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ひとつの空にあるように  作者: 長野 雪
秋茜に思いをのせて
30/57

04.はがれゆく随順の仮面

「ねぇ、サリーはどう思う?」

「アンジェラのこと? いい子だと思うわよ。猫もかぶっていないみたいだし」


 王都からやって来たメイド二人は、寝巻きに着替え、おしゃべりタイムに突入していた。


「でも、部屋は二階なのね。……ロリコンなのかしら」


 サリーは、自分の髪を梳きながら、ローザとの会話に付き合う。


「十二って、ありえないわよね。だって、ウィルフレード様は二十六だか二十七才でしょ?」

「……ねぇ、ローザ。あなた十四のときって、どんなだった?」

「え? あぁ、家事の手伝いはしてたわね。でも、働き始めたのは十六からよ」

「普通、そうよね。十六ぐらいからよね。……アンジェラは、どうして十二で働いているのかしら……」


 自分の赤毛――他人からは黒髪と言われがちだが、本人は黒に近い赤毛と思っている――をじっと見つめ、サラは考えこむ姿勢をとった。


「アンジェラのことは、どうだっていいじゃない。問題は、ウィルフレード様と会話するチャンスもないってことよ」

「そうね、昼間はマクレガー氏とずっと一緒だし。さっき、お茶を持って行ったときはどうだったの?」


 アンジェラに言いつけられたお茶の仕事を、ローザが、むりやり横取りしていたのを思いだして、尋ねてみる。


「だめだめ。ずっと頭を寄せ合って、領地管理のお話よ。マクレガー氏としか話してないわ」


 ローザが首を振ると、やっぱりそうよね、とサラはため息をついた。

 と、ローザが何かひらめいたようにエメラルドの瞳を輝かせた。


「そうだ! 夜のウィルフレード様に、会ってみない?」

「……会ってみない?って、どうやって?」

「もしかしたら、邸内をふらふらしてるかもしれないじゃない!」


 サラは肩をすくめた。


「あのねぇ、去年ここに手伝いに来たベティも、タリアも、会えなかったのよ? そりゃもう、マクレガー氏のガードが固くて! ローザだって聞いたでしょ?」

「でも、今回も会えないなんて、決まってないわ。行動あるのみよ!」


 ローザは後ろにまとめていた髪をほどくと、鞄から香水を取りだして襟元に軽くつけた。


「……会ったところで、どうするの?」

「決まってるじゃない! どうにかしてベッドまで連れて行ってもらうのよ! 朝起きたら、裸で隣にいました、って言ったら、完全な既成事実! あの真面目なウィルフレード様が責任をとらないわけがないわ!」


