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ひとつの空にあるように  作者: 長野 雪
はじめてのおるすばん
37/57

03.彼女とレースと紫暗の動揺

「ねぇ、……何かありません?」

「何か、ですか?」


 レティシャがそう切り出したのは、彼女の客間の準備が整ってからだった。


「だって、暇ではなくて? アンジェラは、いつもどんな風に過ごしてますの?」


 どんな風に、と言われても、とアンジェラは口ごもった。

 朝起きて、ペリーさんが来れば応対して、朝食を作って、掃除して、昼食を作って、買い出しに言ったり、馬の世話をしたり、ちょっとした空き時間に、だんな様の書斎で本を読んで、夕食を作って……


「アンジェラは、そんなに今のお仕事が好きですの? まぁ、ウィルフレード様はお優しいかもしれませんけど、仕事の量が多いのではなくて?」


 同じようなことを秋にも言われた気がしたが、アンジェラは「そんなことありません」と答えた。


「そうですの? まぁ、これは、あたくしが口を挟むようなことではありませんわね。……そうですわ、ウィルフレード様の書斎を覗かせてもらってもいいかしら? アンジェラも本を読んでいるんでしょう?」


―――と言われたものの、書斎に案内して五分とたたずに、レティシャは声を上げた。


「ねぇ、……何かありません?」


 当然と言うべきか、ウィルフレードの書斎には、レティシャを満足させるような騎士物語などの軽い読み物はない。あるのは『領地管理の基本』『兵法』『ゲインチェニーク貴族通鑑』『アルター地方史』など、固いものばかりである。もちろん、アンジェラが暇潰しに読んでいるのも、そういったものなのだが。


「と、言われましても……」

「そうだわ! 確か、ここにエウロラ様が滞在していた部屋があるはずよ。その部屋だったら、もっと色々な本があるに違いありません。アンジェラ、知っていて?」

「エウロラ様、ですか?」


 アンジェラは、きょとん、とレティシャを見た。全く聞いたことがない名前だ。


(だけど、レティシャ様が『様』をつけるのだから、きっと貴族か誰かなんだろう)


 そうは思うものの、この邸に誰かだんな様以外の人が、生活していたというのは、初耳だった。町の人との会話でも出てこないのだから、夏にいたメリハ将軍とセラフィナのように、悟られないように住んでいたのだろう。


「まさか、アンジェラ。エウロラ様を存知あげておりませんの? そんなに似ていらっしゃるのに?」

「似て……るんですか?」

「そうよ、エウロラ様のお若い頃の肖像を見たことがありますけど、本当にそっくりでしてよ」


 似ている、という言葉は、アンジェラに不吉な予感をもたらした。

 開けてはいけない箱が、少しずつだが確実に、自ら蓋を押し上げていくような幻視に、冷や汗が流れる。


「アンジェラ、あなた、エウロラ様がどの部屋を使っていたか、知りませんこと?」

「あ、あたしは、確かにこの邸の掃除をやっていますけど、おっしゃっている部屋は存じ上げません。ただ―――」

(だめだ。言ってはだめ)

「ただ?」

(それに気付いたらいけない。たとえティオーテン公爵様の言葉でも……っ!)

「ただ、二階のタペストリーの向こう側だけ、あたしはどんな部屋があるか、見たことがありません」


 心臓の音がやけに大きい。知りたいのか、知りたくないのか、自分ですら分からない。


「タペストリー? アンジェラ、そこに案内してもらえません? きっと、そこにありますわ」


 手を引かれるまま、アンジェラは廊下に出る。左を向けばだんな様の部屋が見える。タペストリーはその奥だった。ユニコーンと美しき乙女は、いつもと変わらずそこに織り込まれている。


「あぁ、これ? めくってみればいいのかしら?」


 レティシャがタペストリーをめくって、中に入る。アンジェラもそれに続いた。秋の大掃除の成果か、それほど埃は積もっていない。それでも、埃臭い匂いがイヤなのだろう。レティシャは顔をしかめている。だが、引き返す気はないようだ。


「レティシャ様、少々お待ちください」


 アンジェラは先を歩き、廊下の窓を全て開け放つ。


「ありがとう。少しは楽になりましたわ」


 冬の冷たい空気でも、この埃の匂いよりはマシのようだった。


「それでは、手近な部屋から見て行きましょう?」


 レティシャは一つ目のドアを開ける。中は寝室風の造りだったが、建て付けのドレッサーと寝台があるだけだった。


「特に何もなさそうですわね」


 レティシャは遠慮なく室内に入ると、ドレッサーを開ける。だが、空っぽだったのか、すぐに入口まで戻って来た。


「じゃ、次に行きましょう」


 次も同じような作りで、建て付けのドレッサーと寝台があるだけの、空の部屋だった。だが、レティシャは逆に「何が何でも探しだす」という気になってきたようで、熱のこもった声で言い放った。


