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ひとつの空にあるように  作者: 長野 雪
出会いの冬
6/57

06.昼と夜のだんな様

 ピチュ、ピチュチュン、と鳥の鳴く声に誘われて、アンジェラはパチリと目を覚ました。昨夜の攻防の果てに、半分ほど開いたままのカーテンは、朝の光を呼び込んでいた。

 もぞもぞと動いた拍子に冷たい空気が内側に入り込んできた。思わず、くしゅん、とくしゃみをしたアンジェラは、体に巻き付けていたコートと膝掛けの端を整えた。

 ベッドを見れば、すぅすぅと穏やかな寝息をたてるウィルの姿があった。素人判断ながら、呼吸に違和感はないし、顔色も問題なさそうだから、昨晩のあれは大したことはなかったのだろう。

 アンジェラは凝り固まったお尻を持ち上げると、手早く着替えて部屋をそっと抜け出した。

 昨日と同じように響く、リズミカルな包丁の音に導かれ、アンジェラは台所へと足を向ける。


「おはようございます」


 アンジェラに振り向いて「おはよう」と挨拶を返したシビントン夫人は「今日もいい天気ね、よかったわ」とやわらかく微笑む。その笑顔に、アンジェラは自分の母親の姿を重ねて、じんわりと温かくなる胸を押さえた。


「あ、水、残り少ないみたいですから、汲んできますね」


 大好きな彼女のため、お腹の大きい彼女のために、率先して力仕事を申し出るアンジェラの耳に、カラン、カランと鐘の音が聞こえた。


「呼び鈴ね、誰かしら? アンジェラ、すぐに行くから出ておいてくれる?」


 今ちょっと手が放せないの、と言う夫人に素直にうなずいたアンジェラは玄関へと向かう。


「はい、どなたさま……」


 玄関の扉を開けながら声を上げたところで、彼女は慌てて口を閉じた。玄関を出たさらに先に門があることを忘れていたのだ。

 閂がかけられた門の隣にある小さな戸口から、ひょこ、と顔を出すと、門の外で待っていた若い男と目が合った。


「ども、郵便です」


 型どおりの挨拶をしたところで、彼は「あれ?」と目を丸くした。


「見ない顔だね。マリアさんの親戚か何かかな?」

「あ、あの、ここで働くことになりました。アンジェラといいます」


 首を傾げた彼は、二十代半ばぐらいに見えた。


「あぁ、そっか。マリアさんも臨月だしね。そりゃ後任の人を見つけないといけないよね……。あ、オレはいつもここの配達に来てるんだ。ついこないだまでは、じーちゃんが来てたんだけど、ぎっくり腰やっちゃってさ。―――あ、マリアさん」


 青年の声に振り返れば、そこにはシビントン夫人が大きなお腹をさすりながら歩いて来ていた。


「ごめんなさいね。ちょっと手が放せなかったの。ついでに、この子を紹介しておこうと思って」

「うん、聞いたよ。新しくこの子が働くんだってね。これからよろしく、アンジェラ。はい、これが配達物」


 彼はアンジェラに手紙の束を渡し、木札をシビントン夫人に差し出した。夫人はさらさらと受け取りのサインをして彼に返す。


「はい、確かに。それじゃ、アンジェラ。また郵便が来たら会おうな」


 にっかりと笑った彼は手を振って丘を下っていく。その途中、ふと思い出したように振り返って声を張り上げた。シビントン夫人に手紙の束を渡していたアンジェラは、首を小さく傾げた。何か忘れていたのだろうか、と。


「オレの名前はペリー。またな~!」


 つられて手を振るアンジェラの隣で、封筒を確認していたシビントン夫人は「あら」と声をもらした。


「ごめんね、アンジェラ。領主様を起こしてもらえるかしら。この手紙が速達みたいだから」

「はい」


 束のうち1通を受け取ったアンジェラは、水汲みを後回しに玄関へ向かおうとして、ぴたり、とその足を止めた。


「アンジェラ?」

「あの、玄関まで、一緒しましょう」


 少女が何を意図しているのか分からないながらも、夫人は「いいわよ」と承諾した。隣に並ぶわけでもなく。彼女の半歩後ろを歩くアンジェラは、じっと夫人の一挙一動を見守っているようだ。


