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ひとつの空にあるように  作者: 長野 雪
少し不自然な里帰り
24/57

03.あの頃の自分と手をつないで

「ちょっと失礼するよ」


 その男が、大小の服がひしめくこの店に入って来たのは、朝も早い時分だった。焦茶色の髪に青灰色の瞳をした、高貴な身なりのその男は、応対に出た若い彼女ではなく、誰かを探しているようだった。

 彼の後ろには長い銀髪を一つにまとめた、これまた高貴な香りのする男と、すっぽりと薄手の布で全身を隠した―――背丈からすれば子供がいた。


「えぇっと、ティオーテン様、だっけ? 母さんは今、奥で繕い物してるけど、話なら聞いてますから」


 若い店員――ミルフィナは三人を飲み物の置いてあるテーブルへ案内すると、奥から包みを取り出して来た。


「これが注文の品。とりあえず、コンセプトは逃げた奴隷どれい、ってことだったけど、寸法がはっきりしないから調整が必要なの。それからこっちは、よくある古着、二着あるからもう一人の―――あれ、領主様じゃん」


 ようやくもう一人の素性に気付いたミルフィナは、小さく首を傾げた。だが、すぐに説明に戻る。


「できるだけ貧民街スラムに入ってもバレないような、趣味の悪い服を選んでおいたから、とりあえず着てみて判断してちょうだい。―――あ、母さん」


 奥から出て来た、恰幅のいい中年のおばさんに気付いたミルフィナは、くるりと振り向いて声をかけた。


「あーあ、ほんとに、何考えてんだかね、ティオーテン様は」


 少し機嫌悪そうに出て来たこの店の主人――ミーナに、カークが微笑みかけた。


「君のこともちゃんと考えてるよ、ミーナ。……さて、この子を飾りつけてくれるかな」


 促され、全身をすっぽりと布で覆った子供が、おずおずと前に出た。


「あの、お久しぶりです」


 赤茶の色が濃い金髪に、少し焦点の合わない黒の瞳、ややこけた頬と身体中の傷に、ミーナは眉間にしわを寄せた。


「こりゃ、派手にやったもんだね。ミルフィナ、そっちの二人は頼んだよ」


 娘の返事を聞く間も惜しんで、ミーナは彼女のために用意したぼろ布を取り出した。


「こないだ店に来た、奴隷上がりの子のお古なんだけどね、……あぁ、寸法は問題なしか」


 着ていたサマードレスの上に、ぼろ布をあてたミーナに、アンジェラは服を脱ぐのかと質問したが、彼女はふるふると首を振った。


「着替えるのはあっちでね」


 指で示された先には、カーテンで区切られた個室がある。そこで着替えろというのだろう。

 カーテンの中に入り、アンジェラはえいや、とサマードレスを脱いだ。傷がこすれて痛かったが、この二日間、それはずっと付きまとっていたものだったので、別に気にすることもなかった。


「ちょっと固い生地だから、傷に触れると痛いかもしれないよ」


 ミーナの言葉通り、確かにあちこちで塞がったばかりの傷が悲鳴を上げた。だが、それもすぐに慣れてしまう。


「あたしが言うのもなんだけどね、あんた、本当にいいのかい?」

「はい、自分で決めたことですから」


 アンジェラは、小さな声で答えた。


「……まったく、領主様の苦労が分かるね。貧民街に行く前に、とっておきの飲み物あげるから、飲んでいきなよ。まさか、直前でも食を拒む必要はないだろ?」

「あ、それもそうです。でも、そこまで甘えてしまうわけには」

「おバカさんだねぇ。そんな空腹で限界の状態で、うまく頭が回るわけないだろ? それでも心苦しいなんて言うなら、飲み物の代金をティオーテン様にツケてやるから、飲んでおいき」


 ミーナは乱暴に言い捨てると、アンジェラから一歩離れて出来具合を見た。

 ぴしり、と後ろで結わえられた黄金色の髪に、白い肌。身に付けたばかりのボロの服は少し丈が長かったが、そこから伸びる四肢に見える痛々しい傷跡が全てを物語り、そこにちぐはぐな印象はない。


