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トライアル戦線(後編)

 時は2005年シーズンの3月2週。午前中に岡西は栗東での調教を終わらせて、先週の藤枝との約束どおりに夕刻に藤枝厩舎に泊まりに来た。3ヶ月前に岡路に連れてこられて以来の夕刻の美浦トレセンだったが、相変わらず静かであった。岡西は藤枝厩舎の建物内に入って行って藤枝を探し始めた。


「こんばんわ~。藤枝先生どちらにいますか~?」


厩舎内を少し歩き回ったが人の気配を感じない。詰め所らしきところを調べてみても誰もいない。


「あれ? いないなぁ。馬房のほうに行ってみるか……」


岡西は馬房のほうへと向かっていった。途中トイレらしき扉を通過しようとした時、急に扉が開いて人が出てきた。


「うわぁ」

「わ~」


岡西とトイレから出てきたもう1人の人間がちょうど鉢合わせになって、お互いに驚いて地面に尻餅をついた。トイレから出てきたのは前の章で岡西が電話で話していた北町だった。


「なんだお前かぁ。びっくりさせやがって……」

「いやびっくりしたのこっちですよ~。岡西先輩が不意に叫んできたから……」

「なんでトイレの電気がついてないところから人が出て来るんだよ~」

「今さっき電球が切れてしまって真っ暗になったんですよ。僕が用を足せた後だったからよかったんですけど」


岡西と北町はトイレの入口前でしゃべりながら立ち上がった。


「あいたたた、電球切れかぁ。まあそれなら仕方ないな。んでお前なんでこんな時間に厩舎にいるんだ? 普通だったら厩務員の当番の人が誰かいるはずだが……」


岡西は尻餅ついて痛めた尻を押さえながら北町に尋ねた。


「今日は厩務員の人みんな私用でいないため代わりに所属騎手の僕が当番することになったんですよ。それに岡西先輩もギガクロスブレイクの件で泊まりに来るということで世話係も含めてです」

「なるほどな。当番はともかく、世話係はどうせなら俺好みの女にしてもらいたかったよ」

「まさか岡西先輩デリヘル嬢呼ぶつもりですか?」

「アホ、お前は本気でとらえるなよ。トレセン内に競馬関係者以外の部外者入れたら大問題になるぞ。しかもクラシック近づいてる大事な時期にそんな不祥事起こしたらどれだけの関係者に迷惑をかけると思ってるんだよ……」


岡西はぶぜんとした表情で北町をまくし立てた。


「そ、そうですよね。ちょっと焦りましたけど……」


北町は頭を掻きながら安心していた。岡西は今だからこそ真面目なイメージしか思い浮かばないと思うが、騎手学校時代は札付きの問題児だった。問題児とは言っても喫煙したり後輩に暴力を振るうということは一切やっていない。当時の岡西の成績は常にトップクラスだったが、2つ年上の一部の先輩達やとある鬼教官との衝突が岡西の悪名を広めてしまう要因であった。北町は岡西の悪名を一部噂に聞いただけでほんとの悪人とは思ってはいなかった。むしろ最も世話になった先輩というイメージを持っていた。その裏づけとして2年以降の岡西は様々な面で後輩に対する面倒見がよく、後輩達からは慕われていた。そのため鬼教官との衝突の際、後輩達は岡西を応援するというパターンが日常茶飯事だった。岡西の騎手学校時代の武勇伝は他にもいろいろとあるがそれは少しずつ明らかになっていく予定。


「ところで藤枝先生はどこにいるんだ?」

「多分馬房のほうで競走馬の体調をチェックしてるところだと思いますけど行ってみます?」

「ああ」


岡西と北町は馬房のほうへと向かっていった。一番奥の馬房のほうで人の気配を感じた。


「先生、岡西先輩が来ましたよ」

「宏之か? ちょうど体調のチェックが終わったところだ。今から向かう」


しばらくして藤枝が岡西と北町の目の前に来た。


「藤枝先生、こんばんわ。先週の約束どおり宿泊に来ました」

「摩那舞、わざわざすまんな手数をかけて」

「今日の追い切りの時も記者の人達がおしかけてきたんですか?」

「ああ、先週の倍以上の人数が来てた。明日の追い切りの時は厩舎のドアを開けた瞬間に記者が20人ほど待機してることが予想される」

「ひえ~、すごいプレッシャーですねえ」

「まあな。明日の追い切りの内容だが2頭併せで行く。宏之が乗るエリクサー号と摩那舞が乗るギガクロスブレイク号を5ハロン強めで併走させて最後にギガクロスブレイクが先着するという内容だ」

