01.夏の訪問者
昼過ぎのこと、いつもの仕事を終え、書斎で読む本を探していたアンジェラは、こてりと首を傾げた。伸びた金髪がさらりと流れる。
「これ、見取り図……?」
広げた巻紙に書かれているものが、この邸の平面図と知って、じっと眺めていたのだが、それはアンジェラの知るこの邸の2倍ぐらいの広さがあった。
眺めては首を傾げ、見つめては首をひねり、とやっていたアンジェラの耳にドアが開かれる音が届く。
「アンジェラ、またここに居たんですね」
「はい、だんな様」
慌てて立ち上がるアンジェラを、主であるウィルは片手で制した。貴族である彼は、そんな仕草ひとつとっても優美で、アンジェラはいつもすごいなぁ、とこっそり感心していた。
「おや、珍しいものを見ていますね」
「あの、だんな様。伺ってもよろしいでしょうか」
アンジェラは、ウィルが頷いたのを確認すると、広げていた平面図を指差した。
「この見取り図は、その、あたしの知っているお邸よりもずっと広いのですけれど」
「……おや、話していませんでしたか? この邸は人も少ないので、一部をタペストリーで通路を覆って閉鎖しているのですよ」
なるほど、とアンジェラは納得した。
(……ということは、あの通路の先と、この通路の先がまだある、ということなのかな?)
「あの、閉鎖している場所の掃除とかはしなくてもよいのでしょうか?」
「まだ構いませんよ。秋になれば、少し人手もできるので、その時にでも―――」
カランカラン、と呼び鈴が鳴るのを聞いて、ウィルが言葉を止めた。アンジェラも平面図を畳むと「すみません、失礼します」と図面を棚に戻したその足で玄関へと急いだ。
残されたウィルはパタパタと遠ざかる足音を聞きながら、果たして今日は来客の予定などあったか、と首をひねっていた。
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ここゲインチェニーク国も夏を迎え、日増しに気温は上がってきていた。
花祭から三か月、アンジェラは三日に一度、町の人々と交流をはかることになり、イザベラ達と顔を合わせていた。ダンスを教えるという目的がなくなってしまったが、その代わりに、アンジェラは野草詰みや魚釣り、果てはピクルス作りを含む料理全般を教わり、そのスキルは日に日に向上していった。
もちろん、アンジェラが一方的に教わるわけではなく、他に雇用人のいない領主の使いとして、畑仕事を手伝うこともあった。もちろん、力仕事ではなく、それをサポートする役柄である。そんな遣り取りを通じて、ふもとの町に住む人々は、その大半が農地を持つ者で占められていることを、アンジェラは改めて実感させられた。
そして、町の人達との会話で知ったことなのだが、ウィルの持っている領地はここ以外にもあって、この地に隠居しつつも別の領地については管理を委託しているらしい。その委託されている人物が、秋の地代取り立ての時期になると、毎年邸に訪れているということだった。
どんな人なんだろうか、と思って話題を振ってみたところ、ウィルは微妙に顔を曇らせた。どうやら苦手な人物のようで、あまり触れたくはないらしい。
(まさか、その人じゃない、よね)
アンジェラはパタパタと玄関を出ると、門扉を開いた。
「や、元気だった?」
馬の手綱を片手に気さくに手を上げて挨拶してきたのは、焦げ茶色の髪に青灰色の瞳をした少し背の高い男性だった。身につけているのは、貴族にしか手の届かないような総シルクのシャツで、その指にはめられた家紋付きの指輪を見ても、馬につけられた鞍を見ても、高貴な雰囲気を醸し出していた。
半年ぶりの青年の登場に、アンジェラはなんとか動揺を抑えてその名を口にした。
「あの、ティオーテン公爵、様?」
「おや、ちゃんと名前を憶えていてくれたんだね。……んー、それにしても、ちょっと見ない間に変わった? 青いサマードレスも素敵だけど、何より表情がね。このまま攫って行きたくなっちゃうな」
「あの、お戯れはおやめください」
「そだね。こう暑いとね、やんなっちゃうよね。……あぁ、そこのキミは何か用かい?」
ティオーテン公爵――カークが振り向いた先には、ロバからおりたばかりのペリーが立っていた。
「ペリーさん。……あの、郵便配達の方です」
「あぁ、なるほど。もしかしたら、そこに速達の手紙があるんじゃないかな。差出人がティオーテンとなっているものはあるかい?」
