リリーシャ-黒翼の天使-
-ざっくりとしたあらすじ-
人間と魔族が争う世界。
「神」の遣いとして時折人間から「天使」と呼ばれる存在が生まれ、それらは神の奇跡である神術を使えた。
天使として生を受けたリリーシャだったが、通常白いはずの翼は生まれながらに黒く、魔族を彷彿とさせる色として忌み嫌われていた。
それでも天使として戦場に立ち戦果を誰よりも上げていたが、ある日裏切り者のレッテルを貼られてすべてを失ってしまう。
人殺しの償いとして経営していた孤児院は燃やされ、神や戦友達に瀕死の重傷を負わされながらも逃げ延びた先で、リリーシャは魔族の敵将である異端の鴉、レイヴンに命を助けられた。
蝶がひらひらと舞い、子供達の笑い声が響く。
平和だな。
その様子を見ることなしに見ながら、リリーシャはぼんやりとそう思った。
あれから、辺境の魔族の村に連れてこられたリリーシャは日がななにもせずにぼんやりと過ごしていた。ここには戦禍の音もなく誰もが笑って暮らしていた。
目覚めれば聞こえていた剣戟の音も、兵の怒号も聞こえない。ただただ穏やかな時間が流れる村。なにもせずただぼんやりと過ごすリリーシャを怒鳴るものもおらず、ひっそりと在るリリーシャには誰も関心を寄せてはいなかった。
ここに来て何日が経ったのかはわからない。ただ一日に何回か訪れる老人がやれ食事だ毛布だとなにくれとリリーシャの世話をやいていた。
それがなければおそらく空腹も寒さも感じないリリーシャは衰弱していただろう。あの日以来レイヴンが訪れることもなく、リリーシャは世話をしにくる老人が来るまではずっと独りだった。
とりとめもなく思考が流れていく。しかしそんな思考するということすら久しぶりだという事に気がついて、リリーシャはふっと苦笑した。
「リリーシャ殿。食事の時間ですぞ」
不意に頭上から影が落ちる。老人のその言葉にリリーシャはゆっくりと視線を上げた。
気配に気がつかなかった。それは前までのリリーシャにはあり得ないことだったが、今はどうでもいい。ふわりと香るシチューのいい匂いが久しぶりにリリーシャに空腹を感じさせた。
「御老人」
何日振りかに出した声はひび割れてひどく嗄れていた。それでもこれまで無反応だったリリーシャが自ら話しかけたのだ。老人がひどく驚いた顔でリリーシャを見下ろしていた。
「……気を、取り戻されましたか?」
「ええ」
どうぞ、とシチューを差し出される。それに謝辞を述べて受け取ると、老人がリリーシャの前に腰掛けた。
「お手間をおかけしました」
シチューを啜った後にポツリとそう呟く。すると老人がゆっくりと首を振った。
「いいえ。貴女が元に戻られて何よりです。それに……レイヴン様の御意志ですから」
「そのレイヴンは、どこに?」
改めて気配を探ってみても、レイヴンの魔力は感じない。あれ程までに強大で異質な魔力である。この程度の村ならいればすぐにわかるはずだった。
「レイヴン様はお忙しい方ですので、ここには。……遅ればせながら私はラインハルトと申します。レイヴン様より、貴女のお世話を任されております。それと、一応この村の長を務めさせていただいております」
略式の礼。ラインハルトの白髪がふわりと揺れた。髪の間から小さな角が覗く。比較的人間に近い見た目だったが彼もやはり魔族らしい。返礼を返す。
「リリーシャです。この度はご迷惑をおかけして申し訳ありません。今はもう帰る場所も行く場所もない流れ者。この程度の御返礼しかお渡しできませんが」
リリーシャは腕に巻いていた細い鎖を外した。キラキラとところどころ輝く石は魔晶石のかけらである。魔石よりさらに純度の高い魔力の込められた最高級品だった。