「次に行きましょう」


 次、と言われ、アンジェラはぐっと拳を握りしめた。三つ目の部屋は、かつてティオーテン公爵が示唆した場所。たぶん、いや、きっと、そこがレティシャの探している部屋だと、確信を感じた。

 レティシャは、無邪気にドアを開けるだろう。そこには、アンジェラの知りたくないものがあるはずだ。


(本当に、それを見ていいの?)


 アンジェラの目の前では、今、まさに、レティシャがノブに手を伸ばし―――


「あ」


 声をあげたアンジェラに、レティシャは振り向いた。


「どうかして?」

「あ、あの……、そろそろお昼の準備をしないといけないと、思いましてっ、……もし、よろしければ、レティシャ様も一緒に作ってみませんか?」

「? ふぅん、それもいいかもしれませんわ。せっかくだもの、色々なことを体験してみたいと思いますし」


 レティシャの好意的な返答に、アンジェラは胸を撫で下ろす。


「でも、エウロラ様の部屋を探しだしてからですわね」


 言うが早いか、レティシャはドアを開けた。油断していたアンジェラは、つい、その部屋を見てしまう。


「あら、きっとここですわ。ねぇ、アンジェラ。……アンジェラ?」

「……すみません。ちょっと、びっくりしてしまって」

「何に? まぁ、いいわ。入りましょうよ」


 レティシャは問答無用でアンジェラの手を引く。その手を振り払いたい気持ちをぐっと抑え、アンジェラはその部屋に足を踏み入れた。

 一見して、特に他の部屋と造りが違うわけではない。ただ、小さなテーブルにはレースのクロスがかかっている。その上には花こそ生けられていないものの、白い花瓶が置かれていた。高価そうなガラス戸の本棚には、たくさんの本が入っている。


「あ、アンジェラ。この方よ、エウロラ様!」


 レティシャは、ナイトテーブルにあった小さな肖像画をアンジェラに見せた。そこにはある女性が描かれている。豊かな金の髪、深いアメジストの瞳をした彼女が、にこやかにアンジェラに笑っていた。


(……!!)


 似ている、なんてものではなかった。そっくりだった。彼女がもう少しふけていれば、アンジェラの記憶にある母親そのものだったろう。


(あたしも母親に瓜二つって言われてたし、きっと似てるんだろうけど)


 アンジェラ自身、鏡を見る習慣がほとんどないこともあって、この『エウロラ様』が自分に似ている、と即座に思うことはできない。


「読めそうな本があることも分かりましたし、昼食の準備をしましょうか」


 レティシャの言葉に、アンジェラは「そうですね」と頷いた。



.。:*·˚+.。:*·˚+.。:*·˚+.



「エウロラ様は、現王ニクス五世陛下の妹君でしたわ。生きていれば四十歳ぐらいかしら?」


 昼食では、自然とその話になった。

 アンジェラが一緒に作ろうと申し出たのは、薄く焼いたパン生地に、さまざまな食材を包んで焼く料理で、この地方でもよく作られている。アンジェラは生地を作り、食材を切って、レティシャは食材を包むのを担当した。焼くのももちろんアンジェラだ。

 レティシャは料理をやったことがないと言ったが、手先は器用で、最初の二個ほど失敗した後は、きれいに包んでくれた。


「とても愛らしく気品のある方で、誰からも好かれていたという話ですわ。お兄様もひっそり憧れていたぐらい。少年時代は皆の憧れだったって言っていましたから、きっとウィルフレード様もそうだったんじゃないかしら」


 だんな様も、とアンジェラの胸がちくりと痛んだ。


「もう、亡くなっていらっしゃるんですか?」

「いいえ、失踪されてしまって、行方不明だそうですわ。当時は方々に手を尽くして探させたらしいけれど、もう十年以上も前のことですし、誰も探そうとなんてしておりませんわ」