 ゴゴゴゴ…と効果音が付きそうな勢いで燃えるローザを、サリーは羨望と諦観を含んだ眼差しで見つめた。


「……後先考えない人はいいわね」

「え? 何か言った?」

「先に行きなさいな、ローザ。私は後ろから見守っててあげるから。今日、夜のウィルフレード様に会っても、邪魔しないわ」

「……ほんとぉ?」

「えぇ、今日のところはその勢いに免じて、お手並拝見といくわ」


 サラの後押しを受け、もはや引っ込みのつかない――もちろん、本人は勢いのままに出るつもりだが――ローザは、ぐっと両拳を握ると、ドアをそぉーっと開けた。


「ちなみに、マクレガー氏に会ったら、なんて言い訳するの?」

「水を飲みに来ました、って言うわ」


 そっと足を運ぶローザに「いってらっしゃい」と投げ遣りな返事をしたサラは、数歩もいかずに足を止めた彼女に怪訝な視線を向けた。


「どうしたの?」


 小声で尋ねると、顔を向こうに向けたまま、手招きをする。邪魔はしないと言ったのに、心の中で呟きながら、サラも足音を殺してローザの後ろに来た。


「台所から明かりが洩れてるの」

「……それこそ、ウィルフレード様じゃない? 良かったじゃないの」

「でも、マクレガー氏だったら……?」

「そのぐらいの危険でくじける気? だったら、私が見てくるわ」


 それはダメ、とサラの袖を引っ張るローザ。

 と、台所から、高い声で「やめてください、ウィルフレード様!」と、声が聞こえた。


「……いま、ウィルフレード様、って」

「行くわよ」


 足音を忍ばせ、サラが先頭に立って台所へ向かう。


「いいじゃねぇか、減るもんじゃなし」

「こんなところを、誰かに見られたら……!」

「こんな夜中に誰が? ロイの奴はとっくに寝たぜ。オレの部屋にまでイビキが聞こえてくるからな」

「ですが、他の―――」

「構わねぇって、どうせ変な噂で苦労するのはオレじゃねぇし」


 とても不穏な会話だった。

 サラとローザの既成事実計画を吹き飛ばすぐらいに不穏だった。

 二人は顔を見合わせる。戻ろう、とジェスチャーをするサラに、頷きかけたローザだったが、ふいにその緑の目がきらり、と輝いた。その唇が声も出さず「千載一遇のチャンス」と形作る。


「アンジェラ、いるのー?」


 何も聞いてません、という脳天気な声を出し、ローザが台所に通じるドアを開けた。サラも仕方なく後ろについていく。


「おんやぁ? もしや、ロイの言ってた使用人か?」


 それまで抱きすくめていたアンジェラを、あっさり解放すると、先に入ったローザの前に立つ。

対する二人は、ぽかん、とした表情で目の前の人物を見上げた。


―――顔はそっくり、でもこの口調はなに?


「初めまして、今日から入りました、サラと言います。こちらはローザ。数日ではありますが、こちらでお手伝いをさせていただく予定となっております」


 ローザを押しのけて前に出たサラは、きびきびとした様子で自己紹介をする。正直なところ、サラにも動揺があるのだが、ローザとは違い、それを押し隠すだけの経験とプライドがあった。


「へー。これが、ロイの奴が『会うな』って念押ししたメイドね」


 ウィルは慣れた手つきでサラの髪を一房すくいあげる。


「冷えかけた鉄の色、オレで溶かせるかな?」


 赤みがかった黒髪にそっと唇で触れると、サラの白い肌がぽっと赤くなった。


「こっちは可愛い子猫ちゃんだな。なんだ、そんなにきれいなエメラルドの瞳で見つめるなよ。オレの顔に穴でもあいてるか?」


 隣でぽーっとするローザの、くすんだ金髪を軽くてで梳くと、その額に軽くキスで挨拶をした。

 そこまでやって、「妬くかな?」とアンジェラを伺えば、少女はテキパキとさっきまでウィルの飲んでいた酒瓶をしまっているところだった。春の花祭で、ウィルの軽い挨拶にも慣れてしまっていたアンジェラは、特に気にすることでもないと考えたらしい。

 ウィルはやれやれ、と肩をすくめた。


「そろそろ遅いし、オレも退散するぜ。あとは女同士で仲良くやってくれな」


 ひらひらと手を振り、あっさりと台所を出ていくウィル。アンジェラは、彼に見えていないにも関わらず、ぺこりと頭を下げると、ウィルの使っていたグラスを洗う。

 サラとローザは、まだぽーっとしていた。

 グラスを片付け、ウィルが来るまでやっていた、台所の掃除を再開しようかと考えたところで、サラが自分を取り戻した。


「あ、あ、あ、アンジェラ?」


 やや上ずった声で呼びかける。


「はい」


 礼儀正しく振り向いたアンジェラに、珍しく狼狽したサラの視線がぶつかる。


「さっきのが噂の……」

「はい、夜のウィルフレード様です。その、ああいう方、なんです」


 二人の会話に、遅まきながらローザも声を上げた。


「か、かっこいい……」


 両手を胸の前で組み、桃色の声を上げる。

 今までにないリアクションに耳を疑ったアンジェラだったが、それは聞かなかったことにして、「お二人も、飲み物を取りに?」と尋ねた。


「そうよ。ちょっと喉が乾いたから、水でも飲もうと思って。アンジェラも?」

「あたしは、ちょっと眠れなくて、台所の掃除をしていました。ウィルフレード様は部屋にあったお酒を没収されてしまったので、マクレガー様が眠った隙にいらしたそうです」


 サラはカマドの横にある水桶を見た。たしかに、汚い雑巾が中に入ったままだ。でも、眠れないからと言って、掃除をするだろうか?


