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ひとつの空にあるように  作者: 長野 雪
秋茜に思いをのせて
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08.願う未来、今日の続き

「久しぶりに、いつものペースが戻ってきましたね」

「はい、だんな様」


 二人は夕食も終え、のんびりと食後のお茶を楽しんでいた。

 王都からのご一行が帰り、もはや隠す必要もないと判断したアンジェラは手袋をつけていない。ウィルも最初は眉根を寄せたものの、特に言及するつもりはないようだった。


「水仕事は避けた方がいいのではないでしょうか」


 ささやかな提案も、一昼夜たって傷も塞がってきたから、とあっさり辞退され、それだけだった。


「そういえば、お聞きしてもよろしいでしょうか? ―――だんな様は、結婚はなさらないんですか?」

「結婚ですか? 別に、必要とは思ってませんし、婚約者にはとっくの昔に逃げられましたからね」

「えぇっ! ―――あ、すみません」

「元々、昼夜で変わる性格に付き合いきれないと思っていたところに、まぁ、当時の身分をそっくり兄と交換してしまいましたから」


 あっさりと、とんでもないことを言うウィルに、アンジェラは呆然とした。だが、同時に、見えたものもあった。ティオーテン公爵やロイが、ウィルを惜しむ理由だ。


(自分から、王都から離れたんだったら、どうして、って思うよね)


 王都のことはよく分からないが、『公爵』という身分が思っていた以上に高いことを、書斎の本で学んだ。確か、ウィルは『侯爵』とも呼ばれていた気がするから、それに次ぐ身分のはずだ。だが、それも兄と交換した上の身分であるなら、元々は―――?


「そんなに驚くことですか? まぁ、婚約者としては、それぐらい驚いてもらわないと困りますけど」

「ですから、それは辞退させていただいたはずです!」


 怒った様子を見せても、それが本気でないことを、ウィルは知っている。

 ふと、思い出したのは、初めてアンジェラを連れて『ミーナの家』という古着屋へ行ったときのことだった。


(あの時は、自分の感情を欠片も表にしませんでしたね)


 何年経っても、こんな日が来るわけないと思っていたが、ロイという外部要因のおかげで、ようやく泣き顔までも知ることができた。そう思いながら、アンジェラが入れてくれたお茶を口に含んだ。久しぶりの味わいに、懐かしささえ感じる。少なくとも、あの二人が入れたお茶より数倍おいしい。

 おかわりをしようとポットを持ち上げたら、いつの間にか空になっていた。もう一杯分、お湯を沸かそうと立ち上がったアンジェラに、ウィルは酒を所望した。夜のお茶は一回分でいい、と。


「あぁ、そうそう、アンジェラに聞こうと思っていたんですよ」


 ウィルは、ポン、と手を打つと、アンジェラに微笑みかけた。


「面白い話を聞きましてね。……アンジェラは昼と夜とで、私に対する呼び方が変わると」


 思わず、お酒の瓶を取り落としそうになって、微笑んだままの主人を見上げた。


「ど、どなたが、そんなことを……?」


 話を逸らせないかと、別方向を攻めてみる。アンジェラとウィルのやり取りを見たことがあり、かつ、それを昼のウィルに、伝えることができる人間など、いるわけがない。そう考えたところで、真面目そうな赤毛の青年の顔が浮かんだ。


「誰が、ということは問題ではありません。その様子からすると、間違いないのですね? 夜は名前で呼んでいると?」


 アンジェラは黙り込んだ。その行為こそ、全てを物語るものだと知りながら。

 とぽとぽとぽ、と生成りのシルクのような液体が、ウィルのグラスに注がれた。ふわりと薫る芳醇な空気に、彼は目を細めた。


「確かに、オリバーに言いつけて、逃げようとしたあなたを捕まえさせた手腕をかんがみても、あちらの方が計略に長けているようですが、……とりあえず、理由を聞いてもいいですよね?」


 恐いぐらいに朗らかな調子に、アンジェラは答えも見つからず、口を閉ざしたままコルクを閉める。


(確か、来てすぐの頃に、同じ話をしたはずだけど……)


