02.火のない所に煙は立たず
カラン、……カラン
いつになく遠慮がちな来訪の鐘に、アンジェラは朝食の片づけをしていた手を止めた。
(誰だろう?)
誰が来たにしろ、だんな様が出かける前で良かったと思いながら、玄関を出て、門へ向かう。
「お待たせしました」
門扉の向こうに見えたのは、アンジェラの見知らぬ男性だった。顔立ちの整った金髪の美青年は、夏の日差しが照りつける中、黒い長衣をまとっている。首から下げられているいぶし銀のエンブレムに覚えがあったが、どこで見たのかまでは思い出せなかった。
「こちらのお邸に領主様がお住まいと伺ったのですが、いらっしゃいますか?」
「はい、確かに……。あの、お名前を頂戴してもよろしいですか?」
「これは失礼いたしました。私は中央国教会から派遣されました、エリヤ・クルサードと申します」
「かしこまりました。確認して参りますので、こちらで少々お待ちいただけますか?」
ぺこり、と頭を下げ、アンジェラは玄関に戻る。すると、ちょうど出かける支度を終えたウィルが階段を下りてくるところだった。
「来客だったようですが?」
「それが、中央国教会からいらした、エリヤ・クルサード様とおっしゃる方で……。あの、今、外でお待たせしているのですが、どうしましょう?」
「あぁ、先日、中央に戻ったダニエル司祭の後任の方ですね。……まぁ、たいして時間もかからないでしょうから、応接間に通しておいてください」
「はい、だんな様」
アンジェラは言われた通りに来客を応接間に通すと、台所の勝手口から外へ出て、井戸で冷やしていたお茶を引っ張り上げた。来客があった際には頼まれなくともお茶の用意はするのが決まりだ。
今日も朝からじりじりと太陽が照りつけてくる。そんな日に丘の上にあるこの邸まで来たのだから、きっと喉は渇いているはず。
応接間の方から、ドアの開閉音が響いてくる。アンジェラはトレイにお茶を乗せ、足音を忍ばせてドアの外に待機した。
(最初は軽い挨拶からだから……)
来客中はできる限りその会話の邪魔をしない。そのために、入室するタイミングを見計らう。それは、王都にいた時に、お世話になったメイドのリタから教えてもらったことだった。
コン、コン
「失礼いたします。お茶をお持ちいたしました」
来客にお茶出しするのは何度もこなしているが、それでも、カップを置く時は緊張を強いられる。できるだけ水面を揺らさず、耳障りな音も立てず、丁寧に、そっと。
「この子はここで住み込みで?」
「えぇ、しばらく前までは別の人に通いで来てもらってましたが、今は、このアンジェラが」
「アンジェラ……というのですか」
エリヤ司祭は濃藍色の瞳を細めてアンジェラをじっと凝視した。
「あの、何か……?」
たまらずアンジェラは小さく声を出す。
「町の人間ではないのですか? この教区の名簿には名前がありませんでしたが」
「教区の名簿を全て記憶しているのですか? すばらしい記憶力ですね」
「さすがに全てではありませんが、転属が決まってから目を通しました。確か、天使の名を持つ女性はいなかったと思いますが?」
「えぇ、事情があって引き取った子ですから、名簿には載っていないのも当然です。私のものと同様に、王都の方の名簿に載せていますよ」
アンジェラには「名簿」が何を意味するものなのか分からなかったが、それを気取られないように無表情を装った。
(でも、なんだろう。だんな様、ちょっと困ってる?)
表情にも声音にも出ていないが、何となくそう感じたアンジェラは心の中で首を傾げた。
「なるほど、それは失礼しました」
司祭が追及を止めたのを見計らい、「アンジェラ、下がっていいですよ」とウィルが指示を出す。
おとなしく従ったアンジェラは、再び台所に戻り、食器を洗い始めた。
(名簿って何だろう。……後でだんな様に聞いてみようかな)
朝食に使った食器を片づけ、テーブルをピカピカに拭き終わった頃には、アンジェラの思考は今日の献立に移っていた。
(今日も暑いし、あたしの昼は抜いてもいいかな。夜は、どうしよう? やっぱり、さっぱりしたものがいいのかな?)