「その方が、ここにいらっしゃったというのは?」

「……あたくしも、お兄様から聞いた話だけですから、ちゃんとは言えないのですけど、ウィルフレード様の叔父様が、この邸にかくまっていたということですわ」

「かくまって、ですか? でも、そのエウロラ様は何の為に、その、行方不明に?」

「さぁ? あたくしも知りません。ここにかくまわれていたことも公然の秘密なのですけど、ウィルフレード様の叔父様と恋仲だったからとか、王妹の重圧から逃れたかったからとか、いろいろ言われているみたいですの。当時はまだ王太子だった陛下も、ここへいらっしゃったという話もあれば、王族の方々は我関せずだったという話もありますし、本当に分からないことだらけ。―――でも」


 レティシャは自分の失敗作をナイフとフォークできれいに切り分け、優雅に口に運ぶ。


「でも、少なくとも、ここにはいたと思いますわ。あの部屋がその証拠でしてよ」


 半分しか熟成していないワインのグラスを傾けると、レティシャは微笑んだ。


「とりあえず、午後はアンジェラが読んだことないと言っていた『騎士物語』を読めますわね。少し、昔の本が多くありましたけれど、あたくしが読んだこともないものがありましたし、楽しみですわね」


―――『楽しみ』と言っていたレティシャだが、昼食後、この邸に使用人が少ないことがいかに不便かを知ることになる。

 事の発端はささいなことで、エウロラの本棚から、レース編みの教本を見つけたことだった。

 レース編みどころかレースそのものを知らないアンジェラに、自分の荷物からレースのついたチーフやドレスを見せ、自分も編めるから見せてあげる、と言ったところまではよかったが、肝心の道具がない。エウロラの部屋にもない。買いに行ってと頼むものの、アンジェラは、この邸にレティシャを一人で留守番させるわけにはいかない、と言う。


「どうして、ウィルフレード様は、使用人の給金まで節約するのかしらっ!」


 憤慨するレティシャだったが、どうにもならないものは、どうしようもない。結局、食材を運んで来たヤコブとイザベラに、明日の買い物の一つとして頼むことで決着がついた。



.。:*·˚+.。:*·˚+.。:*·˚+.



カラン、カラーン


 朝の呼び鈴に、アンジェラは皿洗いで冷たくなった手を拭った。慌てて門へと飛んで行く。この時間なら、きっと郵便配達のペリーだろう。


「おまたせいたしました、ペリーさん」

「やぁ、おはよう、アンジェラ。今日もいい天気だね」


 まるでペリーの言葉に賛成するかのように、後ろでロバが鼻を鳴らす。


「今日はちょっと、手紙だけじゃなくて、荷物のお届け物もあるんだ」

「荷物、ですか?」

「そ、これ」


 ペリーが取り出したのは、少し大きめの箱だった。


「レース編みの道具だって。アンジェラ、町長から聞いてる?」

「はい。用意して欲しいと頼んでいたんです。ありがとうございます」

「そっか、よかった。また、この間みたいに、知らない『荷物』だったらどうしようって思ったけど、大丈夫だね」


 ペリーはその上に何通かの手紙を乗せると、「はい」とアンジェラに渡した。


「ありがとうございます。ペリーさん」

「うん、まぁ、自分で蒔いた種みたいなもんだしね。……それじゃ」


 手を振ってペリーを見送ると、アンジェラは台所に戻った。とりあえず、箱はテーブルの上に置いて、宛名を確かめる。もちろん、ティオーテン公爵からの返事があるわけもない。

 二階に上がり、手紙をウィルの部屋に運ぶと、アンジェラはふと、思い立って、自分の部屋をそぉっと覗いた。アンジェラの寝台では、レティシャが安らかな寝息を立てている。客間は用意したのだが、レティシャはアンジェラと一緒に寝たいと言ったのだ。何でも、この部屋は寒いから、二人で寝た方があったかいと。


(……でも、たぶん)


 アンジェラには本当の理由について、見当がついていた。

 レティシャの住んでいる邸には、それこそ多くの使用人がいるという。かつてアンジェラがいた某男爵邸もそうだった。この邸は、広さの割に住んでいる人間が少ないせいか、静かだ。


(それが、きっと馴染めないというか、恐いんだろうけど)


―――闇を恐れる子供のように。


 アンジェラは、レティシャを起こさないように、そっと自分の部屋を離れると、自分の仕事を指折り数えた。朝食の支度は八割方できているから、皿洗いが終わったら、食糧庫を見て献立を考えて、それから掃除をしよう。ウィルフレードが自分の馬に乗って行ったので、しばらく馬の世話はない。今のうちに厩舎の大掛かりな掃除をするのもいいかもしれない。


