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ひとつの空にあるように  作者: 長野 雪
デビュタントと仮面の宴
45/57

04.他者の境遇と自分の状況

(……まさか、こんなことになるなんて)


 アンジェラは太ももと腹筋、背筋に違和感を感じてゲンナリとした。

 昨日、馬に乗って早駆けされたときに、変な力が入ってしまったのだろう。筋肉痛一歩手前の倦怠感があった。


「本日もありがとうございました」

「えぇ。ごきげんよう、アンジェラ」


 優雅に楚々とした足取りで、マダムは玄関から門へと歩いていく。


(あと、どれくらい頑張ったら、マダムみたいにきれいな歩き方ができるのかな)


 突っ張る筋肉をこらえ、頭を下げて床を見つめながら今日教えてもらったことを反芻はんすうする。


「――――アンジェラ様」

「はい」


 顔を上げて振り向くと、そこにはメイドが一人、控えていた。


「公爵様より、マダムのお見送りが終わりましたら、小応接間にお呼びするようにと申しつかっております」

「分かりました。すぐ伺います。どうもありがとう……」


 最後に口にしかけた「ございます」を飲み込んで、アンジェラはメイドを下がらせた。

 まだ先生の講義までは時間がある。どうせまた、変な思い付きで呼びつけたんだろうと当たりをつけると、小さく嘆息した。

 どういう理由で呼ばれたにせよ、行かないという選択肢はない。

 小応接間に向かうと、そのドアの前で大きく深呼吸をした。


(大丈夫、大丈夫、大丈夫)


 呪文のように自分に言い聞かせると、コンコン、とノックをする。

 中からの返事を確認すると、「失礼します」とドアを開けた。


「公爵様、お呼びと伺いましたが……」


 室内の状況を一瞥した直後、アンジェラは絶句した。


「やぁ、来た来た。――どう? この見違えるようなレディっぷりのアンジェラちゃんは?」


 カークの隣には、ヴィクトールが。

 そのヴィクトールの隣で、こちらを見ているのは……


「だんな、様?」


 長い銀髪、青い瞳。それは確かにウィルフレードだった。


(なんで、……信じられない)


 アンジェラは、ゆっくりとウィルに向かって足を進めた。途中、「いやー、感動のご対面って感じ?」と茶化すカークの声すら頭に入らない。


「久しぶりですね、アンジェラ」


 微笑むその表情が懐かしいが、それより何より――――


「アンジェラ?」


 目の前で止まったまま、自分を見つめる少女に、ウィルは戸惑って名前を呼ぶ。


「あの、だんな様。失礼を承知でお聞きしてもよろしいでしょうか」

「えぇ、別に構いませんが……」


 小応接間には、自分の他にウィルの友人であるカークとヴィクトールしかいない。大丈夫、と自分に言い聞かせる。


「お別れした際に、本邸は使用人も多いし、何も心配することがないとおっしゃっていましたよね?」

「えぇ」


 それが何か?と言いたげな表情に、アンジェラが腹にぐっと力を込めた。


「でしたら、どうしてそんなひどい顔付きになっていらっしゃるんですか? 明らかに顔色が悪いように見受けられますが」

「え? そうですか? そんなことはありませんよ」

「あります。血色も悪いですし、目の下に隈も作ってますよね。どこか具合でも……」


 そこまで畳みかけたところで、カークがぶはっと吹き出し、大笑いした。


「あっはっは、いやー、アンジェラちゃんサイコー。何この洞察力。やっぱ愛? 愛かなぁ? ヴィクトールはどう思う?」

「笑い過ぎだ。……まぁ、イベロトロッサでいかに伸び伸びとしているかが分かるな」


 ひー苦しい、とお腹を押さえたカークは、小さく息をついて、アンジェラに向き直った。


「あのね、アンジェラちゃん。王都でのウィルってこんなもんよ? 気は張ってるし、それに食事もろくにとってないんじゃないの?」

「カーク、その話は――――」

「黙っててもバレるって。いいかいアンジェラちゃん。ウィルのお家はね、ウィルにとっては決して居心地のいい場所じゃないのさ。それこそ食事に何が混ざっててもおかしくないぐらいにね」

