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ひとつの空にあるように  作者: 長野 雪
秋茜に思いをのせて
33/57

07.それは、藤袴よりも小さなつぼみ

 ずっと考えていた。

 どうして、あたしだったのか。

 カークって呼んでもいいよ。そう口にしたティオーテン公爵は、決して優しい人間じゃない。むしろ、一つの事柄にどこまで深く考えているのか分からない、とても恐い人間だ。

 その彼が、どうして、あたしを選んだのか。

 成り行きと言えば成り行きだった。だけど、あの人の言葉がなかったら、自分はこんなに幸せな暮らしなど望めなかっただろう。

 だから、あの邸を出ていくことは、一つの賭けだった。ティオーテン公爵の想う『ウィルフレード』の為に、『アンジェラ』が必要ならば、きっとどんな手を使ってでも、邸に連れ戻されるだろう。もし、そうなら、自分はとてつもなく頭を使わなければならない。ティオーテン公爵の思惑次第では、彼を出し抜くぐらいの勢いで、……そうでなければ、『ウィルフレード』まで、あの人の道具になってしまう。


(……そういえば)


 ロイは、ウィルの状況を『病気』と表現していた。ティオーテン公爵はどう思っているのだろう。いや、もしも、本当に病気なら、それが治るということは、どちらか、あるいはどちらのウィルも消えてしまうのだろうか。

 疲れた身体を横たえながら、アンジェラは遠い空を見上げた。頭上を秋茜が勝手気ままに飛び交っている。


「アンジェラ、今日はもう終わりだってー」


 身体を起こすと、イザベラが両手を振って駆けて来るところだった。その後ろにいる艶やかな黒髪の少女が、控えめに手を上げた。


「……カタリナ?」


 収穫で忙しいからか、その後ろに妹の姿はない。


「聞いたわよ。王都から来た人に追い出されたんですってね」

「そうそう、だから、今夜はゆっくりと語り会おうねー。三人で」


 にんまりと笑うイザベラに、アンジェラは、目を丸くした。


「ゆっくり、って、あの……!」

「カタリナも、うちに泊まるの。どうしてこうなったのか、ゆっくり聞かせてもらうからね」


―――もちろん、アンジェラに断れるはずもなかった。町長の血は色濃く、押しの強さは遺伝に違いない。

 イザベラの部屋で、なぜか小さいテーブルを囲んで、尋問を受けながら、そう思った。


「ちょっと、どうしてそこで引くわけ? そんな王都から来た女より、アンジェラの方がずっと愛されてるんだから、胸を張りなさい、胸を!」


 夜も更けて、虫が思い思いの響きでさえずっている。


「それは無理よ。だって、アンジェラはイザベラじゃないもの」


 いっそ、逃げたい。アンジェラは切に思う。


「だいたい、枯れ井戸に閉じ込められても、まだ庇う心境が分からないわ! 見てよ、この指!」


 イザベラがアンジェラの手をテーブルの上に引っ張り出した。上に乗っていた三人分のコップが小さく揺れる。


「これは、ひどいわね」


 眉をしかめたカタリナは、並べられた芋菓子に手をつけた。


「だいたい、どうして、そんなに自信がないのかしら。これは性格? 性格なの?」


 コップに残っていた淡いピンクの液体を飲み干すと、イザベラは自分で瓶から注ぐ。


(どうして、お酒まで……)