ペリーは明らかに身分の高そうなカークを相手い、恐縮しつつも封書の束を取り出した。カークがそれに手を伸ばそうと動くのを見て、アンジェラは一歩踏み出してペリーからそれを受け取る。たとえ自分よりもずっと身分の高い人間相手でも、手紙は主人のプライバシーに関わることだ。情報を洩らすわけにはいかない。
「確かにいただきました。いつもご苦労様です」
木札に受け取りのサインをすると、アンジェラはにっこりと微笑んでペリーを見送る。そして、その笑顔を張り付けたままで馬と共に待たせていた客人に振り返った。
「ただいま、旦那様にお取次ぎいたしますので、中でお待ちください」
完全に応対スイッチの入ったアンジェラに、彼はやや驚いた様子だったが、すぐに頷いた。
「うん、いいけど、取り次ぐ必要はないかな。――――ねぇ、ウィル?」
「……カーク、どうして貴方が、今、ここにいるんですか?」
傍まで来ていた主人の姿に、アンジェラは小さく驚いたが、すぐさま先ほど受け取ったばかりの封書を渡す。その差出人にざっと目を通したウィルは、誰の目にも明らかに大げさに息を落とした。
「速達と一緒に到着するのは、貴方ぐらいのものですよ」
「そう言いながらも、追い返す気はないんだろう? ……あぁ、馬よろしくね、アンジェラ。応接間にいるから、冷たいお茶とか欲しいな」
手綱を渡され、顔のすぐ近くに白い大きな馬の顔が迫ってきた。アンジェラはちらりとウィルの方を窺ってみる。どうやらカークの言う通りに動いた方がよさそうに見えた。
「わかりました。お預かりいたします」
ぺこりと二人に頭を下げ、アンジェラはウィルのものよりも毛並みの良い馬に見惚れながら、厩舎の方へ歩き出した。馬の方もやはり賢いのか、抵抗もなくアンジェラに付いて来る。
その姿を見送ってから、ウィルは小さく低い声で尋ねた。
「それで、いったい何の用ですか、カーク」
「やだなぁ、暑いんだから、中に入れてくれたっていいじゃない。キミ、ちょっと頑固になり過ぎだよ」
軽く笑いを浮かべるカークに、ウィルは先ほど受け取ったばかりの速達を小さく掲げた。
「元々、この速達と同時か、それよりも早く来る予定だったんでしょうに。……でなければ、誰が空の封書など送るというんですか?」
「いやぁ、こんな僻地にいても、見るところはちゃんと見てるんだねぇ。やっぱり、爵位返上は早計だったんじゃない?」
「カーク、それを言うと怒りますよ」
「はいはい。ここへ来た理由は話せば長いんだ。アンジェラも交えて三人で、ね」
含みのあるセリフを吐くと、カークはウィルの肩に手をかけて、門の中へ強引に押し入った。
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「お待たせ致しました」
アンジェラが室で冷やしていたお茶を持ってきたとき、応接間にはイヤな空気が漂っていた。
(なんだろう、この雰囲気……)
カップを二人の前に出し、お替り用の大きなポットを置くと、そのまま一礼して部屋の外へ逃げようとしたアンジェラは、客人の声によってあっさり止められた。
「ちょうどよかった。ちょっと、いてくれないか?」
カークの声に、ウィルの表情が変わる。その表情はできればここにいて欲しくない、という顔だと判断し、アンジェラは深々と頭を下げた。
「申し訳ありませんが、まだ厩舎で仕事がありますので、そちらが終わりましたら、また伺います」
えー? と不満そうな表情を浮かべたカークと、明らかにほっとしたようなウィルに、アンジェラは胸を撫で下ろした。自分の対応は間違ってなかったと安堵しながら、応接間を後にする。
もちろん、厩舎で仕事があるというのは嘘ではなかった。いきなりの訪問に、馬を受け入れる支度も整っていなかったのだ。大急ぎで場所を作っただけなので、まだ飼い葉も水もやっていない。この暑い中駆けて来たのなら、急いで労ってやらないといけないだろう。
アンジェラは小走りで土間から外の厩舎へ向かった。
――――一方、イヤな空気を漂わせている応接間では、アンジェラがいなくなったことで遠慮のない応酬が始まっていた。
「だいたい、こちらにも都合というものがあるんですよ。特に、ここのように少ない人間で回しているような邸では」
「少ないも何も、アンジェラちゃん一人じゃないか。それに、キミに都合があるように、こっちにだって都合があるんだよ。どこかの隠居を決め込んだ人とは違って、中央で頑張っている身だからね」
カークは差し出されたばかりのお茶を、くい、と一口だけ飲んだ。