「カーク!」


 慌てたウィルの様子が、何よりもそれが真実だと伝えていた。

 青ざめた様子のアンジェラを見て、カークが微笑む。


「だからこうして、僕らがアレコレ理由をつけて、食事に招いてるってわけ」

「アンジェラ、本当に心配はいりませんよ。いつものことですから」


 いつものこと、という言葉に、危うく怒りが沸騰しそうになって、アンジェラは慌てて大きく息を吐いた。


(あたしには、自分の体を大切にするよう言っているのに、自分のことになると……!)


「本当に、大丈夫なんですね?」

「えぇ。ですから、心配しないでください」


 少しだけ、いつもの調子を取り戻したように見えるウィルの微笑みに、アンジェラは再び大きく息をついた。


「分かりました。――――ティオーテン公爵様、だんな様にお引き合わせいただき、ありがとうございました。リーニエ様もお見えになっていらっしゃるようですので、あたしはジェルを呼びに」

「あぁ、ここに来るように伝えてもらえるかな」

(はぁ?)


 あやうくジェルのような口調で聞き返してしまうところだった。


「えぇ……と、ここに、ですか?」

「うん、せっかくだからウィルに引き合わせたいしね」


 ニコニコととんでもないことを言うカークに、アンジェラはぐっと奥歯をかみしめた。


(ジェルで会ったら、だんな様にバレるのは確実なのに)

「公爵様。ジェルはあの通りの性格です。だんな様に失礼があっては困ります」


 その言葉に黙って成り行きを眺めていたヴィクトールが「さすが姉、分かっているな」と呟いたのが聞こえたが、アンジェラは無視することにした。今はそこに意識を向けていられる状況ではない。


「う~ん、ウィルがそんなのに目くじら立てるとは思わないけどね。……じゃぁ、こうしよう。ジェルくんとウィルが顔を合わせることによって何か起こった(・・・・・・)としても、それは僕の責任ってことで」