「水と冷たいお茶がありますけど、どちらにします?」

「お茶、もらっていいかしら」

「はい」


 本来なら、使用人という位置付けで立場は対等、それどころかアンジェラの方がこの邸内では上役とも言えるのに、少女はくるくるとよく動く。半地下にある室からお茶を取ってくると、二人の目の前でコップに注ぎ分けた。


「ねぇ、アンジェラ?」


 サラが呼びかけると、すぐさま「はい」と気持ちのいい返事が戻ってくる。


「夜のウィルフレード様と、……やっちゃったこと、ある?」


 サラの物言いに首を傾げたアンジェラだったが、すぐ思い当たったのか、ボン、と音を立てそうな勢いで赤くなった。


「ちょ、ちょっとサリー。ストレート過ぎるんじゃない?」

「どうせ、誰も聞いてないわ。……それで、やったの?」


 アンジェラは慌てて首を振った。


「交渉は、持たないように、って、その、昼のだんな様に言われてますから……」


 アンジェラの言葉に、サラはさらに追い討ちをかけた。


「昼のウィルフレード様の言い付けは言い付けでしょ。要はやったかやらないか、それだけよ」

「ちょっと、サラ、言い過ぎじゃない?」


 慌てて袖を引っ張ったローザに、サラは鼻で笑った。


「どっちにしても、障害なのか、ライバルなのか、助け手なのか、そこはハッキリさせておかないとね」

「……ライバル、ですか?」


 アンジェラの無邪気な問いに、ローザが「あーあ、言っちゃった」とため息をついて口を挟んだ。


「要するに、あたしとサリーは、ウィルフレード様とお近づきになりたいの。その為に、王都のお邸の熾烈なくじ引きを勝ちぬいて来たんだから」


 くじ引きって、熾烈なものだったか、と隣で聞いていたサラは思う。希望者は多かったが、単なる運任せだ。


「で、さっきの、『こんな所を誰かに見られたら……』は何をやっていたのかしら?」


 もはや、完全に開き直ったローザは、微笑みを浮かべながら、アンジェラに詰め寄った。


「え、あ、あれは、そういうことではなくて……」

「そういうことじゃなくて?」


 サラがコップを片手に座ったまま、援護射撃をする。


「……ウィルフレード様のおふざけで、くすぐられていただけなんです」


 うつむいたまま、アンジェラが答えた。


「アンジェラ? くすぐられるのが見られてはいけないことなの?」


 ローザの追及の手は緩む気配がない。アンジェラは、いっそのこと、正直に言ってしまおうかと考える自分がいることに気付いた。


(確かに、この二人と仕事するのは楽しかった。……だけど)


 胸に何度だって刻み込む。この身はただ、主人の為にあるのだと。他の使用人との関係を円滑にするために、主人のプライバシーを話すことは罪悪でしかない。

 たとえ、アンジェラの首元が弱いことを知っているウィルが、ふざけて首元を自分の前髪でくすぐっただけだったとしても。


「すみません。……言えないんです」


 拳をぎゅっと強く握る。そして、汚れた水の入った桶を抱え、裏口から外へと出て行った。


「言えないって」

「言えないんでしょ? 要するに」


 残された二人は互いに顔を見合わせる。そして、声のトーンを一段低くした。


「つまり、宣戦布告ってこと?」

「そうね。ただ、ウィルフレード様との親密度で言えば、向こうの方がかなり有利だけど」


 考え込むローザに、サラは面白いものでも観察するような視線を向けた。


「つまり、アンジェラを押しのける必要があるってことね。今まで以上に」

「そうね」


 ローザの口から飛び出す声に、サラは淡々と答える。

 そして、ローザは一つの結論に至った。


「つまり……手っ取り早く、追いだせばいいのよね」

と。



.。:*·˚+.。:*·˚+.。:*·˚+.



