第十九話 意地
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木にもたれかかっていた俺だが、どうしても眠ることはできなかった。いつ神祖に襲われるかわからないという緊張感がそうさせているのだろう。
その緊張感を和らげるために『大地の瞳』で周囲を確認してみると、神祖に動きがあった。奴らの拠点から森に向かっている。まっすぐに俺に向かっているわけではないので、今すぐ何かしないといけないというわけではなさそうだ。
ちなみに、神祖は勇者と同じく森の王の屋敷がある集落を目指しているようだ。今から『大空の盾』に乗って急げば神祖より早く集落にたどり着くが、俺にそうするつもりはない。もうこの森のために戦いたくはないからだ。
とはいえ依頼を受けた以上は俺には神祖を退ける義務がある。だから、もし今夜中に襲われれば俺は神祖と戦うつもりだ。そうでなければ俺は明日の朝、この森を出発する。
さて、しばらくすると『大地の瞳』には森の王と神祖が言い争っている光景が映った。神祖が何か怒鳴りながら魔法で作った剣を振り上げると、王が「伏せ」の姿勢になったので思わず笑ってしまった。
その後王と神祖は少し言葉を交わしたようだが、『大地の瞳』ではその内容を聞きとることはできない。
ただ、神祖が俺のいる方角に向かって歩き出したことだけはわかった。やはり衝突は避けられないらしい。少し手に汗をかいてきたが、今の俺には十分に神祖に対抗しうる力がある。だから問題はないはずだ。
神祖が集落を出ようとしたその時、行く手を遮るように何者かが現れた。
金色の髪、幼い顔立ちと尖った耳。間違いない、キクルだ。
キクルが一体神祖に何の用があるのだろうか。疑問に思った俺は『大地の瞳』による観察を続けることにした。
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マーズは森の王に善光の行方を尋ね、矢羽によって彼が敗走させられたことを知った。そうとわかれば、後はその憎き人間に直接会うだけである。当然マーズにはその人間、つまり矢羽を生かしておくつもりなどなかったのだが。
先を急ごうとした矢先、マーズの前に何者かが『転移』してきた。神祖であるマーズにとっても『転移』の魔法は高等な技術を必要とする難易度の高いものだ。ゆえにマーズは今現れようとしている者に対して少しの警戒心を抱いた。
だからこそ、幼い顔立ちのキクルが現れたことにマーズが拍子抜けしたことは当然と言えるだろう。
「何者じゃ? わらわは先を急いでいるのじゃ。あいにくとわらわはヨシミツほどエルフに寛容ではない。用によっては命はないぞ?」
『転移』を使えるとはいえ、マーズはキクルを侮っていた。だからこそ少し脅せばキクルは逃げるだろうと踏んでいたのだが、そうはならなかった。
「私はキクル。あなたを止めるためにここに来た。これ以上あなたにこの森を荒らさせるわけにはいかない」
「ほう、面白いことを言うな、耳長」
キクルの瞳には強い決意と、同じくらいの怯えが浮かんでいた。それが気に入らなかったマーズは声に侮蔑を含ませたが、キクルがひるむ気配はなかった。
「何を言い出すかと思えば、このわらわを、最も神に近い『神祖』を止めるじゃと?」
マーズはしばらく高笑いを続けたが、それが止むと不快そうな表情をキクルに向けた。
「森に住む豚と子豚に偉そうに接するしか能のないエルフ如きが、よくもそんな大口を叩けたものじゃな」
豚はオークを、子豚はゴブリンを指す蔑称だ。そしてこの手の罵倒はエルフにとって最も耐えがたい屈辱だが、キクルの心が揺れた様子はあまり見られなかった。キクルの中にある「自分たちは優れた種族である」という自負が揺らいだことが、罵倒への反応を鈍くさせているのだ。
『キクル、エルフは勇者を恐れていたのか?』
『お前はエルフでよかったな』
神祖は恐ろしい。敵わないとわかっている敵に挑むなど普段のキクルなら絶対にしないが、矢羽が神祖を倒すのをただ待っているわけにはいかないと考えていた。もしそうしてしまえば、矢羽があの言葉に隠した悪意に反論できなくなってしまう。感情が表情に出にくいキクルだが、他のエルフほどではないにしろプライドは高い。矢羽に侮られたままでいるのは我慢ならなかったのだ。
「大口かどうかはまだわからない。訂正するなら今の内」