 頭を抱えて、布団にもぐり込みたくなったが、その代わりに手をまたテーブルの下に隠した。


「ベラ。ちょっとペースが早いわよ。アンジェラがほとんど飲んでいないじゃない」


 カタリナは瓶を奪い取ると、アンジェラのコップに中身を注ぎ足した。無言の催促を受けて、アンジェラがコップに口をつける。


「でも、その、マクレガーさんだっけ? いくらなんでもキツいわよ」

「それだけ、領主様に王都へ戻って欲しいということね。あと、夜の領主様を本当に嫌っている」


 アンジェラは胸の前で小さく拳を握った。あの言葉が頭から離れてくれない。


『あなたは、ウィルフレード様の未来を閉ざす害虫でしかない』


 思わず、涙をこぼしそうになって、慌ててコップの中のお酒を半分ほど飲み干した。

 喉を熱くして、そのまま胃の腑に流れ込むのが分かる。


「……あたしは、だんな様の邪魔をしているのでしょうか」


 ぽろりとこぼれた弱音に、両側から「そんなことはない!」と強い声が跳ね返ってきた。


「言っとくけどね、アンジェラが来てから、すごい話しやすくなったんだから!」

「張り詰めていたものが、少しずつ、はがれてきた感じがするわよ。絶対にアンジェラが来てくれたおかげだわ」


 必死で彼女を繋ぎ止めようとする言葉に、思わず笑みがこぼれた。


「ありがとうございます。でも、王都に戻るには、やっぱり―――」


 後半部分を濁し、美味しく感じられるようになってきたお酒を口に運ぶ。


「そもそも、それよ」


 イザベラが濃炭色の瞳をきらりと輝かせた。


「領主様は王都に戻りたいと思ってるのかしら」

「それもそうね。……でも、戻ろうと思うなら、規定通りの地代しか納めさせないのはおかしいわ。隣のイオマスの話、聞いた?」

「あぁ、賄賂の為に……ってやつね。でも、あの真面目そうな領主様がそんなことを考えるかしら?」


 意見を重ねる二人を見ながら、手持ち無沙汰のアンジェラがコップのお酒を飲み干す。と、すかさずカタリナが瓶を持ち、なみなみと注いだ。


「アンジェラ。あなた、領主様の口から『王都に戻りたい』とか、聞いたことある?」


 火照り始めた頭に風を送っていたアンジェラは、懸命に記憶を掘り起こす。


「いいえ、ない……と、思います」

「うん、それなら、そのマクレガーさんの独断ってこともあるわけね」

「ベラ、そうすると、あとはアンジェラの問題だけになるわ」


 カタリナは、ちらり、とアンジェラのコップの残量を見て、次に顔色を伺った。そろそろ、口が軽くなっても良い頃合だろうか、と。


「アンジェラ。正直に聞かせてね」

「そうそう、領主様のこととかは、一切、考えないで答えてちょうだい」


 二人に厳しい視線を向けられ、思わずたじろいだ。


「な、なんでしょうか……?」


 カタリナの方が、ちらりと目線で発言を譲る。それに頷いたイザベラが、じっとアンジェラを凝視した。


「アンジェラは、どうしたい? 領主様の邸に戻りたい? それとも紹介してもらった所に行きたい?」


 今まで、自分の望みなど考えたこともなかったアンジェラが、小さく唾を飲み込んだ。

 全てを放って、新しい環境に行ってしまいたいと思う。でも、それは逃げであり、賭けだった。サラやローザのような同僚ができる可能性だってある。遠くに行ってしまえば一人だし、イザベラやカタリナのように、アンジェラのことを思って動いてくれる友達もいなくなる。


(でも、それは―――)


 貧民街から外に出稼ぎに出る人すべてに言えることだ。その点では、今のアンジェラは恵まれ過ぎている。良い主人に巡り会い、友人もできた。


「アンジェラ?」


 黙り込んでしまった彼女に心配そうな声をかけるイザベラ。見ればカタリナも似たような表情を浮かべていた。


「望んでも、いいのでしょうか……?」


 喉の奥から、震えた声を絞り出した。


「ここにいたい、と。離れたくないと、思っても、いいのでしょうか」


 ようやく本音らしきものをこぼしたアンジェラに、「当たり前じゃない!」とイザベラの威勢のいい返事が戻ってきた。

 カタリナは、今にも泣きそうなアンジェラを黙って抱きしめた。自分の妹にするように、背中をそっとさすると、アンジェラは堰を切ったように泣きだした。

 虫の声は、相変わらず、響きわたっていた。



.。:*·˚+.。:*·˚+.。:*·˚+.



