02.青灰色の瞳のお客人
アンジェラが起きたのは、まだ朝には遠い時間帯だった。
隣には、だんな様ではなく、アンジェラと同じくらいの年の少女が静かな寝息をたてている。
一緒のベッドで寝ることにはしゃいで、しばらく布団の中で話をしたけれど、決して浴場の会話には触れなかった。主に、ダンスの練習のときの話しかせずに、フィリップのステップがどうとか、トムはもっと堂々としてないと、好きな子にダンスも誘えないんじゃないかとか、そんな、とりとめないことばかりをしゃべっていた。
だが、やはり疲れていたのだろう。寝入ったきり、起きる気配はない。
(今なら、大丈夫かな)
アンジェラは細心の注意をはらって、ベッドから抜け出した。いつもウィル相手にやっていることなので、手馴れたものだ。
足音を殺し、まず彼女が向かったのは台所だった。火種を燭台に移し、階段を上がって書斎へ向かう。いつも読書や書き取りをやっている机に座り、封筒を手に取った。
宛先はティオーテン公爵=カークだ。王都に手紙など書いたことはなかったが、今朝受け取ったばかりの彼からの手紙を参考にして宛先と差出人を書く。
まだインクの乾かない封筒を脇にそっと置くと、便箋を目の前に置いた。
―――既に、書くことは決まっていた。
インク壷にペン先を軽くひたし、丁寧に文字をつづる。そこに迷いはなく、ベッドの中で考えていたままの文章だけを書き記すと、アンジェラはペンを置いた。
まだインクが乾ききらない便箋と封筒に、パラパラと砂を撒いて、インクを吸い取る。紙を縦にして、軽くトン、トンとすると、黒くなった砂粒が机にちらばった。
(あれ、羽ぼうきを使うんだっけ?)
首を傾げるが、どちらにしても掃除すれば問題ない、と考えて四つ折りした便箋を封筒にしまった。
『もし、淋しくなったら、手紙を出してください』
ウィルフレードはそう言って、手紙の出し方と宛先を教えてくれた。必要になることもない、と思っていたが、あの時、無碍に断らなくてよかった、と思う。
アンジェラは「お借りします」と儀式のように声をかけ、引き出しから印章を取り出す。赤い蝋を垂らすとそれをぎゅっと押しつけた。すぽん、と印章を放すと、立派な封蝋の出来あがりだ。
(あとは、これを『速達』だと言って、ペリーさんに渡せばいい。……返事が来るまで、引き止めておかないと)
アンジェラ自身、今日一日、レティシャと過ごしていたが、本物なのではないか、と思い始めていた。少なくとも、世間知らずで、大切に育てられてきたということは分かる。
浴場で、木戸越しに待っていたのも、人の気配のない邸が恐かったから。心細かったから。
昼間、ダンスの練習のために町へ向かうときも、時折、固い表情をしていたのは、きっと、緊張のせい。
(とりあえず、明日は何をして過ごしていただこう?)
今日のようにダンスの練習があるわけでもない。食糧の買い出しに行かないといけないし、レティシャの客室も用意しておく必要がある。だからといって、レティシャを一人にさせておいていいのだろうか。
(……起きたら、本人に意見を聞いてみよう)
さすがに、アンジェラと言えど、この時間帯は眠くて考えがまとまらない。レティシャが来たことで気遣いが増えたのだ。疲れて当たり前だろう。
(もう、いいや、寝ちゃおう)
封蝋も冷えて固まったことだし、とアンジェラは手紙を引き出しにしまうと、物音をたてないようにそっと立ち上がった。
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朝の水汲みも終え、アンジェラは昨日のスープをあたため、香草をみじん切りにして加えた。これだけで、劇的に風味が変わる。昨晩と同じメニューでは、満足してもらえないのではないか、と考えてのことだ。
カラン、カラン
来訪を知らせるベルに、アンジェラは慌てて外へ向かう。
(誰だろう?)
郵便配達のペリーはもう来ていて、アンジェラは速達で、と封筒を渡してあった。王都まで速達でも最低三日かかると言っていたから、往復で六日も待たなければいけないのか、と肩を落としたものだ。
玄関を出て、外の門を開ける。そこにいたのは、アンジェラが予想もしない人物だった。
「おはよう、嬢」
「おはようございます。ヤコブ様」
訪問者はふもとの町の町長フェリペ・ヤコブだった。白く豊かなひげをたくわえた彼は、どうやら荷馬車で来たのだろう。後方に見覚えのあるロバと荷台が見えた。
「あの、だんな様はただいま留守にしておりますが―――」
「あぁ、違う違う。アンジェラにちぃとばかし、用があっての。……何でも、客人が来ているそうではないか」
後半を低く囁くと、町長の目がアンジェラの後ろにそそがれた。
「いないようだが、まだ起きていないのであろう? 王都の人間は宵っぱりの朝寝坊と決まっとるからの」
「え、っと、イザベラから?」
「もちろん。……領主殿の友人の妹御だそうだの。もっとも、なんでこのタイミングで来たのかは知らぬが」
アンジェラは自分の浅はかさに嫌悪感を覚えた。町長に話が伝わるということは、もはやこの珍客を秘密にしてはおけない、ということだ。もし、レティシャが本物でないとしても、だんな様に内緒で全てを収めるのは難しくなっていた。
(でも、それじゃぁ、どうして町長がここに?)
