第二章 クランブルーの宿1
川沿いを歩けば道に迷うことはない。
セセルの提案で、パデットはアルウィンの流れのすぐそばを、ひたすら西に向かって歩いていた。
歩くにつれ、川の景色は少しずつ変わっていく。
大きな岩が小さくなっていき、荒々しい水しぶきは穏やかになるかわりに川の幅が広がっていった。
ロムドールは、この川の流れが海へと注いだところにある港町のようだった。
セセルという男は思った以上に世話好きで、パデットが何もたずねていないのに、川は海へと向かって流れていくから、方向を確認する手段となるとか、商人だけで旅をする時は剣を持つか、腕に自信がないときは早馬を用意すべきなどと助言をしばしば聞いた。
もちろんこの先には滝があり、そのそばにクランブルーというお気に入りの宿が建っていることは、開口一番に耳にした。
「なんだか冷えてきてるみたいだ。 体が冷たい。」
小石ばかりの悪路のせいで、すっかり張ったふくらばぎをさするパデットの眼前には、沈みかけた太陽の光が水辺に反射していた。
「この素晴らしい景色を前に寒いだなんて、ロマンがないな、君は。 だが、今は…。」
「セセルは平気なの?」
馬の上に積んである荷物から、万が一の備えのつもりで持ってきた皮のベストを外套の下に着込んでいる彼をしり目に、セセルの歩みは早くなっていく。
「今日は一日助言だらけでうんざりしているだろうが、よく聞いて欲しい。 夜はおもいの他寒い。 寒きなる前に家に入ってしまう村人は、ほとんどそういうことを知らないものだよ。 だから今はベストを着こむ前に早く宿にたどりつかないと。」
「僕の故郷は昼は寝そべっていられるほどなのに。」
「いいから急ごう。 この辺りは凶暴な熊が出る。 今日はたいまつを持っていないし、矢も君と会う前にずいぶんと使ってしまったからね。」
視界の悪い中、そんなものに襲われたらひとたまりもないだろう。
昔、村の狩り人が熊をしとめたことがあったが、八人の男たちが囲んでようやく倒した話を、彼は絶望的なタイミングで思い出してしまった。
セセルの方もパデットと会うなどと思っていなかっただろうから、言うなればこれは、不足の事態になりかけているのだろう。
「そんな顔はしなくていい。 私とて覚悟の上で君と付き合っているんだ。 そういう意味でも、君はまだまだ旅に危険は付き物という格言を学んだほうがいい。」
罪悪感に打ちひしがれるパデットの手を引いて走り出す彼の顔は、薄暗くなっている視界のなかでもはっきりと笑っているとわかった。
間違いなく、これからも自分は彼の世話になるだろう。
そんな考えがパデットの中で確信へと変わった瞬間だった。
二人が走り出してしばらくすると、轟々と滝の滴り落ちる音が大きくなってきた。
今はもう見えないが、すぐ近くに滝があるのだろう。
「もうすぐだ。 あそこに灯りが見えるだろう? あれがクランブルーだ。 宿主の男はたいそうな大柄で無口だが、斧を使わせたら右に出るものはいない。 熊よりも危険だ。」
そもそもそういう者でなければ、こんな自然に囲まれた境地に宿など建てないだろう。
なんらの期待もするべきでないことは、行く前に明らかになりつつあった。
灯りに近づくにつれ、滝の音は大きくなり、水しぶきがかすかに体に当たってくるようになった。
周囲もはっきりと見えるようになり、丸太を重ねて作られた建物が姿を現した。
「今は夜でわからないが、晴れた日には絶景が広がる。 商人たちはここへは滅多に来ないし、静かな環境を独り占めするにはもってこいの場所だ。」
得意になって説明するセセルは早々と中へ入っていったが、パデットにとってはなんだか不気味な場所に見えた。
暗いせいでどす黒く見える水が、滝の崖から大きな口を開けて待ち構えている。
そんな光景が浮かんでくるようだった。
「どうした。 入らないのか?」
「今いくよ。」
嫌な記憶にふたをするきっかけを作ってくれたことに、彼は元気よく反応した。
宿の中に入ると、滝の音は小さくなり、常に雨が降っている幻聴を感じずにはいられなかった。
セセルにとっては逆にそれが心地よいようで、少しの間窓の外を眺める後ろ姿は、じっとして動くことはなかった。
「二人か?」
突如としてかけられたどんよりとした声に、パデットは全身鳥肌が立つのを感じた。
ぬっとした大きな影を伴い、縦皺の刻まれた頬が印象的な中年男が、上からパデットを見下ろしていた。
「珍客を連れてきた。 まだ旅に出たばかりの新米でね。」
「安くする。」
「さすが気前がいいな。 じゃあ今回はこれで二人分だ。」
セセルが自分の懐からカウンターの上に置いたのは、青白い色をした光る小石だった。
無口の割には、宿主の男は喜怒哀楽の表情が豊かで、小石を見るや目を見開いて満足げに歯をちらつかせた。
「この石はなんなの?」
「これはランゴルロム。 魔力を秘めたとても貴重なものだ。 とはいっても主人が魔術使いではない。」
一体この石の使い道がなんなのか、彼にはさっぱりわからなかったことを察してか、セセルはちょっとだけ優越感に浸った。
「ここを訪れる客は少ない。 宿で食っていくためには金がいる。 そこでこいつの出番というわけだ。 貴重なランゴルロムは魔術師の魔力の源。 ここに来れば必ず手に入るとわかっていれば一から探すよりはるかに手間が省ける。」
「来ない理由はないね。 魔術師の足元もみてたくさん金もふんだくれる。」
至れりつくせりの夢がかなう。
パデットの皮肉に宿主は今にも吹き出しそうだった。
「セセルはそれを探すために旅を?」
宿主に二階の個室へと通されると、ドアの内側から木のにおいが鼻をついた。
「いや、違うな。 小石集めは宿代を稼ぐためにやっているだけだ。 君にも話をしようと思っていたところだが…。」
なかなか答えを言わない彼の鋭い視線の先には、閉めたばかりのドア。
パデットも何事かと思いドアを見つめるが、特に変わったところはない。
一方で、彼の目つきはどんどん細くなっていき、やがて完全に閉じてしまった。
「あきらめの悪いやつだ。 話が止まった時点で、私なら逃げ出すが。」
「誰かいるの? もしかして盗賊?」
「いや、無法者じゃない。 単なる無礼者だ。」
混乱に拍車をかけるセセルの言葉にむしゃくしゃしてきたパデットは、ドアにそっと近づいて、勢いよく開けた。