03.軍人と偽りの姿で闘う者は
「本日も、ありがとうございました」
アンジェラは玄関口で頭を下げ、マダム・リンディスを見送った。
(まさか、昼食で試験をされるなんて……)
おかげでメインディッシュの川魚のソースが絶品だったのに、味わう余裕もなかった。ちなみに、マダムが何度も繰り返している「頭の上から一本の糸で吊られている感じ」が、いまだによく分からない。
ふと、マダムと入れ替わるように、黒ずくめの男性が庭を通ってやってくるのが見えた。かなり長身の男で鋭い目つきをしている。黒い外套に紛れるように、右肩に黒いナップザックか何かを背負っているのが見えた。そこから頭を出しているのは、木の棒、だろうか。
相手は玄関に佇むアンジェラの姿を見つけると、軽く帽子を上げて、挨拶をしてきた。
アンジェラは慌てて、軽くドレスの裾をつまんで会釈する。
(まさか、この方が?)
「失礼、ここの主を呼んでいただけないか?」
想像通りの低いバリトンの声に、アンジェラは慌てて「はい」と返事をした。
「あの、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「ヴィクトール・リーニエだ。……だが、呼んでいただく必要はなくなったようだ」
男の視線の先を振り返ると、「やっほー」と手を振るのんきな邸の主がいた。
「アンジェラちゃん、ジェルくんを呼んで来てくれないかな。待望の先生が来たよって。……あ、急がなくてもいいからね、僕もこいつと無駄話したいから、ゆっくりでいいよ」
(これは、逆に急げと言われているのかな?)
アンジェラはヴィクトールと名乗った男に小さく会釈をすると、玄関口で話す二人に見えるところでは、楚々と歩き、角を曲がったところで小走りに自分の部屋を目指した。
「リタさん、先生がいらっしゃったとレティシャ様にお伝えください」
途中で通りすがったレティシャ付きのメイドに声をかけて、アンジェラの部屋へ駆け込む。
肩のリボンを外し、スカートを膨らませるパニエと一緒にドレスを脱ぐと、コルセットの紐をほどいた。
(もう、なんで、こんなに面倒な……)
焦るとコルセットの紐がなかなか緩まない。
何とか拘束具を脱いだアンジェラは、カツラを外して、ジェルの部屋へ行く。
ジェルのカツラ、靴下、ズボン、ブラウス、チュニックを身につけ、鏡で最終チェックをする。
(あ、靴)
鏡の横に準備していた靴に、足を入れる。始めこそ痛かったこの靴も、ここ二日で大分馴染んでくれた。
(ボクはジェル。ボクはジェル……)
ボロを出さないように唱えながら、小走りで玄関近くまで行く。
「お待たせしてすみません」
声をかけると、カークが「おや、早かったね」と手を挙げた。
「もっとゆっくりでも良かったのに」
「いいえ、そういうわけにはいきません。最初から心象悪いのは困りますから」
「……この少年が?」
ヴィクトールの低い声に、ジェルはいつも通りの余裕の笑みを浮かべた。
「はい、ボクがあなたの生徒となる、ジェルと言います。よろしくお願いします、先生!」
「ヴィクトール・リーニエだ。……先ほど会ったのは、君の血縁か?」
「はい、ボクの姉さんです」
はきはきと答えて、ジェルはじっとヴィクトールを見つめた。
「……なんだ?」
「あの、先生。質問してもよろしいですか?」
無愛想な「別に構わないが」という返答を待って、ジェルは口を開いた。
「何食べたら、そんなに大きくなれるんですか?」
直後、ぶふっとジェルの左後方から吹き出す音が聞こえた。
「笑い過ぎだぞ、カーク」
「ごめんごめん。やぁ、そうだよね。ジェルくんだって男の子だもん、身長欲しいよねー?」