アンジェラの物問いたげな視線に、町長は笑みを深くする。
「節約上手なアンジェラのこと、客人が来ては、食材が足りなくなるであろうと思ってな。こうして買い出しの請負をしようとやってきたわけだ」
アンジェラは目を丸くして町長を見た。
「あの、でも、いいんですか?」
「まぁ、老人のヒマ潰しと思えばよい。冬は稼業も出来ぬし、町長だからと言って、忙しいわけでもないしの」
ヒマ潰し、という言葉に脱力感を覚えるが、きっと彼が言う通りなのだろう、と思う。彼は町長という肩書きこそあるが、実務は彼と他の区長三人で分担しているはずだ。稼業も――アンジェラも秋に収穫を手伝ったが――果樹と農作物を育てているので、農閑期の今は、本当にヒマなのだろう。家畜も何匹かいたが、それも息子夫婦や孫のイザベラだけで事足りるのだ。
「本当に助かります。正直なところ、困っていましたから。それでは、代金を先払いいたしますね。少々お待ち下さい」
「いやいや、後で領主殿に請求するから、今はいらぬよ」
「……そういうわけには参りません。本当にお暇でしたら、是非、頼みたいこともありますし」
「ふむ、訳ありかの?」
アンジェラは腹をくくった。どうせバレているなら、味方に引き込んでしまった方がいい。
「ここだけの話ですが。今、泊めていらっしゃる方は、あたしは直接存じ上げていないのです。お持ちになっていた手紙は本物だと思いますが、彼女自身のことは触れておりませんでしたし」
「ふむ、道理だの。これまで、あんな別嬪さんは見たことがない。なるほど、それで?」
「頼みたいのは、そのことです」
いくぶん、わくわくと聞き返す町長に、アンジェラは不安を覚えながらも、切り出した。
「本物である可能性は高いと思いますが、確かじゃないんです。もし、ニセモノだったら、逃げる前に捕まえたい。もちろん、あたしの方でも、できる限り一緒にいます。……だんな様が戻るまで、気を付けていてもらえますか」
アンジェラの真剣な眼差しに、町長は自分のあごひげに手をやって考え込んだ。
「ふぅむ。ま、なんとかなるだろう。あれだけ目立つのでは、町中を歩けばイヤでも目につく。それにこの時期、この町を通るヨソモノはまずおらぬ」
ややあって、町長は顔を上げた。
「ペリーに協力を頼んでもよいかの?」
「はい、ペリーさんが承諾してくれるのでしたら。元々、ここまで連れて来て下さったのも、ペリーさんでしたし」
「ほぅほぅ、そうか。それでは、そうするとしようかの」
「よろしくお願いいたします。……それで、買い出しのお話ですが」
「うむ、多少重いものでも構わぬぞ。イザベラが一緒に行くと言っておるからの」
アンジェラは、頭の中でリストアップしていたものを、ざっと口にした。
「なければ、ないで構いません。あ、あと、もし手に入るようでしたら、果物を」
「ふむふむ。なるほど、今日のメニューはサーモンシチューとシシ茸のソテーか、おいしそうじゃの」
「……分かります?」
「ま、うちでもよく作る料理だが。じゃが、もっと豪勢にするのかと思っておったが」
「今日は、ちょっとやることが多いので、料理に手をかける暇がないんです。あとは、演出で何とかカバーします」
「そうかそうか。……もし必要なら、シビントン夫人に声をかけるが」
ありがたい申し出だったが、アンジェラは首を横に振った。
「ミセス・シビントンのところは、農家ではありませんし、それにギルバートくんも、そろそろ行動範囲が広くなる頃だと思うんです。あの、どうしても無理なようだったら、お願いしたいとは思うんですけど、今は、まだ、大丈夫です」
アンジェラの答えに、町長はしわを深くして微笑むと、頭を撫でた。
「嬢は頑張り屋だの。では、そろそろ戻って買い出しに行くとするか」
「よろしくお願いします」
アンジェラは深々と頭を下げると、丘を下る町長の荷馬車を見送った。
(本当は、ミセス・シビントンに来てもらいたいところだけど)
レティシャがアンジェラの出自を知っている以上、彼女がどこでそれを洩らしてしまうか分からない。町の人には、絶対に知られたくなかった。……自分が貧民街の出であることを。
アンジェラは知らないが、町の人でただ一人、ミセス・シビントンだけは、アンジェラが『買われた人間』であることを知っているが、その出自までは知らない。
「さて、レティシャ様が起きて来るまでは、客間の準備でもしていようっと」
