01.月明かりの下で
夏の夜を渡る涼しい風に、アンジェラは慌てて机の上の便箋を押さえた。
「……あぶない、あぶない」
目の前には自分で買ったインク壷とペン、そしてシンプルな便箋がある。
そこに何を書こうかと思案したアンジェラは、ここ最近の出来事を思い出す。
(ギルバート君の話、を書こうにも、会ってないしなぁ……)
アンジェラが思わぬアクシデントから取り上げた赤子――ギルバートは、もうすぐ一歳半になる。行動範囲もすっかり広くなって、と町で出くわしたシビントン夫人が色々と育児のことを話してくれたのは3日前のことだった。外出の時には夫が見てくれるときもあるから、随分と気が楽なのだと言っていたのは、今思えば惚気だったのかもしれない。
(後は……)
アンジェラはふと、一昨日のことを思い出した。
「そうだ、トムのことだったら―――」
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アンジェラは息を弾ませてその家の前に立った。
場所は知っていたが、こうして訪ねるのは初めてだ。街の中でも外縁……どころか、外れにあるのは、その仕事柄だと聞いたことがある。
「ごめんください。どなたかいらっしゃいますか?」
事前に連絡も何もしていないので、仕事中なのか、家にいるのかも分からなかった。
(お父さんのきこりの仕事を、手伝ってるって言ってたから)
不在であれば、二人揃って不在だろうと思いつつ、返事を待つ。
「はい、どちらさん?」
ガチャリ、と玄関を開けたのは日に焼けた中年の男性だった。穏やかそうなところは息子とよく似ているが、体格がぜんぜん違う。息子は、どちらかと言うとひょろりとしているが、父親は均整のとれた筋肉をつけている。
「あの、あたし、アンジェラと言います。トムはいますか?」
名乗ると、それまで怪訝そうにしていた顔がふにゃっと崩れた。
「あぁ、君があのアンジェラちゃんね。話は息子から聞いてるよ」
にっこり笑って、アンジェラの頭をぐしゃぐしゃっと撫でてから、くるりと家の中に顔を向けた。
「トムーっ! お前の愛しのアンジェラちゃんが来たぞー!」
すると、奥の方からドタドタバタバタと駆けて来る足音が近付いてくる。
「ちょっと、父さん! そういうのはやめてよね!!」
「お? だってさー」
「もう、あっち行ってて!」
トムはぐいぐいと父親の背中を押して、家の中に追いやろうとするが、「えー?」と不満そうな父親はビクともしない。
「ペタさんちに薪を届けるって言ってたよね? 僕がいくつかまとめておいたから、後はよろしく!」
「あーはいはい。邪魔者は退散するよ」
息子に邪険にされた父親は、やれやれと肩をすくめると家の奥に消えていった。
「ごめんね、アンジェラ。父さんの言ったことは忘れてくれるかな? あの人、ああいう冗談が好きで」
「とても気さくなお父さんですね」
「気さくじゃないよ。いたずら好きなだけだよ。―――それで、アンジェラ? 今日は、その、どうして?」
父親のインパクトに忘れかけていた本来の目的を思い出して、アンジェラは手提げから小さな包みを取り出した。
「以前、素敵な箱をもらったので、そのお返しを、と思って」
「あ、そんな、気にしなくて良かったのに。えっと、開けてもいいかな?」
アンジェラが頷くと、トムはもらった布袋の中を覗く。
「冬にいらっしゃったレティシャ様にレース編みを教えていただいたんです。その、まだ慣れていなくてあまり編み目がきれいではないんですが……」
「ううん、とってもきれいなコースターだね。ありがとう」
「良かった。喜んでもらえて」
「ほら、僕のうち、父さんと男二人じゃない? こういう小物ってないからさ。早速今日から使わせてもらうね」
「えぇ、ぜひ」
アンジェラはにこりと微笑むと、そのまま踵を返そうとした。
「あ、待って!」
「はい?」
「もしも時間があるなら、で、いいんだけど、お茶でも飲んでいかない?」
トムの言葉に、アンジェラの動きがピタリ、と止まった。
買い物のついでに友達の家に寄って来るとは言ってある。
だんな様には冷茶の場所を告げてある。
今日の夕食はさっぱりしたものを所望されたので、支度にはそれほど時間はかからない。
街の中心部から少し離れたこの家まで歩いて来たので、喉は乾いている。
考えを巡らせた結果、断る理由もなかった。
「そうですね。少しだけ、なら」
承諾の声をもらってから、トムの行動は早かった。
アンジェラを居間に招きいれると、テキパキと動いてお茶とお茶菓子の支度をした。と言っても、木から彫り出したコップに、小さな小皿に乗せられた赤い実がいくつかだ。領主の邸で供されるそれよりも、アンジェラにしてみれば親近感を覚えて逆にホッとする。
