02.気分は一兵卒の捨て駒の如く
「まぁ、何という姿勢ですの?」
「もっと背中を延ばしなさい! ……行き過ぎです。それでは背中が反っていましてよ!」
「レディたるもの、そういった音は立てません」
「頭の下げ方がなっていません。背中を丸めるなどみっともない」
二日間、邸に響いたのは、マダム・リンディスの叱責の声だった。
男の教師が来るまでの二日間は午前・午後ともにマダムが来ており、アンジェラは、ひたすらに「歩き方」「話し方」「食事作法」をみっちりと教え込まれた。
……ちなみに、そのどれもマダムの言う「及第点」には達していない。
「ありがとうございました、マダム・リンディス」
アンジェラは頑張って優雅に見えるよう頭を下げて、マダムにお礼を言う。
「えぇ、この二日で随分と上達いたしましたわね。この調子で行けば、シーズンには何とかなるでしょう。明日からは午前だけになってしまうのは残念ですが、弟君の先生が来るとのことでしたわね」
「はい。ですが、マダムがいらっしゃらない間は、その日に教えていただいたことを復習いたしますわ」
「その意気を最後まで保って頂きたいものですわ。最近は根性のないレディが多くて困りものですの」
それでは、とマダムが部屋を去る。アンジェラは深く頭を下げて見送った。
(いち、に、さん、よん、ご)
頭を上げると、既にマダムの姿は見えない。アンジェラは大きく息をついた。
「お疲れの様子だね、アンジェラちゃん」
「ティオーテン様……」
今までどこに隠れていたものか、ひょっこり姿を現した邸の主に、アンジェラはげんなりと返事をした。
「明日っからは、弟くんの先生が来るけど、大丈夫そうかな?」
「えぇ、何とか大丈夫、だと思います」
「そう? それじゃ、僕、今日は弟くんと夕食がとりたいな」
「ジェルにお伝えいたします」
「マダム・リンディスが褒めていたよ。へこたれないし、文句も言わない、素直に間違いを直そうとするから、上達が早いってね。しかも、考えて行動するから応用がきいているって」
「とんでもありません。マダムの教え方が分かりやすいんです」
「うん、マダムも家庭教師歴は長いからね」
「それでは、あたしはこれで失礼させていただきます」
「弟くんによろしく」
カークと別れたアンジェラは、「アンジェラ」に割り当てられた部屋に戻る。隣は弟「ジェル」の部屋になっており、室内は隠しドアで繋がっている。
「疲れた……」
暇を持て余すことよりは、遥かにマシなのだが、日頃使わない筋肉が悲鳴を上げている。それでも、一日目よりは叱られることが減ったと信じたい。
「あ、着替えなきゃ……」
もちろん、アンジェラに「ジェル」という弟はいない。わざわざ、アンジェラより一日遅れてこの邸にやってくるという演出まで加えた、アンジェラの男装である。
だからって……、とアンジェラは「ジェル」の部屋へ向かった。二つの部屋はドレッサーの奥の壁が通路となって繋がっている。
アンジェラが最初に案内された部屋から、この部屋に荷物を運んだとき、その通路に唖然としたものだ。
「ジェルで夕食か……」
アンジェラは着ていたパステルイエローのドレスを脱ぐと、白いブラウスと黒のズボンに着替えた。
「あ、忘れてた」
アンジェラは鏡を見て、声を上げた。
そこには男装をした自分が、綺麗に結い上げられた黒髪に手をやっている。
両耳の後ろに手をやり、ピンを外す。こめかみと額の上のピンを外すと、自分の赤茶けた金髪が現れた。とはいえ、かつらの外に出ないよう、きっちりまとめられている。
「うわ、蒸れてる」
パタパタと手で風を送ると、頭がひんやりとして気持ちいい。
湿気をとるように、外したかつらを二、三回振ると、人の頭の形をした木型から、別のかつらを取り上げ、代わりに外したかつらを置いた。
そして、新しいかつらを自分の頭の上に乗せ、ピンで止めていく。
ふぅ、と息をついたアンジェラが、再び鏡に目をやると、そこにはくせっ毛の黒髪を後ろで束ねた少年が立っていた。
かつらから自分の髪の毛がはみ出していないか、入念にチェックし終えると、大きくため息をついた。
(フィリップ、力を貸してください)
遠くイベロトロッサの地で、花祭のためにダンスの練習をしているであろう友人に祈る。
なぜ、他の誰でもなく、フィリップなのか。それには理由がある。
―――男の「ジェル」としての衣装・かつら合わせをした時のことだ。
「ですます口調じゃ、ちょっと違和感あるよね。変えてみない?」
「別に良いのではなくて? 単なる丁寧な口調でしょう?」
「う~ん、使用人の目をごまかすために、全然違う口調がいいなぁ。あと、性格も」
「性格まで? お兄様、もしかして、単に楽しんでいらっしゃるのではなくて?」
「……いや、それは誤解だよ、レティ」
カークは妹の容赦ないツッコミに苦笑いを浮かべた。
「できれば、全然違う性格を装えないかな、アンジェラちゃん」
「違う性格、ですか……? 申し訳ないのですが、あたし自身、貴族の子弟がどのようなものか存知上げておりませんので、違う性格と言われましても…」
「ということは、ある程度、性格を教えてあげればできるのかな」
まさか、アデッソー男爵の元にいた頃に、よくやらされていたとは口にできない。どこで誰が聞いているか分からないからだ。
アンジェラは「たぶん、それならばできると思います」と答えた。
「それじゃ、アンジェラちゃんは真面目だから、不真面目な感じがいいかなぁ。……女にだらしない感じとか?」
(女の人にだらしない?)
