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ひとつの空にあるように  作者: 長野 雪
はじめてのおるすばん
39/57

05.帰還と紅茶と駆け引き

「まさか、本当に吹雪になるなんて」


 いつもなら夕闇の迫る時間帯だったが、窓の外は既に暗く、吹きつける風と雪が、絶え間なく音を立てていた。

 応接間でレティシャは騎士物語を読みながら、アンジェラはレース編みをしながら時間を過ごしていた。入れたばかりの紅茶は湯気をたてているが、この寒さではすぐに冷めてしまうだろう。

 くしゅん、と可愛らしいくしゃみをしたのは、レティシャの方だった。


「まだ、寒いですか? もし、よろしければ紅茶にブランデーをお入れしましょうか。きっと温まります」

「そうね、お願いしますわ。……やっぱり、そのカーディガンを羽織った方がよろしいかしら」


 その羊毛のカーディガンは、もこもこし過ぎて不格好だ、と先ほど脱いだばかりだった。


「温かいに越したことはありません。風邪をお召しになる前に、是非、羽織ってください」


 アンジェラの勧めに、レティシャは素直に頷いた。そして、ブランデー入りの紅茶のカップを持ち上げる。


「あら、いい匂いですわね。……まぁ、少し甘味が増しましたわ。素敵ね」


カラン、カラーン


 その鐘の音に、アンジェラはレース針をテーブルに置いた。


「どなたかいらっしゃったようです。見て来ますね」

「こんな吹雪の中にですの? 風で鳴ってしまったのではないかしら」

「ですが、来客でしたら、すぐにでもお通ししませんと。凍えてしまいます」


カラン、カラーン


 二回目の鐘に、アンジェラは「失礼します」と、小走りに玄関へ向かった。確かに、こんな天気に出歩くような人は、町の人ではまずいないだろう。悪天候に加え陽も落ちている。自殺行為だ。

 玄関の扉を開けると、冷たい風と雪に身体を打たれた。門の内側でさえこうなのだから、外はとんでもないことになっているだろう。


「ただ今参ります! どちら様ですか?」


 風に負けないように声を張り上げると、「私です。開けてください」と聞き慣れた声が帰ってきた。

 安堵のため息を洩らし、アンジェラはかんぬきを上げ、重い扉に体重をかけて開けた。強い風のせいか、いつもよりずっと重くなっている。それでも、ゆっくりと外側に開いた門扉もんぴの外には、彼女の主人が―――


「ティオーテン様?」


 予想外の人物に、アンジェラは目を丸くした。


「こっちにレティが来ているだろう? どこにいる? ―――レティ!」


 その客人の目はアンジェラの頭上を通り越して、玄関からそっと顔だけ出していた妹を見つける。

 アンジェラの後ろでレティは小さく悲鳴を上げ、邸の奥に駆け戻って行った。それを兄であるティオーテン公爵=カークも追いかける。

 その後ろから、ようやく二頭の馬を引いた主人、ウィルが姿を現した。


「留守番ごくろうさまでした、アンジェラ」

「はい、だんな様」


 アンジェラが全体重をかけて支える門扉の隙間にするり、と入ると、ウィルは何を思ったか微笑みを見せた。


「厩舎へと連れて行きます。アンジェラ、何か温かいものを用意してもらえますか?」

「はい」


 かんぬきを下ろすと、アンジェラは台所へと駆け戻った。幸い、お茶を入れていたのでお湯はある。茶葉を新しくして入れ直すことにした。お湯をそそぐと砂時計をひっくり返し、急いで一階の物置に行って身体を拭くための布を二枚持ち出し、応接間の暖炉の前に広げた。慌てて台所に戻ると、砂は全部落ちきっていた。中を確認すると、それほど濃くはなかったので、ティーカップにそそぎ、ブランデーを垂らすと、一つを応接間に、もう一つをトレイの上に乗せた。代わりに応接間でアンジェラとレティが飲んでいた分は台所へと持ちかえってくる。

 ちょうど、ウィルが玄関から入ってきたので、応接間のタオルを一枚持ち、雪を払うのを手伝った。


「応接間に紅茶を入れてあります」

「ありがとう、アンジェラ」


 今度は、応接間に戻り、残ったタオルを腕に、紅茶を乗せたトレイを持って、二階へと上がった。二階からヒステリックなレティシャの声と落ち着き払ったカークの声が聞こえていたので、探すまでもなかった。


