02.主の心、客知らず
台所からお茶の用意一式を乗せたトレイを持ったアンジェラは、ロイの待つ応接間へと向かった。
ロイの好みが分からなかったので、トレイの上にはポットとカップの他に、香り付けのお酒の小瓶が乗っている。お茶に蒸留酒を入れるのは、アンジェラの知っている中では、夜のウィルとティオーテン公爵だった。昼のウィルは、よほど疲れている時しか、その飲み方をしない。
「失礼します」
ノックする→声をかける→返事を待つ→扉を開ける。それらの動作に間違いがないかどうか確認しつつ、アンジェラはそっと部屋に入る。
「マクレガー様。お茶に香り付けはいたしますか?」
「香り……? あぁ、結構です」
ロイはトレイに乗った蒸留酒を一瞥するなり、首を横に振った。
アンジェラは礼儀正しく返事をすると、自分を見つめる視線を感じながら、いつも以上に丁寧にお茶をいれる。
ややあって差し出された、赤みの強い褐色のお茶に、ロイは満足そうに目を細めた。
「色、香りともに申し分ありませんね。このお茶のいれ方はどなたから教わりました?」
「あたしの前に、こちらに勤めておりました、シビントン夫人から教えていただきました」
「以前、アデッソー男爵のところに勤めていたと聞きましたが、そこでは教わらなかったのですか?」
「はい、そこでは、まだ下働きでしたので、そういった作法などは、教えていただく前の段階でした」
間髪入れず、尋問に入ったロイに、これまた時間を置かずにすらすらと答えたアンジェラ。
正直なところ、アンジェラの心臓はバクバクと跳ね上がっていたのだが、表面上はそれを押し隠し、声も震わせずに何とか応対できた。緊張までは隠しきれなかったが、それはロイにとって予想の範囲内だったらしく、特に気にした様子もない。
「なるほど、それでは、現在のあなたの仕事ぶりは、全て、前任者に教わったものだと?」
はい、と言いかけたアンジェラだったが、すこし迷ってから「いいえ」と口にする。
「邸内の仕事については、確かに前任の夫人に教わりましたが、だんな様から直接教わったこともあります。その、……シビントン夫人は、あたしがこのお邸に来たときに、臨月の身でしたので、全てを教わる前に仕事を辞めてしまいましたから」
さすがに、邸内で出産したとは言えず、アンジェラは、口をもたつかせた。
「その話は聞いています。この邸で、あなたが赤子を取り上げたそうですね」
ロイの冷たい目線が「何やらかしてんだ」と突き刺さる。
「は、はい。おっしゃる通りです」
アンジェラは身を小さくして、「申し訳ありません」と謝る。
「ウィルフレード様が許可したことですから、謝っていただく必要はありません。……ところで、あなたは、それ以前に出産の手伝いをした経験があるのですか?」
どくん、とアンジェラの心臓が跳ね上がった。
アンジェラの周囲では、妊婦の家族や近所の人が、出産の手伝いをすることは当たり前だった。だが、市民階級はどうなのだろう? シビントンン夫人のときも、産婆さんが来た。そうだ、貧民街では、産婆を呼ぶ余裕もないのだ。だったら、手伝いというのは―――
「アンジェラ?」
「はい、……母親のお産に立ち合ったことがあります。雪で、なかなか産婆さんが来なくて、あたしと、母とで―――」
思いつくまま言葉を並べたところで、不覚にも、脳裏に母の顔が浮かんでしまった。
「末の弟、だったんですけど……」
喉に熱いものがこみあげる。息が詰まる。頭の中では、夏にあった二人の弟と、母の名前をもらった、見知らぬ妹が次々に泡のように浮かんで来た。今も首に下げている指輪と、飲み下した母の―――
「……っ」
まずい、と思う間もなく、両目に溢れた涙が、堰を越え、頬を流れ落ちた。
「すみま、せん……っ」
何とか謝罪を口にしたものの、自分の涙声に誘われ、さらに涙が溢れ出る。
アンジェラはかけっぱなしのエプロンで自分の両目を押さえた。
「こちらこそ、失礼しました。両親が亡くなっていることを失念していた、私の落ち度です」
アンジェラは、涙が止まるようにと、パチン、と自分の両頬を叩いた。
