06.戦の前の陣構え
すみません。ちょっと短いです。
その部屋は熱気と湿気が充満していた。
「あぁ、さすがに少しは緊張してきましたわ」
一人用のバスタブに、両手両足を投げ出しているレティシャが、ぐっと右手を握った。
「仮面舞踏会ということは素性が分からないということですよね? 気を楽にしても――」
隣に並べられたバスタブには、アンジェラが膝を抱えるようにつかっている。
「甘いわね、アンジェラ。あたくしのようなデビュタントだけが参加するのではありませんわ。仮面をつけていても、お兄様のように交際が広い人はすぐに分かります。そういった方々と親しげに話をすれば、すぐに大体は分かってしまいますわ」
レティシャの指の間を丁寧に拭ったメイドのリタが、今度はアンジェラの方へやってくる。
湯に浮かべられたポプリを握っていたアンジェラの手が、リタによって丁寧に洗われる。さっきから、リタに何かをやってもらうたびに、アンジェラは小さな声で「ありがとうございます」と呟いていた。
「もちろん、アンジェラの素性がバレるようなことはないでしょうけど、あたくしは、これも一つのデビューとなってしまいます」
「……そうですね。それでは、政治や経済について学んでいることは、悟られないようにしなくてはなりませんね」
「……そうね。相手が欲しがるのは、あたくしの血統だけですもの。下手に知恵をつけていることなど、知られてはならないのよね」
レティシャは、まるで隣のアンジェラに倣うように、体を縮めた。
「……レティシャ様?」
「大丈夫です。もう、あと数刻で舞踏会が始まってしまいますもの。アレコレ考えても仕方ありませんわ」
レティシャは不安を振り切るように頭を振り、ふと、隣のアンジェラを見遣って、ふふ、と小さく笑いを漏らした。
「なんだか、久しぶりにアンジェラの髪を見ましたわ。ずっと黒髪だったから、なんだか変な感じがしますわね」
「そうですね。かつらより、こちらの方が楽なんですけど、……まぁ、仕方ないですよね」
「えぇ、……でも、夜会服があって良かったわ。男性のものは、それほど流行に差がないので、お兄様のお古でも構わないけれど、女性のものはそうは行きませんもの」
「そうですね。こんな形で、だんな様のお気遣いが役に立つとは思いませんでした」
アンジェラは、リタに洗ってもらっている手を見つめた。手の甲や手首、腕などに、古い傷跡がいくつも浮かび上がって見える。お世辞にも綺麗とは言えない手。
「そうね。紫なんてアンジェラに似合わない色を、どうして選んだのかしら?」
「……他のドレスと色が重複しないようにと選んだようです。出来上がったものを試着した時に、だんな様も少し微妙な表情をされていました」
王都にやってくる途中、(ウィルが勝手に)注文を出していたアンジェラの衣類は、夜会服だけで三着もあった。そのうち、紫をベースにしたドレスは、アンジェラの幼さの残る顔にも、明るい金色の髪にも合わなかったのだ。どうやら注文主のウィルはアンジェラの瞳の色に合わせようとしていたらしいが、見事に失敗した。
だが、意外なことに、髪の色が黒くなっただけで、驚くほど似合うようになった。
(そこまで予想していたわけではないのでしょうけど)
洗い終わった手をひっこめ、アンジェラはポプリの入った袋をぎゅっと握りしめた。
「あの、レティシャ様」
「なぁに?」
「その……、男のジェルが、こういった香りをまとっているのは、その、よろしいのでしょうか?」
「そんなに強く香るものではありませんわ、アンジェラ様。それに会場では、他の方の香水の匂いに掻き消されてしまいますし」
主の代わりに答えたリタは、お湯の入った水差しを手に微笑んでみせた。
(それなら、このポプリにいったい何の意味があるんだろう?)
アンジェラの疑問に気づいたのか、リタが小さく笑いを漏らした。
「この香りは体臭を消すためですわ。後でハーブ・ティも用意しております」




