04.橙の華やかな昼食会
「豚、ですか?」
「そうじゃ。豚じゃ」
昼食後、買い物を頼んだ品々を持って現れた町長の提案は、アンジェラにとって突拍子もないものだった。
「ですが、ウィルフレード様の不在中に、あたしだけが頂くわけにもいきません」
「まぁ、固いことは言いっこなしじゃ。折角の客人じゃ、新鮮なものを使って、もてなすのも悪くないじゃろう?」
「確かに、そうなんですけど。ですが、レティシャ様をお一人にするわけには」
「それならば簡単な話ではないかの? 一緒に連れてくれば問題なしじゃ」
「……一昨日のダンスの練習のようにはいかないと思います」
アンジェラは小さく首を振った。
「何が、ダンスのようにはいきませんの?」
その声に、町長は目を丸くし、アンジェラは慌てて振り向いた。
「ほう、これは話に違わぬ美人さんじゃの。わしはこの町の町長ヤコブと申す者。イザベラの祖父と言った方が、話が早いかの」
「まぁ、あなたが? はじめまして、あたくしはレティシャ・フランと申します。イザベラとは、楽しくお話をさせていただきましたわ」
優雅に一礼をするレティシャに、町長はアゴヒゲを撫でながら、さっきアンジェラにしたばかりの説明を繰り返す。
「王都と違って、この町は娯楽も少ないと思いましての、今度、拙宅で豚を潰すので、招待しようかと話しておりまいたが、いかがですかな?」
レティシャは小さく首を傾げた。『豚を潰す』ことが、『招待』の理由になる、ということが理解できない。
「あの、豚を潰すというのは、食肉にすることです。冬の間は保存食ばかりなので、新鮮な食材を使って、ささやかな食事会をしようというお誘いなのですが、いかがなさいますか」
アンジェラが慌てて補足すると、レティシャはようやく得心顔になった。
「まぁ、そういうことでしたら、ぜひ喜んで参加させていただきますわ。いつ頃、伺えばよろしいのかしら」
「それでは、明日の昼にしましょうかの。わしが迎えに参りますのでな」
そのまま背を向けて帰ろうとした町長に、アンジェラは慌てて買い物の代金を押しつけた。
「絶対に、受け取っていただきます」
辞去する町長に、アンジェラが語気を強めると、しぶしぶと受け取った。
そうして帰って行った町長に手を振ると、一連の様子を見ていたレティシャがにっこりと微笑んだ。
「意外と強気なこともありますのね」
無邪気な言動だっただけに、アンジェラはちょっぴり苦笑いを浮かべて、お使いの品々が入った木箱をよいせ、と持ち上げた。
「借りを作りたくないんです。特に、お金がらみの借りは恐いですから」
答えながら、不思議なものだと思う。アンジェラの生まれ育った貧民街では、ご近所さんとの金の貸し借りなど皆無だった。お金は雇い主から前借りするか、恐い金貸しから借りるものだった。反対に『労働』の貸しは『親切』とか『助け合い』だったから、明確な貸し借りではなかったのだ。
「ねぇ、アンジェラ。レース編みのことを考えたのだけれど、教本をなぞるのではなくて、一つ作品を作ってみませんこと?」
がらりと話題を変えられ、アンジェラは木箱を取り落としそうになった。
「作品、ですか?」
玄関に向かいながら、アンジェラは聞き返す。
「そう。コースターぐらいなら、きっともう編めますわ。簡単ですし、小さいものですもの。それに何より、反復練習とは作りがいが違いますでしょう?」
玄関の前の階段を何とか上りきって、一度木箱を置く。玄関口の扉を開けて「どうぞ」とレティシャを促した。
(コースターって、確かグラスの下に敷くものだったよね)
このお邸では、客が来たときの晩餐ぐらいにしか出さないものだったから、少し実用性には欠けるが、アンジェラはちょっとだけ、作ってみたいと思った。
「そうですね。そんなに難しくないのでしたら。ぜひ」
扉が閉まらないように、身体をつっかえ棒にしながら、アンジェラは再び木箱を持ち上げた。当たり前のことだが、レティシャはその様子を見ているだけで、決して手伝うそぶりは見せない。アンジェラもそれを当然と思っているので、別に口には出さない。これがウィルフレード相手だと、何かと力仕事を手伝おうとして来るので、そういった面では、レティシャとの付き合い方は楽だとアンジェラはこっそり思っていた。
「ちょうどかわいいパターンが載っていましたの。一緒に作りましょう」
両手を合わせて可愛らしく微笑むレティシャに、アンジェラは「とりあえず、この箱を台所まで運びますので、それまで待ってください」と頭を下げた。