「なるほど、わかりました」

「あと追い切りの時、摩那舞はこのマスクをつけて追ってくれ」


そういって藤枝は岡西に大き目のサイズのマスクを手渡した。そのマスクは鼻から顎までの顔の半分以上を覆うくらいの大きさだった。


「これって風邪引いたときにつけるマスクですよね? なんでまたこれを……」


岡西は藤枝の意図が理解できなかった。


「ははは、これも記者対策だよ。そのマスクをつけてその上にヘルメットとゴーグルをつけると誰が乗ってるかわかんなくなるだろ?」

「そうですね。その組み合わせなら不審者みたいになりますねえ」

「追い切りを終わらせてギガクロスブレイクを中に入れたのと同時に記者達を入口でシャットアウトする。その間にお前は裏口から脱出して中山競馬場の調整ルームに直行するという段取りだ」

「なるほど、記者達を捲く万全の作戦ですね。恐れ入ります」

「まあ明日はいろいろと忙しくなると思うがよろしく頼むぞ。ではわたしは帰る。宏之、あとは頼むぞ」

「あっ、はい。お疲れ様でした」

「お疲れ様でした」


藤枝が帰っていくところを北町と岡西は挨拶して見送った。


「あ~、それとお前達。若気のいたりで風俗嬢を呼ばないように」


そういい残して藤枝は厩舎を後にしていった。


「まさかさっきのトイレ前の会話聞かれたんでしょうか?」

「お前の先生地獄耳だなぁ……」


岡西と北町は藤枝の地獄耳ぶりに冷や汗をかいた。


「まあ、管理馬のチェックも終わってることですし和室に行きますか?」

「そうだな」


北町に促されて岡西は厩舎の和室に向かった。その後、二人は布団を敷いて寝巻きに着替えた。


「岡西先輩、厩舎で宿泊とかしたことあります?」

「俺か? あるけど和室で寝たことはなかったなあ。昔いろんな厩舎で下働きしてた時は馬房の通路に野宿用の寝袋持ってきてそこでよく寝ていたよ」

「へぇ、岡西先輩が厩務員の仕事を。今となっては想像つかないですねぇ」

「俺は実質上最初からフリーだったんで、お前みたいに面倒を見てくれる先生はいなかった。そのため競馬関係者の縁故がないデビュー当時の俺に騎乗依頼は来るわけがない。そこで俺は乗り鞍探すより馬を知ることからはじめたんだ」


岡西はしみじみと北町に自身のデビュー当時の下積みのことを語り出した。


「馬を知る?」


北町は抽象的な岡西の言葉に首を傾げた。


「そうだ、俺は馬の世話をしながら性格や癖など細かいことをチェックする習慣をつけていたんだ。自分だったらこの馬をどう乗りこなせば力を存分に発揮させられるか? 今この馬はどんな気持ちで狭い馬房の中で立っているんだろうか? 他にもいろんなことを想像したよ」

「なんか競馬の哲学的な話みたいですね」

「まあな、俺も今年で騎手9年目だけどまだわかんないこともたくさんある。それだけ競馬というのは奥が深いということだ」

「そうですね、僕も見習わないと。そいうや岡西先輩ってどういうきっかけで競馬会に入ったんですか?」

「きっかけ? あれは中学の時だったかなあ。俺も普通に学習塾に通う普通の中学生だったんだけど、ある日保護者相談会で俺の親が呼ばれた時に『おたくの息子さんは高校に入っても成績は伸びません。』と塾長に診断されて親からそのことを聞いて俺は高校進学が嫌になって、両親の反対を押し切って競馬学校に合格して入ったんだ」

「へえ、そうだったんですか」


北町は意外な事実に目を丸くした。


「だって高校行く前に希望を摘み取られてるようなもんだからなぁ。騎手学校の3年間は死んでも実家には帰らないという意地だけで乗り切ったようなものだったよ。在学中はいろんな弊害もあったけど」