 朝霧の中、こめかみを押さえながら、冷えた空気を吸い込んだ。

 視界は白一色だけど、道は何とか見出せた。

 お世話になった町長の家を振り返り、ぺこり、とお辞儀をする。昨日のお酒のせいで、まだ頭が重かったが、こっそり出て行くことに決めた。


「さてと、とりあえず、隣町まで行ってみよう」


 自分を奮い立たせるため、わざと明るい声を出した。今なら、この決意に秘めた言葉を聞く者はニワトリぐらいしかいない。


「なるほど、ウィルフレード様もよく分かっていらっしゃる」


 ニワトリぐらいしか、いない筈だった。


「あ、……オリバー、さん?」


 朝露に濡れた黒髪を軽く振って、「やぁ」とあの高い声で挨拶をしてきた。


「夜は、町長のお孫さんが引き止めているだろうけど、早朝に逃げ出しそうな気がするってさ」

「あ、あの……」

「そんな風に夜のウィルフレード様に言われたら、まぁ、断れるわけもないからね」


 横に回り込んだオリバーは、アンジェラの腕を無造作に掴んだ。


「逃げるようだったら、朝のオレの部屋にぶちこんどけ、……っていうのが、命令なんだよ。ごめんね」


 何がどうなっているのか分からないまま、アンジェラはオリバーの乗って来た馬の上に持ち上げられた。

 下りなければ、と思うより早く、オリバーが彼女の後ろに腰を落とした。手綱を掴む両手が檻のようにアンジェラの動きを拘束する。


「逃げられない、ということですか」

「逃げて欲しくないね。だって、怒られるのはこっちだし」


 高い声だと知られてから、オリバーはよく話す。たぶん、初対面のときのうつむき加減な様子もフリなのだろう、と思った。そうでなければ、この朗らかさはなんだ。

 視界のきかない霧の中、馬はゆっくりと足を進める。


「あの、お聞きしても?」

「なにか?」


 アンジェラはぎゅっと自分の荷物を抱きしめた。


「夜のウィルフレード様と、お知り合いなのですか?」

「そうだね。夜の酒場でよく飲み交わした仲だよ」


 ぱっかぽっこと揺られながら、オリバーは小さく笑った。


「アンジェラも大変だ。二人分の怒りをくらわなきゃいけないんだから」

「二人、ですか? だんな様とマクレガー様の?」

「違う違う、マクレガー氏は別に怒ってないし、むしろ怒られてたみたいだし。……昼も夜も怒ってたよ」


 昼も夜も、その意味に気がついて、アンジェラの心が冷える。


「や、やっぱり、あたし……」

「だーめ。言っただろ? 逃がしちゃったら怒られるのはこっちだって」


 オリバーは、馬から下りようと身じろぎした少女をあっさり片腕で捉え、残った手で手綱を操った。


「予定を繰り上げて、今日の昼過ぎには撤退するし、残ったウィルフレード様にひもじい思いをさせるのかい?」

「でも、あたしがいないと分かったら、サラさんやローザさん、オリバーさんも残られるんじゃないですか?」

「無理だよ。承知するはずがない。だって、あの夜の一件を知っているみたいだし」


 アンジェラを拘束していた手で、その細い手首を掴む。


「この手袋のおかげで、マクレガー氏だけは知らない。―――その様子からすると、アンジェラがしゃべったわけではないんだね」


 オリバーのボーイソプラノを聞き流しながら、アンジェラは激しくなった動悸を押さえようと胸に手を当てた。


(昼の、だんな様が、知って―――)


 考えられるのは、夜のウィルフレードとの文通しかなかった。当事者であるサラやローザが話すとも考えられない。夜の方も、意外と気配りに長けているから、それとなく気をつけるように頼んでくれたのかもしれない。

 だけど、それは、ローザの仕打ちに黙って耐えていたことも、知られてしまったということだった。自分を大切にしないことに、何よりも腹を立てる人だけに、その怒りの度合いも大きく変わってしまう。