「ティオーテン公爵様、こちらをどうぞ」


 レティシャはどうやらアンジェラの部屋にたてこもってしまったらしい。この部屋は内側から鍵がかかるようになっているため、カークも手が出せないのだろう。


「ありがとう。……この部屋の鍵は?」

「大変申し訳ありませんが、鍵は室内に保管しておりました。……手袋とコートを」


 タオルの代わりまだ雪がついたままの手袋とコートを受け取り、紅茶の乗ったトレイを――少々はしたないと思いつつ――床に置いた。


「レティシャ様。寒くはありませんか?」

「アンジェラ? そこにいますの? ……大丈夫でしてよ。カーディガンのおかげで寒くありませんわ」


 その返事に満足したアンジェラは「何かありましたら、お呼びください」と二人に声をかけ、廊下を駆け下りた。

 カークのコートから雪を払い、玄関にかけると、応接間へ足を運ぶ。


「だんな様、夕食はいかがなさいますか?」

「あぁ、そうですね。適当で構いませんのでお願いできますか? あぁ、でも、急がなくてもいいですよ」

「分かりました。それでは、あたしは厩舎へ行っています。何かありましたらお呼びください」

「あぁ、そういえば」

「急ぎのご用でしょうか?」

「……いいえ、急ぎではありません。先に、馬を頼みます。少し無理をさせてしまいましたから」

「はい、それでは、失礼いたします」


 アンジェラは台所へ向かうと、外向きの服に着替えて、ぬるま湯を桶に入れると、吹雪の中を出て行った。

 音だけでそれを確認すると、ウィルは大きくため息をついた。


「さて、カークの方はどうなったのでしょうかね」


 指先に感覚が戻って来たことを確かめながら、紅茶をすする。

 ほどなく、カークが下りてくる足音が聞こえた。


「だめだね、あれは。出てくるつもりがないみたいだ。……迷惑かけるね、どうも」

「気にしないでください。お互い様でしょう」


 カークは、手にしたトレイとティーカップを置くと、ウィルの座る向かいにどっかりと腰を下ろした。


「それにしても、何かあったのかな。アンジェラちゃんが冷たいんだよ」

「……あぁ、そうですね」

「おいおい、君は何も思わないのかい? 人の妹が家出して来てるっていうのに、もう少し引っ張り出すのに協力してくれたって」

「たまにあるんですよ。仕事が立て込むと、スイッチが切り替わったように、如何いかに要領よく仕事を片付けるか、ということだけに集中してしまって」

「仕事、減らさないとまずいんじゃないの? こんな大きい邸に一人って信じられないよ。しかもあの給金だろ?」

「本人があの額でいいというのですから、仕方ないじゃないですか。それよりレティシャです」

「あ、あぁ、そうだった」

「アンジェラの部屋は、夜の私が何もしないようにと、キーもスペアキーも預けてしまってますからね。無理に、というわけにはいきません」

「アンジェラちゃんに聞いたら、鍵は室内だってさ。……今のところ、アンジェラちゃんには心を許しているみたいだから、説得を頼むしかないかな」


 頬杖をついて思案を巡らせる友人に、ウィルはつい、笑いを誘われた。


「何がおかしいのさ」

「いえいえ。ティオーテン公爵様は、沈着冷静を絵に書いたような方だ、というのがもっぱらの評価ですから。……カーク、あなたも人の子だったんですね」

「あぁ、そうさ。ついでにあの妹の兄だよ。……ところで、アンジェラちゃんは? 姿が見えないようだけど」

「厩舎へ行きましたよ。お互い馬に無理させてしまいましたしね」

「……ねぇ、やっぱり使用人増やした方がいいよ、君」



.。:*·˚+.。:*·˚+.。:*·˚+.