「あー、そうそう。セレンドの侯爵令嬢が、キミに会いたいと嘆いていたらか、一応伝えておくよ。あのお嬢様にも困ったもんだけど」
「セレンドの……ユージェニーですね。あの人も、まだ諦めていないのですか。都落ちした私など、口説いてどうするのでしょうね」
「そりゃだって、まことしやかな噂が流れてるよ? 隠居は建前で、王の密命によって地方を探ってるって」
「誰ですか、そんな噂を流しているのは」
「僕じゃないよー? もしかしたら、陛下御自身かもね。ほら、キミへの信頼も厚かったのに、あっさり裏切られるしさ」
「……別に、裏切ってなどいませんよ。ただ、私は全部兄に譲りたかっただけで」
「なんだ、爵位を交換してもまだ足りないのかい? ……いったいキミはどこまで譲れば気が済むのかな。財産のすべて? それとも命も?」
「命、とまでは言いませんよ。財産ぐらいでしたら、全て渡してもいいとは思っていますが」
「つまり、それはアンジェラも、ってことかな」
その言葉に、ウィルの瞳が険しく光った。
「カーク。冗談もほどほどにしませんと、貴方の方が命を失うことになるのでは?」
「うわ、怖い怖い。でも、財産すべて、なんて言ったらアンジェラちゃんも含まれるでしょ。だいたい、ずっとお貴族様をやってきたキミが無一文で暮らせるわけないのにさ」
「それは、やってみなければわかりませんよ。第一―――」
ウィルは土間に戻って来た足音を聞いて、声を止めた。
「だいいち?」
面白そうにカークが続きを促すのを、ウィルは無視して切り捨てた。
「アンジェラ。戻ったのでしたら、こちらへ。あぁ、自分のカップも持って来てくださいね」
台所へ聞こえるように声を張り上げると、了承の返事が戻って来る。そこで、カークがにやにやとウィルの方を窺っていることに気付いた。
「なんですか、気持ち悪い」
「いや? アンジェラちゃんも大変だな、って思っただけだよ。深い意味はないから安心しなよね」
「……どうも含むところのある物言いですが、貴方のことですから、無理に聞こうとしたところで絶対に話さないでしょう」
気心の知れている友人であるカークとの遣り取りを省略し、一息にその結論を口にしたウィルは、大げさにため息をついて見せた。
「失礼します」
新しいポットを持ったアンジェラが応接間にやって来ると、ウィルは表情を和らげた。それを見てニヤニヤする悪友には構わず、アンジェラに椅子を勧める。
「そちらへおかけなさい。貴女が同席しないと話す気はないようですから」
「は、はい」
どんな話をされるのかと緊張を隠せないアンジェラは、ソファに浅く腰掛ける。応接間のテーブルに置かれていたぬるくなったポットから自分のお茶を注ぐと、きゅっと眉に力をこめてカークを見つめた。
「さて、……まぁ、アンジェラちゃんを呼んだからには、どういった話なのか予測はついてるかな?」
カークは揺さぶるようにウィルを見るが、彼の表情は変わらない。
「――将軍が見つかったよ」
かちゃん、とウィルの手がカップに引っかかった。幸いにも中身がこぼれることはなかったが、荒々しく生み出された波紋が、彼の動揺を物語っていた。
「見つかった、のですか、あの方が―――」
呆然と呟くウィルに対し、アンジェラはじっと何かに堪えるように、微動だにしなかった。
カークの言う『将軍』は、アンジェラがかつて住んでいた貧民街にいた、アンジェラにしてみればどこにでもいそうな老人だった。だが、どうやら落ちぶれた貴族だったらしい。貴族らしさは、あまり感じられなかったが、軍属ならばそんなものかもしれない、と思い直した。
かの人物をアンジェラがどう捉えていたかというと、食い扶持を稼ぐよりも、過去のあやまちに囚われている時間の方が長い、まぁ、貧民街にはあまりいないタイプだとしか考えていなかった。
アンジェラがウィルやカークにその話をしたのは、もう半年も前のことだ。ここへ引き取られてすぐの頃、酒の席で将軍に繋がる話をした。二人にとっては縁の浅からぬ相手だったようで、カークがそれを探し出すと行動表明をしたのは覚えている。
アンジェラにとって、それは、自分の生まれ育った貧民街の位置を知る、ということだった。この邸の生活に慣れてしまった今、昔のことはできるだけ触れないようにしていたが、カークの口振りを察するに、そうもいかないらしい。いや、過去に貧民街の住民であったアンジェラだからこそ、なぜカークがここへ来たか予測がついた。