「アンジェラ?」


 青冷めた少女に、心配そうな声が聞こえた。


「あ、あたし、やっぱり……」

「むりだよ。だって、ほら、門が見えて来た」


 オリバーが示すように、少しだけ晴れてきた霧の中、大きな門がそびえ立っているのが見えた。

 馬から下りたオリバーは、慣れた手つきで開門すると、アンジェラを乗せたままの手綱を引っ張った。

 逃げるには絶好のチャンスだった。だが、それも乗馬の経験が少しでもあれば、の話だ。

 手綱を木にくくりつけると、オリバーは少女の手をとって、馬から下ろす。


「まだ、覚悟ができてないみたいだけど、仕方ないよね」


 逃げられては困る、と思ったのか、まるでじゃがいもの袋を担ぎ上げるように、アンジェラを肩に乗せた。結果、後ろを向く体勢になったアンジェラが、慌てて抗議するもの、聞く耳は持たない。


「おはよう、オリバー。……おはよう、捕まったのね、アンジェラ」


 声から察するに、サラだろうか?

 返答しないオリバーに、声の主は後ろに回ってアンジェラの正面にやってきた。


「お、はようございます。サラさん」


 とりあえず、担がれた状態で挨拶をする。他に何を話したらいいかわからなかった。


「ウィルフレード様、とっても怒ってたから、頑張ってね。あぁ、荷物は部屋に運んでおくから」


 普段通りの淡々とした調子で、動くサラに、アンジェラの胸に産まれた感情は安堵か諦めか。

 階段を上り、アンジェラの部屋も、ロイの部屋も通り過ぎる。アンジェラの心臓が、ばっくんばっくんと悲鳴を上げた。

ドンドンドン

 せっかちにノックをすると、中から「急ぎですか?」と礼儀正しい声が聞こえた。


「……速達です」


 彼の出せるぎりぎりの低い声でオリバーが答えると、ややあって、扉が開く音が耳に届いた。担がれたままのアンジェラからは、ウィルの様子が見えない。


「確かに、届けました」


 オリバーは肩に乗せていたアンジェラを、無造作にぽいっと投げる。その予想外の行動に、ウィルが反応できるわけもなく、そのまま部屋の中に『放られた荷物』と一緒に倒れ込んだ。


「アン、ジェラ?」


 一瞬、重力を失って、何が起こったとか分からなかったが、ウィルを下敷きにしている現実に、慌てて飛び上がった。


「申し訳ありません、だんな様。あの、背中とか打ってませんか?」


 腰を下ろしたままのウィルは呆然と少女を見上げた。赤みを帯びた金髪は普段通りに後ろでまとめ、夜明け前の空色をした瞳が、心配そうにこちらを覗きこんでいる。だが、差し出された手に、白い手袋がはめられているのを見て、わずかに眉を寄せた。


「あの、だんな様……?」


 ついさっきまで、会うことを恐れていたことも忘れ、じっと主人の行動を待つ。もしかして、手を貸すのは悪かったのだろうか、と全く別の不安がよぎった。


「……」


 ウィルは何も言わず、差し出された手ではなく、手首を掴んだ。そして、そのままぐいっと引っ張る。よろけたところを、あっさり抱きすくめられてしまった。


「え、と、……だんな様?」


 まさか、朝なのに、夜のウィルフレード様だったろうか、とアンジェラが疑問に思った。夜の、と思ったところで、ようやく本来の恐怖を思い出した。


(勝手に出て行ったこと、謝らないと―――)

「あの、だんな様、あたし……」

「黙りなさい」


 冷えた声音に、アンジェラは身体を固くする。


(す、すごく、怒っていらっしゃる?)