 無礼を働いたら、とは限定しない言い方に、アンジェラはピンときた。

 視線をカークに向ければ、こちらが気づいたことに気付いたのだろう、意味ありげな笑いを送ってきた。


「分かりました。何かありましたら、お取り成しをお願いいたします。……だんな様、リーニエ様、失礼いたします」


 アンジェラは小さく会釈すると、小応接間を後にした。もちろん、その後は足音を殺して小走りである。


「カーク。あまりアンジェラをいじめないでください」

「いや、そんなつもりはないんだけどな。ねぇ、ヴィクトール、僕そんなにいじめてた?」

「そう見えたな。……それにしても、あのジェルの姉とは思えないな。顔は確かに似ているが、よほどの苦労人か」

「ジェル、というのは?」

「アンジェラちゃんの弟だよ。君も去年の夏に会っただろう? 思うところあってね、引き取って勉強させてるんだ」


 ウィルは夏に会った三人の子供を思い出す。勉強させているということは、一番年上の子だろうか。


「カーク。……また悪企みですか」

「いやだなぁ、将来への布石とか、もうちょっと良い言葉で言ってくれない?」

「ウィル、諦めろ。こいつにそんなことを言っても、却って調子づかせるだけだ。それに、ジェルも黙って利用される類の人間には見えない」


 ヴィクトールの言葉に、ウィルは状況を察して眉間に手を当てた。


「ヴィクトール、その子に教えているのは君ですか?」

「そうだ。貴族の子弟にしては、中々骨がある。軍に入れてもいいぐらいの人材だ」

「あなたがそうまで言うのなら、良い子なんでしょうね」


 その評価に、カークが笑いを抑えきれずにニヤニヤとした。


「良い子、ねぇ? どうだろう、ヴィクトール?」

「叩き甲斐のある人材としか言えんな」


コン、コン


 遠慮がちなノックの音に、カークが「誰かな?」と声を投げた。


「ジェルです。姉からこちらでお呼びと伺いましたが……」

「うん、入って」


 ガチャリとドアを開け、入ってきたその人影に、ウィルは瞠目し、次いで眉間に手をやった。


「やぁ、ジェルくん。良く来てくれたね。……ウィル、この子がジェルくんだよ」


 ジェルは緊張した面持ちでウィルを見つめた。


「姉さんがいつもお世話になってます」


 ペコリ、と礼儀正しく頭を下げる。


「あなたがアンジェラの弟ですか。アンジェラによく似ていますね。何でもヴィクトールに師事しているとか。ヴィクトールは教え慣れてはいますが、まぁ、根っからの軍人ですから、厳しいでしょう?」

「はい。でも、とても分かりやすく教えてくれますよ」


 そう答えたジェルは、まっすぐにウィルを見て、その瞳に不機嫌そうな輝きがあるのを見てとった。


(ほらバレた……!)


 この目は明らかにバレている。せめて先生の前でその話を持ち出さないで欲しいと思いつつ、視線を受け止めた。


「これから講義ということでしたね、頑張ってください。……ところで、カーク、実は相談したいことがあるんですが?」


 少し剣呑な響きを含ませ、ウィルは隣の友人を睨むように見た。


「うわ、すっごいヤな予感。……まぁいいや。ヴィクトール、ジェルくんのことお願いするよ」

「お前に言われるまでもない。――行くぞ」


 先生に促され、ジェルはウィルに辞去の挨拶をすると、小応接間に背を向けた。


「う~ん、ボク何かヘマしたかなぁ、先生?」

「ずいぶんしおらしい態度だったと思うが。姉に何か言われたか?」

「くれぐれも失礼のないように、とは言われたけど。それに先生みたいにからかって面白いタイプでもないし」

「減らず口を叩くな。だが、ヘマをしたと言うなら、カークの方だと思うがな」

「そうですか?」

「明らかにカークに脅しをかけていたな。……地方にこもったと聞いたが、手腕は相変わらずと見える」

「手腕、ですか?」

「あぁ。……まぁ、お前には関係のないことだ」


 ジェルはドキドキしながら、二人残った小応接間でいったい何が話されているのか心配した。


(どうか、公爵様がとりなしてくれますように)



.。:*·˚+.。:*·˚+.。:*·˚+.



「どうしたの、アンジェラ? 顔色が悪くてよ」


 夕食を終え、明日の講義に向けての再確認をしていた時、レティシャが心配そうな声をかけてきた。

 隠し部屋で講義を聴いているレティシャだったが、毎晩、当日の講義内容の整理を二人で行っている。お互いに復習をするのと、レティシャが質問したい点を、翌日の講義で確認するためだった。


「いえ、大したことでは……」

「そう? それにしては夕食も上の空だったでしょう? せっかく二人きりだったのに、あまり話も弾まなかったじゃない」


 夕食は確かに二人きりだった。……給仕を除いて。


(さすがに給仕の人のいる前で、あれが心配とか言えないし)

「アンジェラ?」

「いえ、何でもありません、レティシャ様。明日の質問はこの三点でよろしいでしょうか?」

「えぇ、それだけよ。……ねぇ、もしかして、ウィルフレード様がいらしていることに関係しているの?」

「いらしてる? まだいらっしゃるんですか?」

「えぇ、夕食はリーニエ様とお兄様と三人でお取りになったみたい。その後は、お兄様の部屋でお話し中だとか、……飲んでいらっしゃるのかしら?」


 反射的にアンジェラは窓の外を見た。既に星が瞬いている時間だ。「だんな様」はもう眠っていて、「ウィルフレード様」が起きている時間だろう。


(会いたい、けど、自分から会いに行くわけにもいかない、よね)