(基本的に、短絡思考なのよね)


 翌日から、ローザのとった行動に、サラはしみじみと頷く。

 徹底的な無視、いないフリなどかわいいもので、仕事は押しつけるわ、そのくせウィルに関する仕事は何が何でもやるわ、本人の前でイヤミを言うかと思えば、仕事の合間を狙って、アンジェラの部屋をめちゃくちゃに荒らしていた。この間なんか、通りすがりに足を引っ掛けて転ばせていた。

 サラがアンジェラの立場だったら、有無を言わせず、逆に追い出していたところなのだが、不思議なことに、アンジェラに反抗的な素振りはなかった。初めこそ驚きを隠せなかったものの、むしろ、堪えることを美学にでもしているのか、ひたすら、何も言わず、ローザの仕打ちに対し、忍耐を見せていた。


(分かっているのかしら、ローザは)


 アンジェラがそういう性格だったから良かったものの、アンジェラが告げ口をすれば、一発で首が飛ぶ。もちろん、王都の邸にも帰れない危険性だってある。

 もし、アンジェラの性格をたった一日で理解していた、というのなら、サラは拍手を送りたい気分だった。


「何よあれ? 別に気にしてません、って感じじゃない!」


 アンジェラが庭掃除を押しつけられて出て行くと、ローザがサラに向かって悪態をついた。


「案外、気にしてないのかもね。前も同じ目にあってるとか」

「え? だって、あの子が来てから、本邸からの手伝いが来るのは初めてでしょ?」

「ローザ。別にライバルが本邸の中だけとは限らないわ。ふもとの街だって、あなたみたいな人間がいるんでしょう?」

「あなたみたいな、って、サラだって―――」

「そうね。私は、あなたがアンジェラをいじめてる隙に、めでたくウィルフレード様にお茶を運んで来たところ」


 ずるーい!という悲鳴を聞きながら、サラはせっせと窓を拭いた。

「そう言えば、さっきウィルフレード様に言われたんだけど、……アンジェラに二階の部屋を掃除させないように、って」

 ローザはきょとんとした目で「は?」と聞き返した。

「何で? むしろ、先頭立ってやってもらおうと思ってたのに?」

「さあね。でも、これまでお茶運びの取り合いをやってたけど、堂々と二階に入れるチャンスでしょ?」

 サラの微笑みに、ローザは満面の笑みを返して「それもそうね」と頷いた。

「一階の残り二部屋をアンジェラにやってもらって、私とローザは二階の通路の埃落とし。脚立が二つしかないわけだから、アンジェラも一人で一階の掃除をするのに異議はないはずだし、一階の掃除が終わってしまったなら、またローザがいろいろ言い付ければいいだけでしょ?」

 サラの言うことに、確かに、とローザが頷く。

「……でも、二階に何があるのかしらね」

 サラの呟きに、ローザは首を傾げるだけだった。



.。:*·˚+.。:*·˚+.。:*·˚+.



一方、アンジェラは黙々と庭掃除をしていた。

掃いても掃いても落ちてくる枯れ葉はどうしようもないが、正直なところ、今のローザと一緒にいるよりは気楽だった。


(やっぱり、あれがいけなかったのかな)


 あの夜、ウィルと何をやっていたのか、きちんと答えていれば、こんなことにはならなかった、と思う。だが、あの夜を何度繰り返したとしても、同じ答えしか返せないだろうとも思っていた。

 それにしても―――、とアンジェラは思う。


(まさか、だんな様にそんなに人気があったなんて)


 王都から流されて来た、ということは、噂好きのイザベラからも聞いていたし、アンジェラも主人として慕っている。だが、遠く離れた王都にも、そんな人々がいるとは思いもよらなかったのだ。


(お妾さん、狙ってるってことだよね)


 貧民街にいた頃は、そういった話を聞くこともあった。しかし、最下層に住む人にとっては、そんなものは夢のまた夢でしかない。生きていくために必要な、ささやかな夢。貧民街で育った人間を好んで妾にするような人は、まずいない。

 どうやら、『お妾さん』を狙うローザには、完全に敵と見なされてしまったらしいが、サラの立ち位置がよく分からない。むしろローザのすることを完全無視しているように見える。だからと言って、アンジェラに対し友好的に話しかけてくることもない。


「アンジェラ、マクレガー氏が呼んでいるわ。二階の書斎に行ってくれる?」


 サラの淡々とした命令に「はい」と答えたアンジェラは、庭掃除を中断し、パタパタと二階へ赴いた。

コンコンと書斎の扉をノックし、返事を待つ。


「どなたですか」

「アンジェラです。お呼びと伺いましたが」

「入りなさい」


 ロイの声音はやや厳しい。はて、何か失敗をしただろうか、とアンジェラはおそるおそる書斎へ足を踏み入れた。


「失礼します」


 アンジェラをじろりと睨んだロイは、「そこに座りなさい」とイスをすすめた。書斎にはロイ一人なのだろう。ウィルの気配はなかった。


「失礼とは思いましたが、あなたのことについて、アデッソー男爵家のメイド長に聞き取りを行いました」

「はい」


(……アデッソー男爵家のメイド長?)