ジェルはじっとヴィクトールの答えを待った。
それに気づいて、気まずそうに視線を逸らした彼は、しばらく迷い、真摯に回答することに決めた。
「あー、残念だが、この身長には食べ物は関係ない。うちの家系は、長身が多くてな、血のなせる業だ」
「そうそう、お姉さん二人もずいぶん背が高いよね」
なるほど、とジェルは頷いた。
「わかりました。ありがとうございます。……差し支えなければ、もう一つ質問しても?」
構わないが、と答えたヴィクトールに、ジェルは本当に聞きたかった質問を口にした。
少しだけ、その先が怖かったので、ぐっと拳を握りしめて。
「職業軍人には男色家が多いと聞きましたが、先生は男色家ですか?」
言い終えるか終えないか、ジェルの額が文字通り掴まれた。見れば、隣でカークが羽交い締めになっている。
「くだらんことを吹き込んだのは貴様か?」
「うわぁ、痛い痛い。僕は頭脳労働者なんだから、もっと優しくしてよ」
「貴様かと聞いている!」
これは、竜の尻尾を踏んでしまったかとジェルは思った。少々やりすぎたようだ。
(だけど、意趣返しは成功、かな)
それにしても、こめかみに指が食い込んで痛い。
「……で、結局どっちなんですか、せんせ……いたたたた」
ぎりぎりと締め付けられてジェルは悲鳴を上げた。
「仮にそうだったとしても、稚児趣味はないから安心しろ」
バリトンが一層低くなっている。明らかに怒りの混じった声だった。
「いやぁ、女嫌いだから、もしかしたらそっちに行っちゃったのかと思ったけど、うわ、ちょ、本気……」
ギリギリと締め上げる腕を、カークは苦しそうに二回叩く。
「後でじっくり話し合う必要がありそうだな?」
冷えた声で囁くと、カークの首を締めていた腕を緩ませる。
「あー、死ぬかと思った」
座り込んだカークが大きく息をつく。ちなみに、ジェルはまだ解放されない。
「裏庭を借りるぞ」
この邸には何度か来たことがあるのだろう。ジェルの額を掴んだまま、ヴィクトールは外へと歩きだした。
「あの、先生、痛いんですけど」
「人を男色家呼ばわりしておいて、何を言う」
そう言うと、ヴィクトールは、まるで物でも扱うかのようにジェルをぽいっと放った。
慌ててたたらを踏んで転ばずに済んだジェルは、「裏庭」と呼ばれた場所を見回す。見覚えのある大きな木が目に入った。
(ここ、部屋の前のところだ)
見上げれば勝手知るバルコニー。少し離れたところに授業を受ける予定だった部屋の窓が見える。
(あそこの隠し部屋にレティシャ様が待機しているのに)
「受け取れ」
振り向くと、目の前に何かが放られていて、慌てて手で防ぐように取った。
「……」
逆に取ったことに驚かれたのか、ヴィクトールが小さく目をみはったように見えた。
「これは?」
「何に見える?」
と言われても、木の棒にしか見えない。すると、バッグから同じものを取り出したヴィクトールが、無表情で構えた。
「えぇと、まさか?」
「察しているなら話は早い」
慌てて握りなおした木の棒で、ヴィクトールの第一撃を防ぐ。それだけで手のひらがじんじんと悲鳴を上げた。
「ボクは政治や経済を教えてくれる先生を、頼んだ、はずっ、なんですけど!」
見えやすい軌跡を作ってもらっているのか、何とか一撃一撃を手にした棒で受け止めることができた。
「貴族の子弟ならば、たしなんでおくべきだろう?」
息一つ乱さずに、次々と打ち込まれる棒を、なんとか食い止めながら、それでも握力の限界が迫っていることを悟る。
「つっ!」
受け損ねた棒が手首を打つ。だが、武器を手放すわけにはいかないと、さらに握る手に力を篭める。
(一回、くらいっ!)