 厩舎は外よりも断然、暖かかった。

 アンジェラは馬の水桶にぬるま湯を入れると、彼らがそれを飲んでいる間に、お湯にひたして固くしぼった布で二頭の身体を拭いた。布が冷えてくると、またお湯にひたす。その繰り返しである。


「明日のメニューはどうしよう……」


 馬に話しかけるように呟いたアンジェラの頭の中には、今使える材料と、今日の夕飯・明日の朝食兼用に仕込んでいたスープがリストアップされる。


「スープは、きっと今日で終わっちゃうから……」


 せっかく新鮮な豚肉をもらったからと、足の方の固い肉をことこと煮込んでいたのだ。今日はパンと、キノコと青菜の酢漬けと、そのスープの予定だった。だが、多めに作ったスープは食べきってしまうだろうし、あともう一品作らないと足りないだろう。


「明日は、レティシャ様が珍しがっていた芋粥にする予定だったけど、たぶんダメだよね」


 二頭を交互にねぎらいながら、アンジェラはう~ん、と考え込む。


「明日は早起きして、パンに、燻製肉とチーズを付ければいいか。あれならまだ残りが十分あるし。でも、スープ系があった方がいいんだよね。どうしよう」


 ブルルン、と鼻を鳴らしたウィルの馬の首を軽く撫でながら、色々組合せを考える。


「本当は、アンゼリカを使いたいんだけど、だんな様はきらいみたいだし。あぁ、そっか。食糧庫にラディッシュあったから、あれメインでスープ作ろう。ちょっとしおしおになってるけど、スープなら問題ないよね」


 燻製肉もチーズも味が濃いから、さっぱり仕立てで構わないだろう。そう結論を付けて、喉元につたい流れた汗をぬぐった。

 きれいになった二頭に別れを告げ、アンジェラが外の冷たい水で手を洗って戻ってみると、応接間の二人はそれぞれ目を閉じていた。


(この吹雪の中だし、疲れたんだろうな)


 客用のブランケットを取り出し、二人にそっとかけると、足音を忍ばせて台所へ向かう。酢漬けは壷から出せばすぐだから、スープの味付けと、あと一品――干した川魚があったから、それを豆と煮付けよう――を作らなければならない。頭の中で最速の手順を組み立てると、「よし」と腕をまくった。



.。:*·˚+.。:*·˚+.。:*·˚+.



「やぁ、あとどれくらいでできるかな?」


 後ろから声をかけられ、アンジェラは手にした杓を落としそうになった。


「もう少々お待ちいただければ。……あ、でも、いくつかはすぐにお出しできますけれど、どうなさいますか?」


 振り返りながら答えると、まだ少し眠そうな、けれどいつもの余裕の笑みを浮かべたカークが立っていた。


「手紙ありがとうね。あと、レティのことも」

「そんな、お礼をいただくほどでも―――」

「今、いいかな。少し話せる?」

「は……い。あとは煮詰まるのを待つだけですので、問題ありませんが」


 台所の椅子に腰かけたカークは、そりゃよかった、と頷いて、懐から封筒を取り出す。


「これ、よく考えたね。誰かに教わった? ……簡潔な文章でもなく、どうでもいい長文の中に、折り混ぜるなんて」


 アンジェラは、文面を考えた時のことを思い出して、恥ずかしそうに自分の指をいじった。


「いいえ。以前、貴族にとってスキャンダルが命取りだという話をお聞きしておりましたから、直接的な言い回しは避けようと思いまして。どう伝えようかと思ったときに、いただいた手紙を参考に、と」


 アンジェラが書いた手紙は、花の種のお礼文だった。ただ、花の芽が、以前、お邸で拝見したものと違うようだから、『本当に、貴方様の花でしょうか? それとも、風に乗ってやってきたのでしょうか? しばらくは様子を見ることにします』と、書いたのだ。


「なるほど、それで、あんな文面」

「本当に妹君で、よかったです。正直、最初の数日は疑ってましたから」

「……ふぅん。それで、だ。キミは知っているのかな。レティが家出した理由を」


 その質問は、予想通りだったので、アンジェラは小さく胸を撫で下ろした。


「伺っておりますが、あたしの口からお答えできません」

「ふぅん、『命令』でも?」

「さしでがましいことながら、あたしがお伝えするべきではないと判断いたしました。だんな様ならともかく、ティオーテン公爵様のご命令には、従う理由がございません」


 動揺を悟られないように、アンジェラはひとつ頭を下げると、再び鍋に向かって杓で掻き回す。


「なるほど、君はレティシャに同情したと、そう解釈してもいいかい?」

「いいえ、レティシャ様が、直接、ティオーテン公爵様にご説明されない限り、同じことの繰り返しだと思いましたので」


 社交界という場所に向きあおうと、兄に向きあおうとして『強さ』を欲しがっていたのだ。誰にも邪魔されずに兄妹が語りあえる、こんなチャンスを逃したら、また鬱屈したものが溜まってしまうだろう。