 条件反射で返事をしてから気付いた。


「メイド長は、『アンジェラ』という名前の少女を知らないと、はっきり言っていましたが、これに対して、申し開きは?」


 アンジェラは、それはそうだ、と頷いた。あの邸で、自分の名前を知っている人間など、ただの一人もいないだろう。使い捨てのオモチャに名前を聞いて、どうする?


(でも、メイド長……?)


 よく男爵のところに来ていたのは執事だった。もしくは、護衛か何か、やたら体格のいい人。女性で偉そうな人などいただろうか?


「いいえ、ありません。あたしの知る限り、邸内のことで指揮をとっていたのは執事のガラ様でしたから」


 執事の名前ならよく覚えている。男爵があれやこれやと指図をするのは決まって、その人だったから。だが、メイド長がいたかどうか、アンジェラに知る術はない。これは、一つの賭けだった。


「……」


 ばっくんばっくんと脈打つ心臓を何とか静めようとしながら、アンジェラはロイの次の言葉を待つ。彼の濃い茶の目は、心中を悟らせず、ただこちらを見つめている。


「なるほど、つまり、執事ならば知っている、と」


 次は執事に聞き取り調査をするのか、とアンジェラの背筋に寒いものが走った。


「それは、分かりません。あたしはガラ様を知っていますが、ガラ様があたしを覚えているかどうかは、分かりませんから」


 取り繕いながら、アンジェラは、さっきのメイド長に関することが、正解だったのかどうかが知りたいと思った。メイド長などいたのだろうか、と。


「それも確かに。あのように広い邸では、全ての、使用人の家族構成までを覚えることは難しい。あなたは、そこで働いていた両親が亡くなるまでは、下働きに出なかったのでしょう?」


 断定口調に、アンジェラは素直に「はい」と頷いた。頷いてしまってから、これでよかったのか、と思い直したが、事前にウィルと行った口裏合わせとは矛盾していない。


「それならば、ファミリーネームで照会すれば良いでしょう」


 震えそうになる足を、何とか力でねじ伏せるので精一杯だった。

 ファミリーネーム=苗字という風習は、貧民街にはない。基本的に、貧民街の区画の名前を、外で働く時に名乗る。だが、そんなことは問題ではない。

 ファミリーネームを教えてしまえば、アンジェラがあの邸で正式に働いていないことは、すぐに調べがつくだろう。頭をフル回転させる。教えてはいけない。別の名前を名乗るのも危険だ。ならば、どうする?


「アンジェラ?」


 ロイの目に不審が宿ったのを見たとき、アンジェラは即座に腹を据えた。


「申し訳ありませんが、あたしはファミリーネームを名乗ることができません」

「……何故でしょう? 理由を教えてください」


 そんな質問が次に来ることは分かっている。でも、答えが浮かばない。こんな時、あのティオーテン公爵だったら、きっと、もっともらしく言ってのけるのだろうに……!


(そうだ、ティオーテン公爵様だったら?)


 あの人は、何でもない顔で嘘をつくし、ハッタリもかける。あの人だったら、どんな風に、この質問から逃げるのだろう?


