接近
あれからの正仁少年は正しく勉学の徒だった。
古代竜人語の履修に必死で追いすがろうとする合間合間に、
古代竜先生が部屋に自費で置いている土竜茶─土に関する
竜人族が育てた特製の茶葉─で淹れたお茶を供に菓子を摘
まみながら好きな音楽の話などで雑談することはあったが、
それ以上は踏み込まず、緩々と恋慕を寄せる相手と一緒に
居られる幸せを漂わせるだけでそれ以上は踏み込まず。
生徒と教師。
そのラインを彼は確かに守っている。
「それでですね、音だけ聴いてる時はその場所に居たいの
居たいと、痛みを感じるって意味での痛いを繰り返して
るのかと思ったら、痛みの方だけの痛いだったんですよ」
「ふふ、でもその解釈私は良いと思いますよ。
存在すること、その痛み、それを抱えてもその場に留ま
りたい。
なんだか素敵な解釈ですね」
だから、古代竜先生もそれなりに正仁少年と打ち解けて
いた。
勿論、生徒と教師の距離感を適切に保った上ででの話だが。
それでも二人は同じ空間を共有し、同じ話題について話、
笑った。
だが、それも夏休みに入れば途切れてしまうのが普通だ。
しかし正仁少年は赤点ギリギリという成績で追試を免れた
だけで、学校で補講をしてほしいと申し出た。
それは口実だけではないな、と思わせる成績だったので
他の成績が振るわなかった生徒も交えて実施された。
そんな毎日を送っていたのが正仁少年という男の子だった。
誠実で、勤勉。そして見ていて和む容姿。
そんなもので出来ていた。
そんな彼と彼女に少しの変化があったのは夏休みが過ぎ
てからだった。
「古代竜先生。これ、これ使ってくださいよ」
「ん?なんですか鈴木君」
「いつもそんな長い髪手入れするの大変だから放っておい
てるのかなーって思ってたんですけど。
せっかく伸ばしてる髪なんだからお手入れした方が良い
かなって思って。
櫛です」
「櫛だなんて、受け取れませんよ」
「そんな高い物じゃないですから。ほら、これ百均のシー
ルです」
「うーん……」
少し悩みを見せた古代竜先生だったが、半年近く掛けて
作られた正仁少年の裏表のない印象と気安さから櫛を受け
取る。
「では有難く受け取っておきます。ですが使うかどうか
解りませんよ?」
「あ、いいですよ。男から櫛を贈るとか結構、なんていう
か。
おせっかいな感じがするのは自覚してますから」
「そうですか?鈴木君からはあまりそういう感じしないん
ですよね」
「そうですか?それならよかったなぁ」
「ふふ、変な鈴木君」
笑いあう二人。
このプレゼントがちょっとした騒動を古代竜人語クラス。
いや、それにとどまらず学校全体に巻き起こす。
「おはようございます」
「おはよ……え?古代竜先生?」
「そうですが。何か」
「い、いえ何でもありません!おはようございます!」
何気ない朝、眩いのは上がったばかりの太陽だけかと
思われた学校の教員用通用口からそれは始まった。
「え?嘘。あれ古代竜先生?」
「へ?嘘……まじだ……声が古代竜先生だ」
「そういえば服が……」
「嘘でしょ……不味いでしょこれ」
職員室のそちらこちらから驚きと危惧の声が上がる。
だがそれが自分に向けられたものだという自覚はあり
ながらも、それを抑えようという気分にはなぜか彼女は
なれなかった。
古代竜先生の素顔は眼鏡を着けていても解るレベルで
絵画級に整っていたのだ。
周囲からの陶然とした視線を受けても彼女は素知らぬ顔
で授業の準備を進める。
この日、彼女は行く先々で時を止めた。
だが、正仁少年だけは違った。
のんきな調子でこういったものだった。
「あ、やっぱり先生美人だったんですね。
そんな気はしてましたけど。
それはそうと今日の授業で聞き取れなかった箇所なん
ですけど」
素顔を晒した彼女にものほほんとした調子で応対した
為、彼の時間だけは止まらなかった。
そしてそれが古代竜先生にはとても、愛おしく映ったのだ。