08.そう在って欲しいと願う未来
「目と口を瞑ってください」
リタに言われるがまま、アンジェラは目を閉じ、口をきゅっと引き結んだ。まぶたと唇に何かが塗られる感触がある。
「目を開けても結構です」
アンジェラが目を開けると、さくら色の唇と、くっきりはっきりした目元の自分がいた。頬は淡いオレンジ色に染められている。
(もう、黒髪にも慣れてしまった)
ドレスは深い紫色に、スミレ色のレース。腕の傷跡を隠すため、白い手袋をリタにはめてもらう。丈の長いそれは、ドレスの袖の下まで達し、肌を覆い隠していた。
「上出来ですわ。アンジェラ様」
リタに言われ、姿見の中の自分を見つめる。あちこち角度を変えてみるが、自分の金の髪が出ている所もない。
リタに渡された仮面を身につける。右目のところに泣きぼくろのように紫のガラスがはめ込まれている以外、至ってシンプルなものだ。
最後の仕上げに、と両手首とうなじに香水を吹きかけられた。
「いってらっしゃいませ」
「……いってまいります」
着替えを終えたアンジェラは、ばくばくと鳴る心臓を抑え、大広間へ通じる廊下を歩く。
(ジェルのときは、レティシャ様といたけれど―――)
ここから先は、一人。
そう思っていたアンジェラの視界に、一人の紳士が映った。大広間に向かう扉の横に立っていた紳士は、アンジェラを見つけると、軽く右手を挙げた。黒っぽい装いの中で、左胸に飾られたのシルクの青いバラが一際目立つ。
(あれは―――)
「こちらです」
声を聴いて、それがウィルであることを確信する。
「あの、どうして……」
「花祭に踊れないのであれば、せめて、こういった場所で、と思ったのですよ」
その口調は昼のウィルのものだった。差し出された手に、反射的に自分の手を重ねる。反射になってしまっているのは、ひとえにマダム・リンディスの指導の賜物だった。
「ジェルが急いでくれて助かりました。最悪、間に合わないと思っていましたから」
夜のウィルとの入れ替わりまで、まだ時間があるのだろう。ホッとした様子のウィルフレードに、アンジェラも緊張していた表情を緩ませた。
「さぁ、行きましょうか」
ホールへのドアが開かれる。中はちょうど一曲終わったところだったのだろう、中央から何組ものカップルが去って行くのが見えた。
「ちょうどいいタイミングだったようですね」
手を引かれるまま、アンジェラはホールの中央に立つ。
「それにしても、そのドレス。……黒髪にはよく似合いますね」
「はい。その、あたしもびっくりしてしまって」
「まぁ、アレに仕立ててもらうのも癪ですから、災い転じて、というやつでしょう」
微笑む口元、つなぐ手から伝わる体温。今までずっと隣にあったけれど、ここ数週間で遠くにあったもの。
「どうかしましたか?」
「……いいえ、何か、その、久しぶりだなぁ、って」
何を、とは口に出せず、アンジェラは頬を染めてうつむく。
「そうですね。……もう、こういった離れ業はナシにしたいですね」
離れ業?と問い返す前に、楽団が曲を奏でる。
「さぁ、始まりますよ。ちゃんと顔を上げてくださいね」
「……はい」
ゆったりとした曲調に合わせ、ウィルとアンジェラがステップを踏む。
「うん、やっぱり、いい顔するね」
「どちらのことを言っているんだ?」
カークはいつの間にか隣にやってきていた友人に、ちらりと目を向けた。
「キミはどっちだと思うのさ」
「……両方か?」
「そうだね。これが両想いってヤツかな」
「ところで、妹を放っておいていいのか?」
言われて自分の妹を探すと、誰かに詰め寄られて逃げ腰になっているレティシャが見えた。
「あれは、グノーレ伯爵のところの……」
「デビュタントまで一目で分かるのか。さすがだな。……で?」
ヴィクトールが友人の顔に目を向けると、眉根にしわを寄せているのがありありと見てとれた。
「……まぁ、このぐらい、自分で頑張ってもらわないと、ね」
素直じゃない友人のセリフに、ヴィクトールは「ぶっ」と吹き出す。
「放っておくと、グノーレ伯爵に不幸がありそうだな。行ってやるから心配するな」
一方、アンジェラはウィルのリードに導かれ、のびのびとステップを踏んでいた。
(リードされる側って、こんなに楽だったんだ)
男の側の苦労を知るだけに、しみじみと思う。
「楽しそうですね」
「リードがお上手ですから」