岡西は布団の上に寝て仰向けの状態で昔の自分のことを語った。


「誰かに憧れて入ったというのはなかったんですか?」

「あっ、それで一つ思い出した。騎手学校でアンケート取らされたときあったんだけどその質問の中に『憧れの騎手は?』という内容があったんだけど俺そこに『いない』と書いて教官に相当怒られたよ。当時だったら匠さんとか岡路さんの名前書くのが普通だけど、あの時の俺は競馬の知識はテレビゲームでしか知らなかったから実際の騎手に関する知識は全くのゼロだったからなあ」

「ははは、それある意味すごいですね~」

「まあ同期に競馬一家の血筋のヤツがいて、そいつからいろいろと競馬関係者の名前を教えてもらって覚えていったということだよ」


岡西が言っている同期とは「タケコー」の愛称で知られる武井幸治騎手のことで武井匠の10歳年下の弟である。岡西はこの武井幸とルーキーの時、新人王争いをして岡西が75勝(うち重賞2勝)で武井幸が32勝(うち重賞3勝)という歴史上類を見ない争いとして今でも語り継がれている。結局勝ち鞍の数で岡西が新人王になって武井幸のほうは特別賞を授与したという。


「なるほど、いや~もっと岡西先輩の話聞きたいなあ~」

「おっと、気がついたらもう21時ではないか。そろそろ寝ないとな。明日は4時起きだしな」

「え~、マジっすか~」

「宏之、今度来たときに話してやるから今日はもう寝るぞ」

「は~い、では電気消しますね」


北町が残念そうな口調で和室の電気を消した。


「んじゃ、おやすみ」


このように競馬関係者の就寝は早いのが当たり前である。


──翌日 AM6:00頃──


 藤枝厩舎のスタッフ達は追い切りの準備を各自整えていた。朝一番にギガクロスブレイクの最終追い切りが入っていた。岡西も北町も準備は整っていた。ちょっと違うのは岡西が口にマスクを装着していたことくらいである。


「うわ~、ゴーグル装着してこのマスクではほんと不審者みたいだなぁ」


岡西は藤枝厩舎の洗面所の鏡を見てなんとも言えない姿に苦笑いだった。


「岡西先輩、そろそろ出番ですよ~~~!」

「わかった、今そっちに行くぜ」


岡西は北町の呼びかけで洗面所からギガクロスブレイクのところまで小走りで向かった。そして草野厩務員に支えてもらってギガクロスブレイクに乗った。


「摩那舞、今記者の集団がウチの厩舎前に陣取ってるので話を振られても知らん顔してなにもしゃべらないように」

「了解です」


藤枝の指示に岡西は左手の親指を上に立てて了解のジェスチャーを見せた。先に北町が乗るエリクサーが藤枝厩舎入口から出てきて、その後に岡西が乗るギガクロスブレイクが後に続いた。その瞬間記者の集団が群がってきた。


「おい、ギガクロスが出てきたぞ!」

「ん? 鞍上の騎手マスクしてるから誰かわからん」

「見たところけっこう背高いからひょっとして武井匠なのでは?」

「いや、タケショーにしてはなんか雰囲気違うぞ」

「藤枝厩舎の調教助手はさっき見かけたから違うし、所属騎手はエリクサーに乗ってるからなあ」

「ノリや勝秋にしては背が高すぎるし」

「すいません、マスク取ってもらえないでしょうか?」


岡西はちょうどギガクロスブレイクの馬上から記者達を見ていた。いろんな憶測の話をする記者達の光景に岡西は危うく笑いそうになった。


(これが高見の見物ってやつかぁ。こうやって第三者の視点から見るのってけっこうおもしろいなぁ。さっきから聞いてるけど俺の名前てんで挙がってこないし)


岡西はキャンターにたどり着くまで無言を貫き通した。そしてウッドコースのキャンターで藤枝が課した最終追い切りのメニューをこなした。走る距離は5ハロンで最初の3ハロンはエリクサーの動きに合わせて走らせて、終い残りの2ハロンでゴーサインを出して0.5秒差で先着して最終追い切りを終わらせた。記者の目から見たギガクロスブレイクの走りは切れや脚捌きなど群を抜いて非の打ち所がなかった。