「う~ん、やっぱり、ちょっと肌が浮くねぇ」

「それなら、外でゴロゴロ転がって、土をつけてくればいいですよね。あと、髪ももっと乱さないと」

「うん、自分で分かってるなら大丈夫だね」


 ミーナはひとつ頷くと、アンジェラの頭に手を置いた。


「あ、あの、お聞きしたいことがあるんですけれど」

「なんだい?」

木幣もくへいを事前に持っておきたいんですが、どこか貧民街の外で扱ってますか?」

「……モクヘイ? 聞いたことないねぇ。なんだい、それ。―――あぁ、そうだね、こっちの事はミルフィナに聞いた方が早い」


 ミーナはカーテンを開け、ウィルとカークに付いていたミルフィナを呼びだした。

 自分はその代わりに、着替えの終えた二人の方へ向かう。


「……ティオーテン様、本当にやるのかい?」


 アンジェラに聞こえないように低い声で尋ねると、「もちろん」、と返事が戻って来た。


「そりゃ、その服なら大丈夫だと思うけどね、中でバレたらどうなるかは知らないよ」

「だから、ちゃんと短剣を隠し持ってるじゃないか。なに、別に興味だけで行くわけでもないしね。万が一アンジェラちゃんにもしものことがあったら、僕が殺される気もするし。……ねぇ、ウィル」

「お望みとあれば、殺して差し上げますよ」


 あっさりと物騒な肯定をされ、カークは肩をすくめた。隣の親友は、さっきからアンジェラの方へちらちらと向けられている。その目は「いつの間にあんなに傷を」と語っていた。


「おっと、忘れてた。アレをあの子に渡さないと」


 ミーナは「ちょいと失礼」と二人を置いて店の奥へ引っ込んだ。

 と、入れ替わるように、アンジェラと何か話していたミルフィナが、二人の方へパタパタと駆け寄ってくる。


「ねぇ、ティオーテン様に領主様。今の手持ちどのくらいある?」

「あ、あの、結構ですから、ミルフィナさん!」

 アンジェラが慌ててしがみつくのも構わず、ミルフィナが二人の返答をくりくりと輝く目で待った。


「どれくらいを期待してるのかな。銅貨? 銀貨? それとも金貨?」

「やだ、銀貨で十分よぉ。銅貨でもいいけど。……だって、アンジェラったら、これっぽっちしか持って行かないなんて言うんだもん」


「ですから、隠せるギリギリなんです!」

 慌ててミルフィナを止めようとするも、体格差と、アンジェラの調子が悪いこともあるのだろう、ミルフィナはビクともしなかった。


「うそつきはダメよ? もっと簡単な方法があるの知ってるくせに」


 アンジェラは、ぐっと言葉に詰まり、即座には否定しなかった。


「そうなのですか、アンジェラ?」


 ウィルに声をかけられ、アンジェラは顔を上げられずにうつむいた。


「貧民街じゃ常套手段よぉ。『たすき銭』って言ってね、銅貨を積み上げたものを、こう布でくるくるって巻いて、服の下にぶらさげるの。コイン同士がぶつかる音も小さくなるし、大金をこっそり運ぶときはコレでしょ?」


 ミルフィナの説明に、好奇心も露わに「ふんふん」と頷くカークとは対照的に、ウィルはアンジェラの方を見つめていた。


「アンジェラ、どうして教えてくれなかったんですか?」

「おいおい、そりゃ違うよウィル。元はと言えば、キミが、今回の手当ては実家に置いてくるようにって言ったからじゃないか。隠せる金額が多いなら、それだけキミの損失が多いって、そう判断したんだろ?」

「ほらほら、そこで小さい子いじめてないの。ほら、さっき言ってた飲み物だよ。代金はきっちりティオーテン様にツケておくから安心しな」


 まったく聞いてない展開にも、カークは眉ひとつ動かさずにこう口にした。


「ちなみに、それっていくら?」

「さてね、お気持ち次第だよ」



.。:*·˚+.。:*·˚+.。:*·˚+.



「モクヘイ? なんだい、それって?」


 金髪のボサボサの頭の少女を荷台に乗せ、男二人は御者台に腰掛け、馬を走らせていた。

 話題となったのは、ミーナも首を傾げていた『木幣もくへい』についてだった。


「あの、この国の通貨の最小単位は、その、銅貨一枚ですよね」

「うん、銅貨一枚一フィオルだもんね」

「貧民街での取引は、一フィオルじゃやっていけないんです。高価過ぎて。ですから、一フィオルの十分の一が木幣という形で流通しているんです。でも、ミルフィナさんの出身地では、木ではなくて貝貨べいかを使っていたみたいなんです。ですから、貧民街の外縁でそれを手に入れないと」

