第四話 十一年前の事件 操る妖
一階は大きな地震があったときに危ないからとか、空き巣に入られやすいからとか。角部屋のほうが隣人トラブルに巻き込まれにくいとか。
そういった母親の言葉が頭に残っているらしく、澤田は今でもなんとなく、二階建てアパートの二階の角部屋を選んで住んでいる。
1LDKの部屋には、冷蔵庫や洗濯機、テレビなどの必要最低限の家電に、テーブルとベッドがあるだけだった。殺風景なのは綺麗好きだからというわけではなく、普段の生活に部屋が汚くなるほどの余裕がないからだ。
「あーあ、どうするかな」
めずらしく夜の六時にアパートに帰り、適当につけたテレビをぼんやり眺めながら、澤田はぼやいた。
調べ直すならやはり、事故とされている一件が起きた場所に行くべきだろうか。十年以上が経った今も、何か残っていたりするのだろうか。
むしろ東条の息子がここにいると伝わって、江藤修吾のほうから来てもらったほうが早いのではないかと思ってしまう。
ブブブ、と、机の上に置いてあった携帯電話が震えて音を立てた。
「柊? めずらしいな」
仕事用ではなくプライベートの携帯電話にかけてくるなんて、初めてではないだろうか。
「もしもし?」
『澤田か。もう帰ってるのか』
「ああ。今日は終わるの早かったから。なんかあったのか?」
『今から行かないといけないところがあるんだが、付き合ってくれないか』
「別にいいけど、どこ行くんだ?」
『色々だ』
「色々?」
『じゃあ、今から車でそっちに向かう』
言うなりぶつっと電話が切れた。
「あっ、おい……なんでいきなり切るんだよ」
柊の家からここまでは、車で十五分ほどだ。
一度部屋着に替えてしまった服を着替え直すべく、澤田は重い腰をあげて立ち上がった。
☆
駐車禁止ではない道路に車を止めて、柊は近くの家を訪問して回った。
築三十年は経っているだろう一軒家のチャイムを押すと、おばあさんが引き戸を開けて顔を出した。
「こんばんは。柊です」
相変わらず愛想など全くない顔だが、おばあさんの表情は柔らかくなる。
「ああ、町守さん。こんばんは。そちらの方は?」
「刑事の澤田です」
いつも自分が柊を紹介することが多いので、彼から紹介されるのはなんだか不思議だ。
「あら、刑事さんなの。ご苦労様ね」
「ああ、はい。ありがとうございます」
とりあえずお礼を言って、澤田が小さく頭を下げる。
「戸塚さん。これ、新しいお札です」
「ありがとうね。じゃあこれ、前のお札ね」
「お預かりします」
柊はおばあさんから少しよれたお札を受け取った。
駐車禁止ではない道路に車を止めて、柊は近くの家を訪問し、この戸塚家が四軒目だった。
なんだか変な気配がする。物がよくなくなる。おかしな物音がするなどという相談があるなかで、妖が住み着きやすいと判断した家に、こうして定期的にお札を配って回っているのだという。
「今ので最後か」
「ああ。今日はな」
車を止めたところから随分と歩いてきてしまった。
街灯に照らされた道を戻りながら、澤田はたずねた。
「なあ。お札って期限とかあるのか?」
「いや。別にないが、あまり古くなると文字がかすれたり破れたりして効果がなくなるからな」
それでこうしてお札を渡している家を訪問しているわけだ。
それについては納得できたが、まだわからないことがある。
「ていうか俺、何にもしてないんだけど」
ただ柊のあとについていっただけで、喋ったのだって先ほどの「ありがとうございます」だけだ。
「お前には関係ないことだからな」
「じゃあなんで呼んだんだよ」
「関係ないのに呼ぶのはだめか」
「いや別に、だめじゃねぇけど」
「お前もだ」
「は?」
「無理にとは言わないが、関係のないことだとしても何か気になることがあるなら話してくれればいい」
なるほど。それが言いたかったわけか。
一度聞かれたときに澤田がごまかしたせいでもあるだろうが、それにしても、本当に人付き合いの下手な男だ。
話すのならもう少し調べてからのほうがいいだろうと思っていたが、柊の話を聞きたいと思っていたのも確かだ。
「江藤修吾って、知ってるか」
澤田の口から出た名前に、柊が大きく目を見張った。
「何でその名前を」
「やっぱ知ってるよな」
「知ってるもなにも、祐一さんの件の当事者だった祓い屋の名だ。お前、知っていたのか」
「や、知らなかった。けど俺、一応刑事だからさ。調べればすぐわかるよ」