「いえ、このようなものを受け取るわけには。……貴女の持ち物はそこに。服は大分損傷しておりましたが一応取っておいてあります。お気になさらず、今は自身の怪我を治されよ」
一度目を大きく見開いたラインハルトは、リリーシャの手にブレスレットを握らせて返した。
「しかし……」
こつりと、飲み終わったシチューの皿にスプーンを戻す。手渡された包みには確かに薄汚れたリリーシャの持ち物が入っていた。血に汚れ神術で焼かれた服はボロボロで、よくもまあ生き残っていたものだとリリーシャは苦笑した。
「これはもう、流石に着れませんから……。服代と食事代だけでも」
今身に纏っている服は上質なものではないが恐らく新品のシャツである。寂れた辺境の村ではそこそこに値がはるのではないだろうか。そう思ってボロボロに燃えた服の裏に縫い付けてあった銀貨を弾く。
「いらんよ」
しかしラインハルトは首を振ってそれを拒否した。
「必要なものは全てレイヴン様がご用意なされた。ただ……っ!?」
ラインハルトが言葉を切る。
「どこへ往かれるのですか?」
ラインハルトがそう言ったのは、リリーシャがふらりと立ち上がったからだった。慌ててリリーシャを支えようとするラインハルトを押しとどめ、リリーシャは包みを持ってゆっくりと瞬きをした。
「これ以上あなたがたにご迷惑をおかけするわけにはいきません。逝く道を探しに参ろうかと」
心身ともに疲弊していたせいか、頭がふらつき身体が重い。それでも立てかけてあった槍を支えに歩き出すと、ラインハルトがリリーシャの前に立ちはだかった。
「冬になるのだ。そんな装備では行けない。私は貴女を死なせるために助けたわけでは無いのです。感謝の意を示すなら、せめてその傷を治し装備を整えてから出て行きなさい」
その思ったよりも強い言葉にリリーシャは瞬いた。
「でも」
リリーシャがここにいるのは迷惑にしかならないだろう。
黒翼の天使は簡単には死なない。死ねない。いずれ追っ手がかかるのは明白だった。否、ぼんやりと過ごしていたこの間にももう、リリーシャ探しは行われているのかもしれなかった。
「わたしは天使です。それも黒翼と呼ばれる異端の存在。この身は神に結ばれていて、いずれ追っ手がかかりましょう。この村に、御老人に、ご迷惑がかかります」
リリーシャは聖都を追われた天使だ。天使は魔族には受け入れられない。リリーシャの居場所はもはやどこにもなかった。
「どうせこの身は簡単には朽ちません。水すらも与えられずに責め苦を受けようと、手足を捥がれ、翼を折られようと生き続けるおぞましい生き物です」
天使を殺したければ、首を刎ねて全ての翼を根本から切りおとせというのが通例だ。
「わたしは天使たる資格を失い、聖都も追われて」
「今は魔族の捕虜だ。俺に断りもなくどこへ行くつもりだ? 黒翼の天使」
不意に背後から聞こえた男の声に、リリーシャは反射的に槍を突き出した。
「ずいぶんな挨拶じゃないか? なぁリリーシャ」
「レイ……ヴン」
突き出した槍は素手で止められ、逆に槍を引かれて小柄な体がたたらを踏んだ。
「戦場の死神が聞いて呆れる。そんな弱り切った体で何ができるという。生まれたてのスライムの子供にすら勝てんだろうよ」
明らかに嘲笑を浮かべたレイヴンに、リリーシャはなにも言い返すことができなかった。
確かに、立つのもやっとの状態の今のリリーシャを殺すことなどレイヴンにかかれば赤子の手を捻るよりもたやすいだろう。
何より、すべてを失ったリリーシャには生きる気力がなかった。
神術の発動には精神が大きく作用する。たとえ体調が万全だったとしても、今のリリーシャにはレイヴンから逃げることすらできないだろう。
「……確かに。わたしはあなたに助けられた身です」