「僕に、直接話したいって? レティがそう言ったのかな?」

「いいえ。……ですが、そうしたがっているように、見受けられました」


 しばらく、ぐつぐつと鍋がたてる音と、外から聞こえるゴォゴォという吹雪の音だけが不器用なハーモニーを奏でた。


(そろそろ、かな?)


 かるく杓で豆をつつくと、くにゃんとした感触が伝わってきた。鍋を持ち上げると、シチューの入った別の鍋を移し変えた。


「夕食ができましたので、だんな様を起こし……」


 振り向いてカークを見たアンジェラは、そのまま立ちすくんだ。

「ティオーテン、様?」


 すぐ後ろに彼が立っていたのに気付かなかった。足音を殺して近付いてきたのだろうか。

 彼は両手をゆっくりと上げた。ぶたれるのか、と身体を固くしたアンジェラに、予想とは逆に両頬を包み込んだ。レティシャと同じ青灰色の瞳が、まっすぐ彼女を覗き込む。


「こんな時でも、目を逸らさない。まったく、君のその強さはどこから来ているんだろうね」

「残念ながら、あたしは強くありません。誤解です。……ティオーテン公爵様のことです、後ろにだんな様がいらっしゃっていることぐらいご存知でしょう」

「まぁね。……ねぇ、ウィル? 何か、だんだんアンジェラちゃんが、強くなっちゃってる気がするんだけどさ。キミ、甘やかしてないよねぇ?」

「私ではなく、ここへ来る人来る人が、みな無理難題をけしかけるからですよ」


 扉に立って、口を挟む隙を計っていたウィルは、ゆっくりとした足取りで近付くと、カークを後ろからぐいっと引っ張った。ようやく頬を挟まれた状態から解放されたアンジェラは、小さく頭を下げる。


「夕食になさいますか?」

「そうですね、お願いします」



.。:*·˚+.。:*·˚+.。:*·˚+.



 食後の紅茶を出し、二人の使った食器を水に漬けると、アンジェラはスープと酢漬けとパンをトレイの上に乗せた。


「あぁ、アンジェラもお腹が空いてきましたか?」


 先程、自分たちと一緒に夕食にしないか、という問いに「お腹が空いていませんから」と答えていたのを思い出し、ウィルが尋ねた。


「いいえ、レティシャ様の分です」

「部屋まで持って行くのかい?」

「はい。きっとお腹が空いている頃だと思いますので」

「持って行くことはない。お腹が空けば出てくるさ」


 紅茶のカップを傾けながら、カークが冷たく言い放つと、アンジェラは首を横に振った。


「当邸のお客様ですから。無理をなさって、体調を崩されるのは、いかがかと。……だんな様、ウィルフレード様。レティシャ様が、まだ出ていらっしゃらない、ということは、お二方にお会いしたくないのだと思います。一人で行かせてください」


 トレイを持ったまま、ぺこり、と礼をして、アンジェラは台所を出た。

 やれやれ、とカークが肩をすくめると、足音を消して後を追った。ウィルも仕方なく席を立った。

 気配を悟られないために、アンジェラの後ろに二人が口を開かずに、黙々と階段を上る。アンジェラは気付いているのかいないのか、一度も後ろを振り返ることなく、まっすぐ自分の部屋に向かった。


コンコン


「アンジェラです、開けてくださいますか」

「開けませんわよ。そこにお兄様もいらっしゃるんでしょう?」


 アンジェラはちらり、と階段の方を見た。カークは階段の最上段から一歩下がって、事の成り行きを伺っている。ウィルはさらにその下だ。


「いいえ、あたし一人だけです」

「嘘をつかないでちょうだい。それにアンジェラが気付いていないだけで、こっそり来ているかもしれないのではなくて? ……ここを開けるわけにはいきません」


 アンジェラは、階段を上りながら考えていた策を使うことにした。少し息を整え、できるだけ大きく、隠れている人間にも聞こえるように声を上げる。


「そこまでお疑いでしたら。もし、今、このドアを開けて、レティシャ様がお二方に引きずり出されるようなことがあれば、あたしは、責任をとって、ここにあるフォークで喉を突きます。……それで、よろしいですか?」