じっと待っていても、何も続きを口にしないカークに、アンジェラはそっと視線を向けた。すると、悪巧みがバレたようなガキ大将のような表情を浮かべられてしまう。どうやら、アンジェラの想像通りだったらしい。
「あの、よろしいでしょうか?」
発言の許可を求めると、カークは「いいよ、何かな?」と明るく答えた。アンジェラの質問など予想しているだろうに、飄々として掴みどころがない。そして、純粋に彼が見つかったのだと喜んでいる主人の前では、非常に発言がしにくかった。
「失礼ながら、本当に将軍閣下が見つかったのでしょうか? あたしの住んでいた貧民街が見つかった、ということではないですか?」
アンジェラの言葉に、カークがニヤリと笑みを浮かべた。
「うん、さすがに話が早くて助かるよ。実はその通りなんだ。――ウィル、ぬか喜びさせて悪かったね」
「どういうことですか、カーク」
「なに、簡単なことだよ。貧民街を見つけるのは本当に簡単だったんだ。条件に合う場所は一つしかなかったからね。問題は、その中に入って探せない、ということなんだ」
アンジェラちゃんは分かっているようだけど、と前置きして、カークは一人だけ理由の分かっていない友人へ視線を合わせた。
「貧民街という所はね、自分たち以外のものを拒否する場所なんだ。同じくらい落ちぶれた人間でないと、すぐさま追い出されるような場所でね。さすがに僕の手の者も内部までは入れなかったみたいでさ」
「それは、いったい、どうして―――」
ウィルの疑問に答えたのは、カークではなく、かつてそこに住んでいたアンジェラの方だった。
「とてもシンプルな話なんです、だんな様。あの場所にいるのは、本当に、地面にかじりついて、やっとで生きている人ばかりなんです。そんな場所に来る外の人は、必ず……必ず、あたしたちに不利益をもたらして去って行くんです。だから、外の人が来ても、それが同じように落ちぶれて流れてきた人でないのなら、どんなことをしてでも、追い出します」
アンジェラの口から出た『あたしたち』という言葉に、ウィルの顔が自然と苦い物へと変わった。
「そうそう、つまりお仲間でないのなら出てけって、それこそ殺してでも追い出そうとするみたいでね」
カークの言葉に、アンジェラは顔を少しだけ伏せた。それは、この上ない工程の証としてウィルの目に映る。
「……というわけで、アンジェラちゃんに頼もうかな、と思って。あの場所で生まれ育った君なら、上手くできるよね?」
カークの言葉に、アンジェラは返事もせずに押し黙った。
「ちょ、ちょっと待ちなさい、カーク! 私の意見も聞かずに」
「だって、あの場所を知っているアンジェラちゃんなら、危険もそうないだろうし、何より実家に顔を出すチャンスなんじゃないの?」
「そ、それは確かに、そうかもしれませんけど」
「それに、ウィルだって、将軍に会いたいだろ?」
「……」
口を閉ざしたウィルは、少し考えてから「会いたくないと言えば嘘になりますけど」と小さく呟いた。
「ってなことだけど、アンジェラちゃんはどうして黙っているのかな? できるよね?」
カークに覗き込まれて、慌てて顔を上げたアンジェラは、何か口に出そうとして、再び俯いた。
「何か問題があるのなら、言ってください。一人で抱え込むのは、貴女の悪い癖ですよ」
ウィルに諭され、アンジェラはようやく重い口を開く。
「その、将軍……様が、あの場所から出たくないと、おっしゃたら、どうするのでしょうか」
「うーん? それはないんじゃない? だって劣悪な環境だって聞いたよ?」
そんな場所から抜け出そうとするのって、普通じゃないかな? とカークが首を傾げた。
「貴族が逃げ場所として貧民街を選んだことは、以前にもあったんです。あたしが住んでいた場所よりも、もう少し外側の町でしたけど、捕まえに来た追っ手と派手な乱闘があったことがありました」
貧民街は、その中心に近づくにつれ、貧困度は増していく。そんな場所だ。騒ぎの起きた場所は、まだマシな生活ができている方だったと記憶している。
「ふーん。そういうことがあったんだ。……誰だろう? ――――まぁ、いっか。もし、将軍が外へ戻りたくないと言うなら、こちらも無理強いはできないね。ねぇ、ウィル?」
「そうですね。その場合は、そのまま戻って来て構いません」
あっさりと結論を出され、アンジェラは小さく息を吐いた。そして、自分の体を見下ろした。あの頃に比べ、随分と健康的になった体と、あの頃からは想像もできない服を身に纏っている。
