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ひとつの空にあるように  作者: 長野 雪
出会いの冬
2/57

02.救いの手

中盤、微グロ表現あるのでご注意ください。

「まったく、なんでそんな顔をするかねぇ?」

「貴方が騙したからでしょう? 私はそんなものは見たくないと断ってきたはずですが、カーク?」

「そう言うなって。でも、ウィル。キミも悪いんだよ? 奴隷の一斉摘発計画の賛同者でありながら、奴隷の散発的な摘発にすら関わっていないんだから」

「ですから、奴隷を買うような醜悪な人の顔なんて見たくないんですよ」

「でも、キミは現実を見るべきだ。僕はキミらの計画には反対だしね。まぁ、友人の戯言ざれごとと思って付き合ってくれよ」


 二頭の馬が並んで歩いていた。馬上には言い合いを続ける若い貴族が乗っていて、その後ろを、揃いの制服を身に纏った騎馬隊が付き従っていた。

 先頭を行く二人は、今回の奴隷摘発部隊の隊長と副官という位置付けだが、副官の方は明らかに不服な様子で、その青い瞳を曇らせている。だが、隊長は逆に上機嫌で、風に弄ばれる焦茶色の髪を時折撫でつけながら、馬を進ませていた。奴隷摘発という任務内容を隠した上で、副官として名指ししたのだから、当然の結果だろう。


 街を越えた彼らの行く先には、大きな邸があるだけだ。アデッソー男爵の別荘という話だが、この別荘に何人もの奴隷が運ばれているということは、既に突き止めてあった。……1年以上も前に。


(1年も放っておいたことを話したら、こいつはどんな顔で怒るかな)


 隊長=カークは、隣にいる仏頂面の友人を眺めて軽く笑った。


―――奴隷摘発は、年に数回行われている。実は、奴隷商人とは裏で話がついていて、年に2、3人の顧客を失わせる代わりに、全体の摘発を行わないことが取り決められているのだ。この隊の仕事は、奴隷商人から差し出されたイケニエの羊を狩り出すだけの簡単なものでしかない。


「さて、心の準備はいいかい? 僕はキミが真実を知った上でどう変わるのかを見たいんだよね」

「何が変わるというのですか。奴隷などというものは、即刻なくなるべきものですよ」


 先行隊から、包囲完了の合図を受け、正門へ向かった二人は下馬すると、馬を別の者に預ける。

 すると、来客に気付いたのだろう。門の脇の通用口から顔を覗かせた見張りを、カークは問答無用で引きずり出し、ものの数分で縛り上げた。


「ちょ、ちょっと、何をしているんですか!」

「使用人も同罪であることが多い。ましてや、中にいる人間に触れ回られても厄介だしね」


 さっと後方に控える隊員に合図をしたカークの後ろで、副官のウィルは落ち着きなく視線をあちこちに向ける。


「ウィル。キミは僕の横にいてくれ」


 隊員は二人を追い抜かすように一斉に邸へと押し入った。

 怒号と悲鳴が上がり、次々と邸の人間が縛り上げられていく。同じように保護された奴隷たちは中庭の一角に次々と連れ出されてきた。その大半が年端もいかない少年少女で、不安そうな表情を隠しもせずに、周囲を落ち着きなく伺って脅えていた。


