夜の八時に落ちる花
「ねえ、せめて十時には帰ってこれないの」
清々しい朝の空気には全くふさわしくない声で、妻が言った。俺は眉間に皺を寄せる。
「仕事だっていつも言ってるだろ。何回も訊くな」
「……仕事、そんなに忙しいの? いっつも終電じゃない」
「仕事が終わったあとも、社長や取引先に呑まされたりしてるんだよ。専業主婦してるお前には分からないだろうけどな」
混ぜた納豆を白米の上にかける。妻の、生気のない声はいつ聞いてもイライラする。なにかを探るような上目遣いも、ろくに化粧をしていない青白い顔も、もううんざりだ。
空になった納豆のパックを、向かいに座る妻に放り投げてやる。しかし、軽い発泡スチロールは中途半端なところで落下した。俺と妻の中間地点でひっくりかえっているそれを、妻が持ち上げる。光沢のある豆が一粒、食卓の上に落ちた。
「そーれにしても、随分立派な朝飯だなあ。納豆がこんなに豪勢に見えるなんて」
俺の言葉に、妻がぎょっとする。血色の悪い唇が震えているのがよく見えた。
今朝のメニューは、ラップのにおいがする白米に、混ぜるだけの納豆、水なす、以上だ。焼き魚はおろか味噌汁すらない。
それに関する妻の「言い分」は分かっている。しかし頭に昇った血をおろすため、俺はいつでも皮肉を言ってしまう。
「だ、だって……」
「昨日の晩飯の残りもないのかー。お前は昨日、何を食べたんだよー」
「それはあなたが、……晩御飯は要らないっていつも言うから」
「そんじゃあ『俺の晩飯を作るはずだった時間』で『朝飯の準備』くらいしとけばいいだろ。なに怠けてんだお前」
本当は、「昨晩のこと」も「今朝のこと」も知っていた。が、言った。
妻の顔が曇る。だって、と頼りない声で続ける。
「お義母さんが昨日からずっと、」
「おふくろを言い訳に使うな」
自分の口から、思った以上に尖った声が出た。リビングとつながっている和室からは、先ほどからきゃっきゃと楽しそうなはしゃぎ声が聞こえている。そっと、そちらに目をやった。
介護用ベッドの上で、おふくろが楽しそうにスプーンを振り回していた。皿の表面を叩くたび、五分がゆがサイドテーブルの上に飛散する。それだけでは飽きたりなかったのか、スプーンですくった粥をボトボトと毛布の上に落としはじめた。俺の視線の先に気づいた妻が、さっと席を立つ。
「あーあ。朝から嫌味言われて食欲失せた。俺もう行くわ、お仕事が大変なんでねえ」
納豆ご飯を半分以上残したままで立ち上がる。俺の足音に気づいた妻が、米粒まみれのベッドから顔を上げた。
その縋るような顔が、何を言いたいのかは分かっている。
――早く帰ってきて。
「……専業主婦させてやってるんだから、おふくろの面倒くらいきちんと見ろよ」
妻の視線を振りほどき、何もかもを遮断するような音を立てて扉を閉めた。
おふくろの笑い声から、そして妻のあの視線から。一刻も早く逃げたかった。
玄関を出たところでスマホが震える。取り出してみれば、『中田物産』からのラインだった。
『おはよー。思ったより道がすいてるから、10時前には向こうに着けると思うんだけど。そっちもう家でたー? 奥さんにバレてない?』
緊迫感が緩和され、頬まで緩む。俺は素早く返事をした。
『おはよう。いま家でたとこ。あいつ鈍いから、俺が有休とってるなんて絶対気づいてないよ笑 今日もラブホで残業しまーす笑笑』
――早く帰ってきて。
妻に対して、悪いという気持ちはあった。ゲスの癖にと思われるかもしれないが、基本的にそしてどうしようもなく、俺は小心者だったのだ。自分の親が若くしてアルツハイマーになったことも、そのせいで子供を忘れてしまったことも、三十過ぎの妻が介護に疲れていることも。恐ろしくて直視できなかった。それが故の逃避だった。
平日は残業、休日はストレスのせいにして家から離れた。妻は最初こそ何も言わなかったが、そのうちこの言葉を繰り返すようになった。
――早く帰ってきて。
「やーだ、奥さんのところには帰さなーい」
無邪気を装った声を出し、女が後ろから抱きついてきた。俺はあえて、真面目な顔で言う。