「分かりました。ただ、準備に時間がかかると思いますが、よろしいでしょうか?」
「それはいいけど、まさか準備に数ヵ月もかかる、なんてことはないよね? というか、準備なら、こっちでするから、アンジェラちゃんは、指示してくれればいいよ?」
アンジェラは、ちらり、とウィルの顔を窺う。彼女の考える準備は、果たして許容されるのだろうかと。
「え……と、みすぼらしく見えるような服を調達することと、銅貨を何枚か用意すること、あとは―――」
言葉を切って、きゅっと唇を噛みしめたアンジェラは、できるだけウィルの方を見ないように、顔を逸らした。
「あとは、乗馬用の鞭か、何か刃物があれば」
「待ちなさい」
ウィルの厳しい声に、アンジェラは身体を震わせた。
「アンジェラ、それらを何に使うのですか?」
「……傷、を、作るために使います」
「誰に」
「あたし、です」
「いけません」
ウィルの視線がまっすぐにアンジェラを射貫いた。明らかに怒っている雰囲気に、アンジェラは拳を強く握りしめてウィルから放たれる圧力に堪える。
「いいえ、中まで入るのでしたら、必要です。できれば、治りかけの傷と、できたばかりの傷と、両方欲しいところです」
顔を上げて、まっすぐにウィルを見つめるアンジェラの瞳に、ウィルは小さく首を横に振る。
「うーん、ウィルはやっぱり堅いなぁ。過保護が過ぎるんじゃないかい? とりあえず、アンジェラちゃん。それが必要な理由を教えてくれないかな」
「はい、……中へ戻るのなら、それなりの理由が欲しいと思いました。たとえ貧民街の出身者であっても、外で成功すればよそ者扱いになります。それなら、主人の下から脱走したように装えばいいかと、考えました。できれば、何日か期間をいただいて、その間に傷を作って、あと、断食もしておきた―――」
「だめです」
硬質な声音が、応接間に響いた。決して許すつもりはないのだと、いつになく険しいウィルの表情が語っていた。
「ウィル、よく考えてみなよ? その偽装工作をしなかったら、危険に晒されるのはアンジェラちゃんだよ?」
「そんなことをさせるぐらいなら、アンジェラに頼らない方法を考えます」
「だから、僕の手の者もダメだったって。それに、劣悪な環境から、早く将軍を掬い上げたいと思わないのかい?」
「それでも――――」
「アンジェラちゃんがやると言っているのに、どうして止めるのさ? せっかくの里帰りのチャンスでもあるんだよ?」
里帰り、という言葉にようやく表情を変えたウィルは、アンジェラに向き直る。だが、アンジェラは予想外の言葉を口にした。
「あの、だんな様、あたしは、別に……里帰りしようとは思ってません」
「どうしてですか? せっかく、会えるチャンスなんですよ?」
「……やっぱり、怖いですから。その、あの後、どうなったのかって考えると」
――――アンジェラが自分を売るきっかけとなったのは、母の病気だった。高価な薬を買うことはできないけれど、せめて休養と滋養のある食事をとってもらわなくては。そう思ったのだった。
貧民街では、栄養失調や病気による死は珍しくも何ともない。下手をすれば、家族全員が罹患したり、働き手が倒れたりで一家総倒れとなることすらある。だからこそ、アンジェラは家族の消息を知るのが怖かった。
「アンジェラ。しばらく二人にしてもらえますか? カークもこのまま泊まるようですから、部屋の用意を。あぁ、夕食はいつも通りのメニューで構いません」
「はい、だんな様」
アンジェラは、ソファから立ち上がって頭を下げると、そのまま応接間を後にした。
「二人きりで話すことなんて、あったっけ?」
「……アンジェラも、私も、頭を冷やす必要がありそうでしたからね。この話はここで止めてください。続きは夕食の後にでも」
「ふーん。アンジェラちゃんを一人にして、思う存分泣かせようとしてたんじゃないの?」
「……」
「あー、やっぱりね。ギリギリな表情だったもんね」
にやにやと笑うカークに、ウィルはいっそう大きなため息をついた。
「アンジェラは、まだ、こちらに泣きついて来ようとはしませんからね。むしろ、絶対に涙を見せないようにしてる気がします」
「普通だろ? 誰だって泣き顔なんて見られたくないって。―――まぁ、でも丁度良かったかな。僕から、ちょっとした提案があるんだけど。アンジェラちゃんには聞かせられないような、ね」
カークは、いつも以上に意地悪い笑みを浮かべた。




