、バスタオルを持って松の部屋を出て行った。
──約2時間後──
時計はAM8:30分を差していて一行は朝食を食べるために昨晩と同じ藤の間へと集まった。何人かはまだ昨日のアルコールが残ってた人もいたが重度のアル中者は幸い出ていなかった。
「ほな、朝飯食うでぇ!」
「いただきま~す」
押切の呼びかけでみんな朝食を食べ始めた。みんなおいしそうに食べてる中、岡西だけは食べようとせず目の前にあるおかずをじっと見ながら首を傾げて考えていた。
(これ、なんでできてるんだろ? 一番端っこにあるのは明らかにタクアン系の漬物だな。白米とお吸い物はOKでこれはおそらく佃煮。あとの2つはわからん……。隣にいる小倉橋さんに聞いてみるかな……)
実は岡西にはけっこう食わず嫌いがあり梅干やタクアン系の漬物は大の苦手。あと日頃から見慣れない旅館の食事でなんでできてるかわからない食べ物は口にしないという癖がある。
「ん? 岡西君どないしたん? 箸が全然進んでへんみたいやが……」
「あっ、はい。このおかずはなんでできてるのかなあと思いまして」
不意に押切に尋ねられてとっさに岡西は答えた。
「これウマイでぇ。岡西君も食べな損やでぇ。なんか体調でも悪いん?」
「いえ、実は明後日に地方の重賞レースに出走する予定がありまして自分の体重のことを考えてました」
「あ~、地方の重賞に出るんかいなぁ。騎乗依頼が至るところで多い岡西君は大変やなぁ。でも少しは食べへんと体に毒やで~」
「そ、そうですね……。ではいただきます」
とりあえず岡西は無難に白米とお吸い物を食しはじめた。
「うん? ちょいワシトイレ行ってくるわぁ」
押切が藤の間を出たのと同時に岡西は嫌いな食べ物を持って小橋のところに駆け寄った。
「テツ、スマン。俺の漬物と梅干食ってくれ……」
「全くしょうがないなぁ……」
「悪いな、押切先生に見つかったら面倒なことになる可能性あるので……」
岡西は申し訳なさそうに小橋に嫌いな食べ物を渡した後に即座に自分の席に戻った。
(ふう、テツのおかでげで難は逃れた……)
安心しきった岡西は残ってる食べ物を平らげた。
「ふう、スッキリしたわぁ~。お、岡西君キッチリ平らげるやん」
「え、ええ。さっき地方レースの確認をしたところ自分の乗り馬は斥量58背負わされることがわかって食事制限しなくていいことがわかって思わず一気に食べちゃいました」
「せやったんやぁ。あり? 帝王賞は終わったはずなのにこの時期にG1レースあったっけ?」
「ああ、僕が出走するのは川崎で行われるスパーキングレディCというG3の牝馬限定の重賞レースです。通常の斤量は55なんですけど僕が乗るキタノアルタイルはG1馬なので通常より3キロ多く背負わされるんですよ」
「ああ、あの馬が出てくるんやぁ。思えば岡西君と出会ったきっかけはキタノアルタイルのドバイでの惜敗のスポーツ新聞記事やったなぁ」
「そうでしたね」
「せや、旅館出たら岡西君はどないする? ワシらは一旦福島競馬場の滞在厩舎まで戻るさかい」
「僕はJR福島駅まで行ってそこから東京に帰ります」
「よっしゃ! ほなワシの車で駅まで送るわ!」
「あ、ありがとうございます」
この後、食事を終えた一行は旅館を後にして岡西は押切の車で駅まで送ってもらい、東北新幹線で東京に帰っていった。1泊2日のわずかな期間だったが、いろんな意味で思い出に残る旅行であった。