「あたしは―――」


 アンジェラはぎゅっと拳を握る。


「あたしは、自分のファミリーネームを捨ててしまいましたから」

「捨てた……?」


 思ってもみない返答だったのだろう、ロイの目が驚きに揺れた。


「アデッソー男爵家は断絶、その使用人も罰を受けたと聞きました」


 アンジェラが思い浮かべるのは、自信たっぷりに大嘘をつく、ティオーテン公爵のあの表情。


「あたしのファミリーネームが知られてしまえば、他の使用人と同様に、罰を受けることがあるかもしれない。いいえ、それだけではなく、あたしを引き取って下さった、だんな様の名誉に傷がつくことになるかもしれません」


 ロイは、何も言わず、先をうながす。


「王都では、どんな些細な醜聞も命取りになるのだと、そう、ティオーテン公爵様に伺いました。あたしは、だんな様に雇っていただいた恩を、仇で返したくありません」


 そこまで言いきったところで、アンジェラは「あれ?」と首を傾げた。

 自分では、大嘘を言ったように思っていたが、後半は、全く嘘でもない。自分が貧民街の出自であることが知られれば、――アデッソー男爵家に勤めていたということ、と嘘をついたが――結局は、同じ事だ。

 そう気付いたら、すとん、と胸につかえていたものが、落ちた気がした。


「アンジェラ。あなたは、ウィルフレード様のことが好きですか?」

「はい。だんな様に雇っていただいて、本当に、幸せです」


 ついでに緊張感もどこかに落としてしまったのだろう。あっさりと、心のままに、ロイに自分の心情を吐露してしまったのだから。


「それは、夜のアレも含めて…?」

「あたしにとっては、昼・夜どちらも、あたしの主人です。マクレガー様は、夜のだんな様を、別人のように扱っていらっしゃいますが、あたしは、そうは思いません」


 その答えに、ロイは、目に見えて渋い顔をした。


「つまり、あなたは、ウィルフレード様が心の病だと……? だから昼と夜とで別の人格を持ってしまったと思うのですか?」


 心の病、その言葉を聞いて、アンジェラは少し、考えた。あの現象が『病』だなんて考えたこともなかったから。


「心の病かどうかは、あたしには分かりません。ただ、だんな様は、……その、うまく言えないかもしれませんが、そういう方なのだと思っています。昼と夜とで性格が変わってしまっても、それを全てまとめて、あたしを雇ってくれているだんな様なんです」


 アンジェラの言葉に、ロイはしばらく黙り込んだ。


(怒らせてしまった、のかな?)


 アンジェラはドキドキしながらロイの反応を待つ。言いたいことを言ってしまって、スッキリした気分もあるが、ここでロイを怒らせるのは得策ではないという意識もある。

 直に話すこともままならない現状で、ロイからいろいろ意見されたウィルが、アンジェラを放逐してしまわないとも限らない。だが、夜のウィルを「ウィルではない」と決めつけるロイの考えに、アンジェラは納得できなかった。


「……アンジェラ、あなたは危険な存在です。あなたと居ると、夜のアレが増長してしまいかねない」


 ロイは呟くように、そう告げた。


「ですが、現状では、ウィルフレード様の許可なしに、あなたを解雇することもできない」


 眉間に寄った皺を揉みほぐす仕草をして、赤毛の青年は目を伏せた。


「手切れ金を渡しましょう。それを持って、荷物をまとめて出て行きなさい。あなたがいては、ウィルフレード様は王都に戻ることはできません。あなたは、ウィルフレード様の未来を閉ざす害虫でしかない」


 アンジェラの、息が止まった。


「明日の朝、わたくしの所へ来なさい。手切れ金は言い値で支払いましょう。それから、次の職場の紹介状も差し上げます」


 立ち尽くしたままのアンジェラに「それでは」と声をかけ、ロイは書斎を出て行った。


(だんな様の、未来を閉ざす、害虫―――)


 どうすればいいか、なんて分からない。自分がいることが、邪魔になる、なんて。

 意図的にしなければ、止まってしまいそうな呼吸を何とか整え、少女は、ゆっくりと足を動かす。一刻も早く、書斎から出て行きたいのに、身体は思うように動いてくれない。

 なんとか廊下に出て、庭掃除の片付けをしないと、と考えて、階段を下りる。

 下りきったところで、何かに足をぶつけた。体勢も立て直せないまま、そのまま、両手両膝をつく。


「あら、長い足がごめんなさい」


 ローザの楽しげな声が、頭上から響いた。

立ち上がろうとしたところに、「いつまで這いつくばってるの?」とローザの足が脇腹に入る。身体がうまく動かないから、蹴られるがまま、仰向けになってしまった。


「なぁに? 張り合いがないじゃない? ……あら、指輪なんて持ってるの?」


 ローザの言葉に、慌てて起き上がろうとした。だが、一瞬早く、彼女の手が、アンジェラの首に下がった革紐を掴んだ。母の形見の、真鍮の指輪が、きらり、とローザの手の中で光った。