「どうしたの? 何かついてる?」


 夫人の質問に曖昧に首を振るアンジェラを不思議に思いながら、玄関の前の段差を上ったところで、ようやく少女の言いたいことが分かって、小さく微笑んだ。


「もしかして、わたし、そんなによたよた歩いているかしら?」

「ち、ちがいますっ! でも、その、万が一、階段とかでバランス崩したら、ってあの、お母さんも、一度、転んで腰を打っちゃったことがあって」


 慌てて弁解を口にするアンジェラが可愛らしくて、シビントンはくすり、と笑った。「ありがとう、アンジェラ、心配してくれて嬉しいわ」と告げると、少女は一瞬、何を言われたのか分からないときょとんとしたが、それから、くすぐったいような照れくさいような表情を浮かべた。


「さて、階段も無事に上ったわ。お手紙持って、行ってらっしゃい」

「はい」


 足取り軽く、トトトトン、と階段を小走りで上がる少女を見送ると、夫人も台所へと戻って行った。




―――どうやって、起こせばいいんだろ?


 自分に割り当てられた部屋に戻ったアンジェラは、ベッドですやすやと寝ている『だんな様』を前に首を傾げた。


「えぇと、だんな様、起きてください」


 そっと肩に手を当てて、ゆさゆさと揺らしてみるが、起きる気配はなかった。


「だんな様……?」


 寝起きが悪い人なんだろうか、と思いながらも、何度も揺すってみる。たまに「うー」とか「むー」とか声が洩れるが、覚醒していない。


「あ」


 小さく声を上げたアンジェラは、手を口元にあてた。


「お酒だ」


 昨晩の『だんな様』は、随分とお酒臭かった。どれほど飲んだのかアンジェラに予想はつかないが、それなりの量を飲んだということは予想がついた。

 でも、起こさないという選択肢はない。

 手の中の封筒には、青いインクで何かが書かれている。きっとこれが速達の文字。


「だんな様。速達の手紙が届いています。起きてください」


 少しでも目覚めを促せないかと、用件まできっちりと伝えて揺さぶる。耳は覚醒しかけていたのだろう、布団の中の彼がもぞもぞと体勢を変えた。


「あー……、アンジェラ?」

「はい、だんな様」

「誰からですか?」

「……ご自分でお確かめになってください」


 文字が読めないアンジェラは曖昧な対応でごまかした。


「ときに、アンジェラ?」

「はい、だんな様」

「ここは、あなたの部屋だったりしますか?」

「……そう、です」


 少しだけ躊躇ったが、偽ってもバレること、とアンジェラは正直に答えた。途端に、ウィルはがばっと上体を起こした。


「また、やってしまいましたか」


 はぁ、と大きく溜め息をついたウィルは、すぐさまベッドから降りると、アンジェラの手から速達だという封筒を受け取った。


「ティオーテン? なんだ、カークですか。わざわざ速達で寄越すものなど―――」


 ふ、と口を閉ざしたウィルは、傍で立って控えていたアンジェラに向き直ると、シビントン夫人に「書斎に寄ってから朝食にする」と言付けた。

 こくりと頷いたアンジェラは、小走りに部屋を出ていくと、夫人に伝言を伝えて、そのまま外へと出た。眩しい太陽の光に一瞬目が眩んだが、気にせず裏手の井戸に向かう。とりあえず妊婦である夫人には、できるだけ力仕事はさせちゃいけない。それだけを考えて。


