第四章 峠を越えて1
峠道の始まりを示す上り坂は、盗賊の襲撃のあった地点から昼まで歩き、昼食を終えて再出発したあと、しばらく進んだところにあった。
川沿いに平行するように広がっていたハレニの森はここで途切れ、北には平原が姿を現した。
「そういえば、セセルが旅をしている本当の目的をまだ聞いていなかったね。」
単調な牧草地帯と轍、それに加わる青空の風景に飽きてきた。
パデットのあくびは不慣れな長距離の移動のおかげで、彼の失われつつある謙虚さを代弁していた。
「鉱石の研究といったところかな。 ランゴルロムの収集はその一環に過ぎない。 もっとも、ランゴルロムの研究をしないわけではないが。」
「そうなんだ。 僕には難しくてよくわからないや。 シージェは?」
「やめておけ。 お調子者のお嬢様は馬車の中で休んでいる。」
「人聞きの悪い冗談はよしてくれる?」
シージェは白い布をめくって顏をのぞかせると、軽快な足取りで荷台から飛び降りた。
その衝撃でスカートがめくれそうになる様子を見るつもりなどなかったパデットには、思わぬ事態だっただけに、そらした顏がいかにもシージェに寄せていた好意を隠すかのような仕草になってしまった。
「ここからは上り坂だから、馬車から降りて馬の消耗を防がないと。」
彼はシージェがどのように自分の行動を解釈したのか、不安を抑え切れる自信はなかった。
こっそりと彼女のいる方へと目を向けると、意外にも取り乱した様子はなく、いつもの表情で峠の下に広がっている平原を見つめている。
「もうずいぶんと上った後のようだが? その証拠に見ろ。 アンシャーブルの入り口に通じる橋がある。」
「私、そういう細かい男って嫌いなのよね。」
丸太を蹄で踏む男が響く中、平に戻った傾斜の馬車のふちへシージェが腰かけると同時に、その眼差しは異様な形でパデットへと向けられた。
「パデットは、私のことが知りたいんだ?」
「え? そ、そうだよ。 何のために旅をしてるのかを…ね。」
彼が質問の答えを返す間にも、彼女の口からは、ふーんとか、そうなの、とかいう意味深な相槌がぎこちないリズムで発せられた。
明らかに微笑の一線を越えたオーラのようなものを彼女の瞳は宿している。
「世界一の術師になる、なんて言ったら信じてもらえる?」
彼女の言うことを信じないよりも、頭をよぎったのはなぜそんな遠大な目標を立てたのかということだった。
「取り込み中失礼しますが、アンシャーブルに到着ですよ、お二人とも。」
馬上から振り返るファロルのほほ肉が重々しく揺れ動き、額にかいている汗が地面へと滴り落ちている。
周囲には轍の左右を村の集落が埋め尽くすようにところ狭しと並んでいて、せっかくの峠の頂上の景色がほとんど見えなかった。
「パンデルクスとは全然違うな。」
「どんなふうにだ?」
「こんなにきれいに整列して家は建ってないってこと。 それに誰もいない…。」
「なるほど。 峠の限られた空間を有効に活用し、さらによそ者の侵入を素早く察知できる。 パンデルクスとは違い、ここは交通の要。 実に合理的だ。 ここを治める者はなかなか賢いようだな。」
セセルは矢を弓に引っ掛けようと背中に手を伸ばしかけた。
「そこまでだ。」
殺気を感じるのが遅かった。
彼らの後悔とともに一本の短刀がセセルの足元に突き刺さった。
「ずいぶんと手荒な挨拶だとは思うが、この村ではこんなことがよく起こるのか?」
彼と対峙しているのは、髪を乱雑に一本に束ねた皮鎧の若い女だった。
わざとそうしているのかと考えてしまうほどの好戦的という言葉が似合う雰囲気を、女の背後に陣取る男たちが助長させていた。
「アンシャーブルの村の娘か? 我々はロムドールに行くためにここを通るだけなのだが。」
「村の娘? 見くびられたものだな。 私こそ、正真正銘の―」
「ミディン、やめるのだ!」
「叔父上、しかしっ!」
「この者らは奴らではない。 お前の気持ちを察してやれぬほど、私は浅はかであるのか? 答えよ。」
「ち…違います。」
「やつら? もしかして、我々が倒した盗賊のことか?」
図星だったらしく、彼女の目はなにかを悟ったように一瞬大きく見開かれた。
「なんと、そうであったのか…。」
気恥ずかしさを隠すためなのか、ミディンはセセルからはそっぽを向き、口をとがらせている。
「無礼をしてしまったようだ。 旅の者よ。 私は彼女の叔父であり、この村の長、イムゼンだ。」
白い丈長の衣を羽織っていながらも、彼は素早くミディンをセセルのもとへ近づけた。
つばのない毛皮の帽子には、野鳥の茶色い羽が一つ差し込んであった。
「私はセセル、術師のシージェ、そして新米のパデット。 ロムドールへ行きたいのだが、通してもらえないか?」
「いやいや、それどころか、泊まっていってほしいくらいだ。」
話の流れからして、先程道で出くわした盗賊は、おそらくアンシャーブルを経由していたのだろう。
いや、それ以前にもこの村で悪行を繰り返していたのかも知れない。
パデットの目の前にいるこの娘には、ならず者に対する憎しみが感じられた。
「本当にすまない。 私も賊に村を荒らされ、気が立っていたようだ。」
「「その割には上出来だ。」
深々と頭を下げる自分にかけられた言葉に対するミディンの反応は、雨上がりの空そのものだった。
厳格な口調の目立つイムゼンに付き従う彼女は、あまりほめられたことがない。
哀れな事情を想像するセセルの手はミディンの肩という居場所をなくし、宙に浮いたままになった。
「君には軍の指揮官としての才能があるようだ。 だが、私としては村を守る方が君には向いていると思うよ。 ミディン隊長。」
「聡いやつだな。 だが、情けや肩書など不要だ。 私はこの村を守る。 それが故郷の同胞のためになる。 お前の顔、覚えておくぞ。」