 どきどきしながら、次の行動を待つ。黙れと言われたからには黙らないといけない。辛抱強く、相手の反応を待つことにした。


(ひたすら、謝るしかないかな、たぶん)


 下手な言い訳をするより、自分に非があると認めれば、その場は収まる。それは、故郷の教え。

 その上で、自分が居ては邪魔になるから、と暇を乞えばいいだろう。


(相談せずに、勝手に判断してしまったのは、よくなかった。うん。そういう流れで謝れば)


 たぶん、反対されるだろうから、色々と理論武装をしないといけないだろう。どうにもならない展開になってしまったら、仕事がきついから、辞めさせてくださいとか、言ってみればいい。

 そこまで考えついた所で、改めて主人の様子を伺った。

 お互いの肩に顎を乗せるような体勢になっているから、表情は分からない。強く抱きしめられているので、身じろぎすらできなかった。

 仕方がないので、背中に流れる、やや乱れた銀色の髪を眺める。本当に寝起きなのだろう。乱れたままの髪がアンジェラの頬をくすぐっていた。

 まさか、寝ているのでは、と疑ったところに、小さい声で名前を呼ばれた。


「……何から話そうか、考えていました」


 少し疲れたような声に、アンジェラはひたすら沈黙を守る。


「とりあえず、ロイと久しぶりに口論しましたよ。結局、平行線ですけど」

(そんな、あたしなんかの為に、マクレガー様と、仲たがいを)


 口を禁じられているため、心の中で叫び声をあげた。


「私は、王都に戻る気はありません。ロイにも、……カークにも、言ったはずですが」

(ティオーテン公爵様の名前が、どうして出てくるのでしょう?)

「カークが、あなたの素性をロイに洩らしたようです。……あぁ、大丈夫ですよ。サラやローザ、オリバーには洩れていません。あぁ、ローザと言えば」


 そこで、ようやくウィルはアンジェラの身体をそっと解放し、代わりに手袋をはめた手を取る。


「全て、夜のあれから聞きました」


 どきり、と心臓が跳ね上がった。目を伏せて、動揺を気取られないようにする。


「……アンジェラ、実は、とても怒っているのですよ。私は」


 何も言わず、伏せたまぶたの裏を見つめて、言葉を待つ。


「よりにもよって、夜のあれから、ローザとの顛末を聞き、しかも、あれが解決に一役買ったとか言うじゃないですか。それまで気付かなかった私も私ですが、それでは、名誉挽回と思ったところに、ヤコブ氏からアンジェラが辞めたと聞いたが、どういうことかという問い合わせの手紙が来る始末。しかも、畑の手伝いをしていると聞いて迎えに行けば、当の本人は私から逃げて隠れてしまう。―――これで怒らない方がおかしいですよね」


 同意を求められても、答える術のないアンジェラは、じっと目を閉じたまま頷くことさえしない。


「親元を離れるのは、好きな男ができたときだけで十分です」


 あくまで、アンジェラを娘として扱うそのセリフに、アンジェラはゆっくりと目を開けた。


「率直に聞きましょう。アンジェラは、この邸から出て行きたいですか?」


 青い瞳で見つめられ、思わず目を逸らしてしまった。


「遅かれ早かれ、あたしは、だんな様にとって、邪魔になる、と思います。ですから、早い方がいいと―――」

「アンジェラ、あなたの気持ちを聞いているんです」


 気持ち、と言われ、昨晩、イザベラとカタリナに白状させられたことを思い出す。


(だめ、言っちゃいけない。だって、あたしは、『害虫でしかない』んだから)

「あ、たしは―――」


 思わず声が震えた。ぎゅっと拳を握りしめる。


「願っても、いいのでしょうか」


 感情が理性を裏切った。

 どんな状況でも冷静であれ、故郷の教えに背を向けてしまった。


「ここにいたい、と、願うことは、許されるのでしょうか……?」


 押さえの効かなくなった涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。

 予想もしない表情に、ウィルは少女を見つめることしかできなかった。


「あたしを雇っていることで、だんな様が余計な苦労をなさることは承知しています。今の状況が、分不相応の高待遇だってことも、分かってるつもりです。でも、あたしは……」