―――書斎で手紙を確認したウィルは、軽く身支度を整えて台所へと向かった。給仕をしてくれたのはシビントン夫人で、残念ながら、あの少女の姿はなかった。


「領主様、ご気分でもすぐれないのですか?」


 あまりに冴えない顔をしていたのだろう。食後のお茶を受け取りながら、ウィルは少しきまり悪そうに理由を告げた。


「少し、昨晩はお酒を飲みすぎてしまったようでして」

「まぁ、お珍しい。何かございましたか?」


 その先は問うてくれるなと、ウィルは曖昧に笑って濁した。まさか、アンジェラに迷惑をかけないために酔いつぶしてしまおうと思ったなどとは言えない。ただでさえ、目の前の夫人にも何度か夜のアレが迷惑をかけているのだ。夫人もあの少女のことを心配していたし、余計な不安を煽ることはない。


「シビントン夫人、水汲みが終わりました」

「あら、もう? 頑張ってくれたのね。あらかた朝の仕事も終わったから、休憩していていいわ」

「はい」


 夫人の指示に従順に頷いた少女に、ウィルは慌てて声をかけた。


「アンジェラ、あとで書斎の方に来てください。いくつか聞きたいことがあります」

「……はい、だんな様」


 少女はぺこりと頭を下げると、今度こそ台所を出て行った。

 ウィルは、いつもより少し歯切れのない返事をした少女が気になって、彼女が去った後に、夫人にアンジェラの様子を尋ねてみる。


「シビントン夫人、アンジェラは朝からあんな調子ですか?」

「そうでもありませんでしたけれど、……あぁ、もしかしたら、郵便配達の子に挨拶がてら紹介したので、思うところがあるのかもしれません」

「え? 郵便配達はチャトニーさんですよね?」

「今はそのお孫さんのペリーが配達してくれています」

「シビントン夫人、その子は顔が良かったり、背が高かったり、えぇと、とにかくカッコイイ感じの子なんでしょうか?」


 まるで、年頃の娘を持った父親のようなセリフに、シビントン夫人は思わず吹き出した。



.。:*·˚+.。:*·˚+.。:*·˚+.



こん、こん


 大きく深呼吸をしたのに、自分の出したノックの音が大きくてアンジェラの心臓が飛び跳ねた。


「はい、どうぞ」


 中からは優しげなだんな様の声がする。ここまで来て、戻ることもできなかった。

 昨晩は、あのだんな様を昏倒させる、なんてことをしてしまったのだ。どんな叱責が待っているのか分からない。それでも、アンジェラの頭には逃げるという選択肢はなかった。


「失礼します」


 ドアを開けると、革張りの椅子に腰掛けて自分を見ているウィルと目が合ってしまい、慌てて俯きがちに扉を閉めた。


「そちらにかけてください」


 主の目の前のイスに、そっとお尻を半分だけ乗せた。クッションのきいたイスは、予想以上に沈み込んで、ふわふわと頼りない。

 アンジェラの拳が強く握り締められているのに気付いたウィルは、彼女の緊張した様子に心の中で嘆息を洩らす。楽にするよう言ったところで、余計に恐縮させてしまうのは目に見えていた。

 このまま様子を見ていても埒が明かない、と用件を手早く済ませることにする。机から適当な紙を引っ張り出し、さらさらと文字を綴って彼女の前に置いた。


「さて、これは何か分かりますか?」

「……あの、塩、ですか?」


 文字を読んだ、というよりは確認するようにアンジェラは応える。


「では、こちらは?」

「あ、あたしの名前、です」


 今度はさっきの『塩』よりも素早く答えたアンジェラは、少し肩から力を抜いた。


「次は、これです」

「……わかりません」


 最後に書かれた文字は、ウィルの名前だった。


「これは私の名前ですね。文字が読めるかどうか知りたかったので、簡単なテストをしてみましたが、……最初の2つはどうして分かったんですか?」

「えぇと、見覚えのある形でしたので」


 形で見分ける。それは正しいアプローチだった。言語は記号の集まりなのだから。身近なものだけでも覚えていたのだろう。ただ、系統立った文字の覚え方はしていないようだ。


「文字を書くことはできますか?」

「自分の名前、だけでしたら……。申し訳ありません」

「いいえ、それだけでも十分ですよ。名前は誰かに教わったんですか?」

「近所に住んでいたおじいさんが、教養のある人だったみたいなので、家事の合間に教わりました」


 なるほど、と頷いたウィルは、昨日シビントン夫人から聞いたときに思いついた提案を口にする。


「これからは、空いた時間に、文字を教えましょう」

「え? そんな、もったいないです。いいんです、あたしはこのままで」

「いけません。娘に文字を教えて何が悪いんですか? それに、文字を覚えてもらった方が、色々な仕事ができるようになります。というより、文字を覚えてもらわないとできない仕事も多いんですよ?」