 小さく嘆息した時、コンコン、と遠慮がちなノックの音が響いた。


「失礼いたします」


 入って来たのはレティシャ付きのメイド、リタだった。この邸の中で数少ない、アンジェラ=ジェルを知っている人物である。


「公爵様よりお言付けがあります」


 そういって、小さく畳まれた紙片をアンジェラに渡した。その手にはなぜかメイド服一式を持っている。

 紙片に目を通したアンジェラは、くらり、と立ちくらみを起こしそうになった。

 その様子を見て、レティシャがアンジェラの手にした紙片を覗き込む。


「何を考えているのよ、お兄様ったら!」


 紙片に書かれていたのは、ウィルに状況を説明し理解してもらったという報告だった。だが、それだけではなく、『メイド服を着て酒とつまみの追加を持参し、そのまま宴席に加わること』という指令も一緒に書かれていた。



.。:*·˚+.。:*·˚+.。:*·˚+.



 宴会場所であるカークの私室の一つに案内してもらうと、アンジェラはリタに小さくお礼を言った。

 レティシャの元に戻るリタが十分離れたことを確認してから、アンジェラはドアをノックする。


「おつまみの追加かな、入りなよ」


 能天気なカークの声に、さすがのアンジェラもイラッときたが、そこを堪えて深呼吸をした。


「失礼いたします」


 酒・つまみ・食器が満載のワゴンをカラカラと押し、入室した。

 床に広げられたクロスに、酒瓶やつまみが所狭しと並んでいる。

 それを取り囲むようにカーク、ウィル、ヴィクトールの三人があぐらをかいて座っていた。部屋に充満するアルコールの匂いから、かなりの量を飲んでいるようだ。


「やぁ、アンジェラちゃん、似合うね」

「ティオーテン様、人をゲスト扱いしておいて、このお呼び出しはいかがなものかと思いますが……」

「えー? だってウィルがアンジェラちゃんに会いたいって言うんだもん。さすがにいつもの綺麗な恰好だと目立つから、メイド服まで準備したんだよ?」


 その元凶を見れば、「よぉ」と軽く手を上げていた。

 ヴィクトールは声こそかけないものの、「大変そうだな」という視線をこちらに向けている。

 アンジェラは仕方ない、と腹をくくった。

 失礼します、と声をかけて、空き瓶や空いた皿を回収し、追加のつまみと酒瓶を並べた。

 その様子を、カークとウィルはニヤニヤ笑いながら、ヴィクトールは「すまんな」と声をかけて眺める。


(夜のだんな様のお顔も見れたし、先生にバレないうちにとっとと片づけて帰った方がいいよね、うん)


 ドア近くに置いたワゴンに汚れた皿や空き瓶を積み終えると、辞去の挨拶をする。


「おい、アンジェラ。せっかく来たんだから付き合えよ」

「ウィルフレード様、大変申し訳ありませんが、明日も早いので……」

「あん? あぁ、礼儀作法のってヤツか。じゃぁ、ちょっとこっち来いよ。顔ぐらい近くで見せてもらったっていいだろ?」


 アンジェラは嫌な予感を感じながら、トコトコとウィルの隣まで足を運んだ。そして、ジェスチャーされるまま、腰をかがめる。


「久しぶりだが、あんまし変わらねーか?」

「最後にお会いしてから、そんなに日数が経っているわけではありませんから……ゃっ!」


 いきなり腕をつかまれ、アンジェラはウィルの方に倒れこんだ。そのままどこをどうされたのか分からないが、気づけば、お姫様だっこのような形で、ウィルの膝にすっぽりと収まっていた。