一瞬、誰かの顔がよぎった。
(ううん、違う。だって、彼は『博愛主義』って言ってたし)
「あら、まるでイベロトロッサにいたアンジェラのお友達みたいですわね」
あっさりと隣のレティシャに指摘され、アンジェラはがっくりと肩を落とした。
「ねぇ、アンジェラ。何という名前だったかしら。ほら、あの金髪の」
「フィリップのこと、ですよね」
「そうそう、フィリップでしたわね」
にっこり微笑むレティシャに、アンジェラは大きくため息をついた。
「へぇ、そんな子がいるんだ。だったら、その子でいいよ。一応、貴族の隠し子扱いにしてるから、ちょっと高慢な感じを入れて、さ」
カークの提案に、アンジェラは目に見えて苦い顔をするわけにもいかず、曖昧な表情を浮かべた。
「フィリップのように、となりますと、……その、かなり失礼なことを口にしてしまいますが」
「あー、気にしない気にしない。僕も『ジェル』くんのことは、別人扱いするから」
「ジェルくん……?」
聞き慣れない単語に、声を上げたはレティシャだった。
「そう、アンジェラの弟くんだから、名前の後ろをとって『ジェル』くん。名前が必要だろ?」
「まったく、お兄様ったら、単純ですわ」
兄妹のやりとりをどこか遠くで聞きながら、アンジェラは、自分の中に問いかけていた。
『アンジェラ』ではなく、二人が思い描く『ジェル』の姿を心の中に探す。
(フィリップのように、全ての女性を賛美するように)
(高慢、いいえ、きっと小生意気で)
(アンジェラという姉を持っている……)
(貴族の隠し子で、ティオーテン公爵様の好意で、一時的に引き取られている)
(……ボクは、男だ!)
アンジェラは、いつの間にか閉じていた目を開けた。
「ジェルくん? どうしたんだい?」
「いいえ、何でもありませんよ、公爵様」
いつもより、やや低めの声。口元には余裕の微笑み。
「ちょっと、こういった服は着慣れてないもので。……レティシャ様? どうしたんですか、そんなにボクのことを見つめて。何かついてます?」
まるっきり豹変したアンジェラに、茫然としていたレティシャが「アンジェラ?」と名前を呼ぶ。
「やだなぁ、ボクを姉さんと間違えるなんて。あ、それとも、ボクが姉さんの格好して、誰にも見咎められずに、こっそりレティシャ様の部屋に忍びこんでもいいってサインですか?」
その言葉の指す意味を悟ったレティシャの頬に朱が散る。
「そんなこと、僕が許すわけがないじゃないか。簀巻きにしてポイだよ」
「うわ、怖いですね。それはさすがにゴメンです」
カークの脅しに、アンジェラ、いや、ジェルは肩をすくめてみせた。アンジェラならば、そんなおどけたポーズはしない。
「それにしてもジェルくん。君は本当におもしろいね」
「そうですか? 単に公爵様が、庶民を知らないだけでしょう。ボクみたいなのは、ゴロゴロいますよ」
小生意気な口を聞くジェルを、カークがじっと見つめた。
「あ、見つめたってダメですよ。ボクはそっちのケはないですから。綺麗な女性にしか目に映らないんで」
「うんうん、この調子なら合格だね。色々特技があってうらやましいよ。こんなのいつからできるようになったのさ?」
合格と言われたアンジェラは、大きく息をついて、かつらを外した。演技はこれで終わりだと言わんばかりに。
「何年か前からです。初めてお会いした時に披露させていただいたと記憶していますが、お忘れでしょうか」
男物のかつらを置くと、隣にあった、別のかつらを頭に乗せた。同じ黒髪だが、くるりとカールされた髪が結われた状態になっている。これが、この邸で『アンジェラ』となっている時のかつらだということだ。
何故、アンジェラの時もかつらをつける必要があるのか、カークは説明しないし、アンジェラも敢えて聞こうとはしない。
