07.優先順位と嫉妬
隣で、大きな溜め息が聞こえた。
家ではみんなが雑魚寝で、弟が溜め息など落とそうものなら、アンジェラはすぐさま気付いて宥めた。それは、アンジェラが小さい頃に、兄姉にされていたことの繰り返しだ。
(お母さん……?)
寝起きのぼんやりした頭で、溜め息の主を想う。
あぁ、きっと、またお金が足りなくて困っているんだ。今度は、自分の番なんだ。
お母さんに言われる前に、自分から言い出そうと決めて、アンジェラは目を開いた。……そこで、目が覚めた。
「だんな様?」
隣で上半身を起こして俯いているのは、母とは似ても似つかない、今のご主人様だった。
「あぁ、アンジェラ。起こしてしまいましたね、すみません。すぐに出て行きますから」
暗い顔で寝台から抜け出たウィルが、寒い空気に身を震わせた。だが、それを振り払うように真っ直ぐ扉に向かった背中を、アンジェラは慌てて呼び止めた。
「だんな様!あの、夜のだんな様も、話したら分かってくれました。その、昨晩は本当に何もありませんでしたし、バリケードを作るなんてことは……」
「まさか、大人しくしていた、と言うんですか?」
振り向いたウィルの顔は驚きに彩られていた。
「いったい、どうやって―――」
思わず問い詰めようとしたところで、ウィルは自分の状況を思い出した。自分も彼女も寝間着姿のままだ。
「後ほど、ゆっくり聞かせてください。……そうですね、朝のお仕事の後にでも」
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「シビントン夫人、アンジェラは今どこに?」
朝食を終えたウィルは、そわそわと落ち着きない様子で尋ねた。それを珍しいと思いながら、夫人はおっとりと食器を片付けながら答える。
「あの子でしたら、二階の客間を掃除していますよ」
「そうでした、忘れていました。シビントン夫人、実は明日友人が来るのですが」
「はい、ティオーテン様ですね」
「……私、言いましたか?」
「えぇ、昨日の朝でしたかしら。客室の用意と、追加の食材の注文を、と。―――昨日はご気分が優れないようでしたから」
夫人のフォローに、昨日の自分の状況を思い出したウィルは、こっそりと嘆息した。
「あぁ、そうでした。昨日はちょっと、頭痛が……いえ、良かった。ちゃんと言っておいたのですね」
「ですから、今、アンジェラに客室の掃除をお願いしたところだったのですが、何か、別の用件でも……?」
「いえ、大したことではありません。ただ、そうですね、午前中に客室の掃除を任せたのなら、午後のお茶をアンジェラに頼んでも? 少しだけ確認したいことがありますので」
「わかりましたわ」
シビントン夫人という橋渡し役がいて良かったと思いながら、ウィルは書類仕事のために書斎へと向かう。途中、アンジェラのいる客室の前を通ると、中からキュッキュッと何かを磨く音が聞こえてきた。
(焦ってはいけません。焦っては)
自分に言い聞かせると、今日するべき仕事に思考を切り替えた。何かにかかりきりになっていないと、余計な推測ばかりが独り歩きしてしまう。
たとえば、アンジェラは夜のウィルの行動を必死に我慢しているのではないか、とか。あの少女の言う「大丈夫」は全くアテにならないのではないか、とか。
「はぁ、私もまだまだですね」
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「失礼します」
アンジェラがお茶一式を持ってウィルの書斎に来たのは、昼食の後、しばらくしてからだった。
頭の中で手順を確認しながらお茶を入れるアンジェラの顔は真剣そのもので、ウィルは微笑ましく思いながら彼女が仕事を終えるのを待つ。
琥珀色の液体が注がれたカップを目の前にコトリと置かれ、ウィルは彼女の仕事を労うためにも、落ち着いてそれに口をつけた。手順正しく入れられたお茶はいつもと同じ味がする。
「アンジェラ、昨夜のことですが」
「はい、だんな様」
「夜の私が大人しくなった、そのあたりを詳しく話してください」