(あとは、レティシャ様がいつ起きてくるか、ということだけど)


 そこまで考えたところで、心の中で呟いているだけとは言え、自分がひどく饒舌になっていることに気付いた。

 もちろん、理由は分かっている。昨日見た『エウロラ様』のことだ。自覚のないままにショックになっているらしい。レティシャがいることで気を紛らわせてはいるが、予想以上のショックを受けていることが、さらにショックだった。


 この邸に来たのは、一年前のこと。たった一年の間に、たくさんの楽しい思い出が積もっていったが、前の邸でのことを忘れたわけではない。ましてや、出会った日のことを忘れたわけでも。

 あの邸で、いつも通りの毎日を過ごしていたこと。ちょうど、別の誰かが髪を掴まれて引きずりまわされていて、自分には被害が来ないように、与えられていた小屋の中で小さく息をひそめていた。

 そこに、使用人が飛び込んで来て、何か大声で喚いた。今になって考えれば、査察とか、そういった意味の言葉だったんだと思う。

 『ご主人様』は、その使用人に何かを指示すると、自ら床板を外し、『ごみ捨て穴』を開いた。いたぶっていた子を手始めに放り込み、小屋の中にいた子を次々と穴に押し込めていった。

 最後に自分が押し込められることになったけれど、そこが、どこに繋がっているか、その先に何が待っているかを知っていたから、精一杯抵抗していた。

 そして、あの二人がやってきた。『ご主人様』がいなくなったと思ったら、だんな様があたしを助け上げてくれた。


―――もし、その行動すらも、あの『エウロラ様』に向けられた思慕の一部だったら?


 生き延びた他の子達と一緒に集められたとき、手招きをして呼んだのはティオーテン公爵様。ちょうど、奴隷を完全になくすとかいう話が聞こえたから、びっくりして、そっちを見てしまったのだ。

 奴隷をなくすなんて、有りえない。だって、あたしが自分を売らなければ、お母さんは生き延びられなかったし、妹だって産まれなかった。


(そっか、あたし、そのためにこのお邸に来たんだっけ)


 ティオーテン公爵様に言われたのは、だんな様が、奴隷を完全に無くそうとしているのを止めること。

 でも、だんな様はあたしに、娘になりなさいと言ってくれた。あたしぐらいの娘を持てるほど、年齢はいっていないと思うのに。


―――娘にと望んだ、その言葉も、あたしが『エウロラ様』に似ているから?


 考えれば考えるほど、哀しい気持ちになる。

 せめて、最初から知っていれば、幸運が舞い込んできたとしか思わなかったのに。どうして、こんなに近い存在になってから、それが全てまがい物だったと知らされなければならないのっ……?

 危うく涙をこぼしそうになって、アンジェラはぶんぶんと首を振り、両手で頬をぺちぺちと叩いた。

 レティシャが昨日と同じぐらいの時間に起きてくるとしたら、まだ時間はある。そう考えると、アンジェラは外向き用の服に着替え、厩舎に向かった。だんな様の馬がいないうちに、藁を全部変えてしまおう。

 何も考えずに、身体を動かしたかった。



.。:*·˚+.。:*·˚+.。:*·˚+.



「さて、それではレース編みでもしましょうか、アンジェラ」


 朝食をきれいに食べきったレティシャは、にっこりと微笑んだ。


「はい。それでは、その間にあたしは掃除と、昼食の下ごしらえをしますので、何かありましたらお呼び下さい」

「何言っているの? アンジェラもしますのよ」

「……はい?」


 予想しなかった返答に、思わず聞き返すアンジェラ。


「大丈夫、あたくしが教えて差し上げます。道具さえあれば、誰だって作れましてよ」

「あ、え、っと、それは……」

「大丈夫ですわ。道具もそろっていますし、アンジェラだって、あたくしのレースを綺麗だと思ったのでしょう? そういうものを自分で作れたら素敵とは思いません?」


 レティシャは有無を言わさず、教本を目の前に置いた。昨晩、ナイトテーブルに置いていたものを、ちゃんと持って降りてきたらしい。


「幸い、この本は基本的な教則本です。簡単な構図ばかりしか載っていませんわ」

「あの、あたしは、そういうことは……」

「せっかくの機会なのですから、ね? 仕事ばかりで、無趣味では、殿方に飽きられてしまいますわ」


 むしろ狩りなどのスポーツと比べ、貴族の男性がレースに興味があるとは思えないが、アンジェラには元より「貴族の男性」に対するイメージなどないし、強く言われてしまうと、どうにも断れない。


