08.騒がしい来訪者
(ここ、どこ……)
ぼんやりとした頭で周囲を見回したアンジェラは、意味もなくカーテンに透ける朝日を眺めていた。結局、そこが「だんな様」の部屋だと気づくまでに随分と時間がかかった。
隣には、まだアンジェラの腕を枕にしているウィルが穏やかな寝息をたてている。しばらく思案した末に、そぉっとクッションと腕を置き換えた。
すっかり感覚がなくなって痺れている腕をマッサージしながら、弟たちと一緒に寝ていた頃を思い出して、くすり、と笑う。
なんとなく幸せな気分のまま、足音を忍ばせて廊下に出ると、そのまま自分の部屋へ戻り、着替えを手早く済ませて階下に降りていく。今日はお客様が来るから忙しいと聞いていたし、早くシビントン夫人を手伝わなければと気が急いていた。
早く腕の感覚が戻るようにと、腕をぶんぶんと振る。麻痺の後に広がった鈍い痛みは、ようやく半分ほどとれたところだ。
「シビントン夫人、おはようございます」
昨日と同じように、シビントン夫人の指示に従って仕事を一つずつこなしていく。朝も早い時分にそれほど仕事はないと聞いていたが――――
「あ、ちょうど良かったわ。水を汲んできてもらえるかしら」
「それが終わったら客間の点検をして」
「シーツ? あぁ、1階のリネン室に……」
「ごめんね、ちょっと味を見てもらえるかしら?」
目の回るような忙しさに、アンジェラはびっくりしながらも、あちこちを往復する。むしろ、休みなく体を動かすことで、元気が出てくる、というか、調子が戻ってくる気がした。
ほっとひと段落ついた時には、いつの間にかすっかり日が高くなって昼食の時間になっていた。
「お疲れさま。あとは、お客様を待つだけよ」
「はい、シビントン夫人」
既に昼食を済ませているウィルは書斎に籠もっているため、二人きりで昼食を囲んだ。薄くスライスされたパンに、今日の晩餐で出す予定の魚のマリネや、味を沁みこませて炙った肉の端っこを挟んだ、いわゆる賄いごはんだ。
「そういえば、今日来られるお客様って、どんな方なんですか?」
「そうね、何回かいらっしゃったことはあるけれど、領主さまの昔からのご友人らしいわ。……なんだか、とても明るくて、とらえどころのない方だった覚えがあるわ。王都の大貴族らしいのだけれど、そういう人は、ああいった人でないと務まらないのかもしれないわね」
昔からの友人という言葉に、アンジェラは記憶の断片を拾い上げた。
「ティオーテン……公爵様?」
「えぇ、確か公爵様だったと思うわ。でも、権力を笠に着るような方ではないから、そんなに心配しなくても大丈夫よ?」
シビントン夫人の言葉を聞き流しながら、アンジェラは自分がいつこのお客様の名前と身分を聞いたのか思い出そうとしていた。何か大事な部分を見落としているような気がして、心が落ち着かない。
カランカラン
沈む思考を遮ったのは、よく響く鐘の音だ。あまり俊敏に動けないシビントン夫人に代わり、アンジェラはくるくるとよく動く。今回も、残っていた昼食を一口で食べ終えると、水で流し込みながら玄関へと向かって行った。頼もしいその背中に「もしティオーテン様だったら、応接間の方へすぐお通ししてね」と声をかける。
元気よく返事を返したアンジェラは、小走りに玄関をすり抜けると、門の前でぴたりと止まった。いち、に、と深呼吸してから、門をぐぐっと引っ張る。
開いた隙間から、馬の顔がぬっ、と差し込まれた。ぎょっと腰を引いたが、手綱を引く手が見えて、何とか動揺を押さえながら扉を開いた。
二十代ぐらいの身なりの良い男性は、アンジェラの見覚えのある顔だちをしていた。男性の方も、アンジェラを知っているようで、しげしげと彼女を見つめる。
「おやー? こりゃまた、ずいぶんと可愛らしくなったね」
その軽い口調に、アンジェラの記憶がフラッシュバックする。今のだんな様を主人に定めたときの、そして、説得するようにと言われた命令を思い出して、彼女は小さく身震いした。
「あ、の、ティオーテン様、ですか?」
「そ、ティオーテン様です」
オウム返しにアンジェラの言葉をそのまま返した男は、にやにやとアンジェラの反応を眺めていた。
「お待ちしていました。応接間の方へ―――」
言いかけて、はた、と止まる。この馬はどうすればいいんだろう、と。
「馬はこちらでお預かりいたします。……アンジェラ、案内をお願いね」
いつの間にか横に来ていた夫人にサポートされ、アンジェラは小さく頷いた。
「どうぞ、こちらへ」
お客様の半歩先を歩くアンジェラは、どうにも後ろを歩く『ティオーテン様』のことが気になって仕方がなかった。とはいえ、後ろを振り向くのも憚られて、ただただ緊張しながら応接間へ向かうことしかできない。
玄関をくぐり、正面の階段と、右手にある応接間が見えたとき、突然、アンジェラの体がふわりと浮き上がった。緑のワンピースの裾が空気を孕んで舞い上がる。
「あ、あの、ティオーテン様……!」
突然、腰を掴んで抱き上げられ、動揺を隠しきれないアンジェラだが、背中からまるで高い高いをするように持ち上げた彼の方は、満面の笑みを浮かべていた。
「いやぁ、ほんの数日で、ここまで表情豊かになるなんて、すごいね!」
「あの、下に、おろして、くださいませんか?」
「イヤー」
まるで子供のように拒絶を示す彼に、アンジェラは違和感を覚えた。たとえば、夜のだんな様が同じ行動をとったら、アンジェラも何も思わなかった。だが、この彼には、何か目的があってこんな子供っぽい行動をとっているように思えたのだ。もちろん、アンジェラの思い過ごしかもしれないけれど。
(でも、……なんで?)