「調べたのか。なんでまた」
一瞬、澤田は返答に迷ったが、ここまできて隠しても仕方がない。
「この前、和奏ちゃんが言ってたんだ。東城さんは殺されたんだって」
柊は少し沈黙したあと、答えた。
「状況的に、殺されたと言えないこともないが」
「まあな。けど、たぶんそういう意味じゃない。和奏ちゃんは、親父が町守と祓い屋が協力し合えるようにしようとして殺されたって、そう言ってたから」
柊が眉をひそめて、口元に手を当てる。
「……たしかに、江藤さんは祐一さんや柊家に反発している人間の一人ではあったが」
うわあ、と響いてきた男性の悲鳴に、二人はばっと振り返った。
「向こうのほうからだったな」
「ああ」
柊が頷くと同時に、二人は駆け出した。
車通りの少なく暗い道路の先に見えてきたのは、壁に追い込まれて座り込んでいるスーツ姿の男の前で、包丁を振り上げている若い男の姿だった。
「やめろ! 何やってるんだ!」
さわだが声を上げると、男は包丁を振り上げた状態のままでくるりと首だけをこちらに巡らせてきた。
その異様な振り向き方に思わず足を止めそうになった澤田のほうへ、男がとんと地を蹴り、人とは思えない跳躍力で飛びかかってくる。
「うわっ……っ、この!」
澤田はとっさに包丁を持つ腕をつかむと、捻って倒した。
からんと音を立てて包丁が地面に落ちる。
「柊、拾ってくれ!」
さっと、柊が包丁を拾い上げる。
「おい、大丈夫か!」
犯人を地面に押しつけながら座り込んでいる男に声をかけたそのとき、ものすごい力で体勢をひっくり返されて、澤田は地面に倒されるとともに両手で首を掴まれた。
「くっ……」
首を折られそうなほどの力に澤田が顔をゆがめたその時、柊が男の後ろで包丁を振った。すると男は力を失い、澤田の上に倒れ込んでくる。
首が両手から解放されて、澤田が思いきり咳き込んだ。
「大丈夫か」
「……ああ。どうなってんだ。こいつ、人間だよな」
「ああ」
「柊、さっき包丁で何を」
話の途中で澤田は気づいたように立ち上がると、いまだ座り込んでいるスーツの男のほうへ駆け出した。
「おい、大丈夫か!」
「は、はい。あ、その」
「俺は黄昏市警の澤田だ。怪我は……深い傷じゃなさそうだな。柊、一応救急車を呼んでくれ」
「わかった」
柊が携帯電話で一一九番に通報する。
その間に澤田は黄昏市警察署に連絡をしたところで、気を失って倒れている犯人の男を見下ろした。
「こうして見ると確かに普通の人間なんだけどさ。さっきはなんか、人間じゃないような気がしたんだよな。なんかこう、目の感じとか、動きとか」
「操られていたようだからな」
「操られてた? って、妖にか」
「妖は妖だが」
柊が悩むように言葉を止める。
「どうしたんだよ」
「江藤修吾が契約している妖が、人を操る力を持つ妖だというのを思い出したんだ。たしか、糸でつないだ相手を操ることができると」
「それでさっき、こいつの背中の後ろで包丁を振ったのか」
「ああ。細く光るようなものが見えたからな」
柊が糸を切ったから、この男は操っている妖から解放されて倒れたのだ。
眼鏡をかけていない澤田には、糸など全く見えなかった。
「この近くに、江藤修吾がいるってことか」
「さあな。だが江藤の妖がいることは間違いないだろう」
「えっ、じゃあ俺たちも気をつけたほうがいいんじゃ」
「大丈夫だ。操るには妖の呪文みたいなものを聞かせると聞いたことがあるが、多少なりとも霊感のある人間にしか聞かせることはできないからな」
つまり今倒れているこの男には、少なからず霊感があったということだ。
「お前は聞こえるんだろ」
「聞いてはいけないとわかっていて操られると思うか」
たしかに、これだけ知識のある彼がそんな怪しげな呪文にわざわざ耳を傾けるはずがない。
「ただ、眼鏡には気をつけろよ」
「眼鏡?」
「妖の姿が見えるということは、触れることができるということであり、声を聞こえるということだ。明らかに人ではない声には耳を貸すな。不安に思ったらすぐに眼鏡を外しさえすれば聞こえなくなる」
「わかった。気をつけるよ」
言いながらも。澤田は眼鏡をかけないままでレンズから夜の町をのぞいた。
尾ひれの長い魚のような妖が、淡い光を放ちながらゆらゆらと浮かんでいるのが見えただけで、他に怪しいものは何も見えなかった。