「分かりました。それでは、手ほどきしていただけますでしょうか」


 アンジェラの答えに、レティシャはようやく満足の笑みを浮かべた。


「あたくしにレース編みを教えてくれたのは、メイド頭のキャリーでしたわ。レースはとても単調な作業だけど、とても頭を使うと、よく言ってましたわ」


 レティシャは、自らレース用の白い糸と先っぽが少し曲がった細い棒を手に取った。


「レース編みは、こうやって進んでいきますの」


 レティシャの指が器用に動くと、白い糸は鎖のように編まれた。そして、人差し指ぐらいの長さになると、今度はそれを折り返して、鎖を2段にしていく。そして、三段、四段と……。とてもアンジェラには理解できないが、とりあえず、ああやって段数を重ねることで、綺麗に編まれていく、ということだけは分かった。


「さぁ、次はアンジェラの番でしてよ」


 レティシャは自分がこれまで編んでいた白い糸を引っ張ると、すべて解いてしまった。すこしたわたわになった糸だけが彼女の手に残る。


「あの、あたしの番というのは……」


 レティシャは、道具箱から、また一本の棒を取り出すと、アンジェラの左手に握らせる。そして、レティシャが持っている糸より、やや黄色がかった糸を取りだすと、アンジェラにその端を持たせた。


「始まりは、糸をこういう形にしますの」


 レティシャの指を真似て、ちいさな輪っかを作って、アンジェラは右の指にかける。


「次は―――」


 丁寧なレティシャの教えで、十分後には、アンジェラの手元に三段ぐらいの網目が出来ていた。多少大きさにばらつきがあるものの、レース編みと呼んで差し支えない出来栄えに、アンジェラの口元が小さくほころぶ。


「これが基本ですわ。模様を作るためには、ここにもう一手間加えますの。今まで一つずつ拾っていた糸を、今度は二つ拾って……」


 さらに十五分後、長方形だったアンジェラの成果物は、一目ずつ減らしていった結果、三角形になって、一段あたりの目も一つになってしまう。


「最後に残った糸の始末なんですけど、教本の方が分かりやすいと思いますわ」


 レティシャが開いた教本の図を参考に、アンジェラは糸の始末まで一通りを終える。


「どうでしたかしら? あたくし、人に教えるのは初めてでしたけれど……」

「とても、分かりやすかったです。……こうやって少しずつ編まれていくんですね」


 自分の編んだばかりのレースを広げたり、ひっくり返したりして眺めていたアンジェラが、レティシャに笑顔で答える。どうやら、その様子にレティシャも満足したようで、安堵の笑みを浮かべた。


「このまま教えていただきたいところなのですが、そろそろ昼食の下ごしらえをいたしませんと。申し訳ありませんが、あたしはここで――」

「えぇ、また午後に。あたくしは、ここで読書していますわ」


 応接室と台所は近い。レティシャは人恋しいのか、一定以上、アンジェラと離れようとはしなかった。アンジェラにとってもそれは都合が良かったのだが、ふと、ティオーテン公爵と似ないところもあるものだと思う。

 レティシャはどちらかと言えば、おっとりとしていて、それはもちろん、我を通すところも多いのだが、ティオーテン公爵のように、我を通す過程を楽しむような余裕はない。


(でも、きっと、ティオーテン公爵様の方が、珍しいんだよね)


 もし、あんな人がたくさんいるのなら、アンジェラは王都になんて行きたくないと思う。貧民街では、別にウソが珍しかったわけではない。むしろ、あの手この手で舌を回し、自分の取り分を多くすることは、必要なことだった。

 だが、みんな必死だった。必死だったからこそ、生きていくために必要なスキルだったのだ。ティオーテン公爵は違う。少なくともアンジェラは違うと思っている。ウソをつくことで周りの反応を見ることに重点を置いている気がする。そう、こんなときに、どんな反応をするのかを観察しているのだ。


(だから、恐いと思うのかもしれない)


 今、この場を乗りきるための嘘でなく、今後のため、その人となりを把握するための嘘。今だけでなく、今後につながる情報収集だから。

 アンジェラは、ぶるぶると首を横に振って、公爵の顔を頭から追い出した。少なくとも、レティシャが本物であれば、あの人に貸しを作れる。アンジェラは思考を決着させると、エプロンを身に付けた。


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