「ウィルフレード、様っ!」

「暴れんなっつの」

「あははー、捕まった」

「……」


 茶化すカークとは対照的に、ヴィクトールは諦めの混じった顔で様子を眺めている。

 なんとか逃れようと手足を動かすアンジェラに、さすがに悪いと思ったのか、ウィルは「じゃぁ、ここな」と自分のすぐ隣に誘導した。


「ちょっと付き合うぐらい、いいじゃねぇか」


 新しいグラスをアンジェラに持たせ、とぽとぽと飴色のお酒を注ぐ。


「この顔ぶれですと、『ちょっと』では済まなそうだから、遠慮したいんですけど……」

「えー? アンジェラちゃん、ひっどいなぁ。そんなことないよ?」

「公爵様、イベロトロッサにいらっしゃる度に、お邸のお酒の備蓄を空にされて帰りますよね、ウィルフレード様と一緒に。……それに、リーニエ様も、とても強いお酒を好む方だと、弟から聞いています」


 ちらり、とヴィクトールに目をやれば、案の定、あの時と同じブロースクを手にしている。


「とか言いながら、オレに聞きたいことあるんだろ? ……ほら、乾杯」


 促されるがままに、アンジェラはグラスに口をつけた。甘口であまり強くないお酒にホッとする。


「あります、けど、ウィルフレード様はお元気そうですので、ちょっと安心しました」


 その言葉にヴィクトールがカークに声をかけ、何事か言っているのが視界に入ったが、「気にしない」と意識の外においやる。


「まぁ、オレは外に飲みに出てるからな。昼のヤツにも頼まれたし」

「頼まれて、ですか?」

「そ、食事にあんまし手ェつけられねーって、身分がバレないように街の酒場で飲み食いしろってさ」

「そうだったんですか……」


 ホッと安堵に胸を撫で下ろした。


(そうだよね。だんな様だって、王都にいるのはよくあることなんだから、いろいろ考えてるのは当然……だよね)


 食べ物に何か混入されているのが当然、ということには、心が逆なでされる思いがするが、ちゃんと分かって対処しているなら、大丈夫、と自分に言い聞かせた。


「オレの心配してくれるのもいいけどよ、オレはお前の方が心配だ」

「え?」

「お前、カークの野郎に、何か無理言われてるんじゃないか?」


 その言葉が予想外で、アンジェラはびっくりしてウィルを見つめた。


「カーク、言われてるぞ。当たり前のことだが、お前は信用ないな」

「うわ、ひどい言われようだよ。僕はこんなに親切なのに……」


 アンジェラは、二人の声に我に返る。全員に聞こえている中で答えるのは、非常に難しい。


「ここに呼ばれたことのように無茶を言われることはありますけど、でも、そんな無理は言われてないですよ?」


 とりあえず、角の立たない言い訳をしてみる。


「それに、……それに、新しいことを勉強させてもらえるのは、とても嬉しいです。弟も、こんな機会、流れ星にぶつかるぐらいに、稀なことだし、これを掴まないとって意気込んでますし」


 三人の視線を感じ、心を落ち着けるように、手にしたグラスの中身をこくり、と飲んだ。


「えぇと、あたし達って、こんなに順序立てて教えてもらえることって、ないんです。どっちかと言うと、徒弟制度みたいな、他の人のやること見て、自分のやることを覚えていくような感じですから。だから、学ぶためだけに時間を使えるっていうのが、とても新鮮で、楽しいんです。無理なんかじゃありません。本当に」


 わたわたと思うままのことを言いきってから、ちょっとしゃべり過ぎたと、反省のため息をついた。


「へー、楽しいんだ。あのマダム・リンディスで?」

「はい。マダムは確かに厳しいところはありますが、こうあるべき、という理想形をきっちり見せてくれますし、その理想形の理由まで教えていただけるので、非常に勉強になります」


 キビキビと答えるアンジェラに、やや好意を抱いたのか、女嫌いというヴィクトールが「立派なもんだ」と褒めた。


「ヴィクトールが褒めるなんてね。こりゃ、明日は大雨かな?」

「いや、雷だろ。もしくはお天気雨とか。なっ、ヴィー」

「その愛称で呼ぶな、憎たらしい」


 ヴィクトールは照れ隠しか、ぐいっとグラスをあおった。


(あ、あれ、ブロースクなのに)


