第三章 商人の馬車1
目が醒めるとそこには見慣れない天井があった。
突き出た梁から視線を移すと、滝の流れの見える窓から日が射している。
「そっか。 ここは村じゃないんだな。」
「どんなところなんだ? 君の村は。」
全身にぎくしゃくとした痛みが走るのをこらえるのは、もうずいぶんと前の話で、記憶のはるか先っぽにあるくらいだった。
「とてものどかなところ…かな。 昼寝が出来るんだよ。 草の上でね。」
「それはいい。 ぜひ行ってみたい。 だがそれは君の父を見つけてからだ。 そのためにも、今日泊まる宿を探しておかないと。」
「もう決めるの?」
彼は半分寝ぼけた体で大きく伸びをした。
「何かあってからでは困る。 ああいう人間と旅をする以上、なおさら気を配る必要を、君も感じるだろう?」
『ああいう人間』とは、まぎれもなく、昨日宿で出会った少女しかいない。
まだ名前も知らない若い女性が騒々しい寝息を立てる様には、非常識の一言に過ぎるという言葉がふさわしかった。
「起きるんだ。 名はわからないが。」
セセルの声に反応して寝返りを打つ彼女は、口をもごもごさせながら夢にうなされている。
「は…ぇ…。シージェ!」
「なるほど…。 どうやら私に起こされている夢らしい。」
「絶対に内緒にした方がいいね。 僕は見なかったことにするよ。」
ひどく投げやりな自己紹介が、いかに恥多いものだったのかを知れば、今度こそ宿が吹き飛びかねないと二人は悟った。
「ん。 朝? 誰?」
「そういえば私も…。 いや、まだ互いに名乗ってなかったな。 セセルだ。 ついでにこれは昨日も言ったが、年上のセセルだ。 わかりにくかったかな?」
「あー。 確かに! 会った会った! 年上のセセルと年下のパデット。 そして私がシージェ!」
息のあったコンビを組んだ。
テンポのよい言い回しからして、彼女からはそう思われていたようだった。
うまく寝言の一件を丸め込んだセセルのほうは、でかかった冷や汗を呆れた様子で拭っている。
「とにかくさ、何か食べない? お腹すいちゃったよ。」
丸め込むよりも大変なのは、尻拭いだとパデットはこの時新たな教訓を得た気がした。
クランブルーの宿に別れを告げ、滝をしばらく眺めた後、三人は旅を再開した。
行先はロムドールだが、まだはるかに西にあったため、中継地としてアンシャーブル村に立ち寄ることになった。
「結局、隣町に行くことになちゃったな。」
「宿もなしにいきなりアンシャーブルに行くつもりだったのか?」
幸運なことに、今は彼の支えとなってくれる仲間がいる。
驚嘆の色を隠しきれないセセルはとりわけ、命の恩人と言ってもよかった。
「アンシャーブルってことは、峠を登る必要があるわね。」
「そうみたいだね。 峠の頂上にある村か。 早く見てみたいな。」
パデットが開いた本を目にした途端、シージェは飛びつくようにそれを彼からひったくった。
「すっごーい! なにこれ! どこで手に入れたの?」
「返してよ! オルセンからもらったんだから。」
「オルセン? 君の村の者か?」
「父の代わりに僕の面倒を見てくれた、とても大切な人なんだ。 昔は旅をしていたみたいで、その記録がこの本に詰まっているんだ。」
本は、パデットの安否を気遣いゆだねられた。
セセルはそれに気が付くと、今度はシージェから本を奪い取った。
「ちょっと、何するのよ! まだ読んでるのに…。」
「君は素人じゃないんだろ?」
「うっ…。」
口のうまさを恨めしそうに感じながら、シージェは先頭に立った。
「いいわ。そこまで言われたからには気がおさまらないもの。 私が案内してあげる。」
「ただ先頭を歩くだけかな?」
「き、危険から守ってあげるって言ってるの! たとえば、あそこから歩いてくる馬車。 おそらくは商人ね。 今からあの商人から武器を調達―」
「待て…。 様子が変だぞ?」
前方から近づいてくる馬車は、確かに商人とおぼしき中年の男が手綱を引いているが、なんだか顏がこわばっているように見える。
「あの男、緊張しているな。 それによそ見を一切しない。 いくら見通しが良いとはいえ、商品を守る護衛もなしか。 おかしい…。 今すぐクランブルーに引き返すぞ。」
「何よ取り仕切って。 ここは私―」
「おい!」
言葉を遮られたのは二度目だったが、シージェからの反論はなかった。
人のよさそうな小太りの商人にしては、明らかに乱暴な声だった。
しかもよく考えると、声がしたのは馬車の中からだったことにパデットは気が付いた。
「旅人だな?}
馬車の中から出てきたのは、強面の中年男だった。
何も言わずとも、この男の存在のなんたるかを理解するのに時間はかからなかった。
「何の用だ? 我々は急いでいるんだが。」
意外にも一目散にきびすを返したセセルが、固まったままのシージェを差し置き、男へと歩み寄った。
「この俺を見て何とも思わないとはな。」
手から手へ、短刀を持ちかえながら不敵に笑う様子で、少年の心は恐怖という名の呪縛にとらわれた。
冷静なのはセセルだけだ。
「たかが盗賊ごとき、気に掛ける必要はない。 用がないなら通らせてもらう。」
「お助けを!」
前へ一歩踏み込んだ体勢のまま、セセルが止まった。