悪意はないのだが、レティシャは時々こちらの都合を考えずにいろいろ言ってくる。アンジェラは喉の奥でため息をついた。
(こう我がままが多いと、……シビントン夫人を頼ることも考えないといけないかも)
我がままに応える時間が少ないと、飽きて逃げられるかもしれない。
自分のメンツはどうでもいい。だが、ティオーテン公爵からの返事が来るまでは引き止めておかないと。
(貸しを作るつもりが、借りを作ることになってしまうのだけは、避けないと)
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「ねぇ、アンジェラは、いつも仕事ばかりですの?」
そう切り出されたのは布団の中だった。結局、毎晩アンジェラのベッドで枕を共にしているのだ。
「仕事ばかり……、そうですね。言われてみればそうかもしれませんが、あたしはだんな様に雇っていただいた身ですから」
しばらくは、本当に一人前の仕事をやっているのか心配だったが、秋に王都から来た使用人達と話す機会があって、ようやく仕事に自信が持てるようになった。と、アンジェラは話した。
「嬉しそうに話しますのね。……うらやましいですわ。誇れるお仕事があって、きっと毎日、充実していますでしょう?」
ベッドに入ると、弱気な発言ばかりになることは、最初こそ驚いたが、さすがに三晩目となれば慣れてきた。
「充実してるように見えますか。―――そうですね。二年ほど、何もすることなく暮らしてきたので、いろんなことを覚えたり、身体を動かしたりすることは楽しいです。……でも」
アンジェラは仰向けになって、上を見つめた。
「でも? 何ですの?」
「最近、こうやってレティシャ様とお話するようになって気付いたんです。目の前の仕事に逃げていたんじゃないかな、って」
「仕事に、逃げる……」
「あたしが貧民街の出だってことはご存知ですよね。あそこでは、考える時間なんてないんです。みんな多かれ少なかれ『飢え』ていて、それをどう満たすか、どうやったらこの状況から這い上がれるのか。そんなことばかり考えて生きてるんです。……まぁ、皆が皆同じ考えとは思いませんが、少なくともあたしはそうでした。母が病気になって、どうしても薬が欲しくて、自分を売ることを考えたとき、同時に貧民街から抜け出すチャンスだとも思ったんです」
「そんな……」
声から、レティシャの想像の範疇を越えてしまったらしい、と察すると、アンジェラは喋り過ぎたことを反省した。
「いろいろありましたけど、こうやって貧民街から脱出しました。でも、いざそうなってみると、いったい仕事以外に何をすればいいのか分からないんですよね」
あはは、と冗談めかして笑うと、アンジェラは態勢を変えてレティシャの方を向いた。
「上手く言えないんですけど、あたしはレティシャ様に感謝しているんです。だんな様が自分の意志で離れた『王都』の様子を教えてもらって、レース編みも教えてもらって」
「そんなの、あたくしでよければ、いつだって教えてあげてよ。あたくしの方こそ、とても勉強になりますわ。アンジェラと話していると、いかに自分が恵まれているか思い知らされますもの」
「……レティシャ様。お互いに、色々勉強になったことを考えると、今回の家出は成功だったのではないでしょうか」
「知って、……いましたの?」
「いいえ、ただ、お話を聞いてますと、社交界のデビューがお嫌になって出て来たのでは、と。ティオーテン公爵がご自分の妹君を一人で、しかも持参した手紙に一言の断りもなく、向かわせるとは思えませんでしたし」
「お兄様のことをよく分かっていらっしゃるのね。―――その通りでしてよ。あたくしは、家出して来ましたの。あたくしは、とても、弱くて……とても、社交界に出ていけるほどは強くはなくて」
声が震えてきたレティシャは、とうとう顔を手で覆ってしまった。
「お兄様から、アンジェラの話を聞いたときに、まるで天啓のようにひらめきましたの。きっと、きっと、その人なら、あたくしにも強さを分けてくれる、って」
背を向け、肩を震わせるレティシャを、アンジェラは後ろからそっと抱きしめた。
「あたしも、そんなに強くはない方ですよ。分けられるものも、ぬくもりぐらいしかありませんし」
笑わそうと冗談めかして言ったのに、レティシャはとうとう声を上げて泣きだしてしまった。
「……あとはですね、昔、いろいろな人から教わった言葉があるんですよ」
「言葉……?」
「はい。貧民街では、生き抜いていくための教えがたくさんあるんです。たとえば『自らを弱いと思う者は強い人を見よ。強さの理由を見つけ、自らの力とせよ。それができない者は弱い者を見よ。弱さの理由を見つけ、我が身を省みよ』とか。今回のことにピッタリですよね」