次の攻撃を食い止めたところで、ジェルは体重をかけて押し返した。別に剣術を教わった覚えはない、ただ、体力的に圧倒的に差がある場合、自らの体重を使わなければ、ふい打ちすらできないことを、体験的に知っているだけだった。生まれ育った貧民街では、小競り合いなどしょっちゅうで、まだ子供だったアンジェラも自然と体格差のある相手との遣り取りの仕方を学んでいた。
「甘い」
押し込んだ棒から、ふっと抵抗がなくなる。
「えっ?」
予想外のことに、小さく声を上げたジェルの手が緩む。
カァンッ
直後、自分の持った棒が下から跳ね上げられた。緩んでいた手は、棒から伝わる衝撃に耐えられず、武器を手放してしまう。
ジェルの目に、迫りくる棒が映る。避けられる距離ではないと判断すると同時に、両手でそれを防ごうと手を延ばし――――
寸前で、棒が止まった。
ついさっきまで手にしていた武器が、乾いた音を立てて背後に落ちる。
「貴族の子弟にしちゃ動きがいいな」
「……それは褒め言葉ですか?」
「それと度胸もあるようだ。まぁ、度胸がなければあんなことは言わないか」
武器を引いたヴィクトールは、ジェルの脇を通り、自分が跳ね上げた棒を拾いに行った。
そこでようやく、ジェルは大きく息を吐いた。
しゃがみたい気持ちをぐっとこらえる。
(手……痛いし)
手のひらはジンジンと痛むし、打たれた手首は悲鳴をあげている。これは絶対に痣になる、と覚悟した。
(ジェルなら、ここで何て言う?)
もはや女好きのフィリップよりも、いたずらっけたっぷりのエリックに近くなった性格だ。彼ならきっと、さらに茶化したり……
「うわぁ、すっごい手ぇ痛いし。こんなんじゃペンも持てないですよ」
手首をぷらぷらとさせて、とりあえず文句を言ってみる。
「当然の報いと思え。あと、メモを取ろうとするな、頭にメモしろ」
棒をしまうと、ヴィクトールは「行くぞ」と声をかけ、玄関の方に戻って行った。ジェルもホッとしながら後に続く。
―――始まりこそ、最悪なものに思えたが、ヴィクトールの講義は、分かりやすいものだった。
今まで、書斎でそれらしい本を見つけては、わからないことだらけで四苦八苦していた壁が、いくつも瓦解していくのには、快感すら覚えた。
「……ということだ。つまり現在の王であっても、何代か遡れば単なる農民ということだな。ここまでで質問は?」
低い声だが、不思議と聞き取りにくいということはない。
「先生。国王の収入が国の収入というお話でしたが、実際の用途は国のために使われているのでしょう? 実際に国王が自由にできるお金というのは、どのぐらいなんですか?」
「……それは難しいな。王と貴族が国のために使っている、と見せかけているものでも、意外と個人の利害や保身に絡んでいることが多い」
例えば、とヴィクトールは衣装の話を持ち出した。
王の威厳を保つため、様々な衣装を月に何十着と作るが、それは決して王の好みが反映されるわけではない。
他にも、貴族が自分の贔屓の商人持ち込みの品を推薦することもある。
「意外と、国王も自由がないんですね」
「まぁ、貴族も似たようなもんだ。今と同じ生活をするためには、他に出し抜かれないように、謀略に巻き込まれないように、と気を張っていなければならない」
(……それを、だんな様が嫌がって地方にこもった、ということなのかな)
「転落するものは、あっさり転落する。返り咲く者など滅多にいない。そして、それを踏みつけて、昇る者は昇る」
自嘲を込めているのだろうか、ヴィクトールは視線を手元の本に落とした。
「……以上だ。他に質問は?」
「いいえ、ありません」
「ならば、次は、貨幣制度について―――」
.。:*·˚+.。:*·˚+.。:*·˚+.