「これ、トムが?」
「こないだ、お隣のライおばさんからお裾分けもらったんだ。あそこのうちって、果樹園の端っこにグミの木を何本か植えてあるんだよ」
たまに渋いのが混ざってるんだけどね、とトムはその赤い実を口に含んでみせた。
「そういえば、アンジェラは花祭の頃はいなかったよね」
「あ、はい。だんな様と一緒に王都に行っていたので……」
「今年はね、僕がフィリップをひっかけたんだよ」
トムはにこやかに今年の花祭の顛末を話し始めた。今年もアンジェラと踊りたいと思っていた彼だが、領主様について王都に行ってしまったとなれば、諦めるより他はなかった。その鬱憤もあってか、フィリップを引っ掛ける方へ情熱を傾けたのだ。
「ほら、去年の花祭で『次は僕がやってみようかな』って言っちゃったじゃない。だから、フィリップが何か警戒しちゃってね。ダンスの練習中も、何か疑心暗鬼になってる感じで、僕の行動を監視してたんだよ」
身振りを交えて語るトムの話に、アンジェラは口元に手をあてて、小さく笑った。
「よっぽど、去年のことがキズになってたんですね」
「そうそう。だから、エリックに女の方のダンスを教えてもらおうと思ったんだけど、それもできなくてさ」
「でも、最終的には、うまく騙せたんですよね?」
「そう、それはね、本当にエリックに感謝しなきゃ。アドバイスしてくれてさ」
「アドバイス、ですか?」
「うん。僕はね、練習中にフィリップにこう言ったんだ。『去年のは冗談だよ。エリックじゃあるまいし、そんな恥ずかしいことやるわけないじゃないか』って。」
日頃おとなしいトムが言ったからこそ、その言葉も真実味を帯びていたのだろう。フィリップには悪いが、これはエリックの悪知恵の勝ちだった。
「それでも、ちょっと疑ってたから、イザベラに協力してもらってね。こっそりダンスを教えてもらったんだ」
「イザベラも仕掛け人ですか? ちょっとフィリップが可哀想かもしれないです」
「まぁ、日頃の行いが悪いせい、ってイザベラは言ってたけどね。でも、さすがに、もう仕掛ける人がいないからね。来年は大丈夫なんじゃないかな」
「そうですね」
そんな微笑ましい息子と息子の想い人(?)との楽しげな会話を盗み聞いていたトムの父親は、窓の外で小さく笑った。
何かと引っ込み思案な息子だが、ちゃんと想い人相手にも二の足を踏むことなく話せているようで、安心した、と胸を撫で下ろす。
そして、楽しそうに話す二人、とりわけ訪ねて来た少女をこっそりと見る。
「それにしても……似ている」
誰に、とは言わない。あの人のことを知っている人間は街にはいないだろうが、用心することに越したことはない。
自分でさえこう感じるのだから、領主様の心境はどうなのだろうか。
彼は重い溜息をつくと、配達予定の薪を担ぎ上げた。
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『―――ということでした。あたしも春の経験を生かして、次の花祭に男装してみてもいいかな、と思ったのですが、だんな様のお供もありますので、できそうにはないです。せっかくだから、ジェルとして装った経験を生かしてみたいのですけれど。
レティシャ様の方も、あの後、特に問題もなかったみたいで安心しました。あたしは、ほんの少し社交界を垣間見ただけでしたが、それでもその怖さは実感しました。
遠く離れていますので、すぐにお話を伺うことは叶いませんが、何かありましたら、またお手紙をいただけますか。
王都の夏はとても蒸し暑いと聞きました。どうかお身体に気をつけてくださいませ』
書き終わったところで、アンジェラは、ふぅ、と息をついた。
最初から読み直し、綴りのミスや表現が変な所がないかを確かめる。
春の一件から、レティシャとの文通は続いていた。お互いの近況を送り合うだけだが、ある時からアンジェラは気づいた。――――遠い王都の様子を知る手がかりになる、と。
少しでもいい。情報が欲しかった。
あの方を守るために。自分の居場所を守るために。
風で飛ばされないようにペーパーウェイトを乗せると、アンジェラは燭台の炎を吹き消す。
ふいに頬を掠めた風――昼の熱気とは全く異なる涼しげな夜風に、アンジェラは窓辺に足を向けた。
星が瞬き、月が煌々と輝いていた。遠くに目をやれば、家の明かりがひとつふたつと見える。
(明日は午前中からだんな様がお出かけされるから……)
そろそろ厩舎を徹底的に掃除しよう。
そう思って、窓に背を向け、寝台に身を預けた。昼間の暑さが想像以上に堪えていたのか、睡魔はすぐに襲ってきた。