「強い人の、強さの理由、ですの……?」
「はい。たとえば、ダンスの練習のときに、カタリナ――あぁ、黒髪の同じ年ぐらいの子がいましたでしょう。カタリナは強いんです。でも、妹のことになるともっと強いんですよ。このあいだも妹のジーナがいじめられたときに、一人で三人を相手にして、メッタメタにした挙句に謝らせてましたし。でも、妹だからって甘くしないで、きびしく叱るときは叱るんです。すごいなぁ、って思いませんか?」
「え、えぇ」
「カタリナにとってジーナは、守り育てていくものなんです。そのためには、いじめっ子をどうにかしたり、甘やかしたいと思う自分を抑えないといけないと思います。だから、『強く』なくちゃいけない」
「それが、カタリナが『強い』理由ですの?」
「あたしはそう思ってます」
その言葉に、レティシャは肩に回されたアンジェラの手を、きゅっと握った。
「……あたくしも、強くなれたら、社交界に出ても、堂々と立てるように」
「失礼ながら、レティシャ様は、社交界がどのように恐いものだと思っていらっしゃるのですか?」
「分かりません。でも、兄様は、社交界に出てから変わってしまいましたわ。人をあんなに変える所なら、あたくしは」
レティシャはふいに言葉を止めた。
「……」
アンジェラは何も言わずに、言葉を待つ。
「……ごめんなさい。よく考えてみますわ」
レティシャはそれきり口を閉ざした。
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「まぁ、すてき」
ぼやけた鏡の前で、これまで何度となく吐いたセリフを、レティシャは口にした。
迎えにやってきたイザベラが、動きやすい服を持って来てくれたので、少しでも合うものを、と着比べているのだ。
「そんなに喜んでもらえると、持って来たかいがあったわ」
レティシャに対し、ぞんざいな口調で応えるイザベラを、アンジェラは正直すごいと思っていた。
ダンスの練習のとき、他のみんなが丁寧な口調で話しかけるのを、レティシャが止めてもらうように頼んだとき、真っ先に反応したのが、他の誰であろうイザベラだった。逆にイザベラ以外はなんとなく丁寧な言葉遣いのままである。
「着てもらうものがないって、アンジェラが愚痴ってたのを、おじいちゃんが教えてくれたの」
イザベラが持ってきたのは、ワンピースが二着、スカート、カーディガン、ブラウスがそれぞれ一枚ずつにコートまであった。
「でも、そんなに、どうしたんですか?」
「あぁ、うちの叔母さんの古着。あたしにって言われてたんだけど、せっかくだからって思って。何? アンジェラも欲しい?」
「あ、ううん、あたしはいいです。……レティシャ様、よろしいですか?」
「えぇ、これにしますわ。アンジェラ、着替えを手伝ってくれます?」
「はい。―――イザベラ、もう少し待ってもらえます? ラヨシュさんも」
「うん、分かったわ」
アンジェラはイザベラとその兄の承諾を確認すると、レティシャとともに二階へ上がった。
「あたくしに似合いますかしら?」
レティシャが持っているのは、エンジ色のワンピースと、くすんだ蜂蜜色のカーディガンだった。
着替えの手伝いにも慣れてきたアンジェラは、レティシャに服を着せ終わるとちょっと離れて確認し、うん、と頷いた。
「よくお似合いです」
アンジェラは心からそう言った。事実、レティシャは服に対する趣味が良く、今日も自分の肌や髪に合うコーディネートだった。
「さぁ、行きましょう。あまりイザベラさんとラヨシュさんを待たせるのも申し訳ありませんわ」
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「まぁ、よくいらっしゃいましたわ。レティシャ様」
気持ち良く出迎えてくれたのは、イザベラの母だった。勧められるままに、レティシャとアンジェラがダイニングに通されると、そこには町長が待っていた。
「ほうほう、よう来なされた。狭い所で申し訳ないが、どうぞ」
アンジェラは先に行ってレティシャのために椅子を引く。
「今日はお招きにあずかり、光栄ですわ」
「こちらこそ、たいしたもてなしもできませんが、ゆっくりして行ってください」
イザベラの母は軽く挨拶をすると台所へ引っ込んでしまった。
「今朝、うちのお兄ちゃんが豚をつぶしたの。初めてだったんだけど、うまくいったわ」