 忘れているのだろうか? どちらにしても、答えてしまえば、同じ結果になるのは目に見えていた。しかも、この様子なら、きっと自分も名前で、と言われるだろう。

 だが、他に言い逃れる術もなさそうだった。


「だんな様、去年の冬に同じことを伺いました。そのときは、だんな様とお呼びすることで、納得して下さったと思うのですが」

「そんなこともありましたか。……ということは、それからずっと、夜に私に対して名前で呼んでいた、ということですね」

「……はい」

「もう、半年以上も経つのですから、そろそろ、もっと親密な呼び名でもよいと、そう思いませんか?」


 アンジェラは迷う、ここで意向に従えば、昼のウィルに対しても名前で呼ぶことになってしまうだろう。だが、同意を求められて、首を振ることはできなかった。


「名前で呼ぶことができないなら、そうですね、親しみを込めて『お父様』と呼んでもらっても―――」

「できませんっ!!」


 アンジェラは慌てて声を上げた。名前で呼ぶことができないからといって、どうしてそんなことができようか。


「では、名前でお願いしますね」


 アンジェラはぐっ、と言葉に詰まる。


「そんなに名前で呼ぶのは嫌ですか?」


 改めて考えると、それほど嫌なことではなかった。『お父様』と呼ぶことに比べたら、断然に。

 ただ、今まで呼び慣れたものでもあるし、いまさら変えろと言われても、困る。

 それに、それを知ったときの、夜のウィルの反応も恐かった。


(名前で呼び始めたら、絶対、夜のウィルフレード様に、手紙で自慢するに違いない、よね)


 そうすると、今度は夜のウィルが、別の要求をしてくるだろう。

 負けん気の強い二人だから、どんどんとエスカレートしてしまうに違いない。ここは、食いとめなければ、決意を新たにして、ウィルを見た。


「だんな様。これはあたしのけじめの問題です」

「けじめ、ですか?」

「はい。……あたしは、だんな様に雇われた身ですから、自分の主人を名前で呼ぶ、ということは、分不相応だと思います。それと同じように、直接あたしを雇っていない夜のだんな様を、『だんな様』と呼ぶこともありません」


 とりあえず、『ウィルフレード様』より『だんな様』の方が価値ある呼び方だと主張してみる。


「それは、……そうかもしれませんが、でも、もっとこう、親密な呼び方でもいいと思うのですよ」

「だんな様、主人に対する敬意ではなく、親密度にこだわる理由をお聞かせ下さい」


 アンジェラがそう問いかけると、ウィルは言葉に詰まった。


「……だんな様?」

「単に、アンジェラが離れていかないよう、もっと近くなっておきたかったんですよ」


 らしからぬ言葉に、つい、まじまじと顔を見つめてしまった。目の回りがやや赤くなっている。見れば、グラスはいつの間にか空になっていた。


「もう、こんなことはしません。あたしは、だんな様を支えることに決めたんです」


 きっぱりと言いきったアンジェラの誇らしげな顔を目に焼きつけ、ウィルはこくり、と頷いた。


「それは、頼もしい……」


 そのまま、テーブルに伏してしまった。


「だんな様?」


 小さく声をかけても、動く気配はない。どうやら、あっさり夢の中へ行ってしまったようだ。ロイを早く返すために、無理な仕事をしたのかもしれなかった。

 そのまま、寝顔を眺めていようかと思ったが、元々、じっとしていることがもったいないと思う性分なので、音を消して立ち上がり、ティーカップとポットを片付けた。ウィルの目の前のグラスは、そのままにして、そぉっと部屋を出る。


―――ウィルのカーディガンを持って戻って来たとき、ウィルはまだ眠ったままだった。

 起こさないように、そっとそれをかける。


「ん……」


 微かに身体を動かしたウィルの背中をそっと撫でた。寝ていると、無邪気な顔が年齢よりいっそう幼く見える。

 ふと、弟達のことを思い出して、胸元の指輪を握った。夏にあれだけ置いて来たんだから、大丈夫、と気休めを呟く。父親には結局会えなかったが、昼間に会えることは逆に良くないことだ。働ける者が昼間に家にいることは、ない。


(お父様、か)


 さすがに、父親が健在なのに、そう呼ぶことはできない。自分の父親はただ一人。


「さて、運びましょうか」


 このまま台所に置いておくことはできない。秋も中盤、そろそろ冷えてくる頃だ。疲れているならなおさら、ベッドで休んでもらわなくては。


(こういうときに、夜のウィルフレード様が起きてくれたら楽なのに)


