アイツラ3
(日下部大和)
「…………」
あのカップルが死んでから、どのくらいの時間が経ったのだろう。
僕には分からない。何も。
乗っている人間が減ったことで、速さの上昇したボートが川を進む中、奈々が思わずと言った調子で沈黙を破る。
「……何で諒也さん達、死んじゃったんだろう……」
嫌味でも悪意でもない、純粋な疑問。それに対して、祐人は重い声で言葉を返す。
「……獲物が見つからなかったから、自分から攻撃したんだよ。適当に探りを入れれば餌に当たる、とでも思ったんだろう。……ハッ。そんな気紛れに殺されるなんて……」
自分の言葉で男を安心させてしまったことに責任を感じているのか、自嘲気味に祐人は笑う。
本能に従っただけ。ただ思い付いたから。
―― 巫山戯るな。何で。何でそんな不条理に人が死ななくちゃならない!?
どれだけ思っても、仕方ないのは分かっている。生きる方法は、『影』の気紛れを願うしかないのは、嫌になるほど実感した。けれど。それでもそう思わずにはいられなかった。そうしなければ、無理矢理味あわされた恐怖に発狂してしまいそうだった。
「……これから、どうすれば……」
――もう無理だ。
その現実からは、目を背けても逃げられない。でも、誰かに否定してほしかった。まだ助かる道があると言ってほしかった。けれど、現実は……
「もう、『運』に頼るしかないみたいだ」
祐人の呟きに心が決壊する。
『影』は未だ僕達の後を追いかけてきている。ボートに接触するのも遅くはない。それなのに、僕達が頼れるのは、不確定で何の確証もない『運』だけ。
どうしようもなかった。どうすることも出来ない現実に心が壊れた。
「……っく……いやっ……だよぉ」
奈々の声が酷く耳に刺さる。
――僕だって、死にたくなんか……
怒りと悲しみが込み上げて来た時だった。
何かが取りついたかのように、ボートが大きく揺らいだのは。
「……な……にっ?」
祐人の隣に座る少女が、不安気に呟き、周りを見回す。そして――
見る。
幾多の触手がボートの縁に纏わりついているのを。
十本は優に超えていた。一本だけで何人もの命を奪ったそれが、二桁もあるという現実だけで、涙腺が崩壊する。絶望が目前に迫っていることに声を上げるのを止められない。例えそれが、自分の生死を分ける行動だとしても。
「……やだっ……死にたくない……死にたくない……っ」
声を出さなければ『気紛れ』で助かるかもしれない、という前提も、極限の緊張に頭から消え去ってしまう。
しかし、彼女を止められる人は誰もいない。
――声を出せば、自分も殺される。
それが分かっていたから。
「やだっ……やだぁ……」
少女の声に気付いた触手が、顔を上げるようにその体を一斉にもたげる。
――獲物は決まった。
そう言いたげな動きで、ゆっくりと、それでいて明確な意思をもって、ボートの座席を這って彼女へ近づいていく。
「こない……でっ……近づか……ないでっ……」
安全バーに固定された彼女は動けない。恐怖が、殺意が目の前に迫ってきても、抗うことすら叶わない。
二つの座席を乗り越え、表面を硬化させた触手は、何の躊躇もなく少女に向かって飛び掛かり……
音が、響いた。
鈍い、肉を抉るような凄惨な音が。
「……あ……あぁ」
少女は呻く。
骨を貫かれ、肉を絶たれ、痛みに体を焼かれているから……ではない。
寧ろその逆だった。
彼女の体は何一つにすら侵されておらず、その表情は、苦痛ではなく、衝撃に染められていた。
目を見開き、涙に濡れた顔で、彼女は呟やく。
ただ、問い掛ける。
「なん……で……?」
目の前に広がる光景。それは――
自分を庇うように限界まで身を乗り出し、伸ばされた触手に体を貫かれた少年が、そこにはいた。
「祐……人……?」
後ろから、呆然とした声が耳に入ってくるが、それが言葉だと認識出来ないほど、彼女の頭は麻痺していた。
――何で。何でこの人が……?
彼女には分からなかった。自分を庇ってくれた理由も、今、この瞬間に起きている現実も。
それは、全身に硬化した触手が貫通していた祐人にも分からないことだった。
カップルを死なせてしまったことへの罪滅ぼしか。人の命を守ろうとした正義感故の結果か。
分からない。彼はただ気づけば、身を乗り出し、触手を目前としていた。
死ぬ。それだけは、自分の体が次第に冷たくなっていくことを感じて悟ることが出来た。
未練は――ある。
もっと、生きていたかったし、やりたいこともたくさんあった。
大和をからかって、奈々の恋を応援して、学校生活を謳歌して……
――でも、それももう叶わないな。
心の中で自嘲気味に笑い、彼は辛うじて動く口で言葉を紡ぐ。
遺したい言葉も見つからず、ただ、思い付いたものを口にする。
血塗れのまま、いつものように笑って、
「はは……じゃあな」
それが、彼の遺した最後の言葉だった。
誰かが叫ぶ暇もなく、重力に呑み込まれるように後方へと引っ張られて、彼らの視界から消える。
「ゆう……と……」
嗚咽が零れ、視界が歪む。
それが、涙だと気付いた時には、止めどなくそれが溢れてきて……
しかし、現実は、彼らに、友人の死を嘆く暇も与えない。
容赦なく変化を叩きつける。
始めは、地鳴りのような轟音だった。
鼓膜を揺るがす音ともに、ボートが上に持ち上がる。
――レールが、切り替わった?
そう思うと同時に、ボートの速度が急激に上昇し始め……
――なにっ……がっ……!?
風を切って、彼らを乗せたボートが人工の島を駆け抜ける。
触手によって纏わりついていた『影』が、豪速に耐えられなくなり吹き飛ぶのにも気付かず、大和はただ、突然の出来事に呆然とする。そして……
「……ッ!?」
前方の風景――川が欠けていることに気付く。つまり――
――この先は、崖!?
しかし、焦る必要は彼にはなかった。
これは、どうしようもなく非現実的な死のアトラクションだが、それと同時に、『アトラクション』であることに代わりはない。
崖を飛び越える仕組みなど幾らでもある筈だ。
――大抵のアトラクションはこれで終わる。なら、僕達もこの地獄から解放され……
緊張感が解け、降下に身を任せようとした、その時だった。
それを、見た。
まだ、終わりではなかった。
ただ死に物狂いで叫ぶ。
生きるために、有らん限りの声を上げる。
「伏せろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
飛ぶ。
三十メートルはあるであろう高さを、ボート一つで飛び上がる。
同時に声。
そして、咆哮と悲鳴が鳴り響き……
着地、した。
大量の水飛沫が宙を舞い、光に反射して、宝石のように煌めいていく。
「…………」
長い。
長い沈黙と静寂が空気を覆い……
「私……生きてる……」
声が、漏れた。
嗚咽が響いた。
彼女が、隣で笑っていた。