「いいえ、使用人を監督する立場の方ですから、当然のことです。あたしの方こそ、取り乱してしまって、申し訳ありませんでした」
アンジェラが予想以上に早く平静を取り戻したのを見てか、ロイは、やや驚いた表情を見せた。
「使用人を監督する立場、そう、ウィルフレード様が?」
「いいえ。……ですが、より主人に近い立場ならば、当然、そうなると思ったのですが」
答えながら、アンジェラは、昔、近所のお兄さんから聞いた話を思いだしていた。
貧民街では、主人の代わりに邸の中を取りしきる人を「キツネ」と呼んでいた。どこそこのキツネは、自分になびかない女に厳しいだの、人遣いが荒いだの。そういう噂は、貧民街に住む人間にとって、何より大切な情報だった。いかにして、不当な扱いを受けない勤め先を見つけるか、それだけが全てだったから。
「なるほど。つまり、あなたは、わたくしのことを『上役』と認識しているのですね。それならば、話は早い」
ロイは、ひた、とアンジェラを見据えた。
「夜のアレが、あなたの所へ訪問することがある、そう聞きました。やはり、それは、同じ二階に、あなたの部屋があるからいけないのだと思います。即刻、荷物をまとめて一階へ移りなさい」
命令することに慣れた声音に、アンジェラは無意識に「はい」と答えかけ、慌てて口を閉じた。
「だんな様が了承していらっしゃるなら、異存はありません」
(間違えたらいけない。きっと、ここが、あたしの位置を示す正念場)
アンジェラは、ぎゅっと拳を作った。
あたしは、自分の主人を間違えない。あたしの部屋がどうしてあそこにあるのか、それは、だんな様しか知らないことかもしれないから。
「なるほど、上役であっても、命令を聞けないということですか」
「……いいえ。あたしの部屋を決めたのはだんな様です。だんな様の了承なしに、雇われた身のあたしが判断することはできません」
ロイは、じっとアンジェラを見つめた。ここで引いてはいけないと、アンジェラも視線を外さない。
「確かに、この件については、あなたに理があるようですね。
では―――」
ロイは音もなく立ち上がり、足音を消してドアに近付く。そして、ドアを思いきり開けた!
ゴンッ
開け放つことはできなかった。その向こうで、頭を押さえてうずくまる、銀髪の長い髪の青年が見えた。
「盗み聞きとは感心しませんね、ウィルフレード様」
「ロイ、別に私は通りがかっただけで―――」
「足音を消して通りがかるとは、ウィルフレード様もなかなか良いご趣味のようですね」
アンジェラは呆然と二人のやりとりを見ていたが、自分の涙声を聞かれてしまったかもしれないと思い至り、顔を赤くした。
「ティオーテン公爵様の影響でしょうか。わたくしは、そのような真似をお教えした覚えはありませんが?」
「元からこうですよ。カークのせいではありません。……アンジェラ?」
ようやく、顔を真っ赤にしたアンジェラに気付いて、ウィルが声をかけた。
「ずっと、聞いていらしたんですか……?」
「え? あ、その、ですね。ほら、ロイがアンジェラをいじめないかと思って―――」
つまりは、最初からドアの向こうにいたのだと気付き、思わずアンジェラはしゃがみこんだ。
ひどい、とか思うより、恥ずかしくて穴を掘って閉じこもってしまいたい。
「あ、すみません。ですが、ロイも人が悪いですよ。その様子だと、私がいることを気付いていたのでしょう?」
「当たり前じゃないですか。何年、一緒に育ったと思っているんです?」
ただ一人、冷静なロイは、ゆっくりとソファに戻った。
アンジェラは、しゃがみこんだ体勢のまま、手の甲を自分でつねった。平静を取り戻せ、そう自分に怒鳴りつける。これ以上、無様をさらす気なのかと。
『どんな時でも、心は波立たせてはいけない。怒ったり、驚いたり、楽しいように振舞うことは大事だが、心までそれに引っ張られてはいけない。長く、その場所にいたいのなら』
貧民街の教えは、こんな時でも、自分を動かす。
アンジェラは、すっくと立ち上がった。
「だんな様。お茶を召し上がりますか?」