 アンジェラは乱暴に涙を拭ったが、それは止まることなく、どんどんと溢れだしてきた。


「もう十分です。あなたの気持ちはよく分かりました。……泣かせてしまいましたね。すみません」


 ウィルは目の前の少女の頭を優しく撫でた。すっかり失念していたが、まだ十二歳の少女なのだ。


「ここにいなさい、アンジェラ。あなたが邸を出るときは、最高の伴侶を見つけたときだけですよ」

「と、とんでもない。あたしは、そんな―――」


 伴侶なんて、とゴニョゴニョ呟くアンジェラに、ウィルはようやく笑みを浮かべた。


「ふもとの町のトムから熱烈なアタックを受けていると聞きましたが」


 誰がそんなことを! と考えると、思い当たるのは夜のウィルかイザベラのどちらかしかない。確かに花祭でトムからダンスを誘われたが、向こうにしてみれば、社交辞令に過ぎないだろうに。


「そ、そういうのは、トムに失礼です。あたしなんかより、ずっといい人はいます」

「あぁ、……ということは、これからも使用人、兼、娘、兼、婚約者でいてくれるんですね」

「だんな様っ!」



.。:*·˚+.。:*·˚+.。:*·˚+.



 すっかりわだかまりも解け、着替えると言った主人の部屋を退室すると、そこに赤毛の青年が立っていた。


「アンジェラ」

「……はい」


 濃い茶の瞳が、少女を冷たく見下ろしていた。


「戻るのですね。ここに」

「はい。申し訳有りません。いただいた支度金と旅費はお返し致します」


 アンジェラは深く頭を下げた。


「ウィルフレード様から聞いたかもしれませんが、わたくしは、まだ諦めておりません」

「はい」

「いつでも王都に戻れるよう、根回しも続けます」

「はい」

「……ところで、なぜ、ウィルフレード様の部屋から?」


 アンジェラは一瞬、言葉に詰まった。下手に真実を話してしまえば、オリバーに迷惑がかかるかもしれない。


「早朝、町長の家をそっと抜け出したところ、捕まってしまいました」


 誰に、とは言わない。


「つまり、ノーチに行こうとしたと、判断してもよいのですか?」

「……はい」

「それは、今でも?」

「いいえ」


 きっぱりと断ったアンジェラに、ロイは小さく笑みを浮かべたように見えた。


「あの方に王都に戻られる意志があるなら、わたくしは何度でも、あなたを切り捨てるつもりので」

「はい、ありがとうございます」


 敵対ではなく感謝を示したアンジェラは、聞き返されるより先に、続く言葉を紡ぐ。


「あたしのせいで、だんな様が見捨てられることにならなければいい、そう思っていました。だんな様の邪魔と判断されましたら、いつでも」


 まっすぐに自分を見つめる少女の目が、かすかに腫れているのを見て、それが涙の跡だと気付く。つまり、ここを去るにしても残るにしても、泣くほどの決心をさせたということか。


「……あなたには、負けますね」

「え?」

「いいえ、なんでもありません。―――そうですね、あなたにそれほどの決意があるのでしたら、こちらもそれなりに対処しましょう。幸いまだ十二歳。色々なものを吸収できる年齢ですしね」


 ロイが何を言いたいのか、きょとん、とアンジェラは次の言葉を待つ。


「あなたの過去がマイナス要素なら、それを補って余りある価値を持ちなさい。知識でも技術でも、強みになる価値を」


 アンジェラは驚きに目を見開いた。新しい道を指し示す救世主を見るかのように、赤毛の青年が輝いて見えた。

 彼はちらりとウィルの部屋に視線を走らせると、彼女の耳元に口を寄せる。


「そして、本当の弱みを知りなさい。ウィルフレード様があなたに掃除させなかった、奥の部屋を」


 その言葉に、ぞくり、と悪寒が走った。いつか、ティオーテン公爵にも言われたことだ。あのときは、主人の秘密を知ることは危険だと、そう自分を押さえたことを思い出す。


「旅費と支度金は迷惑料として渡しておきます。いろいろと引っ掻きまわす結果になってしまいましたから。これから、自分を磨くにあたって、先立つものは必要でしょう」


 とんでもない、と辞退するアンジェラに、ロイは全く別のことを言った。


「そういえば、町長の家では、あなたがいないことに気付いて、面白いことになっているのでは?」


―――結果として、アンジェラが慌てて邸を出て行ったことは言うまでもない。



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