「詳しく、ですか? 昨晩は、随分とお疲れのようすであたしの部屋へ来ていました。あたしは、その、前の日みたいにならないように、って考えて、話をしようと言ったんです。そしたら、部屋が寒いからベッドで話をしようと言って来て―――」
アンジェラはウィルの様子に気がついて、口を閉じた。だが、頭を抱えて苦悩する姿勢のままで「構わずに、話してください」と促され、おそるおそる話を続ける。
「最初は、その、だんな様の呼び方について、違う呼び方をするようにと」
「呼び方ですか。何と?」
「えぇと、最終的に『ウィルフレード』様と呼ぶことで、納得してもらえました」
アンジェラに顔を見せないまま、ウィルは渋い表情を浮かべた。自分ですら「だんな様」のままだというのに、何だか先を越された感じがする。
「まぁ、私もその方がいいのですけれど。……続きを」
ちらりとアンジェラを窺えば、「とんでもない」という顔をしていたので、仕方なく先を促す。
「はい、それから、だんな様が、うで―――」
「うで?」
突然、言葉を切ったアンジェラに、ウィルが尋ね返すが、何かを考えるように難しい顔をして、口を開こうとはしなかった。
「どうかしましたか? アンジェラ」
「……あの、だんな様。詳しいことを話さないわけにはいかないでしょうか?」
「はい?」
おそるおそる尋ねてくる少女の言葉は、予想だにしないものだった。主の意向に従順な少女が、こういった拒否を示すとは思わなかったのだ。
「その、夜のだんな様の行動について、だんな様が知りたいとおっしゃるのは当然だと思います。でも、……わたし、いえ、あたしは、どちらも、自分のご主人様である以上は、その個人的なことを、言いふらすわけにはいかない、と、思うんです」
拳を白くなるほどに握りしめ、アンジェラはじっとウィルを見つめた。反抗をしてしまった以上、自分の発言に対する主人の動きを見逃すまいと、その瞳はまっすぐにウィルに向けられている。
「あー……」
声を出したものの、ウィルはそこで止まってしまった。
アンジェラの言い分もわかる。この年齢でどうしてそこまで、と思うほど、自分の主に誠実であろうとする姿勢は、むしろ褒めるべきものだ。だが、やはり感情というものは厄介で、何かが頭をもたげてくる。嫉妬に限りなく近い感情がウィルの中でむくむくと育っていった。いや、それは確実に嫉妬だった。
「アンジェラ。あなたは夜の私の味方をする、ということですか?」
「ち、違います! ただ、わた、あたしにとっては、どちらも同じ『主人』だから、同じように仕えて、でも、『主人』の不利益になるようなことを、『主人』に命じられたら、どうしたらいいのか、わからなくて」
アンジェラにとっては、夜のだんな様も昼のだんな様も、自分が仕える主だ。どちらを優先するということも考えられなかった。誰かに仕える、雇われる立場になったら、と、生まれ育った場所では、いくつもの教訓を叩き込まれてきた。もし、複数の主に同様に仕えることになったら、なんて教訓はなかったから、アンジェラは必死で頭を動かしていた。
「アンジェラ。何をどう言えば分かってくれるのかは分かりませんが、夜の私は―――」
コンコン
ノックの音に助けられたのは、アンジェラだった。ウィルの傍から離れ、扉を開ける。ノックの主はもちろん、シビントン夫人だった。
「お仕事中に申し訳ありません。来客がありまして」
「どちらからですか」
「王都より、報奨金を届けに、と」
「……すぐに行きます。応接間に通してください」
「はい」
頭を下げて退室する夫人に、アンジェラも「あたしも、失礼します」と続く。
なんて間の悪い、と呻いたウィルは、大きくため息をついてから、ゆっくりと応接間に向かうことにした。少しは気を落ち着けなければ、使者に八つ当たりしてしまうかもしれない。
――――結局、手続きや雑務に追われ、夕食を終えた今でも話の続きをすることができなかった。
それでも今日中に、と夫人が帰った後、アンジェラが夕食の片付けをしているはずの台所へ向かったのだが、そこはもぬけの殻できれいに片づけられた食器がアンジェラの仕事の速さを物語っていた。
