アイツラ2
(日下部大和)
「何っ……だよ、これ……っ」
どうかしてる。ああ、ホントにどうかしちまってる。何で、とか、どうして、とかそんなちっぽけな疑問全てが軽く吹き飛んでしまうぐらいマジでイカれてる。狂ってるよ、全く。この光景も、あの『影』も、川に浮かぶ二つの血溜まりも。
「ねぇ……これって、何のイベントなんだろうね? はは、特別アトラクションの演出でしょ? そうに決まってる」
顔を青白く――それを通り越して、真っ白になってしまった奈々の言葉も、今は耳に入ってきても頭で理解することが出来ない。だって、だって、
死んだんだぞ、人が。目の前で。意味不明な『触手』に頭蓋骨砕かれて。引きずり込まれて。
平常でいられる訳がない。まともにあの光景を許容したら、確実に僕が『壊れる』。現実ではないと思い込まなきゃ、自分を騙さなきゃ、呼吸だってままならない。
「……何か……言ってよ。ねぇ、何でなにも……ッ!!」
誰かにそれが夢や偽物だと認めて貰わなきゃ狂ってしまいそうなのは分かる。けれど、僕にはそれすら肯定する気概も残っちゃいない。フラッシュバックする『あの光景を』に吐き気を抑えるので精一杯だった。
「何っ……これ、どうなってんだよ……どうなってんだよ、畜生!!」
先程まで声を荒げ、少年を助けようとしていた男も、その少年が死んだ現実を受け入れることが出来ないようだった。
恐怖を自覚すれば、それで思考は停止する。再び動き出すためには、恐怖を呑み込むしか他にない。でも、そんなの一般人である僕達には無理だ。ただ一方的に襲われ続けるだけ。
もうこの際、『あのウワサ』が本当だったかなんてどうでもいい。
誰か。誰でもいいから僕を助けてくれ……ッ!!
「は、はは。何だよ、これ。何で人が死んだりすんだよ!! それにあれは何だ!? 何であんなもんがこんなところに! ……俺は降りるぞ! こんなところで死んでたまるか……ッ!」
男の怒声は、どうしようもない叫びにしかならなかった。
ここから出る事など不可能。安全バーは安全の役目を果たさず、僕たちをボートに縫い付ける杭として機能してしまっている。何もかも絶望で、どうしようもない。
そんな混沌とした船の上で次に聞こえてきたのは、この状況でも凛と響き渡る、平然とした祐人の声だった。
「降りる? どうやって?」
それは、男の先刻の言葉への質問だった。どう考えてもこのボートから降りることは叶わない。厚さ200mmを越える鉄塊を破壊する手段など誰も持ち合わせてなどいない。なら、どうするのが最適解なのか。どうすれば僕達は『死』を免れることが出来るのか。その答えは――
「俺達が死ぬことはどうしたって免れない。そうでしょう? 安全バーは壊せないし、助けだって望めない。もうこのボートに乗った時点で、確実に詰んでるですよ。だから、黙ってて下さい」
「でもッ、何か脱出できる方法が……ッ」
必死に食らいつこうとする男の声をはね除け、祐人は冷徹に言う。囚人に対する死刑宣告のように。
「ないですよ、そんなものは。……俺達はどうしたって死ぬんですよ」
「……ッ」
決定的な言葉を叩き付けられて、男の瞳から光が消える。
裕人は心を折るためだけにあんなことを? 見知らぬ他人なんて、勝手に喚かせておけばいいのに。何でわざわざ自分から声を掛けた……?
「もう……無理なのかよ……。俺達、死ぬのか……」
憔悴した顔でブツブツ呟く男は、安全バーに体を全て預けて……
「……ッ!?」
上。男の頭上。そこにそれは在った。
バットほどの太さに、ヌメヌメとした液体を滴らせる体表。それは、ついさっき人の命を二つも奪った『影』の持つ触手で……
「……もう駄目だ。俺達は助からないんだ……」
呪詛のように呟きながら顔を下げている男は、それに気付かない。彼の彼女が今にも泣きそうな顔で男の肩を叩くが、彼は全く意に介さず絶望し続ける。そして、抗おうともしない格好の的に触手は……
殺される。そう誰もが、男の置かれている状況を見て思ったはずだ。それくらい決定的で確固たる『死』が目の前には広がっていた。だから、次に起こった現実に、俺は思わず声を上げてしまいそうになった。何故なら……
消えた。真下の男を絞め殺すこともなく、触手は自ら身をボードから引いたのだから。
「……なん、で?」
あんな近くまで迫っていたというのに、何で触手は男を引きずり込まなかった? 何を判断して触手は殺すことを止めたんだ?
理解できない僕の前で、何かに気付いたのか、裕人が独り呟く。
『何か』を求めるような素振りを見せた奈々に代わって、僕が裕人に問いかける。
「……何か、気付いたのか?」
裕人はあぁ、と首肯して、徐に、視線の先にいる――男に向かって再び声を掛ける。
「えっと……確か、諒也さん、でしたよね、あなた」
「……あぁ?」
死人みたいな声色と共に顔を上げる男に対して、裕人は、
「頭を抱えて下さい。あと、声のボリュームも下げて」
「……あ?」
男の顔に怪訝そうな表情が浮かぶ。けれど、今鏡を見れば、俺も同じ顔をしているだろう。
――あいつ、何を……?