すると、応接間からドアを開く音が聞こえた。どうやらエリヤ司祭が帰るらしい。玄関でお見送りをするべきか、と考えたアンジェラは台所を出ようとしたが、その足はなぜか止まってしまった。
(もしかしたら、あまり会って話をしたらいけないかな?)
自分の出身に疑問を持たれたのだろうか。だとしたら、うかつな言動はできない。
そんなことを考えていると、エリヤ司祭の辞去の挨拶が聞こえ、玄関が閉まった音がした。
「もう帰られたんですか?」
「えぇ。……何というか、とても真面目な人が後任に来たものですね」
ウィルは自分の肩に手をやって揉み解す。
「それで、その……アンジェラ? 大変申し訳ないのですが」
「何でしょうか?」
「その、今日の昼間は自由時間にするから、好きなことをしていてくださいと言ったのですが、何をして過ごすか決まっていたりしますか?」
いつになく歯切れの悪いウィルに、アンジェラは首を傾げた。
「――? はい。だんな様がファレスに乗って行かれるので、厩を徹底的に掃除しようかと思ってましたけど」
アンジェラの答えにウィルはほっと安堵したような、やっぱりと諦観したような複雑な表情を浮かべた。
「自由時間なんですから、もっと別のことに使ってもいいんですが。……どなたかと約束があるなら、と思っていたんですが、そうではないですね?」
「はい」
「えーとですね、先ほどのエリヤ司祭なのですが、昨晩、到着したばかりで、今、何かと手が必要な状況らしいのですよ。それで―――」
「あたしでよろしければ、手伝いに伺います」
ようやく話の肝を口にしてくれた主人に対し、アンジェラはそのセリフの先を次いだ。
「本当に申し訳ないのですが、よろしいですか?」
「はい」
念押しに頷きを返しながら、アンジェラは(何かの交換条件かな?)と邪推する。名簿の件以外でも何かがあったのか、とは思うものの、あまり詮索をしても仕方がないと、すっぱり考えを止めた。
「せめて、町の入口まで送ります。準備をお願いします」
「はい。荷車も出しますね」
「いえ、それは必要ありません」
「? ですが……」
「それほど荷物もありませんし、多少窮屈かもしれませんが、馬で行きましょう」
.。:*·˚+.。:*·˚+.。:*·˚+.
「アンジェラ、力を抜いて体を預けてもいいですよ?」
「いえ、とんでもないです」
半袖のシャツに麻のズボン、そしてエプロンと雑巾を抱えたアンジェラは主の愛馬ファレスの上で一人、緊張しきっていた。
(二人乗りの経験がないわけじゃないけど、ないけど……)
「馬に乗るのは初めてでしたっけ?」
「い、いえ、二回か三回ぐらいは乗せていただいたことはあります」
「そうですか。私とこうして乗るのは初めてだと思いますが、以前誰かに?」
ウィルの言葉の裏に嫉妬めいたものを感じ、アンジェラは慌てて思い起こした。
「えーと、去年の秋にオリバーさんに乗せられた、というか、運ばれたことがあって、あと、春にリーニエ様と相乗りしたことがありました」
「リーニエ……ヴィクトールですか。ジェルの姿で?」
「はい、王都近くの丘や、少し離れた所にある湖畔まで乗せて行っていただいたんですが、その、正直、揺れがひどくて」
「ヴィクトールのことですから、早駆けでもしたんでしょう。今度、手紙で文句でも言ってやりましょうか」
「そんな、ダメです。あのときは、あたしが性別を偽っていたんですから」
「別にそんなにムキになって怒らなくても。アンジェラはヴィクトールが好きみたいですね」
「そういうんじゃありません!」
突然、変なことを言いだしたウィルに、アンジェラが体をねじって顔を向けた。
「あの時は、ティオーテン公爵様にのせられてしまったとは言え、結果的に騙してしまったのに、あの後、お会いする機会もなくて、謝罪もろくにできなかったので。……えと、とにかく、そういうのではありませんから」
「そうでしたね。すみません、アンジェラ。……でも、そういうことであれば、こちらに来ないかと呼んでみましょうか?」
「そんな、謝罪するのに来ていただくなんて……」
「それじゃ、遊びに来ないか、程度に書いておきますよ。……さて」
突然、ウィルはファレスの手綱を引っ張り、足を止めさせた。
「町に入る前に、アンジェラに説明しておかなくてはなりません」
「……何でしょう?」
「エリヤ司祭の話していた名簿の件です」
―――この王国の民は、子供が生まれると教会に届け出をします。その名簿をもとにして課税などを決めている、というのは知っていますか?