「すごいなぁ。重賞ウイナーの古馬にあっさりと先着するとは……。乗ってる騎手は馬を大事に乗ってるように見えたんだけど、口元のマスクが邪魔で誰かわかんないなぁ……」

「これだったらヤネ(騎手)が誰でも重賞勝てるんではないでしょうか?」

「あの藤枝先生が超無名の騎手を起用するとは思えないし」

「あのマスクしてる騎手はほんとに風邪引いてるのかなあ?」

「んなわけないだろ、カモフラージュだよ。名門厩舎の先生が病持ちの騎手を乗せるわけがない。藤枝先生はただでさえ体調管理には口うるさいのに」


記者達はギガクロスブレイクのスピードに圧巻されていたが、肝心な鞍上の騎手は未だにわからない状態だった。


 一方、最終追い切りを終わらせた岡西と北町は厩務員と合流して厩舎のほうに戻っていく最中だった。


「宏之、なかなかおもしろかったなぁ。記者達は誰も俺の名前を挙げてこないしずいぶんなめられたもんだよ」

「まあ仕方ないですよ。岡西先輩はウチの馬に一度も乗ったことないんですからマークが甘くなるのも無理ないですよ。これもウチの先生の狙いなんですから」

「それもそうだな。さて、厩舎に着いたら荷物持って調整ルーム直行だな」

「あっ、記者の人達がやってきたので無言にならないと」


先週と同じように厩舎にエリクサーとギガクロスブレイクを入れたのと同時に入口を閉じて完全に記者達をシャットアウトした。その後、岡西はギガクロスブレイクから降りて調整ルームに向かう準備を急いで整えた。厩舎にたどり着くまで岡西が記者達を相手に無言を貫いたのは言うまでもない。


「今裏口は誰もいないので行けるよ」


藤枝厩舎所属の1人の厩務員が報告してきた。


「摩那舞、今日はいろいろと手数をかけたな。あとはウチらでやっておくから急いで調整ルームに向かうんだぞ」

「はい、ありがとうございます。では弥生賞の日にまた」


岡西は藤枝に一礼して裏口から去って行った。


「さて、わたしはギガクロスの出馬投票に行って来るので厩舎のドアを開けてくれ」

「あっ、はい」


藤枝は厩務員に指示してドアを開けさせた。そして堂々と記者達の前に現われた。


「藤枝先生、もったいぶらないでいい加減に教えてくださいよ~」

「あのマスク着けてた騎手が新しいパートナーみたいですがあれは誰ですか?」


記者達は待ってましたといわんばかりに藤枝の前に群がった。


「ははは、まあそう慌てなくても大丈夫ですよ。今からみなさんが求めている答えを出しに出馬投票に向かいますのでついて来て下さい」


藤枝はそう言って記者達を取りまとめて指定の投票所へと向かって行った。数10分後、藤枝はギガクロスブレイクの出馬投票の必要事項を用紙に書きこんだ。


「藤枝先生、書き込んだ用紙をこっちに見せてもらえます?」


記者の1人が藤枝に頼みこんできた。


「ではこれでよろしいでしょうか?」


そう言って藤枝は出馬投票の用紙を見せた。騎手の欄にはきちんと『岡西摩那舞』と記載されていた。記者達にとって藤枝の岡西起用は意外な事実だった。


「えっ? 岡西騎手って昨年関東リーディングだったあの騎手ですよねえ?」

「そうですけどそれが何か?」

「いや~、藤枝先生が岡西騎手と接点あったなんて初めて知ったので」

「先週言った通り騎手の確保はぬかりはありませんので」

「率直に聞きますけど岡西騎手とのコンビで三冠を狙ってるんですか?」

「もちろん狙えるものなら狙いたいものですよ。まあ競馬に絶対という言葉はありませんので。レースに対する意気込みについてはわたしより乗り役の摩那舞に聞いてみてはどうでしょうか? 他の厩舎の競走馬の追い切りを終わらせてそのへんにいるかもしれないので」

「あっ、はい。探してみます」


そう言って記者達は全員岡西を探しに美浦トレセン内を走り回った。しかし、当の本人は既に美浦トレセンを後にして、中山競馬場の調整ルームに向けて車を走らせていたため記者達に見つからずに済んだという。