「シンプルだけど、趣味がいいじゃない? ウィルフレード様からいただいたの?」

「違います」


 上半身だけ起こしたアンジェラは、きっぱりと答えた。立とうにも、首にかけられた革紐を掴まれては思うように動けない。


「ふぅん? じゃ、あたしが貰ってもいいわよね」


 言うが早いか、ローザは革紐についた指輪を思いきり引っ張った。


「あぅっ……!」


 咳き込んだところを狙って、ローザは苦もなく革紐と、それに通された指輪を奪い取る。


「返してください、ローザさん」

「あら、よほど大事なの? こんなちんけな指輪が?」


 うふふ、と嗜虐的な笑みを浮かべると、ローザは玄関へ走る。アンジェラは何も考えずにそれを追った。

 ロイから言われた言葉が、まだぐるぐるとしている。でも、この邸を出るにしても、「お母さん」だけは取り返さないと。

 いつもは、どんな嫌がらせにも耐えるアンジェラが、むきになって追いかけてくる。それだけで、ローザは胸のすく思いだった。

 玄関を出たローザは、すぐさま「いい考え」を思いつき、邸の裏、厩舎の方へ駆けて行く。追って来るアンジェラには、どうもいつもの冷静さがないようで、本来なら、あっさりと追いつかれてもいいのに、それもない。


(何があったか知らないけど、丁度いいわ)


 納屋の横を通り過ぎ、風呂場の裏手まで来て、ローザは立ち止まった。さすがに、息が切れている。

 ここに、枯れ井戸があるのは知っていた。ここに「大事な指輪」を落としたら、いったいどんな顔をするだろう、そう考えると、ローザの胸がぞくぞくと暗い喜びに満ち溢れた。


(散々、人をコケにしてきた、これは仕返しよ)


 もちろん、アンジェラがローザに対してひどい仕打ちをしたわけではないのだが、ウィルとの親密度で上位に立っているだけで、ローザにとっては「コケにする」と同義だった。何度も足を引っ掛けたり、部屋を荒らし回ったりしたのに、何も言わずに耐えていることも、バカにされているように感じていたのだ。


「アンジェラ、欲しければ取ってくれば?」


 追いついたアンジェラの目に映ったのは、ローザが手にしたものを枯れ井戸に投げこむところだった。


「……っ!」


 慌てて枯れ井戸に駆け寄るが、中は薄暗く、枯れ葉が積もって、よく見えない。土が堆積して――もしくは意図的に埋められて――それほど深くないが、それでも、飛び込んで探せるほどでもなかった。


「あ、そろそろ夕食の支度に入らないとー。こんなところで、油を売っている場合じゃないわよねぇ、アンジェラ?」


 ローザが笑いながら去っていく。

 アンジェラは、枯れ井戸の底に目を凝らしながら、身体から力が抜けて行くのを感じていた。


「え、……と、大丈、夫?」


 しゃがみこんだ少女に、日に焼けた手が差し伸べられた。


「オリバーさん……」


 一部始終を見ていたのかは分からないが、いつも通り、自信のなさそうな表情のオリバーがいた。

 アンジェラは、ぎゅっと拳を握る。


「大丈夫ですよ。オリバーさんは、ファレスとセレンツの散歩から戻って来たところですか?」


 オリバーはこっくりと頷いた。


「ローザを、追いかけていた?」


 そういえば、厩舎の前を走って来たと、遅まきながら気付いた。見られていたのだろうか。


「ローザは、ひどい。マクレガーさんに言うのがいいと思う」


 珍しくたくさん話すオリバーに、アンジェラは首を横に振った。


「いいえ、あたしとローザさんのことですから。そんなに心配そうな顔しなくても、大丈夫ですよ。……そろそろ戻らないと、夕食の支度もしないといけないので」


 スカートについた土を払って、アンジェラはオリバーに「それじゃ、行きますね」と別れを告げた。

 黒髪の青年が心配そうに自分を見送っているのは感じていたが、アンジェラは振り返ることはしなかった。



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