 とても強いお酒なのにも関わらず、ケロリとしている本人は、再び同じ酒をグラスに注いだ。


「良かったな、アンジェラ。女嫌いのヴィクトールに褒められるなんて、滅多にねぇからな」

「女嫌い、ですか」


 そう言えば、冗談交じりで男色家と聞いた時、最初はそういう話だったかもしれない。


「ジェルくんから聞いてない? ジェルくんの貞操の危機って」

「お前ら、何なら首と胴を泣き別れにしてもいいんだぞ」


 地獄の底から響くような低音に、慌てて二人が謝る。


(あ、本当に三人とも仲が良いんだ)


 お邸で二人で飲んでいる時と同じ雰囲気に、アンジェラはホッとりきんでいた肩を緩ませ、微笑んだ。



.。:*·˚+.。:*·˚+.。:*·˚+.



 思ったよりも早く解放してもらえたアンジェラは、メイド服をリタに返すと、「アンジェラ」に割り当てられた部屋に戻った。


(あんまり、飲まずに済んだと思ったんだけど……)


 日頃の疲れもあるのか、ひどくだるかった。そのくせ、頭だけは妙に冴えている。

 黒髪のかつらを外し、まとめていた髪の毛から、ピンを一本一本引き抜いて、自由にさせる。夜風が撫でるたび、ひんやりとした感触が気持ち良かった。


「さて、と」


 大き目の陶器の器を取り出し、水差しから水を注ぎいれると、定位置に干してあった木綿の布をそこに沈める。


(あ、ひんやりして気持ちいい。……やっぱり、そこそこお酒が回ってるのかな)


 布をぎゅっと絞ると、自分の髪の毛を丁寧に拭いていった。思い切り水浴びができれば良いのだろうが、そこまでできるのは、せいぜい三日に一回、リタにお風呂に入れてもらう時ぐらいだった。

 文字通り、頭を冷やしているせいか、考えてしまうことがある。


(ずっと、貴族は食うに困らず、寝るに困らず、いい生活だって思ってたけど……)


 ここに来てから、色んなことを聞いた。

 ヴィクトール先生と姉の話。夫に恥をかかされたからと言って、実の弟に対して、そんな仕打ちをするものだろうか。

 ティオーテン公爵と父親の話。家を継ぐだけなのに、兄弟、母親、愛人にまで手を回したと言っていた。

 そして―――


(だんな様……)


 家族と不仲とは聞いていたけれど、自分の家族の食事に混ぜ物? 毒を?

 アンジェラが町で見ている色々な家族、貧民街で見ていた色々な家族を思い出す。

 アンジェラの知る家族は、みんな、お互い助け合っていた。


(お父さん、お母さん、お兄ちゃん、お姉ちゃん、セイル、アイン、ノラ……!)


 食べ物も少なかった。辛いことなら山ほどあった。でも、お互いを邪魔だなんて思ったことなんてなかった。


「……っ」


 こぼれた涙を慌てて拭った。布を口にあてて、嗚咽を飲み込もうとする。


「~~~~~~」


 声にならない声を押し殺す。まずい、止まらない。色んなことに頭がぐちゃぐちゃになってきた。冷静に押しとどめられないのは、お酒のせいか。

 イベロトロッサのお邸と違って、ここにはたくさんの使用人がいる。かつらを取った状態で、部屋に様子を見に来られてしまうのは避けなければ。

 そこまで考えが到達してからは、早かった。

 止まらないしゃっくりを飲み込みながら、ベランダに出る。ちょうど、ベランダの手すりによじ登り、庭木の張り出した枝に手をかける。

 この部屋をカークによって割り当てられた時に、枝を伝って降りられると冗談めかして言われたことを思い出す。木登りは得意だった。

 苦も無く庭に下りると、邸側から影になる植え込みに身をすべらせた。万が一、使用人に発見されてしまえば不審者扱いされるなど、今のアンジェラには考える余裕はなかった。とにかく誰にも知られそうにないところで全てを吐き出してしまいたくて仕方がなかった。