男が苛立ちを見せながら、
「何言ってんだよ、お前? 頭、どっかしちまったのか?」
しかし、裕人は少しも動じない。寧ろ自信ありげに言う。
「どうもこうもありませんよ。俺は、頭を隠せって言ったんです。頭を最大限まで下げれば、万が一触手がこちらまで来ても、回避できるかもしれない」
「……けど、頭隠したぐらいで……」
先刻の裕人の言葉がよほど心を抉ったのか、躊躇いがちに提案を否定する男。それを裕人は、
笑う。鼻で笑って言葉を続ける。
「はっ。さっきまで自分に死が迫ってきていたことにすら気づかないで何言ってるんですか、諒也さん。……でも、あなたのおかげで、触手の……いや、影の仕組みは分かりました。あれは、俺たちの居場所を目で判断しているわけじゃない。触手に目がついてる訳じゃないから当然ですけど」
「……何が言いたい?」
「なら、何故あの触手は俺達がいることを区別しているののか。温度でも姿見でもないなら、方法は一つ。……聞いてるんですよ。俺たちの『声』を」
「……声、だと?」
……そういうことか。やっとあいつの言おうとしていることが僕にも理解できた。あの触手には声を聞き分ける機能があって、それで声を聞きとると、僕たちの居場所を突き止めているというわけだ。だから、声を上げていた少年たちは襲われて、男は殺されなかった。たぶん、あの触手に聞き取れるのは、余程デカい音をじゃなければならないのだろう。音波探知機のように精密だったら、今頃、このボートは血の海の筈だ。
「ええ。あの触手は声だけを頼りに俺達を探しているんです。だから、声を下げてください、って言ったんですよ」
「……なら、俺達にも未だ、助かる道がある、っていうのか?」
恐る恐るといった調子で訪ねる男に祐人は断言する。
希望の否定を。
けれど、絶望ではない答えを。
「俺達は死ぬ。それは間違いない。……けど、それが諦める理由にはならないでしょう?」
「………」
男は数瞬の間黙り込んだ後、大きく吐き出した溜め息と共に、小さく呟く。
「……分かったよ。俺はあんたに命を預ける。煮くなり焼くなり餌にするなり、勝手に使ってくれ」
「預けられても困るんですけど……」
一通り説得が終わったのを境に、ボートに沈黙が訪れる。聞こえてくるのは、ボートの移動に伴って水が弾かれる音と、後方でゆっくりと近づいてくる『何か』の音。
抗う方法は、ほんの少し確信に基づいた抵抗だけ。生き残れる確証はどこにもない。
けれど、この時だけは、僕達にも一類の希望があったんだ。
彼女が死ぬまでは。
(小比谷葵)
――来た……ッ!
そう思った時には、そいつの気配が私の周囲まで迫ってきていた。
無我夢中で声を殺す。息を限界まで止めて、頭を抱える両手に強く力を籠める。
――死にたくない。
ただそれだけが思考を埋め尽くす。
気配は未だ消えない。触手が左右に動く度に、ヌメヌメとした液体が体に零れ落ちてくる。気持ち悪い感触が服を通り越して皮膚に直接染み込んでくるが、今、声を上げるわけにはいかない。声を出させば殺される。少しでも動けば、あの子みたいに捻り潰される。
――それは嫌だ。死にたくない。こんなところで人生を終わらせたくない……ッ!!
だから、我慢する。必死に恐怖を抑え込むしか私には残されていない。
そうやって、無限にも感じられる時間が過ぎ……
――気配が、消えた?
上部から降り注いでいた筈の液体が降ってこなくなり、蠢いていた『何か』の感覚が感じられなくなる。それ分かっても、声を出したり、顔を上げたりすることは叶わないが、未だ自分が生きていることに感動して、安堵する。
――このままやり過ごせば、もしかして……
そんな淡い希望が心の中に生まれ、
ぶち壊される。
「……ッ……ぐっ!?」
突然だった。
脇腹に鋭い痛みを感じたのは。
まるで刃物に突き刺されたような硬い感触が、
そこへ視線を移すと、
私の体から何かが突き出て、
これは、触手?
何で? 何が……
悲鳴を上げる間もなく、彼女は、硬化した触手に体を貫かれたまま、叩きつけるように川へ引きずり込まれる。
「葵ッ!!」
それを見た男が顔を上げて、絶叫する。そして――
「止めろ! 今、声を出したら……ッ!」
絶望は連鎖する。ドミノ崩しは、一度始まれば止まらない。
「……あ」
男が今更のように呆けた声を上げるが、もう遅い。
男の声を感知した『影』は、すぐさま第二の触手を放ち、彼の頭を後ろから絡め取る。
「……おい、マジかよ……」
泣いているのか笑っているのか分からない表情だった。恐怖が彼を呑み込み、ボロボロと涙が零れる中……
容赦なく『影』は猛威を振るう。
風を切る音と共に、ボートの縁へ男の顔面を叩きつけ、彼が顔中を血に染め、激痛で叫ぶのも無視して更に触手を上下に動かす。執拗に男を叩き壊す。
何度も。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
歯が砕け、顔面が崩壊していくのに、時間は掛からなかった。
男の叫びは次第に小さくなっていき、呻きとも思えないような声が大和の耳に入って来た時には、触手の掴む物体は、人間とはかけ離れた肉塊へと変わってしまっていた。
誰一人もロクな言葉を出せない間に、彼らの視界から男が消える。
残ったものは……
どうしようもない現実だけだった。