「たまには早く帰ってあげないと可哀想だろ?」
「そんなこと言ってー。もう九時過ぎてるじゃん」
「今日も残業しちゃったからな」
「残業という名の延長ですけどー」
女が俺の背中に唇を押し付けながら笑う。吐息がかかってくすぐったいが、あえて放置する。こいつは馬鹿だが、俺の身体にキスマークをつけたがるほどの馬鹿ではない。だからこそ、一年以上付き合ってこれたし、「まだ続けられる」と思えるのだ。
女の車で家の最寄り駅まで送ってもらい、会社帰りのような顔を繕って歩く。電車通勤している以上、平日に車を出す訳にはいかず、今日のようにこっそりと有休をとった時はいつも女の車を利用していた。
帰宅してみると、家は真っ暗だった。キッチンの電気をつけ、腕時計を確認する。二十二時半。おふくろの部屋は二十二時に照明がきれるようデジタルタイマーをセットしているため、この時刻に電気がついていないのは特別珍しくもない。しかし今日は、妻まで早々に眠ってしまったらしい。
「旦那の出迎えもしないとは、いいご身分ですねえまったく」
本当に残業してきたような気分で悪態をつき、水でも飲もうかとコップを手にとる。その時、食器棚の中で何かが落ちる音が聞こえた。食器ではなく紙、のような。
「なんだ?」
なるべく音を立てないよう、食器棚をあける。途端、白い紙袋がぱさりと俺の足の上に落ちた。
拾い上げてみれば、それは薬袋だった。見る限り真新しい。「就寝前薬」という単語の下には、妻の名前がボールペンで書かれていた。
そして、薬袋に印字された病院の名前は――近所の精神科だった。
「……っ」
慌てて、薬袋を食器棚に戻す。妻のやつれた青い顔が脳裏に浮かんだ。
――早く帰ってきて。
……いつから、妻は。
眠っているだろう妻を起こして、薬のことを問いただしたくなる。しかし、と俺は首を振った。ようやく眠れたのだろう妻を叩き起こすなんて、それこそ鬼畜だ。
……何も。
俺は、何も、見なかった。
コップをシンクに置き、俺は逃げるように寝室に向かった。
「……あのね。今日は、八時には帰ってきてほしいの」
翌朝。覇気のない声で妻が言った。俺は味噌汁の入った椀を、食卓に置く。
「なんだよ、いきなり」
「……いきなりじゃないわ。前からずっと言ってたもの」
「なんか用事でもあるのか」
「…………」
「今日、金曜日なんだぞ。お前さ、花金って言葉知ってる?」
鮭の塩焼きを箸でほぐしながら、言う。妻は口を閉ざした。機嫌が悪いのか、おふくろの唸るような声が和室から聞こえてくる。
俺の仕事が終わるのは午後七時。そのまま直帰したとすれば、家に着くのは七時半。電車が一本ズレたとしても、七時五十分には家に着くだろう。今は閑散期だし、妻は決して無茶を言っていない。
しかし、「八時に帰ってきて」は「直帰して」とほぼ同義だ。遅くても二十二時には、といつも言っていた妻だが、直帰を要求するのは珍しい。
思い浮かぶのは、昨夜見た薬袋。
「……疲れてるのはな、お前だけじゃないんだよ。俺にもストレス発散くらいさせろ」
言い放ち、立ち上がる。妻はやはり何も言わない。おふくろが何かに向かって怒鳴り始めた。その怒声に押し出されるようにリビングを出る、俺の背中に妻が言う。
「待ってるから」
振り返る。寂しげな顔をした妻が、そこにいた。
「……帰ってきて」
何も言わず、リビングの扉を閉める。妻はそれ以上追ってこなかった。
靴箱の上に飾られた、空っぽの花瓶を見ながら靴を履く。八時に、という妻の言葉を思い出す。どうして今日はそんなに早い時間を指定するのだろう。
門扉をしめ、駅へと歩き始めたところでスマホが鳴った。『中田物産』から一行のライン。
『お誕生日おめでとうございまーす!』
「……あ」
それでようやく思い出す。
今日は、俺の誕生日だった。そして。
俺たちの、結婚記念日だった。
妻と最後に記念日を祝ったのは、もう何年前だろう。
それまでは毎年きちんとやっていた。妻の誕生日はもちろん、クリスマスやバレンタインといったカップル同士のイベントごとでもプレゼントを贈りあっていた。