 困ったように視線をあちこちに振る少女だが、明確な反論も思いつけなかったのか、しゅん、と肩を落とした。


「ということで、決定ですね。明日から始めることにしましょう」


 ウィルの言葉に「はい」と答えるアンジェラ。返事だけは、長い奴隷生活の名残か、すぐさま戻ってくる。おそらく、言われた内容を理解しないうちから、反射的に返事をしているのだと思われた。


「さて、これから話すのが本題なんですが」

「はい」


 アンジェラは、ぎゅっと唇を引き結んでウィルに向き直った。どこか悲壮感を漂わせるような表情に、逆にウィルの方が驚かされる。


「えー、その、話したくなければ構いません。可能な限り、昨晩の私の行動を教えてもらえますか?」

「は、い。わかりました、だんな様」


 思い出すままに、ぽつり、ぽつりと語った少女の言葉に、ウィルは一つ一つ打ちのめされた。とりわけ、寝台に押し倒したくだりを聞いて、彼は顔を思い切りしかめる。


「最低ですね、私は」


 最後には頭を押さえて呻いてしまったウィルに、アンジェラは俯いた。突き飛ばして柱にぶつけてしまったことは不問のようだが、だからと言って、今後も同じようなことにならないとも限らない。


「とりあえず、夜は鍵をしっかり掛けて寝るように。夜の私が何を言っても聞かないでください」

「は」


 はい、と言い掛けたアンジェラの言葉が止まる。


「何か?」

「いえ、その、なんでもありません」

「言いたいことがあれば、遠慮なく言ってください。いえ、言ってもらわないと困ります」


 全て話すように促され、頷いたアンジェラは、おそるおそる返事を止めた理由を伝え始めた。


「その、あたしにとっては、昼間のだんな様も、夜のだんな様も、おなじ『主人』なんです。ですから、夜のだんな様の命令だけをきかない、というのは……」

「なるほど、そういう考え方をしますか」

「すみません」

「いいえ、構いませんよ。事実、夜のアレも『ウィルフレード』であることは間違いないのですから、アンジェラの言うことももっともです」


 どうしたものか、と考え込んだウィルを、アンジェラは待つ。


「……」


 だが、ウィルもどうすればいいのか、すぐには方針が決められないようだった。


「あの、あたしは、慣れていますから、大丈夫です。ですから、お酒を飲み過ぎたり、そういう無茶はしなくても」

「そういうわけにはいきません。……まったく、あなたのその考え方も、どうにかなりませんかねぇ」

「申し訳ありません、だんな様」


 迅速に謝罪をするアンジェラに、ウィルは苦笑を浮かべた。承諾の返事と謝罪だけは、すぐさま口にする。この癖も直していきたいと考えていた。


「対応は考えておきます。仕事に戻っていいですよ」

「はい、だんな様。失礼します」


 そそくさと逃げるように書斎から去っていったアンジェラを見送り、ウィルは大きく嘆息した。


「さて、本当に、どうしたものやら……」



.。:*·˚+.。:*·˚+.。:*·˚+.



(今夜は、どうしよう)


 ぽっかりと浮かぶ月を見上げて、アンジェラは一人、自分に割り当てられた部屋に佇んでいた。

 鍵をかけて、言うことを聞かないようにと言われたが、それは命令に逆らうということだ。主人の命令に逆らうなんて、絶対にやってはいけないことだと思うのに。


(そもそも、夜のあの人は、どういう人なんだろう?)