ラヨシュは恐縮しつつも照れ笑いを浮かべた。確か、レティシャと同じ年だったはずだ。十四を迎えるにあたっての通過儀礼だったのだろうか、とアンジェラは当たりをつける。
「でも、豚を潰すのって、大変じゃないんですか?」
アンジェラが尋ねると、まぁね、とラヨシュの誇らしげな返事が帰ってきた。アンジェラより頭一つ分は大きい彼は、この家族にあって控えめな方なのか、口数は少ない。そんな彼がこんな風に自信に満ちた顔をしているのは珍しかった。
「今日は父さんにも手伝ってもらったけど、早く一人でも潰せるようになりたいな」
「お兄ちゃんだったらすぐよ。ねぇ、おじいちゃんもそう思うでしょ?」
「ほうほう、焦りはいかんぞ。焦りは」
「さぁさ、お客様も来たんだから、台所から運んでくれる、イザベラ?」
「はぁい」
「あ、あたしも手伝います」
「いいのよ。今日はアンジェラちゃんはお客様なんだから。レティシャ様と一緒に座って待っててね」
アンジェラは、この家族が好きだった。秋にも色々とお世話になったが、家族同士の遠慮のない会話が自分の家族を思い出させて、あったかい気持ちになる、
「みなさん、とても仲がよろしいのね。見ていて、うらやましいくらいですわ」
「そんなことないわよ。今日はお客さんが来てるし。いつもだったら、ケンカとかしちゃうし」
イザベラが豚肉と豆のスープを運びながら答えた。
「遠慮なく話せるのはとても良いことですわ。あたくしも、お兄様とこんな風に話したいと思いますもの」
「話したらいいんじゃない? 会話なんて勢いなんだから、やっちゃったもん勝ちでしょ」
「無責任にそういうこと言うなよ、ベラ。レティシャ様の家の家風だってあるんだろうし、ねぇ、レティシャ様?」
「家風というか、あまりお父様とお会いする機会がありませんし、お兄様とだって二日に一度ぐらいしか顔を合わせませんわ」
はぁ、なるほど、と一同頷く。貴族というのはそういうものなのか、としみじみ納得した。
「でも、だったら、毎日何してるの?」
「いろいろな先生をつけられてますので、レッスンが多いですわ。たまにお母様のサロンに顔を出しますけれど、あの方もお忙しいので、あたくし付きのメイドのリタとおしゃべりすることが多いですわね」
「へぇ、貴族の暮らしっていいものかと思ってたけど、家族とあまり会えないのはちょっとイヤね」
イザベラはキャベツの酢の物とマッシュポテトをテーブルに並べた。
と、そのとき、ガチャッと扉が空き、大柄で筋肉質の男性が姿を現した。
「お、なんだ、もう来てたのか」
「父さん、そろそろ呼びに行かなきゃ、と思ってたところだよ。何やってたの?」
「いやぁ、三番の柵が壊れてたろ? 忘れないうちに直そうと思ってなぁ」
「あなた、お客さんの前ですから、着替えて来てくださいな」
「おう、すまんすまん。それじゃ、ちょっと着替えてくるよ」
ガチャリ、と扉の向こうに姿が消えると、なんとなく、その場の全員が小さく笑いを洩らした。
―――昼食は、終始なごやかな雰囲気だった。一家揃って気さくな性格だからか、レティシャを交えても、特に発言量が少なくなることもない。(もしかしたら、発言量が減ってこの状態なのかもしれない。)
今も、レティシャがメイドのリタから教わったという歌が、この町でもよく歌われるものと同じなので、全員で合唱していたところだ。アンジェラも、秋の収穫手伝いのときに教えてもらった歌だったので、一緒になって歌った。
「おぅ、今夜あたり荒れそうだ」
豚が騒いでいるから、と席を外していたイザベラの父親が、戻ってくるなり言うと、ラヨシュも窓に駆け寄り頷いた。
「うん、風が強くなってきた。雲の流れも早い」
「ほうほう、それでは、名残惜しいが、これでお開きとするかのぅ」
「そうね、また雪が降るかもしれないし。お兄ちゃん、荷馬車の準備お願いね。あたしは買い出し分、積み込むから」
元々、食事自体は終わって、お茶で談笑していたところだったので、一家の動きは早かった。アンジェラも、吹雪いてしまったら帰れなくなると、渋るレティシャを説得し、コートを羽織らせる。
「本当に楽しい食事会でしたわ。何もお返しできるものがないのが、心苦しいのですが」
「ほっほっ、気にしなさるな。わしが招待したくてやったことじゃ。こちらこそ、楽しかったぞい」
「それでは、失礼いたします」
レティシャは優雅に一礼すると、扉を開けて待つアンジェラに小さく微笑んだ。
(本当に、楽しかったみたい)
アンジェラも町長に小さく礼をすると、レティシャの後ろについて歩く。外からは自分たちを呼ぶイザベラの声が聞こえていた。