心の中で首を傾げたとき、階段の上から厳しい声が飛んできた。
「カーク! 何をやっているんですか!」
思わず、アンジェラは体を竦ませた。男もまずいと思ったのか、アンジェラを振り回すのをやめたが……なぜか、そのまま抱き上げてお姫様抱っこの態勢にする。
「へへーん。うらやましいかい?」
アンジェラに少したりとも視線を向けずに、ウィルにケンカをふっかける彼を見て、アンジェラはようやく得心した。すべてはウィルをからかう材料だったのだと。
「あなたは! どうして、そう人の嫌がることばかりするのですか!」
カツカツと靴音も高らかに階段を下りたウィルは、カークの目の前までやってくると、有無を言わさずアンジェラの体をもぎとった。しっかりとアンジェラを自分の足で立たせている友人を見て「そりゃ、キミのそういう顔が見たいからに決まってるじゃん」と答える彼に、ウィルは聞こえよがしに嘆息した。
「あなたという人は、相変わらず……。アンジェラ、お茶をお願いしますね」
ウィルは、悪びれない友人の腕を掴むと、ずんずんと大股で応接間に向かう。そんなウィルの背中に「はい、だんな様」と行儀よく返事をしたアンジェラは、深々と頭を下げた。助けてもらった謝礼もこめて。
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「アンジェラ。そういうことですので、私は席を外しますね。何かあったら大声で助けを呼ぶんですよ」
釘を刺すと、ウィルは応接間の扉をパタリと閉めた。
室内に残っているのは、たった今、二人分のお茶を入れるという大役を終えたばかりのアンジェラと、応接間のソファに腰掛けたティオーテン様ことカークだけだ。にこにこと笑みを崩さないカークに、アンジェラは取り残されてしまった印象を拭えないまま、躊躇うように視線を彷徨わせた。
「さ、どうぞ、座って」
「えぇと……」
「座れ、と命じればいいかな?」
「はい」
命令に弱いアンジェラは、それでもせめてもの抵抗と、ソファに浅く腰を落とした。ウィルのために注いだばかりの紅茶が目の前にあるのは、飲んでもいいのか悪いのか分からない。
「今日はね、キミに聞きたいことがあって、こっちまで馬を飛ばしてきたんだよ」
「そ、そうなんですか。わた、あたしで良ければ、答えますけれど……」
すっかり萎縮してしまったアンジェラに「う~ん、固いなぁ」と呟いたカークは、ひとまず本題を後回しにすることにした。
「それはそれとして、説得はどうだい? 進んでる?」
「あ、あの、申し訳ありません。その……まだ、説得する以前の問題で」
「へぇ、ウィルと何かあったのかな?」
「……だんな様のプライバシーに関することでしたら、お答えできかねます」
拳を握りしめながらも、きっぱりと断ったアンジェラに、カークは「おや」と片方の眉を上げた。
「ふぅん? なかなか良い教育をされているね。それはウィルから言われたことかい?」
「いいえ、昔から、言い聞かされてきたことですから」
「昔……というと、アデッソー男爵かな」
「自分を売る前から、です」
予想外なアンジェラの答えに、カークの表情が変わった。その瞳は好奇心できらきらと輝いている。
「まだキミが家族と一緒に暮らしていた頃?」
「はい、折にふれて、教訓のようにいくつも教わりました」
まっすぐに前を見て答えるアンジェラは、カークだけにその神経を集中させている。どんな予兆も見逃さないようにと、ひたすら彼の感情の動きを読み取ろうとしているのだ。
「へぇ? 例えば、どんな教訓があるんだい?」
「はい、たとえば……『主人の利益を最優先に考え、自らの命は余裕のある時にだけ考えろ』という言葉があります。主人の利益を守ることは、自分の命を守ることにも繋がりますし、へたに主人の怒りを買ってしまえば、それこそ家族ぐるみで連帯責任をとらされかねません」
予想以上に衝撃的な教訓に、カークの唇の端が持ち上がった。
「ドアの向こうで聞き耳立てるぐらいだったら、一緒にこの部屋にいればいいのに」