恥ずかしさの名残に耳だけは赤いままだったが、表情はいつものまま、アンジェラはウィルに問いかけた。
「あー、いいえ、結構です。すぐに部屋に戻りますから」
ウィルはくるりと背を向ける。
「お待ち下さい。ウィルフレード様。せっかくですから、どうしてアンジェラの部屋が二階のあの部屋にあるのか、その理由をお答えください」
ロイの声に、ウィルはしぶしぶと振り向いた。
「いいじゃないですか。別に。一階に誰もいませんし、二階を使っても―――」
「二階は主人の家族や賓客がお使いになられる場所です。使用人にそこを使われるとなると、品格におおいに問題があります」
「……ロイ。アンジェラについて、まだ、言ってませんでしたが」
ウィルは、ちらり、とアンジェラに目を向けた。アンジェラの顔が「まさか」とこわばる。
「私はアンジェラのことを、使用人とは思っていません。アンジェラは、私の娘なんです。娘であれば、二階の部屋を使うことに、何ら問題はないと思います」
「……ウィルフレード様。今、何とおっしゃいました?」
「アンジェラは、私の娘です。必要でしたら、いつでも養女として手続きを―――」
「とんでもありません!」
反対の声を上げたのは、ロイではなく、アンジェラ本人だった。
「だんな様。その件については、何度も、お断りしたはずです。あたしは、ここで、働かせていただけるだけで、本当に十分なんですから」
「しかし、アンジェラ……」
「ウィルフレード様」
いつになく硬質なロイの声に、ウィルの表情が固まる。
「本人の承諾なしに、娘扱いとは、あなたも偉くなったものですね」
「ロイ、落ちついて話しましょう。冷静に、平常心を持って、というのが、あなたの信条でしたよね」
「えぇ、この上もなく落ちついております。別に、心にまかせて、あなたを怒鳴りつけようとは思っておりません」
落ちついている、と自称するロイは、薄く笑みを浮かべているものの、目が笑っていないだけ、余計に恐い。
「ですが、嫌がる少女を無理強いするような方でいらっしゃるとは、夜のアレの影響ですか?」
「……えぇと、その、そういうわけではなく、純粋な気持ちで、ほら、一人でこの広い場所に住むのも寂しいかなぁ、と思うこともありまして」
「つまり、とっとと配偶者をお作りになればよろしいのです。妻ではなくとも愛人でも構わないでしょう」
淡々とひどいことを言うロイに、アンジェラが無意識に胸を押さえた。なんとなく、次にウィルの口を突いて出る言い訳が分かってしまった。
「そうですね、ロイの言う通りかもしれません。それでは、アンジェラは娘ではなく婚約者という形で―――」
ロイとアンジェラの非難の声が重なったのは言うまでもない。
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カマドの火を落とし、アンジェラはそっと台所を後にした。
結局、アンジェラの部屋は二階のまま、となった。何か理由があるようにも見えなかったが、ウィルが断固として譲らなかったためだ。少しでも譲歩を引きだそうと「他の使用人がいる間だけでも」と、ロイが食い下がっていたが、
「そんなことをしたら、アンジェラは二階に戻ろうとはしないでしょう」
とすっぱり断られた。確かに、命令されない限り、一階に居続けるだろうとは、アンジェラ自身も思う。
「でも、どうしてなんだろう?」
パタパタと階段を上がりながら、アンジェラはため息混じりに呟いた。
結局、二階に固執する理由は、分からないままだった。一階だから呼びつけるのに不便、ということはないんだろうけど。
自分の部屋に戻る前に、廊下の奥、ウィルの部屋の方に目を凝らせば、扉を細く開けて手招きする銀髪の青年が見えた。一つ手前の部屋で、ロイが寝泊まりしているのを知ってか、声を出すことはしない。
アンジェラは足音を忍ばせて、そっと手招きするウィルの所へ向かった。
扉の前まで来たアンジェラは、部屋を出ようともせず、部屋に入れようともしない彼に、ふと疑問を抱く。夜も更けた頃合だが、もしかして、まだ、昼のウィルのままなのだろうか?