──3日後──


 冬の寒さもだいぶ抜けて春の日差しをいっぱいに受けた中山競馬場。絶好のレース日和で弥生賞の日を迎えた。パドック内の観客はどちらかというと馬券目的よりも写真を撮りに来る人のほうが多かった。お目当てはもちろんギガクロスブレイクであった。出走馬が少数頭のこともあってか、専門誌の注目点はギガクロスブレイクが新パートナーに乗り替わってどのような競馬をしてどのように勝つかに焦点が絞られていた。馬柱表は以下の通り。


中山11R 弥生賞 G2 芝2000M 良 15:40~発走


1枠 1番 マークブリザード  牡3 56 武井匠 栗・石塚

2枠 2番 パフェキーロフ   牡3 56 勝田  美・松川

3枠 3番 トキアンブレラ   牡3 56 隅田  栗・作山

4枠 4番 アルマイヤゴールド 牡3 56 安城勝 栗・松木博

5枠 5番 フジコウアイランド 牡3 56 池越  栗・鶴野

6枠 6番 チェリーブラスター 牡3 56 蛇奈  美・小柴

6枠 7番 キルトスパシオン  牡3 56 木場田 美・市毛

7枠 8番 ギガクロスブレイク 牡3 56 岡西  美・藤枝和

7枠 9番 アスカボージャス  牡3 56 福沢  栗・田橋

8枠 10番 トリコロール    牡3 56 秋川  栗・池井寿

8枠 11番 リョウナンサンバ  牡3 56 柴畑善 美・下原


 こちらは中山競馬場の控え室。発走時刻が迫っているトライアルの重賞レースだが、本番に向けての試走ということで比較的どの陣営もリラックスしていた。しかし岡西はやや緊張気味だった。なぜならテレビ中継の競馬番組に岡路がゲスト出演していたことを知ったからである。


(岡路さんが観ている前でヘタな鞍上はできない……)


ギガクロスブレイクが単勝1.5倍という圧倒的人気を背負ってるためか、岡西は1人険しい表情をしていた。


「摩那舞、どうした? レース前からそんなに緊張してどうする?」

「あっ、先生。実は岡路さんが今日の競馬番組にゲストとして呼ばれてるというのを知ってヘタな騎乗はできないと思っていまして……」

「なるほどな。わたしはお前に岡路さんの替わりを求めているつもりはない。岡路さんは岡路さん、摩那舞は摩那舞だ。岡路さんも言ってただろ? 若い力が競馬会を引っ張っていかないといけないって」


藤枝は岡西の心理を見透かしたかのように諭した。


「そうですね。僕が西高東低を打破しないといけなかったんだ。そのためにギガクロスブレイクというパートナーを得たんだ」

「確か摩那舞は3週間後のドバイワールドカップにも出場するんだからトライアルで気負ってるようでは勝てるレースも勝てなくなるぞ」

「そうでしたね。このレースできっちり勝利を収めてこの先控えているG1戦線で1つ1つ勝てるようにしないと。それが岡路さんに対する最大の恩返しだと思いますので」

「そうだ、その意気だ。そろそろレースも近づいているので行って来い。道中は後方待機で3コーナーあたりから捲くりに入れば自然に勝てる」

「はい、では行って来ます」


藤枝に諭された岡西の表情に不安や迷いはすっかりなくなっていた。岡西は一目散にパドックのほうに向かって走っていった。藤枝はその光景を見てすでに栄光の三冠を頭の中に思い描いていた。


 パドック前にはすでに弥生賞に出走する騎手が並んでいた。岡西もその中に入って騎乗合図がかかるのを待っていた。


(やっぱりデキではどう見てもギガクロスブレイクが抜けてるな。少数頭だからそんなに時計はかからないはずだ。この重賞はもらったな……)


ギガクロスブレイクは420キロと3歳牡馬としては体はかなり小さいほうだが、筋肉のつくりもしっかりしていて、歩様もやわらかく踏み込みもしっかりしていた。毛ヅヤも極めて良好でギガクロスブレイクの青毛の馬体を春の日差しがより一層輝かせていた。


(これだけの仕上がりだ。俺が負けるわけがない)