ドドッ、ドドッ、ドドッ
聞こえるのは猛々しい足音と、耳を通り過ぎる風の音ばかり。
空には月、月光は丘を照らし上げ、……そして、ジェルは自分を襲う振動に必死に耐えていた。
――事の起こりは半刻前。
「やぁ、初日の講義も終わったし、食事でもしていかないか」
そう言ったのは、もちろん邸の主であるティオーテン公爵だった。
「堅苦しい席は好きではない。辞退させてもらおう」
「えぇ~? つれないなぁ。何だったら、ジェルくんのお姉ちゃんもつけるよ?」
ヴィクトールは眉をひそめた。そして、「何を言っているんだ、この馬鹿は」とでも言いたげに顔をしかめた。
だが、黙っていないのは、ジェルだ。
「ちょ、ちょっと待ってください。うちの姉をなんだと思ってるんですか。姉さんを出すぐらいなら、ボクが代わりに同席します」
正直、アンジェラがヴィクトールと会って、親しく話をするような仲になってしまうと、それだけ、バレる確率が高くなってしまう。それは避けなければ、と、ジェルは真剣にカークを止めに入った。
「それなら、堅苦しくなくて、ジェルくんと一緒ならいいんだね」
ニヤリと笑みを浮かべたカークに、ヴィクトールは一層イヤそうな表情で返した。
「ちょっと用意させるから待ってて。あ、ジェルくんは馬に乗れないよね。僕かヴィクトールの馬に乗せてあげるから」
(馬?)
「そうそう、ヴィクトール。君の好きなブロースクがあるんだ。やっぱりアレには腸詰めかな、うん、準備するように言っておくよ」
それじゃぁ。と片手を上げて、背中を向けたカークに、ヴィクトールは大きなため息をついたのだった。
―――軍馬だからなのか、ヴィクトールの愛馬は、カークの馬よりも一回り体が大きかった。そういうわけで、ジェルはヴィクトールの前に座らされ、揺れに耐えていた。
三人が向かっているのは、王都を一望できる丘、ということだったが、地理に疎いジェルには、どこをどう走っているのか分からなかった。
「……大丈夫か?」
「だい、じょうぶ、です」
お尻が痛かったが、虚勢を張って答える。
「あいつの気まぐれに付き合っていると、体が持たんぞ?」
気遣ってもらえているのが分かって、ジェルは気恥ずかしそうに微笑んだ。
「ありが、とう、ございます。でも、それだけの、見返りが、ありますか、ら」
「―――」
ヴィクトールが、頭の上で大きく息をついたのが聞こえた。
「先生?」
「いや、耐えられなくなったら言え。公爵ほどではないが、便宜は計れる」
「大丈夫、です。負ける、わけには、いきません、からっ」
ジェルが答えたところで、視界が開け、冷たい風が真正面から吹き付けた。
「やぁ、いい風だね」
速度を落として、先行していたカークが横に並んだ。
目的地についたのか、ヴィクトールも馬をゆっくりと歩かせる。
ようやく揺れの落ち着いたと一心地ついたジェルは、初めて眼下に広がる光景に気づいた。
「うわぁ…」
丘の上から見下ろす風景は、ジェルが今までにみたこともないものだった。
「ここは王都を一望できるんだ。昼間に来ても絶景だけど、夜に来るのもなかなかのもんでしょ?」
カークがえっへん、と胸を張るのをよそに、一人、馬から降りたヴィクトールは、ジェルに向かって手を差し伸べた。
慌ててその手をつかんだジェルは、意外にも丁寧に馬から降ろされた。
「ありがとうございます。先生」
馬上から解放され、揺れない地面に降りたジェルは、痛くなってしまったお尻をさする。
「ジェルくん、こっちこっち、荷物持ってくれないかな?」
視線だけで「行ってやれ」というヴィクトールに軽く頷いて、ジェルは自分の馬から荷物を降ろしているカークに駆け寄った。