とりわけ、結婚記念日は派手に祝った。俺の誕生日と結婚記念日が被っていたせいもある。妻はこの日を一番楽しみにしていたし、張り切っていた。いつだって俺の好物を並べて、部屋を綺麗に飾り付け、俺の帰りを待っていた。
今朝見た、妻の顔を思い出す。余裕のなさそうな、それでもどこか期待しているような眼差し。きっとあいつはまだ、俺のことをどこかで信じているのだ。
帰ってくると、信じているんだ。
「……くそっ」
いつも以上に気合を入れる。デスクのわきに置いておいたコーヒーを一口飲み、キーボードをたたく。
――早く帰ろう、と、心の底から思った。
今日は、早く帰ろう。
そういう日に限って残業を頼まれる――ということもなく、仕事は定時で無事に終わった。急いで退社し、腕時計で時刻を確認する。午後七時過ぎ。大通りには、楽しそうに歩くサラリーマンや学生の姿が見えた。それに混じるように、けれども俺は早足で歩く。
駅へ向かう前に、少し寄り道することにした。自宅の最寄り駅周辺には何もないが、この近辺にはちょうど花屋とケーキ屋があった。結婚記念日に、あいつの好きな花とケーキを買って帰ろう。電車を一本逃したとしても、その次に乗れれば八時には充分間に合う。
駅から一番近い花屋を覗く。閉店が八時だというその店は、すでに閉店作業をはじめていた。ボーダーの服を着た女性がどこか頼りない動きで、オーニングテントの下に展示していた花の苗を店内に移動させている。
「……あのー」
「は、はい。あ、いらっしゃいませ」
幼さの残る女性が、慌ててこちらを向いた。俺は店内を見回しながら言う。
「花束って、まだ作ってもらえます?」
「え、あ」
女性がきょどきょどと、左右に首を振る。つられて、おれも左右を見た。
「あの、店長……ブーケを作れる人間が、いま配達に行ってまして。私、ここで働き始めたばかりだからそういうのまだ作れないんです、すみません」
「ああ……。店長さん、何時くらいに戻ってくるんですか?」
俺の言葉に、女性は斜め上を見ながら何かを計算した。
「配達って言っても近場なんで……。えーっと、あと五分もすれば戻ってくるかと」
「そうですか」
時刻を確認し、八時までに家に帰られるかどうかを考える。五分待つ程度なら、間に合うだろう。
「それじゃ、五分後にまた来ます」
バイトらしい女性に言い残し、五十メートル先にあるケーキ屋へと向かった。ベビーカステラのような甘ったるいにおいが、店の外まで漂ってきている。店の外にある手書きのプレートには「ぶどうケーキ」とあった。新作か、今月のおすすめだろうか。
「いらっしゃい」
店に入ると、ふくよかな中年女性が俺を出迎えた。俺は姿勢を低くして、ショーケースを覗き込む。時間が時間なので、ケーキの種類はかなり少なかった。外の看板で見た「ぶどうケーキ」も見当たらない。
ホールケーキはふたつあったが、いずれも六号で、とてもじゃないが食べきれるとは思えなかった。となると、やはりカットケーキを買って帰るべきか。……待て。そういえばおふくろは、ケーキを食べられるのか? 介護はいつも妻に任せっぱなしだったと、ここでようやく気付いた。おふくろが何を食べられるのかどうかさえ、俺は把握していない。
数分悩み、結局カットケーキを三つ買って帰ることにした。五種のフルーツがのっているショートケーキとチョコレート、それから抹茶だ。おふくろが食べられなければ俺と妻で一個半食べればいいし、最悪俺が三つ食べることになってもいい。念のためにドライアイスをつけてもらい、外に出た。急いで花屋に戻る。しかし、
「……すみません。店長、まだ帰って来てなくて。さっき電話で確認したら、もうすぐって言ってたんですけど……」
俺の姿を見て、バイト生が明らかに困った顔をした。時計を確認する。花束を作る時間も考えれば、待っていられる時間はほとんどなかった。花は諦めたほうがいいかもしれない。
そう考えていたら、花屋の名前が書かれたバンが店の前に停まった。運転席から出てきた中年男性が、急いでこちらに向かってくる。