「なんて……」

「ほらほら、行くよ、ウィル。こっちだ」


 口元を押さえて彼らを見つめる副官を容赦なく引っ張ったカークは、混乱する邸の中を一直線に進んでいく。


「どこに向かっているのですか?」

「し、黙って」


 カークが立ち止まったのは、ある扉の前だった。内からはゴトゴト、ガタンと物音がする。時折、「いやです!」「ええい、黙れ! 黙らんかい!」という声も聞こえた。

 カークは腰に差したサーベルに手をかけて、大きく息を吸い込む。ウィルに視線を合わせて、指だけで3、2、1、とカウントダウンするなり、どっかん!と扉を蹴り開けた。


「そこまでだよ、アデッソー男爵!」


 部屋にいたのは、寝巻き姿のでっぷりと太った男だけ――ではなかった。彼は部屋の端に開いた穴から、少女を床下に押し込もうとしていたのだ。

 少女を見止めた瞬間、踏み込んだ二人は合図をすることなく動いた。

 カークが、げしっと男爵を蹴り飛ばすと、すぐさまウィルが腕を伸ばして、床下に押し込まれそうになっていた少女を引き上げた。


「うっわー、蹴っちゃった。エンガチョ」


 カークが軽く足を振る。エンガチョ扱いされた男爵は、ころり、と一回転して床に転がった。


「ご主人様?」


 呆然と呟いたのは、助けられた少女の方だった。その目は倒れた男爵を見つめている。いや、男爵しか見ていない。


「どうも、お嬢さん。あなたの『ご主人様』を捕まえに来た者ですよ」


 カークがにっこりと笑いかけた。その手にはいつの間にか縄が握られている。いつ、どこから取り出したのか、と横で見ていたウィルが訝しんだ。


「ウィル、キミやるかい?」


 ピンと縄を張って、イイ笑顔を浮かべたカークは友人に尋ねるが、ウィルは少女の手を取ったままで、首を勢いよく横に振った。


「どうでもいいけど、キミ、いい加減にその子の手を放しなよ?」


 指摘されたウィルがパッと手を放すが、少女は何も言わずにカークの手によって縛られる『ご主人様』を見つめていた。ウィルも、少女の視線の先を追って、カークの作業を見つめている。


「……ご主人様、また、あれをやるんですか?」


 どこかぼんやりと、少女は呟くように尋ねた。無気力な表情のまま、視線は動かない。


「また、女王様と犬ごっこ、やるんですか? 今度はこの人達の前で?」

「えぇい! 黙れ! お前は何もしゃべるな!」

「黙るのはキミだよ。この肉だるま」


 くらくらとする頭でさしたる抵抗もできていなかった男爵が、突然声を荒げる。だが、八割がた縛り終えたカークの腕は、揺るぎもしない。彼は容赦なく肉だるまをきつく縛り上げた。


「ねぇ、女王様と犬ごっこって、どんなものだか教えてくれるかな?」


 自分に質問されたのが分かったのだろう。だが、それでも、少女は、許可を求めて『ご主人様』を見た。縛り上げられた肉だるまは、「しゃべるな」とばかりに首を横に振っている。

 少女は頷くと、無気力な眼差しのままで唇に笑みの形を作った。どこか不気味な表情に、ウィルの眉根が寄せられる。


「はい、わかりました。ご主人様がそうおっしゃるなら、話しません」


 カークが困ったな、と頭を掻く。だが、それならそれで、と頭を切り替えようとした時、再び少女が口を開いた。


「女王様と犬ごっこをやっていたはずなのに、いつの間にか女王様役の私が、犬役のご主人様にムチでぶたれていたことも、他にも色々な役柄を決めて『ごっこ遊び』をしたことも、一切口にしません」


 少女にしてみれば、それはいつもの「飽きられないための反抗」だった。それが、今回は『ご主人様』を窮地に陥れる絶好のタイミングだっただけで。


「ば、ばかもの! わしの言うことが聞けんのか! 黙っていろ! 黙っていれば―――」

「だから、キミが黙ってよ」


カークは手近なところに転がっていたボロ布を、男爵の口に押し込んだ。呼吸のしにくさに目を白黒させる男爵をよそに、彼は少女に向き直る。


「ねぇ、キミがここでやっていたことを全部話してくれれば、キミはもう、こんなところにいなくていいんだよ。キミも、キミと同じようにここに買われてきた子たちもさ」

「いなくて、いい?」

「そう、いなくていいんですよ、こんなところに」


 呆然と繰り返す少女に、ウィルが優しく語りかける。


「いなくていい。いちゃ、いけないなら……どこにいればいいの?」


 少女の視線はまだ『ご主人様』に固定されていた。彼女の口から出たセリフに、ウィルが次の言葉を紡ぎ出せないでいるのを見て、やれやれ、とカークが肩をすくめた。

 暖炉で、薪がパチリと弾けた。


「キミは他の子たちと一緒に、別の所で保護される。そこで職業を持つんだ。


 丁度、他の部屋の制圧が終わったと報告しに来た隊員に向かって、カークは「記録を頼む」と命令した。首を傾げた隊員は、それでも腰に下げた袋から手帳とペンを取り出して、会話を書き付ける準備を整える。