『身体強化』を発動したキクルはその膨大な魔力を全身にまとい、マーズに肉迫した。
「ほう……」
マーズの表情が、ほんの少し愉快そうなものに変わった。そして微笑を浮かべたまま、キクルの右の拳を紙一重で避ける。
キクルの体はお世辞にも格闘に向いているとは言えないが、体のハンデを魔法による強化で完全に補っている。拳の威力、スピードともに一級品と呼べるものだったが、それをほんの少し体をずらしただけで避けてしまったマーズの腕前もかなりのものだ。当然キクルはそれを十分わかっていた。ゆえに最初の一撃が当たらなくても落胆はしていなかった。
短く息を吐き、キクルはすさまじい勢いで拳の連続攻撃を仕掛ける。その全ては当たりさえすれば骨折は免れないほどの強力なものだったが、マーズは涼しい顔で避けている。
「どうした? 先ほどから拳が止まって見えるぞ? いつまでも準備運動に付き合うわけにはいかないのじゃが」
「……」
当然、キクルはマーズを殺すつもりで拳を放っていた。それをこうも軽々しくあしらわれるとは。後ろに跳んで距離をとる。知識では知っていたが、実際の力の差にキクルは愕然とした。それを悟られないようにしながら、キクルは考えていた。
(……奥の手を使わずに勝てる相手ではない)
エルフの種族としての特徴として、「全力を出すことを嫌う」というものがある。全力を出すと自分の限界を知られてしまうから、そして負けた時の言い訳を用意できなくなるからだ。
しかし今キクルは本気を出す決心をした。それも自分の命を守るためではなく矢羽を見返すためだけに。
キクルは長い息を吐きながら腰を低く落とす。息を吐き切ったところで腰を使い右手を大きく後ろに引き、左手は逆に前に突き出した。そしてキクルは少しずつ前傾姿勢になり、腕はそのままで再びマーズへ突進した。
きっと誰もが予想できるだろう。「次、キクルは右の拳を振るうに違いない」と。
それは当り前のことだ。拳に勢いを出すために腰の回転を加えるのは普通のことで、事実マーズもキクルの右の拳に注意を向けていた。
だが、キクルはそうしなかった。走る途中でいきなり大きく左足を踏み込むと、前に突き出していた左の拳でマーズの顎に鋭い一撃を繰り出したのだ。
マーズは少し目を見開いたが、やはりその一撃を避けた。しかし、今まで通りに完璧に避けることはできず、マーズの真っ白な頬からは深紅の血がにじみ出ている。
さて、キクルは再び猛攻を仕掛ける。
顎に当て損ねた左の拳を、今度は斜めに振り下ろす。マーズの左腕に防がれる。
左腕を引き、右腕でフェイントをかけてまた左腕を、今度はマーズの腹に叩きこもうとする。マーズは大きくキクルの左側に動くことでそれを避けた。
左足を軸に回し蹴りを放つ。マーズはキクルの足が届かない所まで下がった。
空を切った右足をマーズの方に大きく踏み出し、左の拳で殴りかかる。マーズはまた後ろに下がった。
左腕を引きながら左足で前蹴りを放つ。マーズは両腕で受けたが、かなり強い衝撃を受けたようだ。
左足を素早く地面に戻しながら、右足でマーズの側頭部を狙う。マーズは顔を引いてその蹴りをやり過ごすと、右手でキクルの右足をはね上げた。
空中でバランスを崩しながらも手で着地すると、肘をばねのように使って足からマーズに向かって突撃した。マーズは半身になることで突進の軌道上から逃れる。
空中でマーズの腕を左手でつかむと、着地と同時に強く左手を振り、木に向かって投げ飛ばす。マーズは木に背中からぶつかった。
その木へ向かい、マーズの頭を右腕で殴ろうとする。マーズは左腕で頭を守った。
そして、キクルの左の肘がマーズの無防備なみぞおちにめり込んだ。右腕はあくまでフェイントにすぎなかったのだ。
マーズのうめき声を聞いたキクルは追撃を加えようとしたが、マーズの雰囲気が明らかに変わったことを察して大きく距離をとった。
あれだけの猛攻を受けたというのにマーズは笑っていて、キクルにはその意味がわからなかった。
「『狂い咲き』とは、懐かしいのう」
苦しそうな様子も見せずに、マーズはそうつぶやく。
一方で、キクルは自分の拳法が見破られたことに恐怖していた。今の一連の攻撃にはかなり自信があったのだが、相手にはそれを観察する余裕があったのだ。
笑みを崩さないマーズを見て、キクルの頬をつたい一滴の汗が落ちる。
いつの間にか、マーズの頬にあったはずの傷はあとかたもなく消えていた。