「はい、これとこれ」
渡されたのは大きなバスケットだった。ずっしりと重いそれは二、三キロはあるだろうか。
「こっちだ、カーク」
呼びかけたヴィクトールは、細い木に自分の馬の手綱をつけてやっているところだった。
「はいよ。……じゃ、ジェルくん。それをあっちの崖の方に持って行ってくれるかな」
はい、と頷いて両手でバスケットを持ったジェルは、崖の方に歩いていく。
いつもの買い出しを考えれば何てことない重さだったが、辺りが暗いこともあって、歩くスピードはちょっと遅くなる。
(それに、中で水音が聞こえるってことは、何か飲み物が入っているんだよね、これ)
あの馬の揺れに耐えているのだから、瓶か何かに密封されているのだろう。
「ジェル、そのあたりでいい」
すぐ後ろで声がしたかと思うと、すぐさま追い抜かしたヴィクトールが手にしたカンテラを地面に置き、小脇に抱えた大きな布を草の上に広げた。
それは大の男三人が寝転がってもまだ余裕のあるぐらいの広さだった。
慌ててバスケットを地面に置いたジェルはもう片方の端を持つ。何かを言う前に動いた様子に、ヴィクトールは片眉を上げたが、ジェルは気づかなかった。
二人で協力してきれいに広げたところで、追いついたカークがそこにダイブしてきた。
「カーク、はしゃぎ過ぎだ」
「いやぁ、だって、やりたくなるでしょ。まぁ、ちょっと鼻打ったけどさ」
ごろん、と寝返りを打ったカークは右端に寄って崖の方に向いて座り直した。
ヴィクトールは何も言わずに左側に寄って座る。
バスケットを持ち直して振り返ったジェルは、自分の席が真ん中にしかないことに、小さく嘆息した。
「これのために真ん中を開けていただいたと思って間違いないんですよね?」
この二人に囲まれて座りたくないと思いながら、ど真ん中にバスケットを置いた。
そして自分は敷いたシートを汚さないように膝立ちになってバスケットを開く。
「…ブロースク? ワインですか?」
中身はブロースクと書かれたビン、錫のカップ、そして何種類かのサンドイッチ、そして親指サイズのウィンナーだった。
バスケットを渡してくれたメイドが「腸詰めは辛いから気をつけてね」と言ってくれたのを思い出す。
(そうか、これはきっとお酒のつまみだ)
「ジェル、バスケットをこっちに向けろ。……お前はこっちに座れ」
言われるままにバスケットを崖側に向けたジェルは、ヴィクトールの指す「こっち」を見て渋い顔をした。
明らかにそれはヴィクトールの膝の間だった。
「えぇと、先生。念のためもう一度確認してもよろしいでしょうか?」
「男色家でもないし稚児趣味もない」
察したヴィクトールが問われるより早くに答えると、ジェルの腕を引っ張り、そのまま腰に手を添えて持ち上げた。
「うわっ、とと」
あっという間に、ジェルの体はヴィクトールの足の間におさまった。
「うわー、ヴィクトールってば大胆だね。そんなところに収まったらやりたい放題じゃん?」
「カーク、腕の一本ぐらいはいらないと見えるな」
うわぁ、ジョークだよ、と言うカークは慣れた手つきでブロースクの瓶を開けると三つのカップに中の液体を注いでいった。
月明かりの下で、それは琥珀色に見えた。
(ワインじゃないんだ、でもお酒の匂いがするし)
「ジェルにも飲ますのか?」
「あぁ、大丈夫、ジェルくんお酒に強いし」
(飲み過ぎないようにしないと、ボロが出たら困るし……)
嘆息してカップを受け取ったジェルがそっと鼻を近づけると甘い香りがした。
(先生のイメージだと、もっとお酒くさい辛口のやつかと思ったけど、甘口なのかな?)