リードすることに慣れているせいなのか、それとも視野角がとんでもなく広いのか。苦もなくアンジェラを導く様子に、ささやかながら嫉妬も覚えてしまう。
「こういう役得があるなら、こちらに戻ってくるのも良いものですね」
「役得、ですか?」
「えぇ。……あ、そろそろ曲が終わってしまいますね」
名残惜しそうにウィルが呟く。
「まだ、居てくださいますよね?」
「夜のと約束ですか?」
「……はい」
「まぁ、仕方がありませんね。ここで早く帰っても、後々、面倒になりそうですし」
楽団の手が止まり、曲が終わる。
「あまり無理はせず、楽しんでくださいね」
「はい」
だんな様も、と言いかけ、慌てて口をつぐむ。
手を引かれるがままに壁際に向かい、そして別れた。
(さて、これからどうしようか)
着替えの前にカークに釘を刺された以上、自分から声をかけるのはためらわれた。ならば、どうやって声をかけさせるか。
(フィリップの言う『逆ナン』は、これと決めた相手をじっと見つめるとか言ってたけど……)
果たしてどんな人だったら自分を誘ってくれるのだろうか、とアンジェラは考える。
「失礼、よろしいですか?」
声をかけられたのが自分と分かるまで、若干の時間を要した。
「あ、あたし、ですか?」
胸に白いアネモネを差した紳士が、そこにいた。年齢は三十歳前後だろうか?
「よろしければ、一曲、お願いできますか」
「はい、あたしでよろしければ」
紳士に導かれるまま、再びホールの中央に足を進める。
「先ほど、踊っていた方はお知り合いですか? 一緒に入って来られたようでしたが」
どきり、と心臓が跳ね上がる。そうだ、仮面をつけていても、素性はすぐに分かってしまうとか言っていた。
(それなら―――)
「いいえ、残念ながら。所要があって遅れてしまったところに、ちょうど、ホールの出口付近にあの方がいらっしゃったのですわ」
それなら、自分はあくまでウィルフレード様とは無関係でいた方が良い。自分の素性がバレることは万が一にもないのだから、怪しまれないように。
「そんなに有名なお方だったのですか?」
「いや、もしかしたら見間違いかもしれませんがね。私の知るその人は、もうずいぶん長いこと、王都には戻っていらっしゃらないですから」
「まぁ、そうですの」
ようやく曲が流れ始め、アンジェラは慌てて口にした。
「あの、あたし、あまりダンスが得意ではなくて……」
「これは失礼。デビュタントでしたね。ですが、問題ありません。私がきちんとリードいたします」
踊っている間は、お互い、当たり障りのない、それこそ胸に差したアネモネの話とか、アンジェラの着ているドレスの話に終始した。
「お声をかけていただき、ありがとうございました」
「こちらこそ。素敵なレディと楽しい一時を過ごせたこと、幸運を感謝いたします。次は仮面のない場所でお会いいたしましょう」
礼儀正しく一礼する紳士に、こちらもスカートの裾をつまんで頭を下げる。
(怖い……。本当に、すぐ分かってしまうんだ)
会話の中で、変なことを言っていないかと反芻する。
「失礼、一曲お願いしても?」
「あ、はい! ……あ」
低いバリトンに長身、胸には白いカラーを差している。その声にはとても聞き覚えがあった。
「弟に頼まれた」
「はい、伺っております」
白々しいと思いつつ、茶番のように『弟の教師』と『姉』の役を演じる。
「あの、ダンスは苦手と伺っておりましたが……」
「最低限は大丈夫だ」
そんなことを言うのはどうせアイツだろう。とヴィクトールがぶつぶつと呟く。
「お前は大丈夫か?」
「はい、何とか」
曲が始まるまでは、お互い向き合ったままで会話を楽しむ時間だ。
「あまりこういう場には出ないからな、気の利いた会話が思いつかないが……」
「その白いカラーは……」
「あぁ、ここのメイドに無理やり付けられた。あまりに味気ない恰好も問題なんだそうだ」
「他の男性も、色々と工夫をこらしていらっしゃいますね」
「あぁ、そうだな。オレのように胸に花を挿すだけでなく、襟元のボタンやら、袖口のカフスやら、そういやレースをつけているのもいたな」
予想外に饒舌になった相手に、アンジェラは笑みをこぼした。
「なんだ?」
「意外に見ていらっしゃるんですね。他の方々のことも」
「……まぁな」
他に見るものもないしな、と呟いたところで、楽団が曲を奏で始める。
「さぁ、いくぞ」
「はい」
.。:*·˚+.。:*·˚+.。:*·˚+.