「いらっしゃいませ! すみません、お待たせしちゃいまして」
「あ、いえ」
「ブーケですよね、超特急で作らせていただきますよ!」
喋りながらも慣れた手つきで、店長がブーケ作成の準備を始める。俺は、妻の好きな花を思い出した。
「ガーベラってあります? それ使ってほしいんですけど。予算は五千円くらいで」
「了解! お待たせした分ちょっとサービスさせてもらいますね。西ちゃん、カスミソウ取って」
西ちゃんと呼ばれたバイト生が、もたつきながらも白い花を店長のもとへ持っていった。カスミソウとともにまとめられていく、色とりどりのガーベラ。人懐こい店長と話ながら、レジ上の掛け時計をちらりと盗み見た。……八時に戻れるか、少し怪しいところだ。
会計を済ませ、慌てて駅に向かって走る。ところが、大きな交差点でひっかかった。信号を睨みつけ、早く青にならないかとそわそわしている俺のポケットでスマホが震える。ライン、中田物産。
『寂しい。死んじゃう』
「馬鹿言うな」
呟いたのとまったく同じ文面をラインで送った。すると、すぐに返事がきた。
『今日会えないの? さっきから泣いてる。ほんとに死にそう』
……いつもはそんなこと言わないくせに、今日に限って珍しいことを言ってくる。俺は親指をできる限り早く動かし、そっけないラインを送った。
『会えない。悪い。今度ゆっくり話そう』
『今度っていつ。今日がいい』
『今日は本当に駄目だ。俺もお前と話したいことがあるから、明日こっちから連絡する。それじゃ』
スマホをポケットに入れ、横断歩道を渡ろうと前方を見る。――スマホをいじっている間に青になっていたらしい。歩く人間のイラストが、点滅し始めていた。走れば間に合うかもしれないと一歩踏み出す。と同時に、左手からトラックが右折してきた。
「うわっ」
危うく轢かれそうになり立ち止まる。トラックとはかすりもしなかったが、信号が再び赤になった。ちくしょう、と内心で舌打ちをする。ここの信号は、一度引っ掛かるとかなり待つのだ。思わず足踏みをした。
少しでも早く青になるよう祈りを込め、信号を凝視する。
――けれども結局、乗る予定の電車には間に合わなかった。
八時十五分。ケーキ箱の中身を気にしながら、俺は家路を急いでいた。
妻に言われた時刻には間に合わなかった。しかし、毎日終電だったことを考えれば「八時過ぎ」は上出来だろう。ケーキは買ったし花束も持った。あとはできる限り早く、妻の元へと帰るだけだ。
……帰ったら、妻の話をちゃんと聴こう。最近の俺は妻に対して小言を言うばかりで、妻の言葉をろくに聴いていなかった。今夜はちゃんと話そう。おふくろのことも二人で考えよう。言いたい言葉は考える必要もなく、ぽんぽんと頭に浮かんできた。
――もうすぐ。もうすぐ帰るからな。
反省しながら走り続け、ようやく見えてきた我が家。それは予想に反して真っ暗だった。妻はもう眠ってしまったのだろうか。……いや。
新婚当時、妻はイタズラが好きだった。
寝ているふりをして、近づいた俺を驚かしてきたり。外出しているふりをしてトイレに隠れていたり。そういえば、結婚記念日にもその手のドッキリがよくあった。
もしかしたら今日も、と思う。
「八時」と時間指定しておいて、俺が帰宅した瞬間にイタズラをしようとしていたのか。
なら、俺もそれにのってやろう。
逆ドッキリをしかけるべく、音を立てないよう慎重に家に入った。恐らく妻は、リビングにいるだろう。電気はつけず、ゆっくりとリビングの扉をあける。月明りに照らされた室内が、ぼんやりと青白く浮かび上がっていた。
食卓とテレビの位置は大体わかる。なら、妻はどこだ。
足音を忍ばせ、和室へ近づいてみる。もしかすれば、妻はおふくろと一緒にいるのかもしれないと思ったからだ。
その時。
柔らかく重たい何かに、俺は足を引っかけた。
「――っと!」
危うく転びかけたが、なんとか耐える。何に躓いたのかと足元に目をやった。大きなものが、床に転がっている。……こんなところに、物なんて置いていたか?
