01.花を取り巻くものたち
少し時間が経過した春頃の話になります。
「では、花祭の予算としては、このぐらいで構いませんね」
渡された書面を吟味していた男は、顔を上げると集まっていた面々に告げた。広めの応接間に優雅に腰掛けた彼は、室内で最も若い男だった。年齢はまだ二十代だろう。絹のような銀の髪に、落ち着いた深い青の瞳、そして身につけた衣服は、その皺すら上品に見える。
彼の言葉に、机を挟んで向かいに座った壮年、もしくは老年の男たちが頷いて承認を伝える。
「失礼いたします。お茶をお持ちしました」
そこへ入ってきたのは、まだ幼い印象の残る少女だった。赤茶けた金の髪をきちんと後ろで束ねた彼女は、トレイの上にティーセットを乗せ、慣れた様子で危なげなく運んで来る。
「ごくろうさまです、アンジェラ。―――そういえば、紹介が遅れてしまいましたね。こちらが私の新しい使用人で、むす」
「アンジェラと言います。よろしくお願いします」
娘という肩書を口にしようとした主人の言葉を遮って、アンジェラと呼ばれた少女はぺこり、と頭を下げた。
主人――ウィルは、口の中でもごもごと呟いた後、気を取り直して、少女に客の紹介を始めた。
「アンジェラ、こちらから商工会長のバルトロ氏、区長のエイブ氏、ボグニ氏、リステ氏、そして町長のヤコブ氏です」
次々と会釈する彼らに、アンジェラはその顔を頭に刻み込んだ。紹介されたからには、絶対に肩書と名前を一致させなければならない、と必死である。
「シビントン夫人の後継がいる、ということは聞いていましたが、いやぁ、予想以上に若い子ですなぁ」
最初に感想を述べたのは、でっぷりと太った中年の男、商工会長のバルトロ氏だ。
「住み込み、ということですが、雇い入れてからはどのくらいになるのですかな?」
油断なく尋ねたのは、町長のヤコブ氏だ。彼は豊かな白いヒゲを撫でながら、アンジェラを見つめている。
「もうすぐ、二か月になります」
ティーポットからお茶を注ぎ入れながら、アンジェラが答える。卒なくこなしているように見せながらも、内心では彼らの名前と役職を何度も繰り返し唱えていた。
「住み込みで二か月! 領主殿の記録更新ですな」
ヤコブ氏がほっほっほっ、と笑いながらウィルを見た。ただし、その目は笑っていない。
「その話はやめてください。私も好きでそんな記録を作っているわけではありませんから」
微妙な笑みを浮かべ、なんとかその話題を遠ざけようとするウィルに、ヤコブ氏は「そういうわけにはいきませぬよ」と答えた。
「ここに来る前に、皆で話し合いましたが、やはり今年こそ、領主殿に最後まで残っていただきたい」
何の話をしているのかと疑問を抱えながら、お茶を配り終えたアンジェラが退室しようとすると、その背中に「あぁ、待ちたまえ」と声が飛んだ。声の主はリステ氏だった。集まった重役の中では比較的若い部類だが、それでも後退しかけた前髪が年齢を物語っている。
「君にもぜひ聞いてもらいたいことなのでな。室内にいてくれないか」
「……はい」
ちらりとウィルの顔いろを窺ったアンジェラは、その目に拒否の色がないことを確認してから頷いた。
「聞くところによると、そこの嬢は、夜になると出る『もう一人の領主殿』とうまくやっていっているそうではないですか。ですのに、なにゆえ、町の者に見せまいとするのですかな」
ヤコブ氏の意見に、他の重役がうんうんと揃って頷いた。
「それに、危険なのは妙齢の女性に対して、という話でしたが、花祭であれば、誰も何も言いますまいよ」
首振り人形のようにヤコブ氏の言葉にうなずく面々に、ウィルは眉間を押さえた。
「何度も言いましたが、できるだけ他人に見せたくはないのです。分かっていただけませんか?」
ウィルの必死の反論に、ヤコブ氏がにやり、と意地の悪い笑みを浮かべた。
「シビントン夫人のご子息の、出産祝いの折りには、宵の口までいらっしゃったとか?」
「あれでギリギリですよ、本当に」
ウィルとヤコブ氏の一騎討ちを、アンジェラはハラハラと見守っていた。
「ならば、せめてその『ギリギリ』まで参加していただきたいものですな」
「万が一のことがあったら、どうするんですか。だからこそ、私はシビントン夫人に昼間だけの通いで来てもらっていたんですよ?」
「ならば、彼女の頼めばよいのでは?」
ヤコブ氏はアンジェラに視線を移した。
「あ、あたし、ですか?」
「さよう。嬢が領主殿の様子が変わった頃合いに、邸へ連れ戻されればよいのではないですかな?」
「ちょ、ちょっと待ってください! さすがにそこまでアンジェラの手を借りるわけには―――」
慌てて反対する主人の手前「できます」などとも答えられず、アンジェラは、おろおろと主人の重役たちを見比べた。
「できないとは言わせませぬぞ。花祭に男盛りの領主が出て来るのと来ないのでは、準備をする側の気合も違ってきますからな」