自分に瓜二つな――アンジェラ自身は母親に瓜二つと思っている――エウロラという先王の妹の存在について、知っているということを知られてはいけない。
いや、きっと感づかれていると思う。だが、それをはっきり認めてはならないのだ。
「……まだ覚えているんだ、子爵のこと」
「そうですね。覚えています」
それは、アンジェラが某男爵の支配下から抜け出した時のこと。彼女は男爵に強要されていた『ごっこ遊び』をカークとウィルの前で披露することになったのだ。
その時に披露したのが、とある子爵のモノマネである。彼は男爵の奸計によって失脚してしまうのだが、それはまた別の話である。
「うん、それじゃ、気をつけて演じ分けてね。ボロが出るようだったら、邸から叩き出す……は、さすがにウィルが怖いからやらないけど、それなりのペナルティをつけるから」
カークの言うペナルティをつけるよりは、むしろ叩き出して欲しい、とアンジェラは思ったが、さすがに口にしない。
「はい、肝に銘じておきます」
そういうわけで、アンジェラの弟『ジェル』が、フィリップのような性格・口調となったのである。
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「やぁ、ジェルくん」
「どうも、公爵様」
ジェルは軽く会釈をして、勧められるままにカークの向かいに座った。
すると、すぐさま料理が運ばれてくる。そして、お決まりのように今日のメニューの説明がされた。
「本日はシジ茸のスープ、白身魚のドゴール風レモ煮、ルッコラとオニオンのサラダとなっております」
今日は聞いたことのある食材がある、とジェルは小さく笑みを浮かべた。毎度毎度、聞いたことのない食材・調理法というわけでもないらしいと知って、ほっとした。
だが、一概に良かったとも言えなかった。
ここへ着いて何度か食事をするうちに思ったのだが、食材の風味が感じられないのだ。舌に残るのはスパイスやハーブの刺激・香味ばかりで、今日のシジ茸のスープも、くにゃんとした食感で、あぁ、具として入っているな、と感じる程度なのだ。
「どうした? 口に合わないかい?」
「いいえ、そんなことはありません。ただ、やはり今まで食べていたのと違うなぁ、と」
「率直に言ってくれて構わないよ、ジェルくん。そもそもキミと正直な意見交換をしたくて呼んだんだから」
ジェルはちらり、と続きの間につながる扉を見た。料理人が入って来る気配はない。ここにいるのは二人と給仕の人間だけだ。
「分かりました。……率直に言いますと、物足りないんですよ。昨日も食べながら、何が足りないのか考えていましたが、何となく、これかな、というのは分かってきました」
「へぇ?」
「食材の鮮度、ですね」
「ご名答。まぁ、少し考えれば分かるか。王都近郊には農地は少ないくせに、やたらと人が多い。自然と遠くから運ばれて来る食材に頼ることになる。それだけ収穫されてから日数が立ち、質も落ちる、と」
飲み終えたスープ皿が片づけられ、白身魚とサラダが運ばれてくる。
ジェルは給仕のメイドに「ありがとう」とにこやかに礼を言う。メイドも表情では隠しているが、まんざらでもない様子だ。
「そうそう、キミに話したかったのはね、二週間後、邸でパーティを開くことについて」
「パーティ?」
「そう、キミのために仮面舞踏会にしたよ。万が一、知っている誰かと会っても、シラを切れるようにね」
「レティシャ様のお披露目、というわけではなさそうですね」
「それは別に、もっと大々的にやるよ。だけど、今回のはちょっと趣向が違うんだ」
「趣向?」
「社交界の新人を中心にして、まぁ、社交パーティの雰囲気を掴んでもらおうという催しさ」
「仮面舞踏会って、文字通り、顔を仮面で隠すんですよね。つまり、素性がバレないから、多少の失態を演じても構わないということですか?」