慌てて振り向いたアンジェラが見たものは、怖いくらいに真剣な眼差しで少女を見るウィルだった。細く開けられた扉の隙間から覗く顔は、昨夜のウィルの顔を思い出させ、やはり夜のだんな様と同一人物であるのだと、アンジェラは恐怖から意識を逸らしながら納得した。
「あ、あの、聞いていたんですか、だんな様」
「……」
慌てて立ち上がるアンジェラに無言のまま、ウィルはドアを大きく開けた。
「カーク、いつから気づいていました?」
「ずっと。だって、最初から聞き耳立ててたでしょ? そんなに信用ないかなぁ」
「カーク、あなた、面白がって黙っていましたね」
「そりゃもちろん。でなきゃ、とっとと本題に入ってるよ。―――ほら、出てった出てった」
しっしっ、とジェスチャーで邪魔者扱いするカークに、「くれぐれも、アンジェラに何もしないでくださいよ」と念を押したウィルは、今度こそ部屋を出て行った。その足音が遠ざかり、階段を上がるような形で遠ざかっていくのを待って、カークは一人「うんうん」と頷いた。
「いやぁ、まったく、過保護なお父さんになっちゃって」
軽く肩をすくめて見せたカークは、改めてアンジェラに向き直る。
「さてさて、本題に入ろうか。……と言っても、アデッソー男爵、あぁ、キミの前の主人について聞きたいことがあるだけなんだけどね」
「前の、ご主人様のこと、ですか……」
アンジェラは、遠い昔のことのように、あの邸でのことを思い出せる自分に、少なからず驚いた。ここに来てからのほんの数日の間に、色々なことがあり過ぎて、いつの間にかあの日々を「過ぎたこと」に分類してしまっていたようだ。
「そう。まだまだ余罪が出てくるようなら、それに関係した人を蹴落としておきたいしね」
蹴落とす、とこともなく口にしたカークに、アンジェラは少し恐れを抱いた。
「あの、余罪と言われても、その、どういったことをお話しすればいいのか、分かりません」
「貴族関連だけでいいよ。ほら、アーカトン子爵みたいな、さ」
「……はい」
アンジェラはゆっくりと自分の記憶に向き直った。良い思い出など一つもないが、それでも、必要とされるなら、掘り起こすことは仕方がない。
しばらく考え込んでいたアンジェラの脳裏に浮かんだのは、とある絵のことだった。
「絵が」
「ん?」
「きれいな、絵が、たくさん置いてありました。神様の絵です。何人かの絵師に、弱みを握って描かせた絵、です。それを、誰かに渡していたご主人様は、取り分が少ないって、よく愚痴をこぼしていました」
「神様の絵、っていうのは、宗教画?」
「おそらく、そうなのではないかと思います。でも、裸で抱き合う男女とか、血まみれの男性とか、そういったものがたくさん描かれていました」
「ふぅん、一時期流行った冒涜画だね。あれだけ厳しく取り締まられてたのに、まだ手を出すバカがいたんだ。―――それで、誰に渡していたか、分かるかい?」
「侯爵、と言っていたと思います。その、名前を見たんですが、その、申し訳ありません。あたしは、字が読めないので、ぼんやりとした形しか覚えてなくて」
「書けるかい?」
侯爵、という言葉に、俄然興味を示したカークは、応接間の端に備え付けられていた紙とペンを手渡してくる。ペンなど数えるほどしか持ったことのないアンジェラは、いつか前のご主人様がやっていた仕草を思い出し、ペンをインク壺に軽くつけて、震える手で覚えている形を書いた。
記憶の中のおぼろげな記号を、まるで絵の模写のように丁寧に描こうとするアンジェラの手をカークが見つめる。
そうして出来上がった綴りに、彼はとても苦い顔をした。
「本当に、この字だったのかい?」
「やっぱり、綴りが間違っていますよね」
「いや、そっちはむしろ完璧だよ。キミの記憶力は大したもんだ。……本当にこいつだとしたら、いいネタ掴んだな」
後半の、まるで呟くようなセリフに、アンジェラはぞくりと背筋が寒くなるのを感じた。
「ほかには、何か思い出したことはあるかい?」
先ほどの低い声などまるでなかったかのように、明るく尋ねてきたカークに、アンジェラは、蓋を外してしまったことで泉のように溢れ出る記憶の中を、再び探り始めた。