「でも、結局は買い物する必要もないから、無理に手に入れる必要はないんじゃないの?」

「いいえ、怪しまれたときに、これを見せる必要があるんです」


 きっぱりとアンジェラは答えた。

 ミーナの特製ドリンクを飲んでから、アンジェラの目にはしっかりとした光が戻って来ていた。どこか緩慢だった動作や受け答えもハキハキとするようになったのを見て、一番胸を撫で下ろしたのは他でもないウィルだった。


「ふーん。だったら、木幣を手に入れるのに、何か特別なことでもするの?」

「いいえ。お店で一フィオル未満のものを買うだけです。だいたい『釣りは出ないから別のも買って』と言われるんですけど、そこで、釣りは木幣でいい、と言えば、問題なく手に入ります」


 アンジェラの丁寧な説明に、カークは何度も頷いた。


「で、実際、君のところの木幣ってどんな感じのなの?」

「木を丸く削ったもので、大きさと形は銅貨と大差ないんです。素材が違うだけで。誰がどうやって作っているのかは知らないんですけど、―――あ」


 荷台のアンジェラは、何かを見つけて言葉を切った。その視線は、幌の外に向けられている。


「何かありましたか?」

「……はい、奴隷市が建っていた場所です。あ、もちろん、今は何もありませんよ?」


 慌てて答えたアンジェラに、カークが「建ってたら、ウィルが乗り込んで行っちゃうよね」と茶化す。


「別に、準備も整わないまま出て行くほど、愚かではありませんよ」


 手綱を握るウィルは、目の前の景色に目を凝らした。その先に小さな建物がひしめきあった地区が見えてくる。


「あぁ、見えて来たね。……アンジェラちゃん、用意はいいかい?」

「……はい」


 アンジェラは緊張した面持ちで、羽織っていた布を取り去った。湿気を含んだ風に、傷だらけの手足がさらされる。


「あの、やっぱり、たすき銭は―――」

「はいはい、何言ってんの。ちゃんと外から見ても分からないって、ミルフィナにも太鼓判押されたんだから」

「……はぁ」


 曖昧な返事をしたアンジェラに、ウィルが手綱をきゅっと引っ張って馬を止めた。


「では、私達はここで待っていますから、頑張って来てくださいね」

「僕達は、あくまで通りすがりにキミを乗せた一般市民だからね」


 二人の声を背中に受け、アンジェラはひょいっと荷台から降りた。素足がしっかりと石だらけの地面を掴む。その久しぶりの痛みに、かつての自分が今ここにいるような錯覚を覚えた。


「はい、……ここまで乗せていただいて、ありがとうございました」


 ぺこり、と頭を下げると、彼女は目の前に広がる貧民街へ駆けて行った。


「……さて、僕らも移動するよ」

「分かっています」


 カークは貧民街近くでずっと待機していた部下に合図を送る。すると、すぐさま赤毛の青年が駆けより、ウィルから手綱を引き取った。


「さて、尾行ゲームと行こうじゃないか」


 カークは、人の悪い笑みを浮かべて、ゆっくりと貧民街に向かって歩き出した。



.。:*·˚+.。:*·˚+.。:*·˚+.



 さて、そんな二人のことなど露知らず、アンジェラは小走りで一番近い店まで駆けて行った。


 ざっと露店に並べられた商品に目を通すと、一番値段の安かったリボン――とは名ばかりの布の切れ端に狙いを定めた。


(思いだせばいい、昔の自分を)


 心に言い聞かせ、口を開いた。


「おいちゃん、それ買うよ。一つね」

「おいおい、値段ちゃんと見ろよ、嬢ちゃん。五つで一フィオルってあんだろ? それともお釣りはとっとけ、ってか?」


 油断なくアンジェラを見ながら、ヒゲの店主がリボンを五つ、つまんで見せた。


「釣りはちゃんとちょうだいよ。木幣でいいから」

「……あんた、出戻りかい?」

「他に何に見えるっていうのさ。そっちの方が聞きたいね」


 もちろん、店主には分かっていた。だが、貧民街の外縁に店を構えている彼には、外からのスパイを判断する見張りのような仕事も持っている。貧民街には貧民街のルールがあり、自然とここを牛耳る者たちが治安維持のために配下をあちこちに紛れ込ませているのだ。


「へー、そんで、どこまで入るんだ? 二番か? 三番か?」

「実家は五番にあるよ。……なんだい、そこまで警戒するんだ?」


 物怖じせずにアンジェラがすらすらと答えたとき、グ~……っと情けない音が響いた。


「あぁ、今ので、逃げてきたってよく分かったよ。ほらよ、リボンに釣りだ」


 決まりの悪そうな顔をしたアンジェラに、ヒゲ店主は笑みさえ浮かべてリボンと木幣を渡す。アンジェラはそれと引き換えに、銅貨を一枚渡した。


(そっか、さっき飲み物口にしたから、鳴るんだよね、お腹)