リリーシャは老人に視線を向け、それからレイヴンをみた。何も考えたくなかった。
「レイヴン、助けていただいてありがとうございます。わたしは、何をお返ししたらいいでしょうか」
リリーシャにあるのはこの身一つだけである。貴金属の類は多少持っているが、そんなものレイヴンから見たらとるに足らないほどの量だ。
「見せしめに殺しますか? わたしは拷問されて殺されても、文句は言えないことをしてきました。覚悟はできています」
なまじ頑丈な体の作りをしているだけに、拷問は長く凄惨な責め苦を負わされることになる。だがそうされても仕方ないほど、リリーシャは命令によって魔族を殺してきた。
「それとも、人間側にこの身を引き渡しますか? 血眼になって探しているはずです。おそらくそれなりの土地やお金が支払われますよ」
聖下以下神族達は、異常なほどリリーシャに執着していた。下手すれば一時的な休戦にすら持ち込めるだろう。
「わたしにはもう、何もありません。だからどうなっても構いません。わたしが生きる意味は失われました」
精一杯微笑んだつもりで、くしゃりと顔が崩れた。知らずポロポロと涙が溢れる。レイヴンが握ったままの槍をキツく握りしめた。
「結局お前はそうやって、なに一つとして自分で考えてこなかったんだろう! 言われるがままに殺し、殺し、殺して、次は自分も殺すのか!? 泣くほど辛くて苦しくて、それでも何故、お前は助けを求めない!!」
最後は叫ぶような声だった。強引に槍を奪われて突き飛ばされる。踏ん張る力など無くて倒れ込むリリーシャを、素早く回り込んだラインハルトが受け止めた。
「レイヴン様。彼女は怪我人でございます。あまりご無体な真似は」
「黙れ!」
レイヴンはラインハルトを怒鳴りつけると、リリーシャの胸ぐらを掴み上げて強引に引きずり上げた。
「何故諦める! 何故生きようとしない! 俺は! 俺は、そんなことのためにお前を助けたんじゃない!!」
「では」
リリーシャは、顔をクシャクシャにして叫ぶレイヴンの顔にそっと手を添えた。
「では、どうぞお好きに使ってください。レイヴンにいただいた命ですから。生きろというのなら、あなたのために使います」
山の彼方の空遠く、そこには神のまします天上の地があるという。神殿の荘厳なるは正に神の住処。神殿は濃密な神気に満たされ、至る所が光り輝いているという。
神殿の内部には神に仕える天使ですら無為に立ち入ることは禁じられ、その御殿で真に神にお仕えできるのはほんの一握りの上位天使だけだという。
当然に力のない人間は天上の地へ赴くことはできないが、それでも時折下界に降りる神の神々しいお姿に涙し地べたで彼らに祈っていた。
天上の神は人の住む地に力を与え、実りを与え、清らかな風を流した。その恩恵に仇なせば、そこは不毛の地となり魔物が跋扈する呪われた土地となる。
人々は神に教えられたように神に祈り、ときに神託を請い、そして豊かな地を形成していった。
しかしそんな神に歯向かうモノが有る。それは魔王が率いる魔族の軍団。彼らは呪われた地に住み、人よりもはるかに強い力を持ち精霊と暮らしながらマナを操って生活していた。
時にその圧倒的な暴力を使って人に害なす彼らに人々は怯えて暮らし、彼らは気まぐれに人里を送っては物資を略奪していった。
困った人々は神に願った。脆弱な人の身でも彼らに立ち向かうことのできるちからを、と。
神はそれに応えた。神は魔族への対抗策として天使を遣わされ給うた。天使は魔族と対等に戦う力をもち、また人々に祈りの力の真なる意味と力を授けた。
かくして力無き民は圧倒的に力に抗う術を手に入れた。その力によってもたらされる弊害を知らずに。