「……フォーク?」

「はい、夕食をお持ちしました。おなか、空いていませんか?」


 カチャリ、と鍵を開ける音がして、続いてゆっくりドアが開いた。


「アンジェラだけなら、入って。……はやく」


 レティシャに急かされ、アンジェラは部屋の中に入る。入ったとたん、また鍵を閉められた。


「こちらのテーブルへ。どうぞ、温かいうちにお召し上がりください。―――何か?」


 見ればレティシャは変な顔をしていた。


「普通、こういうチャンスを狙って、力づくで解決するものではなくって? どうせ、お嬢様の気まぐれだから、とか、勝手に理由付けて」


 レティシャの皮肉に、アンジェラはきょとん、とした。


「そんなこと、考えてもみませんでした。……せっかく作ったスープですから、温かいうちに、と思いまして」


 あきれましたわ、とレティシャは勧められたテーブルにつく。


「これは、今日の豚肉ね。あんなに固かったのに、こんなに柔らかくなりますのね」

「はい。肉の固さに応じて、いろいろな調理方法がありますから」


 アンジェラは、少し離れたクローゼットに向かうと、寝巻きと厚手のセーターを取り出した。


「今夜はあたしの部屋でお休みください。あたしは別のところで寝ます」

「……待ちなさい、そういうわけにはいきませんわ。あたくしが、部屋の外に出ればいいのです」

「大きな声では言えませんが、レティシャ様」


 アンジェラは、スープを口に運んでいるレティシャに近付くと、そっとささやいた。


「今出るのは得策ではございません。ティオーテン公爵様は、少々平静を失っているように見えます」

「怒っていらっしゃるでしょうね」


 レティシャはスプーンを動かす手を止めて、二、三拍、目を閉じた。


「……わかりました。一晩だけ、好意に甘えさせてもらいます。明日の朝、お会いしましょう、と、お兄様につたえて」


 はい、とうなずいたアンジェラは、レティシャのスプーンを持つ手が震えていることに気付いた。


「やはり、お兄様と直接お話するのは恐いですわ。でも、これは、あたくしの問題ですから。……アンジェラ、頼みたいことがあるのですけれど」

「はい、あたしにできることでしたら」


 レティシャは小さく「今夜も、一緒に寝てもらえます?」と尋ねた。ちょっとだけ、ウィルフレード様の顔がよぎったが、承諾することにする。


「分かりました。鍵はかけたままで。……実は、台所にこの部屋の鍵があるんです。だんな様方が寝た後で、こちらへ戻ります」


 外に張りついているであろうカークに聞こえないように、アンジェラは小さな声で答えた。



.。:*·˚+.。:*·˚+.。:*·˚+.