そう告げるヤコブ氏は、隠すことなく意地悪そうな笑みを浮かべていた。
「ですから、昼間はもちろん参加します」
「あぁ、分かってはいただけませぬかな。花祭のメインは夜ですぞ?」
あぁ、とも、うぅ、ともつかぬ声を上げて、ウィルは天井を仰いだ。
「それに、嬢に花祭を見せたいとは思いませぬかな? 領主殿が帰るのであれば、嬢も帰らなければならなくなるのでしょう?」
ヤコブ氏のダメ押しに、ウィルはちらりと隣の少女を見た。そして、絞り出すような声で呻く。
「少し、考える時間をください……」
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「だんな様、花祭というのは、どんなものですか?」
カチャカチャと、ティーカップを片付けながらアンジェラが尋ねたとき、ウィルは応接間のソファに身を沈めたまま、魂の抜けかけたような顔をしていた。
「……豊穣の女神イステルに、今年も豊作になりますようにと、お願いする祭です。毎年、ふもとの町で行われているのですが」
そこまで言葉を連ね、ウィルは大きくため息をついた。
「夜に、恋人達のイベントがあるみたいなんですよ。花を一輪、意中の人に渡してダンスを申し込むという……」
ソファの背もたれに身体を預け、はぁ、と何度目かのため息をつく。
「夜、ですか……」
せわしなく台所と応接間を往復して、アンジェラはテキパキとテーブルを拭いた。
「いいかげんに、あの方々も諦めて下さればよいのに」
領主としてこの地に来てから、何度か花祭を迎えたが、ここまで強硬な態度に出てきたのは初めてだった。
「ミセス・シビントンの時に、前例ができてしまいましたしね……」
と、アンジェラが彼の向かいにちょこん、と座った。
「あの、あたしは別に参加しなくても構いませんから。どうぞ、だんな様の思う通りになさってください」
ウィルは、少女の言葉に、またひとつ、ため息を追加した。
「一人で楽しんで来ても構いませんよ、と言ったところで、聞かないのでしょうね」
「……はい。すみません」
「謝ることはないのですよ。町の知り合いも少ないでしょうし、まして同じ年齢の友人もいませんしね」
ウィルはソファから立ちあがると、「書斎にいます。片付けが終わりましたら、今日の勉強をしましょう」とアンジェラに告げた。
「はい、だんな様」
少女はぺこり、とウィルを見送った。彼の後ろ姿が遠ざかり、その足音が階段を上り始めると、彼女は、ふぅ、とため息をついた。
この屋敷に来てから二ヶ月になろうとしていた。家事を覚え、文字を覚え、人を覚え、数えきれないぐらいたくさんのものを覚えた彼女だったが、自分の過去を忘れてしまうことはできなかった。
自分が町の人より、もっと下の、貧民街の出であること。そして、一度は自らを売った身であること。
それらのことが、アンジェラに町の人と親しくなることを忌避させていた。今の主人――ウィルフレードのためにも、それを知られるわけにはいかないと。
「……っと、片付けないと」
早く片付けて書斎へ行こう。文字を覚えてからは、その内容は数学や歴史など多岐にわたっているけれど、それでも、少しでも知識を増やして、役に立てるのなら。
アンジェラはソファを硬く絞った布で拭き始めた。
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ここゲインチェニーク国は、王と貴族が政治をとりしきる封建制の国である。
公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵、という五つの爵位を持つ貴族達は、王から下された領地を治めることでその役目を果たしている。もちろん、無意味な増税をかけて、私腹を肥やす輩もめずらしくはない。むしろ、中央でのし上がるためには、金がものを言うのだ。それを自分の領地から、多かれ少なかれ搾取しているのが実情である。
だが、世の中にはそういったことをしない人種がいるのも確かだ。
アンジェラの主人となったウィルフレードもその一人である。中央に対する野心がないのか、彼は、ただ良い領主たれ、と日々邁進していた。
それでも、彼も人間であるからには欠点がある。それは、夜になると別の人格が現れる、ということだ
この、よくわからない欠点のおかげで、中央への野望が閉ざされたと言う人もいる。実際、住み込みで雇った使用人のことごとくが、耐えきれずに辞めていった。つい最近までは、よほどひどい人格なのだろう、という話を領地の人々が噂していたものだが、そんな認識を覆すような事件が起きた。―――住み込みの使用人が居ついたのである。
それが、若干12歳の少女、アンジェラである。