「ご主人様、私もとうとう『お下がり』になるのですか?」


 少女は決して「助け手」であるはずのカークやウィルを見ようともしない。それに多少の苛立ちを覚えながら、とりあえず新しく出た『お下がり』という単語に食いつく。


「その『お下がり』っていうのは、どういうことだい?」


 すると、少女より先に縛られた肉だるまが「むー!むー!」と唸り声を上げた。


「ご主人様は、飽きたどれいを、他の人にあげていました」

「他の人、というのは、ここで働いていた人かな?」

「はい、他の人も、どれいをもらうと、しばらくは遊んでいるんです。でも、飽きたらまた別の人に『お下がり』します。そして、もらい手のなくなったどれいは、地下で見世物にされました。なんにんも、なんにんも―――」


 むーむー!と転がりながら唸る肉だるまを、「キミ、うるさいよ」とカークが蹴りつける。


「斬りつけられて、髪を引き抜かれて、指を切り取られて……。ご主人様は、いつも、楽しそうにそれを眺めていました」


 僅かながら、いつもと違うこの状況が分かってきたのか、『ご主人様』の声も気にせず、少女は淡々と説明を続ける。ただ、それでも彼女の視線は『ご主人様』から離れなかった。


「いやぁ、これはもう、十分だよね。奴隷購入はもちろん、その虐待も。―――地下室を探してくれないかな」


 友人でもある副官を、この刺激的な証言から切り離そうと思っての命令だったが、ウィルは廊下に顔を出すと、近くを通りがかった隊員に言付けてすぐに戻ってきた。


「おや、まだここにいるのかい?」

「えぇ、怒りに気が触れそうですが、ここに残りますよ。気遣いはありがたいですが、……むしろ、あなたはこの先を私に聞かせたいのでしょう?」


 憤りに歯を食いしばり過ぎて今にも血を流しかねない形相のウィルに、カークは笑いを噛み殺した。


「さて、他に何かあるかな? うーん、そうだな。キミの言う『ごっこ遊び』には、どんな役柄があったか知りたいんだけど」


 その質問に、縛られた肉だるまが一層激しく転げまわった。


「うん、いい反応。我ながらイイとこ突いたみたいだね。……で、何かあるかな?」


 覗き込むように顔を見られ、一瞬だけ彼を見た少女だったが、すぐに視線を元に戻してしまった。


「いろいろやりました。医者と患者、お店屋さん、まな板の上の魚、アーカトン子爵、……あれ、アートカン子爵?」

「アーカトン子爵でいいと思うよ」


 むごー!むがごー!と騒ぎ立てる肉だるまを、げしげしと踏みつけながら、少女に先を促すカークは、彼女を脅えさせないためか、笑顔を崩していない。


「ちょうどいい、アーカトン子爵をやってみてもらえるかな?」

「はい、わかりました」


 少女は従順に頷くと、すぅっと息をした。少しだけ細められた目が虚空を彷徨さまよう。


「―――まぁ、いきなりなんだね、チミィ。まさかだんしゃくのくせに、このわたくしに、何か頼みごとでもあるのかね?」


 口ひげをいじるフリをして、少女が甲高い声を出して演じ始めると、ウィルが目を大きく見開いた。よく特徴を捉えている、そう感じると同時に、どれだけ繰り返されたのかと思うほどに少女が流暢りゅうちょうにセリフを紡ぎ出したからだ。


「何を言っているのだね、チミは。わたくしがそんな真似をするような、げせんのやからに見えるのかね?」


 セリフの意味を理解しているのかは分からないが、どうやら止めろと言われない限りは演じ続けるようだ。それに気付いて制止の声を上げようとしたウィルを、カークが手で制した。

 なぜ、と目で問いかけると、親指で肉だるまを示される。

 縄でしっかり縛り上げられた男爵は、ふるふると、まるで寒い夜に捨てられた仔犬のように震えていた。


「なにかね? しょうこだと? そんなものがどこに―――! いや、わたくしは、そんなもの……まさか、まさかチミが偽造を!」


 そこまでセリフが続いたところで、パンとカークが手を叩いた。途端にびくっと体を震わせて演技を止めた少女は、おそるおそるカークを見上げた。


「すばらしい、完璧だよ。ウィルもそう思うだろ」

「あ、えぇ、そうですね。とてもよく似ていました」

「だよね。―――ところで、この後の話はどう続くのか、聞かせてもらえるかい?