 ドアを開けると、そこに険しい顔をしたカークがいた。その隣にはウィルも立っている。

 一瞬、ぎくりと緊張したが、無理矢理に引きずり出そうという気はないようだ。

 閉まったドアから、すぐさま鍵をかける音が聞こえた。レティシャは、今晩は徹底抗戦を決め込んだのだ。


「特に食欲がないっていうわけでもないみたいだね」


 カークがアンジェラの手にしたトレイを見て言う。そこには空になった皿が並んでいた。


「はい。……ティオーテン様、レティシャ様から伝言がございます。『明日の朝、お会いしましょう』と」

「今日は、話す気はないと?」

「そういうことなのではないかと。……あ、客間はいつもの部屋をお使いください。レティシャ様の為に整えてありましたので」


 アンジェラは、客間にレティシャの荷物があることなどを簡単に説明すると、台所に向かう。食器の片付けと、自分の夕食のために。


「それじゃ、僕は休ませてもらうよ。……ウィル、君も休んだ方がいい。お互い馬でとばして来たからね」

「そうですね。私もすぐに寝ます」


 客間に向かうカークを見送ると、ウィルは、台所に戻るというアンジェラの後をついてきた。


「だんな様、お疲れでしたら、早くお休みになった方が」

「明日からのことで、いくつか話しておきたいことがあります。一気に人が増えましたから、食材の調達のことも考えなくてはなりませんしね」


 そうだった。アンジェラの独断で町長に『お使い』をさせてしまったことを思い出し、階段を下りながら、ウィルに手短に説明する。


「なるほど、話は分かりました。今日のスープの具材は、そういうことだったんですね」


 快く了承をしてくれたものの、アンジェラは、ウィルの声音が固いことに気付いた。やはり、よくない対応だったのだろうか。

 明日も食材を届けてもらうことになっていると説明すると、ウィルはペリーに言付けて量を増やすように、と提案した。


「まぁ、この天気では、どうなるか分かりませんが」

「そうですね。風か、雪のどちらかが止めばいいんですけど」


 アンジェラは食器を水につけると、少し古いパンをスライスして、軽くあぶった。酢付けを壷から取りだし、スープを盛る。


「今日はお疲れでしょうし、お休みください。あたしも、食事を終えたら休みますから」

「……アンジェラ」


 テーブルに食器を置いた途端、ウィルに肩をつかまれた。ぐいっと彼の方に向かされると、険しい視線と目が合った。


「自分を粗末に扱わないように、とあれだけ言いましたよね。私は」

「粗末に、ですか」

「……あのとき、私とカークがいるのに気付いていたのでしょう?」


 あのとき、と言われ、アンジェラはレティシャに向かって「フォークで喉を突く」と啖呵を切ったことを思いだした。


「っ! 申し訳ありませんっ!」


 あの時のアンジェラは、いかに効率良く扉を開けさせるか、それだけしか頭になかった。それが、迂闊な言動の原因だった。


「まさか、本当に喉を突くつもりだったのですか」


 例えば、あそこでカークが出て来たとしたら、と考える。……不思議なことに、あの場でそんなことが起こるとは全く考えていなかった。


「だんな様が、ティオーテン公爵様を止めて下さると信じていましたから。それに、だんな様を怒らせることを承知でティオーテン公爵様が強行突破をするとも思えませんでしたし」


 あの時点で、レティシャを引きずり出すことは、それほど重要でもないだろう。そう、考えてのことだった。


「すみません。今度からは、もっと違う方法を考えるようにします」


 アンジェラの回答に、ウィルは大きくため息をついた。


「くれぐれも、お願いします。どうも、アンジェラは一度口にしたことは絶対に守りそうな感じがしますから。たとえ、それがフォークで喉をつく、というものでも」


 肩を掴んでいた手を放すと、ウィルはくるりと背を向けた。


「私も休みます。……アンジェラはどこで寝るのですか?」

「はい、一階の客間で。秋にローザさん達を泊めたところが、まだきれいですから」

「そうですか。……明日も大変だとは思いますが、よろしくお願いしますね」

「はい、お休みなさいませ」


 アンジェラは深く礼をしてウィルを見送ると、ふぅ、と一息ついた。

 元々、夕食兼朝食として煮込んでいたスープは、夕食だけでその任を終えてしまった。自分の食事を終えたら、明日の朝食の下ごしらえだけをして、自分の部屋に戻ることにしよう。ウィルとカークがやって来てから、それこそ休憩なしで動いたから、さすがに身体がだるい。


(今日は、『ウィルフレード様』もぐっすりだよね、きっと)


 アンジェラは急いで目の前の食事を片付けると、鍋の底に少しだけ残ったスープに水を足すと、軽く煮立ててから薄くスライスした干し肉をパラパラと入れた。これで朝には、ベースが出来あがっているだろう。水瓶の水も残り少なくなってきたから、明日の朝には汲まないといけない。


(やっぱり、やらなきゃいけないことが多い)


 小さくため息をつくと、台所の引き出しを小さく開けた。そこには自分の部屋のスペアキーが、調理道具に混ざって入っている。


(誰も、見てないよね)


 台所の入口を伺うと、引き出しを自分の身体で隠すようにして、しかもさりげなく、引き出しからスペアキーをポケットに移動させた。

 もう一度、台所を伺うが、人の気配はない。


(大丈夫、大丈夫)