岡西は既にこのレースの勝ちを確信していた。しばらくして騎乗合図の指示が出て騎手達はパドックに向かって一礼して各騎乗馬に小走りで向かって行った。岡西は草野厩務員に支えてもらってギガクロスブレイクに騎乗した。


「岡西君、しっかりたのむよ。怪我がないように」


東北訛りの口調が少し入ったしゃべりで岡西を応援する草野。彼は以前、岡西が岡路に連れられて藤枝厩舎に来たときに当番をしていた厩務員であった。草野は福島県出身で妻と子供2人の4人家族。G1馬を世話する厩務員になる夢を常に思い描いていて、ギガクロスブレイクと出会ってそのチャンスがめぐってきたと期待に胸を膨らませていた。


「ええ、僕もクラシック獲れる絶好のチャンスと思ってますので共に頑張りましょう」


岡西と草野が話しているうちに本馬場入場へと入り、入場行進曲『クロマティック・マーチ』の音楽に乗ってターフを走っていった。絶好の返し馬で今まで乗ってきた馬とは違うという感触を岡西は存分に肌で感じていた。


 その頃、競馬関係者の特別席で藤枝とオーナーの吉原照文がギガクロスブレイクの返し馬を見ていた。


「藤枝先生、あの馬なら三冠行けそうですね」

「三冠の夢を鞍上のヤツならかなえてくれると思いますよ。なにしろあの岡路さんが連れてきたんですから」

「正直言いますと岡路さんにはあと1年現役でいてもらいたかったです。別に岡西君の腕を悪く言ってるわけではないんですけどね」

「確かに今の摩那舞にはG1実績は少ないですが、今年か来年あたりは大きくブレイクするとわたしは睨んでいます」

「あっ、スターターが来ましたからそろそろレースですね」


吉原と藤枝が見た先にはスターターがちょうど台に向かっている最中だった。台が上がって白い旗を振ったのと同時に関東重賞のファンファーレが鳴った。


《実況アナ》


 中山競馬場本日のメインレース11R弥生賞芝2000メートル良馬場で行われます。次々と枠におさまって最後に11番のリョウナンサンバが入って体勢完了……。スタートしました! きれいに揃ったスタート! まずは先行争いから押してマークブリザードとアスカボージャス、リョウナンサンバがハナの奪い合い。各馬正面スタンドを通過、向こう正面に向かっていきます。先手を取ったのはアスカボージャス、半馬身ほどウチにマークブリザード、1馬身後ろ外にリョウナンサンバ、2馬身ほど後ろにパフェキーロフ、フジコウアイランド、トキアンブレラがほぼ並んで追走。その1馬身後ろにアルマイヤゴールド、それに続いてキルトパシオン、1馬身後ろお終いから3頭目にトリコロールその半馬身後ろにチェリーブラスター、そして最後方1馬身半ほど離れて8番のギガクロスブレイク。新パートナーの岡西の手はどこで動くのか? 中間を61秒で通過、ほぼ平均ペース。このあたりから各馬ペースを上げていきます。ここで先頭はマークブリザードに替わった。アスカボージャスは一杯か? 残り600を切った! 2番手にリョウナンサンバ、アルマイヤゴールドもウチから上がってきた、大外からスーっとギガクロスブレイクも持ったまま上がってきた。残り400を切った! 先頭はマークブリザード! リードを1馬身に広げた! 外からアルマイヤゴールド迫ってきた! 大外からやってきたギガクロスブレイク一気にやってきた! 残り200を通過! マークブリザード先頭! ギガクロスブレイク迫る! アルマイヤゴールドも連れて突っ込んできた! ギガクロスブレイク! マークブリザード! 2頭の叩きあい! ギガクロスブレイク! マークブリザード! ギガクロスブレイク差し切ったゴールイン! ギガクロスブレイク、皐月賞が見えてきました!


 岡西はゴール前でムチも入れずにキッチリと差し切り勝ちを決めたギガクロスブレイクの頭を軽くポンと叩いてねぎらった。特別席で観戦していた藤枝&吉原もガッチリと握手をして、次走の皐月賞に向けて絶好の手ごたえを感じていた。

《モデル騎手紹介》


北町宏之→北村宏司(騎手)

武井幸治→武幸四郎(騎手)

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