部屋から身体半分乗り出していたウィルは、一歩、部屋へ引いた。アンジェラは扉の前に立ち、彼の代わりにドアを押さえた。
「……?」
ウィルは、じっとアンジェラを見つめる。そして、おもむろに口を開いた。
「頼みがある」
その口調に、夜のウィルであることを確認するアンジェラ。
「下から酒を持って来い。ロイに気付かれないように、な」
アンジェラは、ちらり、と隣の部屋を伺った。部屋に引っ込んだウィルからは、隣の扉など確認できないが―――
「あの、ウィルフレード様。確か、お部屋にいくつかあったと思いますが」
「それがよー。あのカタブツに没収されたんだよ。ひでぇよな?」
ひそひそと答えるものの、本当に落胆している様子が分かる。
「だから、適当に二、三本見繕ってくれりゃぁいい。な?」
「マクレガー様に、見つからないように、ですか?」
「そうそう。あ、もしかして、台所の酒の本数も数えてたりとかしねーだろーな?」
「あの、さすがに、それはありません。ですが、……できません」
アンジェラは目を伏せた。
「できない? おいおい、オレの命令でもダメってことか?」
剣呑な声音に、アンジェラは身をすくませた。だが、それでも、返事は同じだった。
「申し訳ありません、ウィルフレード様」
そのとき、アンジェラの後ろから、ぬっと現れた赤毛の男に、ウィルが「げっ」と悲鳴をあげた。
「何をなさっているのですか? このろくでなしの悪タレは!」
昼とは違う迫力に、アンジェラは目を丸くした。あの至極真面目で丁寧な口調のロイから、「ろくでなし」「悪タレ」という言葉が飛び出そうとは思ってもみなかった。
「いい加減に、夜のウィルフレード様の身体を使うのはやめるように申し上げたはずです」
「あぁん? むしろ昼の方がオレの身体を使ってんだよ。ちったぁ人の話を聞けや。頭の固い奴ほどボケやすいぜ?」
「いらぬ心配は結構です。だいたい、夜中にいたいけな少女を引き込もうとするなどと、恥を知りなさい」
「引き込もうとしてねーよ。お前が酒を隠すから、アンジェラに持って来てもらおうと思っただけだろうが!」
まさに自分を挟んで行われる口撃に、アンジェラは身をすくませつつ、流れを見守った。
「そもそも、あなたさえいなければ、ウィルフレード様が中央を退かれることもなかったのです」
「はん。寝言はベッドに引っ込んでから言えよ。元々、あいつは中央で心を削るのがイヤだっただけだ」
「確かにお優しいところはあるが、それは中央を退いた理由になりません。あなたのことを、兄君に脅されたのが直接の原因に決まっています」
「黙れ、崇拝しかできねぇコバンザメ」
「節度を忘れた人間の言うことですか」
剣呑な声音に、おろおろするアンジェラだったが、ウィルだけならともかく、ロイまでも止める術を知らず、二人に挟まれたまま、じっと耐えていた。
そうしているうちに、話はどんどん低レベルにエスカレートしていく。もはや、自己主張ではなく、単なる悪口の言い合いになっていた。
「いいかげんにしやがれ、この物差し男!」
「ウィルフレード様に巣食う寄生虫が、口を慎みなさい!」
先に、困りきったアンジェラの様子に気が付いたのは、ウィルの方だった。
「おい、寝るぞ。こんな奴に構ってるヒマなんてねぇよ」
言うが早いか、立ちつくすアンジェラの腕を引っ張り、自分の部屋へと引き込んだ。
それを止めようとするロイの目の前で、扉はバタンと閉められる。
「まっさか、主人の部屋に許可なく入るような礼儀なしじゃねぇよな?」
部屋の中で、アンジェラを抱きしめながら、ウィルが勝利宣言する。
ロイは、しばらく迷っていたようだったが、アンジェラに逃げてくるように声をかけた。
「逃げるわけねーじゃん。こいつはオレの味方だもんなー?」
耳元で得意げに勝利宣言するウィルの声に、あからさまに頷くわけにもいかず、アンジェラは目を伏せた。だが、すぐに気持ちを切り換え、口を開く。
「あたしのことは、気にせずお休み下さい、マクレガー様。明日から、いろいろお仕事があると伺ってますし、どうか、身体をお休めになって下さい」
「そうそう、苦手な馬に乗って来たんだろ? 休め休め」
扉の向こうから、返事はなかったが、しばらくして、遠ざかる足音が聞こえた。
「なんだ、諦めたのか」
呟いたウィルフレードの表情に、アンジェラは首を傾げた。こんな表情には、覚えがあるような?
「あの、お酒は……?」
「あぁ、別にいーや。何かしらけちまったしな。ほれ、部屋に戻れ」
「戻っても、よろしいのですか?」
「あぁ、ロイや他の奴らがいるときは、お前を連れ込まねぇようにってな。ま、寂しいけど、仕方ねぇだろ」
「はぁ……」
昼のウィルの警告を受け入れるということは、よほど問題なのだろうか、とアンジェラは曖昧に返事をする。たぶん、明日来るという手伝いの人達が帰った先で、あらぬ噂を立てられるのを避けるんだろう。そう思いついて、アンジェラはぺこり、と一礼して部屋を出た。
そして、廊下を歩いている途中、ロイが諦めた時のあの表情に、ひらめくものがあった。
(あれは、残念そうな顔……。もう少し、遊んでもらいたかったのかな?)