残念ながら、貧民街で生まれたアンジェラについては、名簿には記載されていません。先ほど、エリヤ司祭には王都の方で登録されているはず、と説明しましたが、あれはハッタリです。あなたを引き取った際に、カークがうまくやるという話をしていたのですが、私自身が確認したわけではありませんからね。
そこで、念のため、気を付けていただきたいのですが――」
「……エリヤ司祭が疑っていらっしゃる、かも、ですか?」
「そうです。元々、人より幼く見られがちなアンジェラですから、余計に気になっているのでしょう。他の領地では子供に過酷な労働をさせ過ぎだと教会から厳重注意が下った時もありましたしね」
前のダニエル司祭はそのあたりは適当だったんですけどね、とウィルは苦笑いを浮かべた。
「分かりました。肝に銘じておきます」
真剣味を帯びた瞳で頷いたアンジェラを、ウィルはそっと抱き寄せた。
「だ、だんな様?」
「色々と気苦労をかけますが、よろしくお願いしますね」
片腕で抱き寄せたまま、ウィルは手綱を操り、ファレスを進ませる。
「あの、腕……を」
「こうでもしないと体重を預けてもらえそうにないですからね。今日は片づけの手伝いですよ? 今から疲れてどうするんですか?」
(だからって、これはない……っ!)
これから町に入るのに。というか、イザベラに見られたら後でからかわれる。カタリナやジーナに見られても、絶対イザベラの所まで話が行ってしまう……!
アンジェラの心配をよそに、ウィルは町中にファレスを進めていった。
結局のところ、朝市が終わった後の時間帯のせいか、あまり人に見られることもなく、アンジェラは平穏に教会に到着することができた。
町の中心近くにある教会は、大きくわけて二つの建物に分かれている。一つは礼拝堂。そしてもう一つは司祭の住まいである司祭館だ。
「エリヤ司祭様、いらっしゃいますか?」
どちらにいるかわからなかったため、両方に響くように声を上げると、礼拝堂の扉がゆっくり開いた。
「あの、誰ですか?」
顔を覗かせたのは、浅黒い肌に黒髪の――エリヤ司祭とは似ても似つかぬ少年だった。
「?」
「私はここの領主です。エリヤ司祭はどちらに?」
困惑するアンジェラの代わりに、ウィルが声をかける。
「あ、はい、すみません。ちょっと待ってください!」
バタン、と音を立てて大きく扉が閉めると、バタバタと奥の方へ駆けて行く音が聞こえた。
「今の、誰でしょう? 見たことがない子でしたけど」
「アンジェラと同じくらいか、もう少し年齢が低い感じでしたね」
そんなことを話していると、礼拝堂の窓から、先ほどとはまた違う子供が二人、おそるおそる、といった風情でこちらを覗き込んでいるのが見えた。
「あと二人、いますね」
「そうですね。先ほどの子とあまり変わらないような年齢に見えますが、町の子ではないですね。アンジェラも初めて見る子でしょう?」
「はい、あたしも見たことありません」
再び礼拝堂の扉が開き、今度はエリヤ司祭が顔を見せた。先ほど挨拶に来た時とは異なり、白いシャツに生成りのズボンを履いたラフな格好になっている。
「領主様、このような恰好で失礼いたします」
「いいえ、片づけにはそういった服装の方が良いでしょう。……それと、立ち入ったことを聞くようですが」
「あの子たちのことですね。私が引き取って育てています。本来なら前の教区に置いてくる予定だったのですが、何分、後任の方があまりこういったことを好ましく思わない方でしたので」
「なるほど、こちらとしては、新しい方が来られるのは大歓迎です。あまり気になさらないでくださいね。……っと、いけない。私は少し、打ち合わせがありましてね、これで失礼します。……アンジェラ、夕方にまた、迎えに来ますので」
「はい、分かりました」
エリヤ司祭の手前、迎えに来ることに反論もできず、アンジェラはしおらしく了承の言葉を返した。