「じゃ、ジェルくんのお勉強開始と、久々の悪友に、乾杯」
カークの合図で、三人はカップを軽く掲げると、そのままカップを傾けた。
その中で一人、ジェルは頭の後ろで嚥下する音を聞いてから、少しだけ口に含む。
「!」
香りを読み違えた。最初にそう思った。
それは、液体が体の中をどう通っているか分かるぐらいの強いお酒だった。飲み下した後も、舌がピリピリとする。
「これ、かなり強いですね」
空きっ腹に飲み続けたらマズい、と身を乗り出してサンドイッチを手に取った。
「あはは、やっぱり? いやぁ、後ろの人と一緒にぐいっと飲んだらどうしようかと思ったけど、慎重だね」
「当たり前だ。……ジェル、あまり無理はするなよ」
「大丈夫です。このカップに入っているぐらいは飲みますよ。でも、あまり飲むと、先生の取り分が減ってしまいますよね。じゃぁ、遠慮しないと」
「こんな強いのが好きなんて変わってるよねー」
「邸に常備しているくせに何を言う。……ジェル、こいつはこの酒をな――」
「うわ、ちょっと待った。それダメ。お子さまにはちょっと刺激が強いから! あー、そうだ、ジェルくん、王都の暮らしには慣れた?」
あまりに強引な話題転換に、ジェルは軽く先生を振り向き、小さく肩をすくめて見せた。
「食べ物、飲み物、美人なお姉さま方には慣れましたよ。ボクはそれよりも姉さんが心配ですね」
「アンジェラちゃんが? 何でさ?」
「マダム・リンディスの声が、たまにボクの部屋まで響くんですよ。あれを聞いてると、ちょっと、大丈夫かなって思いますね」
マダム・リンディスの声がジェルの部屋まで響くのは、レティシャ付きのメイドに聞いた話だった。
それを聞いたとき、邸中に響いているのではないかと恥ずかしくて、廊下に出るのもイヤになったのを覚えている。。
「あぁ、マダムか」
「ヴィクトールのお姉さんも、確かマダムに礼儀作法叩き込まれてたっけ」
「あぁ、一番下の姉がな。あれは聞いてるだけでもきつかったぞ。上の姉達は、自分達がマダムに当たらなかったのにホッとしていたようだったな」
ローストビーフのサンドイッチに舌鼓を打ちながら、ふぅん、とジェルは声を上げた。
「先生もお姉さんがいらっしゃるんですね。しかも複数ですか?」
「ヴィクトールの所は上にお兄さん二人とお姉さん四人だっけ?」
「え、そんなにいるんですか? お兄さんも? ボクはてっきり…」
「てっきり、何だ?」
「先生、人に教えたり、面倒を見たりするの慣れているように思えたから、長男かな、って」
模倣エリックのいたずら心を忘れたジェルが、素直に答える。
「あぁ、弟もいるしね。それに、軍に戻れば隊長を慕うゴッツイ羊達がメェメェと」
茶化すようなカークの言葉に、ジェルはあわてて「ジェル」の性格を思い出した。
「慕ってくる羊さんたちを、狼になった先生がかたっぱしからガブリ、……いえ、冗談です。狼というよりは牧羊犬ですよね」
後ろから殺気めいたものを感じて、慌てて言葉を濁した。
口をつぐんでから、つい、貧民街で仲良く暮らしていたあの頃を思い出してしまう。
「……でも、いいなぁ。上に兄弟がいるって」
つぶやいて、ブロースクをちびり、と飲んだ。
「あれ、アンジェラがいるじゃん。何か不満?」
「いえ、別に不満というわけではないんですけど。兄ちゃんと姉ちゃんと一緒に暮らせてたら、どうだったのかなって」
「え?」
カークに聞き返されて、ジェルは慌てて口を押さえた。昔のことを思い出したら、つい口調があの頃に戻ってしまった。
(えぇと、何でもないふり、何でもないふり…)