(はぁ、疲れた)
やはり、ジェルの時に頑張り過ぎたのか、ヴィクトールとのダンスを終え、壁際で飲み物を手にしたアンジェラは大きくため息をついた。
(あ、これ飲みやすい)
王都での滞在中、ブロースクなどというやたらと強い酒の味を知ってしまったせいか、ブドウ酒が甘くおいしく感じられた。
次の相手を見つけることもできないまま、曲が流れ始める。
(あと二人か……)
たぶん夜のウィルフレード様と踊ったところで、公爵様はカウントしてくれないだろうと思い、壁際に陣取っている紳士をこっそり眺める。
「あら、こんなところにいらっしゃいましたの」
声をかけてきたのはレティシャだった。
「こちらはもうダメね。大半の人に素性がバレてしまっているようですわ」
「まぁ、そうなのですか?」
余所行きの言葉遣いで答えながら周囲を伺うと、なるほど、ちらちらとこちらを見ている紳士淑女が何名かいるようだった。
「これでは仮面も無意味になってしまいますわ」
「あの、失礼ですが、何人ほどと、その踊られたのですか?」
「そうね、踊ったのは五人ぐらいかしら。後は話すだけの人もおりましたし」
給仕から飲み物を受け取ったレティシャが、ちびり、と飲む。
「あなたは? 楽しんでいらっしゃいますの?」
「あたし、ですか? 楽しむ余力は、まだ、残念ながら……」
「ちなみに今日踊ったのは……?」
「まだ三人です」
「そう……」
人の目、人の耳がある場所なだけに、お互いに核心となる単語は口にできない。
もどかしさを感じていると、やや離れたところから、二人組の紳士がまっすぐこちらに向かっているのが見える。
「あれは……」
名前こそ口にしないが、レティシャにはそれが誰だか分かってしまったようだ。
「ご歓談の所、失礼いたします。レディ」
声をかけてきたのは薄紅色のバラを差した紳士だった。アンジェラの見立てでは二十代前半ぐらいだろうか。しっとりと落ち着いた低めの声からするに、もう少し年嵩かもしれない。
「社交界の雰囲気を味わえていらっしゃいますか」
後ろからやってきたもう一人は、襟元に金でできた獅子のピンをつけた紳士だ。薄紅色の薔薇の紳士よりもやや年下に見える。
「お気遣いありがとうございます。おかげさまで、楽しく過ごさせていただいておりますわ。ねぇ?」
「えぇ。あたしもこの春はとても不安でしたから、このような場所にご招待いただいたこと、光栄に思います」
レティシャに促されて、アンジェラが答えると、二人の紳士は意味ありげに視線を交わした。
(たぶん、あたしが誰かわからないってことなんでしょうね)
「そうですか。……よろしければ、次の一曲、わたくしどもと踊っていただけませんか?」
「まぁ、お誘いいただけるなんて光栄ですわ」
レティが薔薇の紳士の手を取り、アンジェラは自然と金バッジの紳士にエスコートされる。
給仕に飲み物を返すと、曲の終わったホールの中央へと向かう。
(レティシャ様、大丈夫でしょうか……)
最初に薔薇の紳士に声を掛けられたとき、不快そうな顔に見えたのは気のせいだったのだろうか。
「あの、あたし、実はダンスはそれほど上手ではなくて……」
「構いませんよ。デビュタントには珍しくないことです。私がきっちりリードして差し上げますよ」
押し付けがましい物言いにムッとするが、実際、ダンスのステップには自信がない。言い返すのも淑女らしからぬと判断して「お手数をおかけいたします」と小さく微笑んで一礼した。
「ところで、先ほどお話しされていたレディをご存じで?」
「いいえ。テーブルにいたところを声を掛けていただいたのですが……」
「声を……そうか、意外と」
口の中でもごもごと「意外と積極的なんだな」と呟いた紳士に、何となくピンときて、アンジェラは小さくため息をついた。
(そうか。……『ティオーテン公爵の末妹』を見定めに来たんだ)
たぶん、それが分かったからレティシャもあまり良い顔をしなかったんだろう。
(やっぱり、貴族も色々と大変なのね)
.。:*·˚+.。:*·˚+.。:*·˚+.