(外なら、音も拡散するから……)

「っ、どうして、こんなに止まらないの……っ」


 涙腺が壊れたように次から次へと涙が溢れてくる。

 アンジェラ自身にも、どうしてこんなことで泣いているのか分からなかった。

 貴族の家族の在り様に、同情を覚えているのか。

 貴族をただ羨んでいた自分に、怒りを覚えているのか。

 それとも、まったく別の理由なのか。


「なんで……っ」


 声を押し殺す。ここのお邸の庭が広くて良かった。ここなら、誰にも聞かれないで済む。

 もうイヤだ。どうしてこんなに苦しいの。

 何とか泣き止もうと別のことを考える。深呼吸を試みる。周囲の景色を眺める。

 見れば、薄明りに小さな桃色の蕾が揺れていた。そのふくらんだつぼみは、きっと朝になればきれいな花を咲かせるのだろう。


(朝、散歩してここらへんを歩けば、どんな花かわかる、よね)


 自分の気を逸らすのに成功した、と思った。その瞬間、


「誰だ?」


 突然、腕を掴まれ、無理やり立たされた。

 警備の人間であれば、今、黒髪でないアンジェラは完全に不審者になってしまう。何とか手を振り切ろうと、暴れて……気づいた。


(先生……?)


 見たことのない、険しい顔をしていたが、ヴィクトール・リーニエに間違いなかった。

 暴れるのを止めたことで、ようやく相手の顔を見れたのだろう、ヴィクトールはちょっと顔をしかめた。


「泣いていたのは、お前か?」


 てっきり、猫か何かだと……とぶつぶつ呟くのが聞こえる。


(泣いていたのは……)


 ついさっきまで自分が泣いていたことを思い出してしまった。せっかく意識を逸らせたと思ったのに。

 そこからは、涙の奔流を止めることができなかった。


「お、おい……」


 狼狽するヴィクトール。

 アンジェラの頭に浮かんだのは、これがカークにバレるとマズいということだった。


「見なかったことに、してください……」


 口をついて出たのは陳腐なセリフだった。


「あたしは、このお邸では、幽霊みたいなものです。決して、誰かに見られてはいけないんです……」


 消え入りそうな声で、涙声で懇願するアンジェラに、ヴィクトールは渋面を見せた。「また、あいつの陰謀か?」と呟いたように聞こえる。


「まぁ、いい。お前が泣いている理由には興味ないし、お前が泥棒の類でも構わない。……どうせ、他人の家だからな」


 ヴィクトールはそれだけ言い捨てると、アンジェラに背を向けた。


「あり、がとうございます……」


 彼はそのまま背を向け、さっさと闇に消えて行った。

 あまりにそっけない行動に、いつの間にか涙も止まっていた。


「本当に、関わり合いになりたくなかっただけ、ですか?」


 答えはないとわかっていながら、アンジェラはそう呟いた。

 詮索しないことが、ひとつの優しさのように感じてしまったから。



.。:*·˚+.。:*·˚+.。:*·˚+.