 アンジェラは、ポケットに手を突っ込んで、穴が開いていないことを確認すると、そこに釣り銭を突っ込んだ。そして、リボンでボサボサの髪をきゅっと束ねる。その拍子に髪についていた泥が、パラパラと落ちた。


「ありがとね、おいちゃん」


 アンジェラは、手を振ると、貧民街の中へ駆けだした。


「ほら、追うよ、ウィル」

「分かってますよ。……それにしても」


 アンジェラを追って、大股で歩き始めた二人の青年は、小さな声で会話を続ける。


「あんな言葉遣いもできるんですね。ちょっと驚きました」

「僕は、アンジェラちゃんの為とはいえ、そんな格好のキミの方が驚くけどね」


 カークは、その見事な銀髪をボサボサと乱した友人に、そう声をかけた。


「アンジェラの為です。このぐらいは、どうということは―――」

「うわ、愛だね、愛。ほら、曲がった」


 アンジェラの金の髪は迷うことなく、入り組んだ路地を突き進んで行く。

 横道に入るたび、奥へ進むたびに、力なく地面に座り込んでいる人が多くなり、生ゴミの腐ったようなすっぱい臭いが鼻につくようになっていった。

 その中を、駆けるのをやめて、注意深く歩く、赤茶けた金髪の少女。そして彼女に気付かれないように、これまた注意深く尾行する、二人の青年。

 無気力な雰囲気漂う町を、誰にも見咎められることもなく、三人は奥へ奥へと進んで行った。


 尾行に気付かず先を進んでいたアンジェラは、歩きなれた界隈に入ると、ぴたり、と足を止めた。

 二年前と変わらない路地。だが、そこに行き交う人々は、ほんの少し変わっている。


(あたりまえ、か)


 アンジェラは、大きく息を吐くと、再び歩き始めた。向かう先は決まっていた。自分の家から五軒隣にある、『将軍』の家だ。先に寄ってしまえば、自分の家に帰ることもなく、今、服の下に肩から下げている大金・・も、円満に主人に返すことができる。


(ウチの誰かに会っちゃったら、ぜったい、全部あげちゃうから)


 考えながら目的の場所に着いたとき、アンジェラの足が止まった。目的の家はちゃんとある。そりゃぁ、今の主人が見たら納屋ぐらいのものでしかないかもしれなかったが、ちゃんとあった。だが、今そこに入って行ったのは、彼女が知らない男だった。


「アン? もしかして、アンかい?」


 唐突に名前を呼ばれ、アンジェラは後ろを振り向いた。視界の端で何か動いたような気がしたが、目の前にいた懐かしい人物に、それを警戒する気もどこかへすっとんでしまう。


「カノおばさん!」


 苦もなく口にした名前に、相手の女性――黒髪の(ほが)らかな顔つきのおばさんが、にっこりと笑みを浮かべた。


「まぁまぁ、なんだい、そのかっこう。逃げて来たのかい?」

「うん、まぁ、そんな感じ。久しぶりに戻って来たから、やっぱ変わってるな、って思って」

「そうだねぇ。出て行ったのはいつだっけ? 二年ぐらいは経っているかねぇ?」

「そのぐらい、かな。ね、そこって、おじいさんと孫で住んでなかったっけ?」


 アンジェラの指した先を見て、カノおばさんが哀しそうに首を振った。


「もう少し奥に流れて行ったよ。……あぁ、やだねぇ、ホント。いいコだったのにねぇ」

「……明日は我が身ってね。あたしも、帰った所で食い扶持増やすだけだから、たぶん、またすぐに出てっちゃうだろうし」


 アンジェラの言葉に、カノおばさんの目が潤む。


「ホントにねぇ。あんたみたいに戻れても、すぐに出て行っちまうのね。……そうだ、家には帰ったのかい?」

「うぅん、まだ。ちょっと恐いんだけどね」

「あぁ、そうだねぇ。でも、セイルもアインも昨日見たときゃ元気だったよ。今の時間は家にいるはずさ」

「ほんと? よかった。……うん、それじゃ、行くね」


 弟二人の名前を聞いて、心の底から胸を撫で下ろしたアンジェラは、カノおばさんに別れを告げると、先へと歩き出した。そして、自分の家の前で立ち止まる。戸口でボロ布が覆われているため中は見えないが、弟がいるはずだった。背中を汗が伝い落ちるのは、たぶんこの蒸し暑さのせいだけではないのだろう。