少女を知る、通いの使用人であったシビントン夫人が、特に夜の領主を恐れる様子もなかった、と証言していることから、実はそれほどひどい人格ではないのか、という憶測が乱れ飛んだ。そして、それは、ふもとの町の町長やら区長やらに伝わり―――「それなら、今年こそ、花祭に!」
という運びとなったのである。
そうとは知らないアンジェラが、くしゅん、とくしゃみをした。
「おや、寒いですか? まだ春とは言え、冷え込みますからね、気をつけてください」
「は、はい。大丈夫です」
鼻を軽く押さえて、一息つくと、アンジェラは視線を手元の紙に戻した。
計算を教わり始めてからどれぐらいになるか、アンジェラの成長はめざましいものだった。元々、家事を手伝っていたこともあって、簡単な足し算や引き算は反射的に答えることができたので、掛け算や割り算についても、特に問題はないように見えた。
ただ、ウィルにとって、誤算が2つあった。
一つは、アンジェラが紙に書く事なく計算を覚えていたため、基本がなっていなかったのだ。
たとえば、五掛ける六を尋ねれば、三十と即答が返ってくる。二桁同士の掛け算までなら、アンジェラは即答することができた。ただ、本来掛け算の基本となるべき九九を知っているわけではなく、ほぼ直感に近い形で答えているため、間違うこともしばしばあって、三桁の計算となるとまったくできないような状態だった。これについては、三桁があまり生活に密着していないのだろう。とウィルは考えている。
割り算についても似たような感じで、直感で答えられる桁も限られ、さらに割り切れないような問題の場合は、考え込んでしまうことがしばしばだった。不思議に思って、よくよく聞いてみれば、割り切れない場合は、たいていおまけしてくれた、という、とても生活に密着した答えが返ってきた。
しかたなく、九九から教えているわけなのだが―――
「あの、だんな様。これは、やっぱり違うと思います」
アンジェラが指差すのは、さっきから真剣に眺めていた一枚の紙だった。それは、『娘貯金』――とウィルが呼んでいる――の明細である。給与を受け取ることを拒んだアンジェラに、まとめて保管する案を出したウィルだったが、ついでだから、とこれまでたまった給与を見せたのが間違いだった。
(こっそり水増ししてたんですよね。忘れてました)
ウィルにとっては、まだかたくなな態度のアンジェラに対し、あれも買ってあげたい、これも買ってあげたい、というものを何度も拒否され、仕方なく、つもり貯金のようにアンジェラの貯金に追加していたのだが、ここに来て、それは裏目に出てしまった。
「ですから、二ヵ月分の給与に、この間、町で買った服の代金を差し引いて」
「……だんな様。その、どう見ても、二ヵ月分の給与よりも多い金額なんですけど」
(そ、それは、服を見たときに買ってあげたかった、あのレースのひらひらついたワンピースの値段とかが加わって……)
ウィルはどうごまかしたものか、考え込んだ。
「あー、その、実は、給与の他に、毎月のおこづかいも加えてあるんですよ。ほら、なんといっても、娘ですから」
「……だんな様。あたしは、使用人として、ここに―――」
(こ、こんな時にカークのような回る舌が欲しいものですけど……)
内心、ヒヤ汗をだらだらと流しながら、ウィルがここにいない友人の顔を思い出す。
「本来ならば、……この金額ですよね?」
さらさらと紙に書かれた金額は、こんなときに、ピッタリ正解していた。
「あぁ、はい。そうですね。そうなります」
がっくりと答えたウィルを、アンジェラが、マズいことでもしてしまったか、という目で見上げている。
「もうちょっと、わがまま言ってくれてもいいんですよ? この間、服を見に行ったときも、もっと可愛らしい服があったでしょうに」
「……仕事の、邪魔になりますから」
おや、とウィルは目を丸くした。
(この反応は、別の服も気になっていた、ということでしょうかね?)
「それは、仕事の邪魔にならなければいいんですよね?」
「……え?」
何を言われたのか分からず、アンジェラがびっくりしたように声を上げた。
「じゃぁ、今度の花祭用の服を仕立てに行きましょう。思い立ったが吉日とも言いますしね」
「……だんな様。あたしは、そういう意味で言ったんじゃぁ」
「はい、アンジェラ。本日の復習です。さっき見せた明細と、アンジェラが計算した本当の残高。引いたら、いくつになりますか?」
きょとん、としたアンジェラは、それでも頭の中で引き算し、答えを口にした。
「はい、正解です。それが今回の予算ですから、覚えておいてくださいね」
ウィルが鼻歌を歌いかねない調子で書斎を出ていく。
【水増しされた明細】-【本来の残高】=?
「それって、あたしのお金ではありませんよね?」
アンジェラが正しい答えを理解したときには、ウィルの姿は廊下からも消えていた。