 2回しか会っていないけれど、強気で思うままに振る舞っているように見えた。

 でも、最初の夜にやって来たのはどうしてだろう。昼のだんな様は、夜の間の行動を知らないみたいだったから、夜のだんな様も、昼のだんな様の行動を知らないんじゃないだろうか。


「でも、お前がそうか、って言ってた、ような?」


 あの言葉だけを考えてみれば、アンジェラを引き取ったことは知っていても、アンジェラの顔を知らなかった、と考えるのが自然な気がした。誰かから聞いたにしても、夜の邸には、ウィルとアンジェラしかいない。どうやってアンジェラのことを知ったんだろうか。どうやってアンジェラの部屋を知ったんだろうか。さらに疑問が降り積もる。


(もし、お前の主人が想像もつかない行動をするのであれば、お前は必要以上に近付くべきではない。しかし―――)

「しかし、近くにいることを強いられた場合、主人の言動の全ての意味を汲み取る努力をするべきだ」


 それは、小さい頃に教わったこと。

 アンジェラのような下層階級にいる者は、誰かを主人として働くことを生まれながらにして定められる。そんな彼らの間に根付くいくつもの教えや掟。その一つがこの言葉だった。


「言動の、全ての、意味」


 言葉と行動、今までに目の前で見せられた全ての言動を合わせたら、どんなだんな様像ができあがるだろうかと考える。

 昼のだんな様は、何回も話したことで、分かってきたことも多い。あまり自分のことを話そうとしないけれど、行動のパターン、特に、自分に対して憤りを感じるパターンが掴めてきた。


(じゃぁ、夜のだんな様は?)


 月の傾き加減をみるに、そろそろ来てもおかしくはない。焦りを感じながらも、アンジェラは必死に思考を巡らせた。


「……会話」


 話してみれば、分かるだろうか。人を知るためには、やはり直接話すのが一番いい。自分の発したどんな言葉に、どんな反応をするのか。その繰り返しで見えてくるものは多いはずだ。

 とりあえず、頑張って話す努力をしてみよう。そう結論付けたところで、ドンドンドン!と扉が乱暴に叩かれ、ガチャガチャとノブを回す音が響いた。

 大きく深呼吸をして、窓際からドアの方へと向かう。心臓はこの上なく高鳴っていたが、あまり待たせて不快にさせるのはよくない。


「い、いま開けます」


 ガチャリ、と鍵を開けた途端、まるで倒れこむように彼は部屋に入って来た。


「よぉ。まだ逃げてなかったのか」


 アンジェラの肩にもたれかかるようにした男は、耳元に声を落とす。


「は、い。あたしは、ここ以外に、行くところなんて、ありませんから」

「へぇ? 逃げ帰る家もねぇのか。そんな状態でよくこんな所に来たな。……あぁ、そんな状態だからか」


 ごくろーなこった、と彼の手が少女の背中を軽く叩いた。そんな彼の息が荒く、なぜかじんわりと汗ばんでいるのに気付いたアンジェラは、そっと質問を投げかける。


「だんな様、お疲れ、ですか?」

「あぁ、あのヤローが自分の部屋にバリケード作りやがってな。何考えてんだ。出て来るのに一苦労だったぜ」


 ようやく姿勢を戻し、彼は真正面からアンジェラを見下ろした。アンジェラも、この先の行動を見逃すまいと、じっと彼を見上げる。姿は昼のだんな様と同じなのに、表情や声の出し方が全く違うので、全然別の人と相対しているような気分になるから不思議だった。


「……で、何して遊ぶ?」


 昨晩の遣り取りが浮かび、アンジェラの体が大きく震えた。


「あ、あの、だんな様っ。え、っと、……あぁ! だんな様のこと、何でもよいので、お聞かせ願えないでしょうか?」


 とにかく会話を、と考えて、さっきまで考えていたことを口にすると、彼はニヤリ、と笑みを浮かべた。


「へぇ、俺に興味あんの?」


 顔を覗き込むように寄せてくる相手に、アンジェラの体がすくみ上がる。


「ならさ、ここじゃ寒いから、ベッドで話そうぜ」

「!」


 膝裏と背中に手を当ててアンジェラを持ち上げた彼は、「軽過ぎるな」とボヤく。咄嗟に抵抗もできずに体をぎゅっと固めてしまったアンジェラを抱えたまま、器用に寝台の毛布を足で押しのけると、彼女をそのまま横たえた。逃げる隙を与えずに自分も隣に転がると、そのままアンジェラを片手で拘束したまま毛布をかぶった。