 満面の笑みさえ浮かべてカークが尋ねたとき、肉だるまがようやく口の中に突っ込まれていたボロ布を吐き出すことができた。


「お前はしゃべるな! 黙っていろ! お前はわしの奴隷だろうに、なぜ主人の言うことをきかないのだ! またムチで叩かれたいのか? それともあの部屋で始末されたいか!」


 始末、という言葉に少女はがくがくと体を震わせ始める。顔色も青く、その細い体が冷たく冷え切っていった。

 だが、唇をわななかせながら、少女の喉が声を絞り出す。


「ご主人様。私は、こうやって時々命令をきかないことで、今まで『お下がり』にならずにすみました。でも、もう、いいです。もう、……つかれました」


 少女の言葉に、『ご主人様』の口がぱくぱくと開閉する。まるで陸に上がった魚のようなその姿を眺めながら、カークは部屋の隅に置いてあった木箱の中から、明らかに『女王様と犬ごっこ』に使っていたと思われる猿轡を噛ませた。


「さて、話の続きを聞かせてもらえるかな?」


 男爵の背中をブーツの踵でぐりぐりと踏みにじりながら、カークは少女に向き直る。


「アーカトン子爵は、ご主人様のおつくりになった『ぎぞうぶんしょ』で、弱みを握られてしまって、言いなりになってしまいます」

「へぇ、偽造文書って、どんな?」

「確か、……買い付けの契約書でした。ケシの花の」


 少女が呟くように答えた内容に、カークはウィルを、ウィルはカークを見た。お互いに頷きあって、互いの理解が間違いでなかったことを確信する。


「これは、余罪が出てきそうだね、男爵?」

「信じられませんね。今までこんな男が爵位を持っていたなどとは……」


 カークは会話をメモしていた隊員に「もういいよ」と告げる。ウィルは筆記用具をしまった隊員に男爵を運ぶように命令した。部屋に残ったのは、隊を率いる二人と、立ったまま俯く少女のみ。


「さて、ごくろうだったね。キミも他の子と同じ所にいくんだよ。―――なんだい、ウィル。そんな目をして」

「いいえ、別に」


 少女を心配そうに見つめていた彼は、ふい、と目を逸らした。するとそこに、隊員の一人が報告に現れる。


「隊長殿、副官殿。地下室を発見いたしました。ですが―――」


 そこまで告げたところで、ボロを身に纏った少女に遠慮して口を閉ざす。だが、その続きを他ならぬその少女が引き取った。


「もう、みんな、死んじゃってますよね。声、聞こえなくなりましたし」


 男爵が連れてかれてから、少女はじっと自分が放り込まれそうになっていた床下の穴を見つめていた。


「そうなの?」

「は、はい。ひどい有様でした。いったいどうしたらあのような状況になるのか……。あの部屋を見た隊員の中には、戻しているものもおります」

「ふぅん、キミもそのクチだね。顔が青いよ。……ところで、何か言いたいことでもあるのかな?」


 カークは、報告した隊員をじっと見ていた少女に尋ねる。


「いいえ」


 小さく答えて首を横に振った少女は、再び床下に視線を戻した。


「キミの前に、そこに放り込まれた子たちかな?」

「……たぶん、そうだと思います。この穴は、ご主人様が使うゴミ箱で、下に落ちるまでに壁に生えたナイフが表面を切り裂くと聞いたことがありますから」

「とんだ悪趣味だね」

「下には、ご主人様のペットがいるそうです」


 少女の告げた情報に、報告に来た隊員が、より一層青い顔をした。


「もしかして、下に落ちた子たちはペットの餌なのかな?」

「は、はい! 地下室で発見されたのは無残な様子の子どもの死体と、獰猛な犬が数匹です。子どもたちは、下に叩き付けられたときに大半が即死していたものと思われます」

「なるほど、生存者はゼロか。犬は?」

「人肉の味を覚えていたようですので、既に始末しております」


 青い顔のままで報告する隊員を、つい、と見上げた少女は、ふらり、と歩き出した。


「私は、どこに行けばいいんですか?」


 隊員に「連れて行ってやって」と命令したカークは、ぶるぶると拳を震わせている副官に声をかけた。


「さて、奴隷の実態は身にしみて分かったかい?」

「えぇ、痛過ぎるほどに」


 ウィルは浅い呼吸を繰り返し「早々に実行に移さなくてはなりません」と決意も新たに呟く。そんな友人の姿を見て、カークは、やれやれ、と肩をすくめた。



.。:*·˚+.。:*·˚+.。:*·˚+.