ジェルとしての仮面をかぶり、胡瓜のサンドイッチに手を伸ばした。
「ジェルくん、アンジェラちゃんの上に兄弟いたの?」
そっちの「え?」だったのか、とアンジェラは内心で胸を撫で下ろした。
「あぁ、はい。兄と姉が一人ずつ。と言っても兄さんは仕事中の事故で亡くなってしまいましたし、姉も行方知れずですから」
そういえば、誰にも話していなかった。
兄は石材運搬の賃仕事の最中に死んだと、同じ賃仕事をしていた人が教えてくれた。事故だったのか、監督役のイビリによるものかは知らない。
姉はある時、娼館に身売りした。それ以降、帰ってくることもない。
「ボクの兄弟より、先生のお姉様の方が気になるんですけど。……美人ですか? それともカワイイ系? 先生の顔は彫りが深いから、きっと一見気の強そうに見える美人ですよね?」
「全員嫁いでいるからな、最近会ったのは一番下の姉だったか。旦那が不在でむりやり夜会にエスコートさせられた……」
後ろから大きな嘆息が聞こえた。
「へぇ、君が夜会ねぇ。相変わらずお姉さんには逆らえないのかい?」
もうコップを空にしたヴィクトールに瓶を差し出しながら、カークがニヤニヤ笑う。
「無駄な火種は作らないに限る。アレらは何が不満なのかは分からんが、何かにつけえ無茶を言って来るからな」
淡々と言うヴィクトールに、ジェルは違和感を覚えた。
その口調は自らの姉妹に対するものとしては、とても冷たく――
「あぁ、二番目のお姉さんの出世の邪魔したこと、まだ根に持ってるのかな。女の人って、妙なところで連帯感あるし」
「だろうな。こっちは邪魔をするつもりはなかったんだが、……さすがに無能ではな」
話が掴めずに首を傾げるジェルに、カークは事の顛末を教えてくれた。
ヴィクトールの二番目の姉が嫁いだ先は職業軍人で、彼の上官だった。だが、ある時、野盗退治の任務の時、ヴィクトールが彼の無能に耐えきれず、一部隊を率いて単独行動に走った。
その結果、野盗退治は迅速に完遂し、ヴィクトールは独自行動を責められはしたものの、周囲からは高評価を得るに至った。一方の上官は、言うまでもない、無能のレッテルを貼られてしまった。
貴族の世界では、どんな些細な傷でも掘り起こすようなものらしい。
二番目の姉はヴィクトールを憎み、他の姉妹にも働きかけているとか。
「まぁ、片や家を継ぐ必要もない気楽な三男坊、相手は嫡男だしねぇ。一時は爵位継承も危ぶまれたって言うから、そりゃ怒るよ」
「……」
「ジェル、どうした?」
食べかけのサンドイッチをつまんだまま、止まっていることに気づいたヴィクトールが声をかけた。
「何か、淋しいです。兄弟なのに、そんな関係になってしまうのは」
「ジェルくん、こんなの気にしてたら、この先保たないよ? 貴族の家族関係なんてドライなもんだし」
「そうだな。隣のこいつなんて特にな」
「やだなぁ、そんなに褒められると照れるよ」
「褒めてない。……ジェル、自分の姉妹やその母親達を味方に引き入れ、果ては愛人まで操作して、実の父親を引退に追い込む輩もいる。それほど貴族の家族関係は混沌としている。うっかり虎の尾を踏まないよう気をつけることだ」
ヴィクトールの言う「輩」はカークのことだと自然に分かった。
分かると同時に、レティもその一人なのかと胸が痛くなる。
(貴族って、食うに困らず、寝るに困らずで良い身分だと思っていたけど…)
ジェルはブロースクを煽った。
胸を焼けた塊が流れていくのが分かる。たまらずせき込んだ。
「おい、大丈夫か?」
涙を拭いながら、ジェルは「大丈夫です」と裏返った声で答えた。