「冷てぇな。体あっためとけよ」


 冬の冷気に晒されていた互いの肌が触れ合うと、彼の方が不平を洩らした。


「あの、だんな様」

「だんな様はやめろ」


 セリフに既視感を覚え、そういえば、昼のだんな様にも同じようなことを言われたな、と思い至った。あの時は、どう呼ぶように求められたのだったか。


「領主様?」

「……」

「ご主人様?」

「……」

「……ウィルフレード様」

「なんだ?」


 思いついた二つを却下され、おそるおそる名前を呼んでみれば、ようやく返事が戻ってきた。ようやく本題に入れると、アンジェラは自分を羽交い絞めにしている腕をそっと触った。


「この、手を離していただけません、か?」

「イヤだ」


 まさか、この状態で会話をしろというのだろうか? お互いの顔も見ないで? 背中から拘束された状態で?


「離していただけないと、その、困ります」

「あー……、ようやくあったまってきた」


 アンジェラの意見など、聞く気はないらしい。それでも、これはない、とアンジェラは「ウィルフレード様?」ともう一度念を押すように名前を呼んだ。


「仕方ねぇな。腕枕してくれるんだったら、離してやんよ」


 想定もしていなかった言葉に、アンジェラの思考が止まった。今、何を言われたのだろう。


「うでまくら、ですか?」

「そう、うでまくら」


 それは、小さな子が母親に強請ねだるようなものではないのだろうか?


(そういえば、アインもセイルも寂しがりやだったよね)


 二人の弟を思い出し、アンジェラは少しだけ懐かしさに鼻の奥がつんとなった。


「うでまくら、ぐらい、でしたら」


 渋々承諾を告げると、途端に彼は少女を拘束していた腕を引っ込めた。体の向きを変えたアンジェラが、おそるおそる腕を出すと、すぐさま「やった」と声を上げて頭を乗せてくる。薄暗い部屋の中でも、銀色の髪はぼんやりと浮き上がって見えた。


「えぇと、ウィルフレード様は、腕枕がお好きなんですか?」


 要望に応えてみたものの、困惑したアンジェラは自分でもヘンテコな質問をしてしまったと、すぐに後悔した。


「オレ? 好きだよ? だって、あったかいし柔らかいし―――こういうことできるし」


 ウィルフレードは、乗せていた頭を動かし、アンジェラの胸に顔を埋めた。


「これがナイスバディな女だったら、言うことねぇけどな」

「あ、の……、だんな、さまっ!」


 恥ずかしいというよりも、剥き出しの喉にかかる髪の毛がひどくこそばゆくて、アンジェラは声を上げた。


「んー、このまま、このまま」


 まるで温もりを吸収するように動こうとしない様子に、アンジェラは自分の下の兄弟たちのことを思い出す。


(そういえば、心臓の音が落ち着くって、お母さん、言ってたっけ……)


 最初の夜と、昨晩と、アンジェラ自身も彼に眠れぬ夜を救われたことを思い出す。


(こんな広い部屋で、やっぱり一人は淋しいから)


 心の中で呟いて、まるで弟にしてあげたように、ぽん、ぽん、と背中を叩いた。


「ウィルフレード様……?」


 返事がないことに、アンジェラは大きなため息をついた。

 腕枕の体勢になってしまっているせいで、肩まで毛布をかけることもできないし、腕は重い。

 それでも、どうしてか悪い気分はしなかった。そして、そのままアンジェラも、すぅ、と睡魔に誘われて眠りの淵に沈んでいった。


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