 邸の中庭は、騒然としていた。

 仕事を終えた隊員と、縛り上げられた邸の使用人および主人。助け出された奴隷十数人は、肩を寄せ合って、不安げに周囲を伺っていた。


「さて、自分のおうちを覚えている人は、こっちの馬車に乗せて、分からないとか帰れないと言ってる子はあっちの馬車に乗せてくれ」


 カークの指示に動き出した隊員たちは、一箇所に集まった奴隷たちの間に入り、一人ひとり聞き取りを始めていく。家の場所や帰る意志を尋ねては、その内容を木片に書き付けて本人達に持たせていった。

 そんな奴隷たちの表情は、きれいに3種類に分かれていた。ひとつは、帰れると知って喜ぶもの。ひとつは、帰らなければならないと考えて落ち込むもの。そして、最後のひとつは、喜ぶでもなく悲しむでもなく、目の前で行われていることを淡々と眺めるだけのものだった。


「すごいね。売られた状況によってこうも分かれるんだ」

「……」


 目の上に手をかざして、何人もの少年少女を眺めるカークの隣で、ウィルは黙り込んでいた。


「なんだよ。何か言ってくれたっていいんじゃないかな? それとも、奴隷一斉解放の計画でも練ってるって?」

「当たり前でしょう。こんな年端もいかない子どもに、……こんな思いをさせるなんて」


 憤懣ふんまんやるかたないといったウィルの呟きが耳に入ったのか、無表情組の奴隷の一人が振り返った。それは、男爵に可愛がられていたあの少女だった。


「ほら、キミの声が聞こえたんじゃないかな。ウィルのこと、気に入ったとか?」


 隣の友人をからかいながら、少女に向かって手招きをしてみると、意外にも少女はすぐに歩いて来た。その手にした木片には「職安行き」とだけ書いてある。


「ふぅん、キミは家に帰らないのか。……家の場所が分からないのかい?」

「私が帰っても、生活が苦しくなるだけですから」


 首を横に振った少女は、そこに一欠けらの感情も浮かべずに否定した。


「なるほどね、そうか、職安行きか……」

「何を考えているのですか? あなたがそういう表情を浮かべるときは、たいていロクでもない計画を立てているときで、私が迷惑を被るのですけど」


 ニヤニヤと人を食ったような笑みを浮かべるカークは、友人の指摘に、笑みを深めた。


「お嬢さん」


 カークはウィルを無視して少女に声をかける。だが、少女は反応を示さない。


「キミのことだよ。お嬢さん」


 そこまで言ったところで、ようやく少女はカークを見上げた。


「そう、キミだよ。ちょっと聞いてくれるかな。―――今、僕の隣にいる分からず屋の友人なんだけどね。キミたちが奴隷になって、ひどい目に遭っていたことを知って、ひどく怒っているんだ」


 その言葉に頷いたのは、少女ではなく、指差されたウィルの方だ。


「だけどね、あまりに怒ってるから、誰も奴隷なんて買わないようにする計画を立ててるんだよ」


 カークがそこまで言葉を重ねたとき、少女の表情が初めて変わった。目を大きく見開いて、信じられないものでも見るようにウィルを見る。


「言いたいことがあったら、この友人に言ってごらん? 大丈夫、この友人は子どもには甘いから」


 後押しを受けてもなお、少女は迷うように視線を揺らがせた。だが、すぐにその小さな拳を握り締めてウィルを見上げる。


「そんなこと、……やめて、ください」


 戸惑った表情を浮かべる彼を、まっすぐに見据える。


「そんなことをされたら、とても、困ります。この中には、自分から自分を売りに行った人もいるんです。生活が、苦しくて、だから、仕方ないんです」


 だから、そんなことはやめてください、と言い終えると、少女は震える両手を組み合わせた。


「そんなに緊張しなくても大丈夫だよ。こいつは殴ったり、乗馬用のムチでぶったりしないから。―――さて、どうだい、ウィル? 当事者の率直な意見を聞いたキミは、何を思う?」


