01
目の前にいる白衣を着た男が、晶紀の神楽鈴の鈴を一粒、つまんで見せていた。
ここは真光学園。
化実験室の前だった。
晶紀は制服の上に着けているホルスターから、神楽鈴を抜いた。
抜いた神楽鈴を正面に突き出すと、両手を開くようにして伸ばす。
すると、神楽鈴の先に光る剣が出てくる。晶紀は根元が神楽鈴になっている剣を、両手で持って刀のように構える。
一瞬、切っ先が止まったかと思ったが、躊躇なく振りかぶられ、正面に立っていた白衣の男を切りつけた。
「おっと…… 天摩くん。どういうつもりかな?」
「綾先生、その鈴を返してください」
切っ先の延長線上に、綾先生のあごがある。
「言葉とやってることがバラバラだね。その剣をしまってくれたら、話し合いに応じてもいいんだけど…… それと、ここじゃなんだから、化学実験室でどうかな?」
「その鈴は私のものです」
綾先生は左手を真っすぐ伸ばして、化学実験室の扉の方を指す。
「だとしても、こんな状況を他の教師に見られたら、そのホルスターや神楽鈴を携帯する許可は取り消されてしまうよ」
「……」
晶紀はしっかりと神楽鈴を構えたまま、顎で化学実験室の方を示した。
綾先生が、鍵を開けて扉を開けると、奥へと入っていく。
晶紀はじっと周囲の様子を見ながら、慎重に実験室に足を踏み入れる。
「ほら、扉閉めないと、廊下にいるのと変わらないぞ」
綾先生が言うと、晶紀は後ろ手に扉を閉めた。
「あのさ」
綾先生は、真っ黒い実験テーブルに腰かけ、右手の鈴を晶紀に見えるように突き出して見せた。
「切りつけてくるのは勝手だけど、こっちはこの鈴をつぶすことができるんだぜ。鈴が潰れたら…… こまるだろう?」
「潰れるもんか」
「男の握力を馬鹿にしてる?」
表情をゆがめ、人差し指と親指に力を入れるように見せる。
「なんてね」
人差し指と親指をずらす様に動かして、綾先生は鈴の形がよくわかるように見せた。
「完全な球形なら潰すのに相当な力が必要だけど、鈴はこんなふうに切れ目が入っているからね。やろうと思えばいとも簡単に潰してしまえるんだよ」
「……」
晶紀は光る剣を構えたままだった。
「ほら、なにしてるの。早くその剣を捨てなよ」
「綾先生、あなたは一体……」
「潰すって言ってるだろう? この指の力を信じられないなら、じゃあ、こうだ。ここに置いて、靴で踏むことにするよ。ほら」
綾先生は机から離れて、床にしゃがんだ。
指でつまんでいた鈴を、転がらないようそっと床に置いた。
晶紀はひらめいたように声を上げた。
「三倉戻れっ!」
その言葉に反応して、鈴が跳ねるように飛び、晶紀の手に戻ってくる。
綾先生の足が、何もない床を何度も踏みつけた。
「くそっ。やっぱり指で潰してやればよかった」
晶紀は鈴を神楽鈴に戻した。
「悪いけど、今のことで、すごい腹がたったんだ。このまま無事で返すわけにはいかないよ」
綾先生は、左手の人差し指と中指だけを伸ばして、口元にもっていくと、ぶつぶつと何かをつぶやいた。
左手を前方に振り出すと、それぞれ実験テーブルの端についている、流しの蛇口が開いて、一斉に水が流れ始めた。
今度は右手の人差し指と中指を伸ばし、口元に持っていき、また何かをつぶやき始めた。
晶紀は背を向けて扉に走った。しかし、扉は何者かが押さえているかのように重く、開かなかった。今度は神楽鈴をホルスターに戻し、両手で引っ張るが、扉はビクともしない。
「だからっ! このまま返すわけないだろっ」
綾先生の右手が、口元から前に伸びた。
すると、すべての蛇口の水が『空間で曲げられ』晶紀に向かって流れ始めた。
「うわっ!」
晶紀は思わず目を閉じてしまう。
おかしい。晶紀は思う。当たった水は、弾けて床に落ちるはずだった。晶紀は目を開けると、水は晶紀の周りを漂い包み込んでいた。
思わず、息をしようとして水を飲んでしまう。
「ぐはっ」
手で必死に水をかくが、まるで体に向かって落ちてくるように水が戻ってくる。水は実験テーブルの流しからどんどん流れ込んできて分厚く晶紀を覆っていく。
息が出来ない。晶紀は右手の人差し指と中指を伸ばして、口元に持っていく。そして、手を払うように振ると、一部の水が回転を始めて、晶紀の口の前に空間を作った。そこで小さく口を開き、ようやく、晶紀は息をすることが出来た。
「ふん」
綾先生がそう言って、手を下ろすと、水に掛かっていた術が消えて、床に水が流れ落ちた。
再び綾先生が人差し指と中指を水平に伸ばし、右手と左手を同時に口の前につけた。
左手が上、右手が下。
手を左右に開くように広げると、そのまま前に指を突き出した。
「化学の実験を始めよう」
戸棚の鍵が勝手に開き、ビンが晶紀の近くに飛んでくる。
過酸化水素水と…… 過酸化水素? なんだっけ。何の実験? 小学校でやった記憶がある。晶紀は必死に思いだそうとする。
「さ、酸素!」
「もう少し高度な奴さ」
バーナーに火が付いて、蓋が開いた過酸化水素水の瓶を加熱する。
次から次に瓶とバーナーが飛んできて、同じように熱せられていく。
「水の沸点は100度。過酸化水素水は140度。さあどうなる? 次第に同度が高くなるぞ」
晶紀に答えは分からなかったが、危険だという直感から実験室から逃げようと扉に手を掛けた。
「間に合わないさ」
「!」
ビクともしない扉が、晶紀が手を掛けていないにも関わらず開いた。
そこには綾先生と同じような白衣を着た男が立っていた。
男がいきなり晶紀の腕をつかんで扉の外に引っ張りだし、入れ替わるように男は実験室に入った。そのまま男は、扉を閉めた。
「誰? 何するの?」
晶紀が閉まった扉にそう言った瞬間、実験室が光るのを感じ、とっさに頭を下げた。
ドン…… いやもっと大きく、長く、複雑な音だった。光と爆発音。
晶紀は気が付いた時には、実験室の扉と一緒に廊下の反対の壁に飛ばされていた。
扉のガラスは粉々に吹き飛んでいる。
晶紀は実験室の扉の枠を押さえるように手を広げて立っている白衣の男を見上げた。
白衣の男は、晶紀が受けた以上に強烈な爆風を、その背中に受けたに違いなかった。
ぼんやりと見える白衣の人物の姿。
丸メガネ…… まさか……
晶紀はそこで気を失った。