「うにゃぁん……」


 心細げなその声が聞こえたのは、ちょうど、午前の講義が終わり、『アンジェラ』から『ジェル』に着替えている時だった。

 動きやすいシャツとズボンに着替え、かつらを付け替えると、バルコニーに出て、声の主を探す。


「にゃ、ぁん」


 音源はあっさりと見つかった。

 昨日、部屋を抜け出す時に使った木の枝に、子猫がぷるぷると乗っている。


「降りられなくなったの?」


 下を覗き込むと、植え込みの陰に親猫と思しき毛皮が見えた。


「仕方ないか…」


 まだ、ヴィクトール先生も来ていない、ちゃっちゃと終わらせるに限る、と、ジェルは部屋を飛び出した。

 問題の木の下にやってくると、陰にいた筈の親猫の姿は見えなくなっていた。人の気配を察知して隠れてしまったのだろう。

 一方、取り残された子猫は、相変わらず、にゃーにゃーと鳴いて震えている。


「よーし、そこ動くなよ」


 誰にも見られていないことは確認したが、ボロを出すわけにはいかないと、ジェルの口調のまま、問題の木に足をかける。

 下の枝が剪定されているせいで登りにくかったが、皮が固くゴツゴツしていたおかげで、それほど苦にならない。


(昔よりは、スピード落ちたかな)


 貧民街にいた頃は、よく木のてっぺんまで登って、実をもいで食べたものだった。ちなみに、低い所の実はたいてい取られてしまっているので、枝の細いところまでいかないと、実は残っていない。

 そんなことを思い出したながら幹の凹凸や枝に足をかけ、するすると子猫のいる枝までたどりついたところで、失敗に気付いた。


(何か台所でもらってくるんだった)


 子猫はこちらに気付いて「ふしゃー」とかわいく威嚇していた。

 ジェルが親しくしている料理人がいるので、ちょっとしたものをもらうのには事欠かないが、今から台所に戻っていると、先生が来てしまうかもしれない。

 枝をまたいだ状態で、少し思案し、枝に両足を乗せて、四つん這いの姿勢になった。


(子猫のいる枝の先は、あたしの体重を支えきれない……。それなら)


 こちらの緊張感を察してか、再び子猫が「しゃー」と威嚇する。


(一歩ぐらい踏み出しても大丈夫、かな。後は猫をちゃんと掴めれば……)


 ふぅ、と息を吐いた次の瞬間、アンジェラは木の幹を蹴って子猫の方へ飛び込むようにジャンプした。

 両手で温かくふわふわした感触のものを掴み、そのまま胸の方に抱え込む。

 耳からバサバサバキバキと枝葉の音がする。

 ふいに視界が開けて、葉っぱのカーテンから外に出たと認識した直後、両足が地面を掴み、そのまま勢いを殺し切れずに二、三歩前に足が動き―――


「んあっ」


 盛大にすっころんで一回転した。

 気づけば青空を仰いでいて、腕の中ではふわふわ温かいものが、ジタバタとしている。

 頭を動かして、子猫の無事を確認すると、その手を放してやった。視界から消えた後にガサガサと音がしたので、親猫の元へ行ったのだろう。

 とりあえず、無事に保護できたと、ほっと息をつく。


「まるでお前の方が猫だな」

「うわぁっ!」


 ぬっと視界に入ってきた黒い人影に、ジェルはびっくりして飛び起きた。


「そこまで驚くか?」

「見て、たんですか、先生?」

「猫っぽい鳴き声が聞こえたからな、探しに来たら、ちょうどお前が威嚇されていた」


 ということは、ほぼ一部始終を見られていたわけだ。ジェルは大きく肩を落とした。


(ボクはジェル、ボクはジェル……)


 昨日、アンジェラと話してしまったのだから、よりジェルらしさを強調しなければ、バレてしまう、と呪文のように繰り返す。


「もしかして、先生、猫好きだったりします?」

「む、いや、困っていそうな声だったからな」

「好きなんですね?」

「……」


 返答はなく、睨まれてしまった。


(もう少しぐらい、茶化してみた方がいいかな?)

「やだなぁ、先生。猫好きってことは、女の人も好きなんじゃないですか? 女の人も、猫も、気まぐれでかわいいところは一緒――」

「お前の口は寿命を縮める口か?」


 低い声でたしなめられ、ジェルはピタリと口を閉じた。これ以上はマズいとわかる。


「……よし。いつもの部屋に行くぞ。今日は軍について話してやる」



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