「概ねは、ね。だけど、素性がバレないなんてことはない。だから、失態を見せても、素性を知らないフリをするのがルールなのさ。キミには貴族の見栄っぱりは理解できないかもしれないけどね」
ジェルは「そういうもんですか」と相づちをうちながら、白身魚を一口サイズに切り分けた。食事作法は、ウィルに続いてマダム・リンディスにしこたま叩き込まれているので、動きに迷いはなくなっている。
「話を戻すと、仮面舞踏会にキミも参加するんだ」
「はい?」
フォークに乗せた白身魚があやうくこぼれるところだった。
「キミも、あぁ、アンジェラちゃんも参加するんだよ。あ、ちなみに、おのおの五人以上と踊ること」
「いや、あの、本気で?」
「うん、本気」
「座興ですか?」
「君がどこまでできるのか知りたいだけだよ」
「……」
「やだなぁ、その信用できないって顔」
ジェルは白身魚を口に運んだ。考える間を持たせるように、よく噛んでから飲み込む。
「どうせ、招待客の中に、ウィルフレード様がいるって言う寸法でしょう。公爵様?」
「やぁ、ご名答」
「それで、騙しきれるかを見るわけですか」
「いや、そこまでは考えてなかったなぁ。単にウィルを少しでもこっち側に戻したいだけ」
「舞踏会は夜に?」
「うん、もちろん」
「だから仮面舞踏会なんですか」
ウィルが昼と夜とで人格が変わるため、本人の顔がバレてはまずいのだろう。
「まぁ、それもあるけど。ジェルくんも、アンジェラちゃんも、僕の隠し玉だからね」
「ボクが?」
アンジェラが「隠し玉」というのはまだ理解ができる。失踪した王妹殿下に瓜二つとなれば、いろいろと使い道があるのだろう。
だが、男として振る舞う「ジェル」のどこが?
「隠し玉と言われても、何もできることはありませんよ?」
「いやいや、キミはそのままでいてくれればいいよ」
カークは曖昧な笑みを浮かべると、食事を続けた。
ジェルもそれ以上の追及はできずに、付け合わせのアスパラを口に放り込む。
「そう言えば、明日から来る先生だけど」
「はい、公爵様のご友人、としか聞いていませんが」
「そうだっけ? あぁ、何か忙しそうだったから、ちゃんと話していなかったかな?」
うーん、とカークは思案するように首を傾げた。
「実はね、軍人なんだ」
「……公爵様も、隊を率いていませんでしたっけ?」
「あぁ、あれはね、『軍役』。他の貴族よりは多くやっているかもしれないけど、まぁ、片手間仕事だよ。……そうじゃなくて、完璧に職業軍人なんだ。メリハ将軍みたいに、さ」
メリハ将軍の名前に、ジェルはフォークを持つ手を止めた。去年の夏以来、会ってはいないが、たまにウィルの元に手紙が届いている。きっと元気なのだろう。
「そうだ、軍人には多いから気をつけてね」
「多い?」
藪から棒な話し方に、ジェルはオウム返しに尋ねた。
「男色」
「冗談、ですよね」
「いや、本当に職業軍人には多いんだ、これが」
至極楽しそうな表情のカークに、ジェルは大きくため息をついた。
「ちなみに、その先生も?」
「さぁ、ちゃんと聞いたことがないから分からないな~」
さすがに何度もはぐらかされるとムッとくる。
(いつか、意趣返しができるといいんだけど)
そこまで考えて、ハッと我に返る。
(まずい。口調に引きずられてるんだ……)
ジェルの時に多少失礼なことを言っても問題ないというお墨付きはいただいたけれど、こんな調子じゃ、アンジェラの時にもうっかり何か口にしてしまうかもしれない。
(……というか)
フィリップの女好き(自称:博愛主義)に、エリックのいたずら好きが混ざってないだろうか?
「あ、そうそう、軍人で男色といえば―――」
カークが話し始めた、ウィルが訓練中に教官役の軍人に迫られたというエピソードを、どこか遠くで聞きながら、ジェル=アンジェラはひとり、自分の心の動きに怯えていた。