曲が終わると、金バッジの紳士は早々にアンジェラから離れた。どうやら、大した貴族の娘でないことが分かって、ターゲットから外れたということらしい。と、レティシャにそっと耳打ちされた。
「やぁ、僕と踊ってくれるかい。小さなレディ」
能天気にも聞こえるその声に、思い切りため息をついて見せてやりたいと、ちょっとだけ脳裏に浮かんだ。
(我慢ガマン。今はどこぞの貴族のレディなんだから)
自分に言い聞かせ、愛想よく笑みを浮かべて振り向く。
「あたしでよろしければ、喜んで」
「うん、いい返事。……ちなみに僕が五人目って知ってる?」
「えぇ、数えておりますから」
ホールの中央に向かいながら、何かやたらと視線が刺さる。
(あぁ、そうか。この人も周囲からは正体バレてるんだ)
そりゃぁ、この主催者と踊るようなレディが正体不明なら、変な視線も向けられるだろう。
「いやぁ、キミ。本当に大物扱いになってるって、知ってる?」
「まぁ、そうなんですの? でもどうしてでしょう。特に目立つこともしておりませんのに」
完全に余所行きの口調で受け答えるアンジェラに、カークはにやにやとする。
「君が踊った一人目と三人目が大物だからね。五人目に僕と踊るんだから、そりゃ、それなりに注目も集まるよ」
「そんな有名な方々に声をかけていただけるなんて、光栄です」
恥じらうようにうつむいて見せたアンジェラの耳元に、カークの唇が寄せられる。
「今回のキミの頑張りには本当に頭が下がるよ」
一瞬、何を言われたのか分からず、顔を跳ね上げた。
そのとき、楽団指揮者の腕が振り上げられ、ワルツが始まる。
「今日のあの子は、キミに弱いところを見せたくない一心で、踏ん張っているようだしね」
あの子がレティシャを指すものだと理解し、アンジェラは本心からの笑みを浮かべた。
「そんなことはありませんわ。元からあの方はお強いんです。あたしは単なるきっかけでしかありません」
「それでも、お礼を言うよ。……兄として」
最後の一言は声には出さず、口の動きだけで伝える。
少しだけ弾んだようにリードするカークの様子に、自然とアンジェラの口元にも笑みが浮かぶ。
「ダンス、お上手ですね」
「三人の中で誰が一番かな?」
「白いカラーの方はともかく、青い薔薇の方とはリードの方向性が違いますので、お答えできかねます」
言うなれば、ウィルのリードは相手をいたわるようなもの。カークは相手の技量を試しつつ、パートナーを綺麗に見せるものだった。
「ふぅん、方向性ねぇ。……あそこで待っているもう一人と踊ったら、もう一度、評価を聞かせてもらえるかい?」
顎でしめされた「あそこ」に目をやったアンジェラは、危うくステップを間違えるところだった。
服装こそ一人目に踊った人と同じだったが、胸に差したバラの色が、いつの間にか真紅に変わっている。
「赤い薔薇の人と、僕とはリードの方向性が似てるんじゃないかと思うんだよねー」
「あの、薔薇は……」
「あぁ、あれは僕が用意したよ。さすがに全く同じ装いじゃねぇ?」
「そうです、か……」
「気を付けてねー。一人目のことを話したら、ちょっとスネてたみたいだし」
気を付けるって何に。
アンジェラは小さくため息をついて見せた。
「おや、彼と踊るのは憂鬱?」
「いいえ。……それよりも、どうして、ここにいらっしゃる方々は、何かと張り合うのかと思っただけです」
「まぁ、メンツは大事だからね。……彼の方も厄介なのに声かけられてたでしょ?」
彼がジェルを指すものと分かり、アンジェラは「そうですね」と頷いた。
「あれだけタイプの異なるお二方ですのに、優劣つけないと収まらないようですね」
カークの手に促され、小さくくるりと回転する。
「まぁ、何かと有名な二人だからねぇ」
カークの意味ありげな視線に、その先を見れば、薔薇のレディと百合のレディが、ホールの端でまた何か言い争いをしているようだった。
「あぁいった、典型的な方を招待するのも、デビュタントのためですか?」
「……分かってるじゃないか。キミ、王都でもやっていけるよ。その推理力。どうだい? ボクの所に来ないかい?」
曲が終わり、二人のステップを踏む足が止まる。
「せっかくのお誘いですが、謹んで辞退させていただきます」
一礼すると、アンジェラはウィルフレードの方へまっすぐと歩き出した。
「やれやれ、フラれたか」