「まったく、いつの間にこんなに早く仕事を終えられるようになったんでしょうね」
呟いてみるものの、答える声もない。さらに言うなら、夫人からもアンジェラの仕事の手が早いという話は聞いていた。怠けることなく集中してこなすため、休憩の声をかける必要があるという話だ。
それでも、何とか今日中に――また夜の自分が何かをしでかす前に話をしなければ、と足をアンジェラの部屋へ向けた。
コンコン、とノックをしてみるが、返事はなかった。気づかなかったのか、と2度3度と扉を叩くが、音がむなしく廊下に響くだけだ。
「アンジェラ? いませんか?」
ノブをそっと回して押してみると、あっけなくドアが開いた。首を伸ばして中を覗くと、しんとした部屋の中には人の気配はなかった。
「どこかの掃除でもしているんでしょうか」
呟いてみるが、そんなことはないと誰よりも知っていた。
(完全に避けられてしまっているようですね)
心の中で自嘲しながら、書斎に向かうことにした。今夜もできるだけ眠らないよう、本でも読むことにしよう。そう思って。
書斎に入ると、インクの匂いが鼻をかすめた。
「おや、インク壺を閉め忘れていました」
手元の燭台から明かりを移し、文机に近づく。
「くしゅん」
可愛らしい声に、ウィルの足が止まった。
「まさか、……アンジェラですか?」
返事を期待せずに、声のした方へと歩く。だが、数歩もいかないうちに、その歩みは止まった。
「あ……」
書斎の隅で膝を抱えてうずくまっていた少女は、すぐ傍まで来たウィルを見上げていた。
「こんなところにいましたか。……まさか、ずっと?」
「……はい、だんな様」
嘘をつくことはせず、それでも申し訳なさそうに頷いたアンジェラの唇は、少し青ざめて見えた。
「もしかして、私を避けて?」
弁解もせず、「申し訳ありません」と謝るアンジェラの顔は、きゅっと緊張で固くなっていた。
「そんなに、困らせてしまいましたか」
「……」
「あれから、私も考えたのですけれど」
ウィルはアンジェラに手を差し伸べた。
「あなたは、あなたの心に従いなさい。それで構いません。ただ、ひとつだけ守って欲しいことがあります」
「はい、なんでしょう。だんな様」
「自分をあまり粗末に扱わないこと。それだけです」
ウィルにとっては最大限の譲歩であるセリフに、アンジェラは返事もせずに困ったような表情を浮かべた。日に日に感情が表に出るようになっているのは見ていて嬉しいものだが、それをこのタイミングで出されても困る。
「どうしました?」
「あの、だんな様。ひとつだけ、聞いてもいいでしょうか?」
「はい。どうぞ」
「その、だんな様の言う『粗末』というのは、どういったことを指すのでしょう?」
なるほど、とウィルは頷いた。とりあえず少女に立つように言うと、せっかく差し伸べた手を無視して、すっくと立ちあがってしまった。行き場のなくなった手をしまいながらウィルは口を開く。
「これまでの生活環境が違いますからね。一口に粗末に言ってもいろいろとありますが……」
そう、きっと立ち上がるのを手伝うための手だったとは気づかれなかったのだろう、と自分に対する慰めを口にするウィルに、残念ながらアンジェラは気が付かないでいた。
「そうですね。とりあえず、夜の私に対して、身体の交渉は持たないこと。それだけは守ってください」
『体の交渉』という言い回しに、アンジェラはこてりと首を傾げた。
「あの、だんな様。身体の交渉というのは―――。っ! す、すみません。はい、わかりました」
疑問を口にしている間に思い当たることがあったのか、赤面して俯いたアンジェラに、ウィルもつられて気恥ずかしさを覚える。
「ま、まぁ、それだけは、お願いしますね」
「はい、だんな様」
「さぁ、部屋へ戻りなさい。今夜も冷えそうですから」
「はい、だんな様。失礼します」