 自分を鼓舞すると、台所の灯りを全て消し、燭台も持たないまま、ゴォゴォと音だけが響く闇の中を歩き出した。ひたひたと階段を上がり、自分の部屋の前まで来ると、そっと鍵を取り出す。


(音を立てないように、と)


 そぉっと鍵穴に差し込み、少しずつ力を入れて回す。


カチャン


 静かな廊下に、大きく響いた音にびっくりし、素早くドアを開けて身体をすべりこませた。そして、後ろ手に鍵を閉める。


「レティシャ様、アンジェラです」


 小さく声を上げると、寝台でごそごそと動く音がした。ナイトテーブルのランプに上半身を起こした少女の姿が浮かび上がる。壁に写し出された大きな影とともに、アンジェラを手招きしていた。


「失礼いたします」


 小声で応えると、足音を立てぬように、寝台にもぐり込む。レティシャの体温で温められていた毛布が、アンジェラを歓迎した。


「泣いて、いらっしゃったのですか?」


 目じりに涙のあとを見つけ、アンジェラが尋ねた。


「少しだけ。……大丈夫ですわ。自分の気持ちと向きあった証拠みたいなものですから」


 レティシャはそっと目を伏せた。


「ねぇ、アンジェラ。聞いてくださいます? あなたが静かに考えられる時間をもらいましたから、あたくし、ゆっくりと考えることができましたの」

「聞くだけでしたら。あたしは、レティシャ様の考えが正解なのか、間違いなのか、判断まではつけられません」


 それでいいの、とレティシャはまぶたを持ち上げた青灰色の瞳に、まっすぐアンジェラの姿を映した。


「あたくしが恐れていたのは、見知らぬ誰かと結婚するのが恐かったからではないようです。いいえ、もちろん、恐いけれど、あたくしは……」


 そこで、レティシャは一度言葉を切った。


「お兄様は、社交界に出るまでは、あんな人ではありませんでした。少しズルいところもあったけれど、よく笑って、よく怒って、たまに泣いたりする人だったんです。……社交界の話をする兄が、楽しそうに見えたことなんてありませんでしたわ。笑いながら話していても、それは乾いた愛想笑いか、含みのある笑い方ばかり」


 自分が見たことあるのは、はたしてどちらなのだろう、とアンジェラは首を傾げた。やはり後者だろうか。


「社交界ではなく、ウィルフレード様や、兵役で出会った様々な、そう『仲間』とか、『友』と言ってしまえばいいのかしら。そういう方々の話をするとき、お兄様は、本当の感情を出してくださいました」


 レティシャは、自慢でもするように、兄を語る。その目は誇らしげに、嬉しげに。本当に、兄=カークのことが好きなのだと、アンジェラが微笑ましく思うぐらいに。


「お兄様をそこまで変えてしまった『社交界』が恐かったのです。……いいえ、むしろ、あのお兄様の妹として、あたくしのせいでお兄様が不利益をこうむることになってしまうかもしれない、と。お兄様が自分を変えてまで、『社交界』で築き上げてきたものを、あたくしの迂闊な振る舞いで壊してしまうかもしれないことが恐いのです。あたくしは、お兄様の役に立ちたい。お兄様の負担を肩代わりしたいのです。……決して、足手まといにはなりたくないのです……っ!」


 青灰の瞳が濡れ、そこから透明な道が重力に引かれて落ちて行く。

 寝台に、しばらく押し殺した嗚咽が響いた。


「レティシャ様は、ティオーテン様のお役に立ちたいのですね?」


 黙って頷くレティシャを、アンジェラは、何となく淋しく感じた。


(これが、セインやアイルに言われたセリフだったら、あたしはどう思うんだろう)


 成長に驚いて、嬉しくなって、でも、ちょっと淋しくて。家に居て、帰りを待ってくれていると思っていたら、いつの間にか隣に並んでいるような、奇妙な感じがするだろう。


「公爵様に、全て話してみるおつもりですか?」

「……えぇ、お兄様がなんとおっしゃるか分からないけれど」


 涙声ながら、その瞳に迷いはなかった。

 アンジェラは小さく微笑んで、「応援しています。頑張ってください」と告げた。


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