 アンジェラは、一歩踏み出し、そっとボロ布をつまんだ。


「ちょっと、ごめんくださ……」


 中を覗いた瞬間、懐かしさと不安と安堵が入り混じり、アンジェラの瞳から、透明な液体がぽろり、とこぼれ落ちた。


「あれ、姉ちゃん! アン姉ちゃんか?」


 家の真ん中で、幼い子供たちと遊んでいた少年が、慌てて駆け寄ってくる。アンジェラと同じ金茶の髪に紫混じりの黒の瞳。


「あは、ひさしぶり、セイル。元気みたいでよかったわ」


 涙を拭い、駆け寄って来た弟をぎゅっと抱きしめたアンジェラの目から、また涙がこぼれる。


「いってぇ、姉ちゃん、なに巻いてんだよ。お腹のあたり、すげぇ固ぇぞ?」


 弟の抗議に、アンジェラは慌てて体を離した。


「ごめん、忘れてた。ちょっと、隠すの手伝ってくれる?」


 アンジェラは部屋の中に入り、肩の結び目を服の上からほどいた。


「うわ、これ、もしかして」


 アンジェラは久しぶりのもう一人の弟が、見知らぬ赤ん坊をかばうように自分を警戒しているのを見て、ちょっと哀しそうに笑った。


「んー、アインはさすがに覚えてないかな。アン姉ちゃんだよ」


 言い聞かせるセイルに、アンジェラは、固いものを巻いていた布をゆっくりと、音が洩れないように取り去った。そこに並べられているのは、たぶん、ここいらに住む人が喉から手が出るほど欲しがるようなもの。


「うわ、すっげー。これ、いくらあんだよ」

「しっ。あんまり大きな声はダメ。セイル。とりあえず、隠せるだけ隠そう。アインも手伝って」


 アンジェラの指示の元、銅貨を敷物の下、棚の裏、壷の下に隠す。はては敷物をめくった地面にまで埋めこんだところで、ようやく残り十枚になった。


「一枚ずつ、口止め料ね。父さん母さんには、話しちゃダメよ?」

「うん、分かってる。だって、親に渡したらいけないんだもんな、アイン」

「うん、あ《・》たしたらいけないもんな、兄ちゃ」


 兄弟はお互いに、うん、と頷き合う。


「でも、姉ちゃん。八枚だけでいいのか? だって、これから戻るんだろ? 外は八枚ぽっちじゃ―――」

「うん、あたしは大丈夫。……っと、そうだ。五軒隣にいた、じいさん、どこに引っ越したか知らない?」

「あぁ、あのじーちゃんな。ちょっと奥の方にいったけど、まだまだ近いよ。時々、顔見せに行ってるぜ」


 セイルの答えに、アンジェラはほっと胸を撫で下ろした。


「そのじいさんに、会いに来たの。もしかしたら、あのじいさんを、救い上げられるかもしれない」

「姉ちゃん。まさか―――」


 セイルの言葉に、アンジェラは哀しそうな笑みを浮かべた。


「そのまさか。あたしはその為に戻って来たの」

「……っ、何でだよ。だって、そんなに傷つくって、今の主人もひでぇヤツなんだろ?」


 アンジェラは、少し困った顔を見せると、明言を避けた。


「案内してくれる? セイル」

「……じいちゃん次第で、すぐに戻っちまうんだ?」

「そうよ。だって、食い扶持を増やすわけにはいかないじゃない。……いま隠したお金も、そんなことのために使っちゃいけない。あたしは、あたしの味わった地獄を、セイルにもアインにも味わわせたくないの」


 アンジェラは、そこまで呟くと、「あ、そうだ」と声音を意図的に明るく変えて、キョロキョロと室内を見渡した。

「あたしの帯って、売っちゃった?」

「まだ、あるよ。そこの箱の中に」

「ちょっと借りて行っていいかな。ほら、これ入れる場所がなくってさ」


 返事も聞かず、アンジェラはセイルに指差された箱から長い帯を取り出した。元はきれいなオレンジ色の生地だったのだろうが、日に焼け、洗い晒されて見る影もなくなっている。

 アンジェラは帯をきゅっと締めると、そこに銅貨八枚と釣りでもらった割符木幣を挟み込んだ。ここに住んでいた頃は、ずっと使っていたものだった。


「さて、と、案内するわよね、セイル?」


 アンジェラはアインを赤ん坊ごと抱き上げると、にっこりと微笑んだ。


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