 ウィルは、震える少女を見つめたまま、掛ける言葉を失っていた。カークの問いにも、沈黙しか返すことができないでいる。


「これが現実なんだよ、ウィル。ここにいる元奴隷たちの何人かは家に帰り、何人かは王都や地方都市で職を探すことになるだろう。でも、そうしたところで、貧乏な生活をおさらばできるわけじゃないし、もしかしたら、再び自分を売る子も出るかもしれない。―――これが、キミが目を背けていた現場の声だよ」


 軽い微笑みさえ浮かべるカークだったが、その鋭い視線はウィルをしっかりと見つめていた。


「キミは自分が贅沢をしないことで、一人悦に入っているだけじゃないかな。だけど、すべての人々が贅沢をやめた所で、贅沢品を扱っている人が困るだけで、何も変わりはしないんだ。もう、この国はそういう形なんだから」


 カークは、少女の腕をぐっと引っ張って、ウィルの前に突き出した。ボロ布の服からは、傷だらけの腕が覗いている。


「はっきり言ってしまえば、僕は奴隷の売買は必要悪だと考えている。だから、年に数回、見せしめのように奴隷を解放して、行き過ぎのないように努めているんだ。今回みたいに思わぬネタも拾いながらね」


 説教のようにウィルに持論を浴びせかけたところで、少女がガクガクと震えていることに気がついた。


「お嬢さん、キミに仕事をあげようか」


 仕事、という言葉に、少女は首をめぐらせて後ろに立つ彼を見た。


「キミが望むなら、命令にしてもいいよ。……いいかい? キミが奴隷という最終手段をなくして欲しくないなら、そこで下を向いているカタブツを説得するんだ」


 説得、という言葉に、少女は大きく首を横に振った。


「いいや、キミがやるんだ。こいつの家に住み込んで、昼夜問わずに説得する。そうすれば、……そうだな、月にいくらあげようかな」


 給金について考え始めたカークを、ドン、と衝撃が襲う。ウィルが頭をはたいたのだ。


「人が黙っていれば、何を言っているんですか! いいです。私が引き取りましょう!」


 温厚な彼にしては珍しく、大声をあげたウィルは少女の体をぐい、と引っ張った。


「今日からうちにいらっしゃい。あなたは私が引き取ります。……カーク、その手をとっとと離しなさい」


 カークは少女の腕を掴んだまま、もう片方の手ではたかれた頭を軽くさすっていた。


「いやいや、痛い痛い。かなり強く叩いたね、ウィル」

「お黙んなさい。あなたみたいな人には、それぐらいで十分です。ずいぶんと言いたい放題言ってくれたものですね」

「だけど、僕の本心だよ」


 カークは少女に向き直って、目線を合わせるように少しだけ屈んだ。


「さて、お嬢さん。キミに2つの試練を与えようか。このカタブツを説得するなら、この2つをクリアしなければいけないよ?」


 突然の試練だが、少女はあくまで無表情を貫いていた。少しだけ視線が泳ぐぐらいの揺らぎしか表には出さない。


「ひとつは、今後は自分のことを『あたし』と呼ぶこと。もうひとつは、この場で自己紹介をすること。どうだい、簡単だろう?」


 少女は、戸惑った様子で、二人を交互に見た。だが、二人とも少女の様子を見守るだけで、何も言わない。


「あたしの」


 しつこいぐらいに「私」と言うように調教された少女は、自分の言葉に怒る様子もないことを確認してから、言葉を続けた。


「あたしの名前は、アンジェラです。えぇと、よろしくお願いします、新しいご主人様」


 最後の言葉に、カークがぶほっ、と吹き出す。


「あははははっ! 最高だね、キミは。あ、ちなみに買われてからどれくらい経つの?」

「丸2年です」


 従順に答えた少女に苦笑いを浮かべた『新しいご主人様』は、今度こそカークの手を払いのけた。奴隷をなくそうという人間が、元奴隷の少女から『ご主人様』と呼ばれるのは、大きく間違っている気がする。


「これは、ゆっくり教育しないとだめですかね」

「はい、どうぞご主人様のお好きなように」


 少女――アンジェラの返答に、カークがまた爆笑したのは言うまでもない。


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