なんの荷物だろうかと目を凝らす。月明りを反射しているふたつの丸が、特に目立つ。大きなビー玉のような。
それは。
――これ、は。
真っ白な箱と、色を失くした花束が、音もなく床に落ちた。
*
××さんへ
あなたがこれを見つけた時、私がまだ生きていれば、これはただの日記だと思ってください。
私が死んだあとならば、これは遺書だと思ってください。
最近、疲れたという言葉しか思い浮かびません。
私の怠けや、弱さが原因なのだと思います。けれど私には、今の状況を打破する気力も、体力も、知識もありません。
世の中のすべてが、嫌なものに見えます。
人と住んでいるのに、とても孤独で。
早く、人生が終わってほしい。毎朝目が覚める度に、そう思います。
××さんは、いつも仕事が忙しいのだと言います。
「俺も疲れてる」
そう言われるたび、私は居場所がなくなっていくような気がしていました。お前が愚痴を言う権利なんてない、お前ごときが弱音を吐くなと言われているようで、何も言えない。もうずっと、そんな状態でした。
でも本当は、少しでもいいから私の話を聞いてほしかった。
少しでもいいから、傍にいてほしかった。
ほんの少し、早く帰ってきてほしかった。
もう、限界です。
6月2日は、(××さんが覚えているかは分かりませんが)××さんの誕生日で、私たちの結婚記念日です。
一週間以上前から、私は××さんに、「八時までに帰ってきてね」とお願いしてきました。いつもスマホをいじりながら頷いていたので、あまり聴いていなかったようですが。念のため今朝も、「八時に帰ってきて」と釘をさしておきました。
××さん、気づいていましたか。
私は。
タイマーと睡眠薬を、ずっと前から隠し持っていました。
これから私は、『夜の八時』に「私」と「お義母さん」に電流が流れるようにセットして、××さんが帰宅するまで眠ろうかと思っています。精神科でもらった睡眠薬を、お義母さんには規定量、……私は少し多めに飲んでおきます。
新婚当時、××さんが帰ってくるのは大体七時半でした。繁忙期でもない今の時期は、遅くとも八時前には帰宅していたはずです。
もしも、私の言葉を少しでも聴いてくれているのなら。
「残業」なんて言わずに、八時には帰ってきてくれるはずです。
気付いて、くれるはずです。
……もしも、××さんが八時までに帰ってきてくれたその時は、薬の飲みすぎでのびているだろう私を笑って起こしてくれればと思います。
そのあとは昔のように、結婚記念日を祝えたらいいのに。
今日は、××さんの好きなものばかりを作って、冷蔵庫にいれておきました。
――私はきっと、まだ期待しているんです。
××さんが助け出してくれると、信じている。
死にたいのに助けてほしい、なんて思ってる。
けれど、もしもこの文章が遺書になっているのだとしたら。
××さん。
あなたがもう少し早く帰ってきてくれていれば、私たちはまだ、生きていられました。
さっきから、視界がぼやけています。薬もまだ飲んでないのに。文章も、おかしいところがいっぱいあると思います。読みにくかったらごめんなさい。
××さん、お願いします。
どうか、今日は――
「早く、帰ってきて」