くるりと邸に戻ると、足取りも軽やかに二階へ上がる。自分の部屋の前を横切り、その隣の客間の扉を開けた。こまめに掃除しているが、ちょっと湿った空気に眉根を寄せる。カーテンを開けると、まぶしい朝の光が目に飛び込んできた。
(とりあえず、空気の入れ替えと、調度類はざっと拭いて、それからシーツかな。あ、カモミールの干したのがあったからあれを……)
頭の中でやるべきことをリストアップすると、そこからは早い。一応、隣の部屋で物音がしないかと気にしながらも、忙しく動き回る。
「……アンジェラ?」
隣の部屋から自分を呼ぶ声がして、手を止めたのは、鏡台を拭いていたときだった。
「ただいま参ります」
水桶を廊下まで運び、自分の部屋へ急いで戻った。
「おはよう、アンジェラ。……ごめんなさい、いつもと違う部屋でびっくりしてしまいましたの。えぇと、朝食の用意はできていて?」
「はい、もちろんです」
「さすがね。……そうですわ、ねぇ、アンジェラの服を貸してもらえませんこと? あたくしの服は、どれもコルセットを締めないといけなくて、動きにくくて困りますの」
「服、ですか」
アンジェラは、昨日から貸しているケープを羽織ったレティシャを見た。別に服の貸し借りには異存はないが、レティシャはアンジェラより一回り大柄だ。もちろん、レティシャ自身が大柄な体格なのではない、むしろアンジェラが小柄過ぎるのだ。
「あたしの服では、少し小さいと思います。……そうですね、少々お待ちいただけますか?」
アンジェラは、部屋の中にあるタンスを開けると、藤色の長袖ワンピースと、モヘアの上着を取り出した。
「あら、とてもスタイリッシュなデザインですわ」
右肩から左裾にかけてギャザーを寄せてあるだけのデザインだが、レティシャの目には「スタイリッシュ」に映ったようだ。秋口までここにいたメリハ将軍の娘セラフィナが置いていったものだ。そして、モヘアの上着は、暖かいからオススメだと、カタリナから買ったものだった。
カタリナの家は、主に畜産を生業としていて、その傍ら羊毛を紡いでこういったものを作って売っている。暖かいからこそ、デザインをシンプルにしていると言っていたが、アンジェラには少し大きかった。それでも、まだ背が伸びるから、というカタリナの売り文句についノってしまったものだった。
「こちらでしたら、きっとサイズも合うと思います」
「そうかしら? それでは、借りることにします。着るのを手伝ってくれません?」
「はい」
返事をするものの、着替えに他人の手が必要になる、ということが、アンジェラには信じられない。昨日、浴場で同じ事を言われたときも、からかわれているのかと思ったほどだ。
ネグリジェの後ろのリボンをほどくと、レティシャの滑らかな白い肌が露になる。傷だらけの自分の肌を思うとうらやましくなるほどだ。脱がせたネグリジェをベッドの上に起き、ワンピースを着せる。レティシャにとっても大きめだったが、小さいのを着るよりは楽だろう。
「ふぅん、悪くありませんわ」
レティシャの言う通り、藤色は彼女の白い肌によく合っていた。そこに生成りの上着を合わせると、ちょっと違和感もあるが、暖かいにこしたことはない。
「それでは、朝食にいたしましょう」
アンジェラはレティシャを伴って下に降りると、スープを火にかけ、パンをスライスして火にあぶった。ちょっと考えてチーズを切り、同じようにあぶってパンの上に置く。とろとろにとけたチーズがパンの上でほかほかと湯気を上げていた。
「ありがとう、とてもおいしそうですわね。あら、でも、アンジェラの分は?」
「申し訳ありません、あたしは、もう、いただいてしまいましたので」
本当は待っていようと思ったのだが、いつ起きるかも分からないため、いつも通りの時間に済ませてしまったのだ。
「あら、そうなの。それならいただきますわ。……あ、食後にお茶が飲みたいわ。お願いできます?」
もちろん、と頷いたアンジェラは、棚にしまってある紅茶の銘柄をいくつか挙げる。レティシャが選んだのは、その中で最も甘い茶葉だった。
「ウィルフレード様も、いい銘柄を揃えておいでね。まぁ、このスープ、昨日のよりさっぱりしているわ。朝はあたくし、あまり食べられないのですけど、これならすんなり飲めますわ」
まさか、昨日のスープに香草を入れただけとも言えず、アンジェラは曖昧な笑みを浮かべて「ありがとうございます」と当たり障りなく答えた。