 疲れきっているのか、起きる気配はなかった。

 そっと揺り起こしてみようと肩に手をかけた瞬間、手首を掴まれた。


「……」

「……」


 眠そうに開いた青い瞳が、どこか焦点の合わないままで、アンジェラを見つめる。


「アンジェラ、か?」


 その言葉に、どちらであるかを悟り、「はい、ウィルフレード様」と答えた。

 彼は、右手を上げ、ぐしゃぐしゃと自分の髪を掻き回した。

 そして、すっかり覚醒したところで、皮肉な笑みを浮かべた。


「で? 誰と一緒にここに戻った?」

「……オリバーさんと、です」


 予想通りの答えだったのか、ますます笑みを深くしたウィルは、座ったままで少女を抱き寄せた。酒気がアンジェラの額にかかり、すこしだけ顔をしかめる。


「間一髪ってとこか。んで、オリバーとかは帰っちまったのか? ―――あぁ、今日の昼過ぎとか言ってたしな。あいつには後で埋め合わせしとくか」


 ぎゅうっと抱きしめる感触に、ウィルが「うんうん」と頷く。


「さすがに半年以上も経てば、肉もついてくるよな。骨ばった感触は残るが―――」

「ウィルフレード様っ!」

「誉めてんだ。そんなに怒るなよ。―――あぁ、そうだ。オリバーに連行された場合には、それなりの罰を加えてやんねーと思ってたんだよな」


 力を緩め、アンジェラをお姫様だっこのようにして、自分の膝の上に乗せる。慌てて何か喚かれたが、そんなのは気にしない。

 ふと、痛々しい傷が気になって、そっと唇を寄せると、真っ赤になって怒られた。


「なんだよ。傷の具合見るぐらい、いいじゃねぇか」

「き、傷の具合って、その……」


 まったくペースを乱した少女に、気を良くしたウィルは、胸元のリングをするりと掬い上げた。真鍮のリングは、元々何か模様があったのだろうに、今はすっかり磨滅してしまって分からなくなっていた。


「そんな大事なもんなら、金庫にでもしまっておけよ」

「こ、これは、……できれば、身につけておきたいんです」


 それは仕方ないか、と思ったウィルは、アンジェラをまじまじと見つめた。


「あの、下ろしてくださいませんか?」

「だめだ」


 あっさりと、一蹴され、なおも見つめるだけのウィルフレードに、少女はもじもじとする。


「あの、何か……?」

「お仕置きは何にしようかな、って思ってな。あっさり主人を裏切る使用人には、それなりのお仕置きを―――」


 ウィルの言葉に不穏な物を感じたか、アンジェラが膝の上から逃れようと身をよじる。


「おっと、逃がさねぇぜ」


 すかさず腕でガードしたウィルは、少女の顔を自分の方に向かせた。


「あ、あの、ウィルフレード様。その、お仕置きって……」

「アンジェラ、お前、いくつだったっけ?」

「十二、です」

「……だよなー。今でもいいけど、もう二、三年は待っておきたいよなー」


 いつになく不穏な物言いに、アンジェラの腰が引ける。


「え、と、もし、そういうことを言っていらっしゃるなら、あたしは全力で抵抗しますけど」


 脅えながらも気丈に反論する少女が、ウィルの嗜逆心に火をつけた。


「ま、すぐ済むし」


 アンジェラの細い肩に手を回して抱き寄せると、そのまま自分の唇を近づけて―――


「っ!」


 少女の唇ではなく、うなじに押しつけた。


「ウィル、フレード、さまっ!」


 肌を吸われる感触、何より彼の髪がさわさわと首筋を揺れ動くこそばゆさに、アンジェラの声も裏返る。両腕で突っ張ったり、身をよじったりしても、力強い腕がアンジェラの抵抗を全て封じていた。


「……っぷはーっ!」


 ややあって、ようやく身体を離したウィルは、少女の首筋の赤い痕に満足そうにうなずいた。


「これで、明日の朝がどうなるか楽しみだな」


 真っ赤になったアンジェラは、何が起きたのか分からないまま、呆然とガキ大将の顔をした青年を見上げた。


「なぁに、ちょこっと赤い痕ができてるだけだぜ? まぁ、見るヤツが見ればバレバレだけどな」


 それは、つまり、こうして付けられた物だということが、昼のウィルにバレるということか。そう気付いたアンジェラが、慌てて、手で場所を確認する。


「隠すな隠すな。せっかく面白い展開になりそうなんだから」


 予想の範疇を超えた『お仕置き』に、アンジェラは襟元に隠れないかと、いろいろ服を引っ張ってみる。そして、あることに気付いて、首の後ろに手をやった。


「こうすれば、ちゃんと隠れます」


 後ろで一つにくくっていた髪を、ぱさり、とほどいた。金色の流れは、アンジェラの気にしていた首筋をすっぽりと覆い隠してくれる。


「そう来るか。まぁ、いきなり髪型変えた理由が思いつくなら、な」

「涼しくなって来たから、これでいいんです」


 アンジェラはしてやったり、と笑顔を浮かべ、縛り癖のついた髪を手櫛で整えた。


「……やっぱ、似てるな」

「はい? 何かおっしゃいました?」


 ウィルは両手を上げて、降参のポーズをとった。


「いや、何にも? さて、そろそろ寝るか」


 ウィルは、アンジェラの腰に手を回すと、あっさりとお姫様だっこで担ぎ上げた。


「抱き枕は解禁、だろ?」

「……そうですね。これ以上の『お仕置き』がないことを願っています」



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