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嘘をつくか、つかないか。それは一人一人が決めることだ。だが、覚えておくがいい。一度嘘をついてしまえば、真実は容易には口に出せなくなってしまう。真実のみを口にしていても、場合によっては嘘とされる。
言っている意味がわからんか。そうだな。ちと難し過ぎたの。まぁ、言えることは、真実のみを主人に伝え、その信頼を得るか、それとも嘘をつき続け、苦しいことを避けるように生きるか。どちらの生き方を選ぶかはお前自身に委ねられておる。そういうことじゃ。
近所にいた、名前も知らない人の言葉が、なぜか今になって浮かび上がった。
「あの人……」
確か、昔はお貴族様だったのに、落ちぶれてしまったと。たった一度の過ちが自分たちをここまで追いやったのだと語っていたのを覚えている。そして、それに対して「生きているんだからそれで十分でしょ」と自分が叱りつけたのも。
「誰だったんだろう」
アンジェラはひとり、呟いた。まだ、夜のだんな様が来る気配はない。昼のだんな様がまた食い止めているんだろうか。
ぼんやりと月を見上げていると、ここに来て、考え込むことが多くなったと気づいた。
「こんな時間なんて、ない方が良かった……」
落ち着く時間は、考え事をさせてしまう。思い出させてしまう。いろいろなことを。何かを考える前に、今日は夜のだんな様の来訪がいつになく待ち遠しかった。
じっとしていることがイヤになったアンジェラは、廊下に通じるドアを開けた。すると、ちょうど同じタイミングでバタンとドアを閉める音が聞こえた気がした。その音は、だんな様の部屋のある方だ。
(出て、来たのかな?)
待ってみても足音がしないので、アンジェラは廊下に足を踏み出した。一層冷たい空気が肌を刺した。
裸足のままで、ぺたりぺたりと廊下を歩く。妙に足音が廊下に響いて、なんだか孤独に泣きたくなった。
探検気分でだんな様の部屋の前まで来たが、特に中から何も物音は聞こえない。仕方なく自分の部屋に戻ろうとして、その途中にある書斎の前で、ふと止まる。
(明日も、ふつうに、話せますように)
下手にぎくしゃくしてしまうのはイヤだった。今日は、少しつらかった。明日は、うまくいくようにと願う。
「部屋を間違えてんじゃねぇか?」
声が、響いた。
「だ、んな様?」
暗い廊下の中、アンジェラは振り返って彼の姿を探した。この邸にいるもう一人の姿を。目を凝らしても何も見えなくて、まるで何かに背中を押されるように、それでも一連の動作をひどくゆっくりとしながら、一歩ずつだんな様の寝室の方へ近づいていく。
薄く開いた扉の向こうから、ウィルがアンジェラを覗くように見ていた。
「何を、なさっているんですか?」
細い隙間からこちらを窺っているだけで、出て来ようとしない彼に尋ねるが、答えはなかった。
ためらいながら、少しずつ近づいていく。
一歩。二歩。そして、扉のすぐ目の前まで来てしまった。
「捕まえたっ!」
突然、ドアが大きく開き、アンジェラは寝室へと引きずり込まれた。
「な、あの、だんな、様っ!?」
アンジェラの声が届いていないのか、そのまま、ベッドの方へと放り投げられた。
「んっ!」
あまりのクッションの良さにかえって酔いそうになりつつも、アンジェラは上半身を起こした。
「だんな様ってのは、誰のことだ?」
目の前に不機嫌極まりない顔が近づき、ようやくアンジェラは自分が間違えていたことに気が付いた。
「申し訳ありません、……ウィルフレード様」
「よーっし。……んで? お前、何やってたんだ?」
アンジェラは、ぐっと言葉を飲んだ。まさか、来るのを待ち切れずに出てきたとは言えない。
「眠れなかったので、少し、歩いていました」
「ふーん。じゃぁ、ちょうどいい。一緒に寝ようぜ」
「ここで、ですか?」
「もちろん。ここ、オレの部屋だし」
「一緒に寝るって、……腕枕だけ、ですよね?」
先ほど、昼のだんな様に言われたばかりのことを思い出して、念のために確認を口にする。
「それ以上をサービスしてくれんなら、遠慮なく受けるけど?」
「腕枕だけでお願いします」