14.新しい日常
「それと、あと、卵が2つ、ですね」
「はい」
陽が沈もうかという頃、領主の邸の台所には、大きい影と小さい影があった。
「以上で材料は終了です」
「はい。……あの、もう一度確認してもいいでしょうか?」
揃えた材料を前にしたアンジェラの提案に、ウィルも頷いた。
―――今日の夕食は、新しい料理に挑戦してみませんか?
言い出したのは、もちろんウィルの方だった。せっかく大量のレシピをもらったのだから、というのがその理由である。レシピの読めないアンジェラに代わって、ウィルがそれを読み上げるとあって、初めは渋っていたアンジェラだったが、実際問題、夕食の献立をどうしたらよいか迷っていたころもあり、最終的には了承した。
「えぇと、高菜に香草……」
端から材料を読み上げるウィルの隣で、指差し確認をしながら、アンジェラは一つずつ頷いていく。
ウィルはと言えば、ここまでスムーズに事が運ぶとは思っていなかった。むしろ、緊張した空気の中で料理が始まると予測していたのだが、台所という場所に魔力でもあるのか、アンジェラはいつになく主に対する警戒心を薄れさせていた。すぐ隣に立っているウィルに対して、緊張感はそれほど見られない。
(これからは、毎日この手ですかね)
などと考えるウィルの思考回路は、少しエロ親父くさかった。
「―――それに、卵2つ」
「はい、大丈夫です」
アンジェラはシビントン夫人の使っていたエプロンの裾を翻しながら、てきぱきと台所の準備を整えていった。
「えぇと、では、手順ですね。まず、高菜を湯に通してください」
「あ、あの、だんな様。申し訳ないのですが、先に全部手順を読んでくださいますか?」
慌てた様子のアンジェラに、そういうものかと頷いたウィルは、レシピを一通り読み上げた。すると、指を折りながら聞いていたアンジェラは、うん、とひとつ頷いた。
「はい、大丈夫です」
「え? まさか、覚えてしまったんですか?」
「? はい、もちろんです」
不思議そうに首を傾げる少女に、ウィルは絶句した。1つ1つの手順はそれほど難しいものではないが、一度読み上げただけで覚えられる分量には思えなかったのだ。もしかしたら、料理などほとんどしたこともないウィルにとっては難しいことでも、料理に慣れた人間ならば困難なことではないのかもしれない、と思い直す。
いきいきとした目で料理に取り掛かるアンジェラを見ながら、それでも手順を忘れてしまったときのために、と自分に理由をつけて、ウィルは居座ることにした。
鍋に水を張って火にかけると、アンジェラは湯が沸く間に、とメインディッシュとなる肉に切れ込みを入れたり、下味を作ったり、調味料を混ぜ合わせたりと、その手を休めることはない。飲み込みが早いとはシビントン夫人から聞いていたが、たった12の子供がここまでテキパキと一人で動けるとは思ってもみなかった。それも、早く大人にならざるをえなかった境遇からなのかと考えると、ウィルの心に苦いものが混じる。
「手順や分量を確認したくなったら、遠慮なく声をかけてくださいね。私はここで名前を考えていますので」
台所の隅に置かれた二人掛けの小さなテーブルにつき、ウィルはあれこれと名前を思い浮かべる。昨日、アンジェラから先手を打たれて拒否された兄弟の名前を聞いてみたいところだったが、たぶんそれは悪手だろう。頑なに断るからには、彼女なりの理由があるのだから。
「あの、名前なんですが、お父さんとかおじいさんの名前をいただくのでは、いけないんでしょうか?」
サクサクと食材を切り終わったアンジェラが、くるりと振り返る。
「それもそうですね。あの家は女系が強いようですから、逆に父方から名前を拝借しましょうか」
そのあたりは、貴族も庶民も発想は変わらないだろう、と見通しをつけて、ふと、目の前の少女のことが気になった。
「アンジェラのところは、名前は誰が決めていたんですか?」
「……近所に住んでいた人の名前をもらうことが多かったです。亡くなったり、いなくなったりした人なら、名前が被っても不便はありませんから」
「なるほど。その人がいない分、可愛がってもらえるんでしょうね」
「はい。本人が戻って来たとしても、仲良くなることが多かったと思います。家族単位で暮らしていても、近所の人とはやっぱり助け合うことが多いですし」
相槌を返しながら、ウィルは手元のレシピに視線を落とした。万が一、と考えていたが、アンジェラの手順に間違いはない。
ちょうど湯通しした野菜に味をつけて、1品出来上がったところだった。お皿に盛りつける様は大雑把だったが、そこは今後少しずつ指導していけばいいだろう。
下味をつけた肉に溶き卵と小麦粉で衣をつけて焼いている様子をみていると、アンジェラは火加減を見ながら、余った卵と小麦粉を何やらこねはじめた。水を加えてパン生地のように仕上げたそれとは別に、細かく香草を刻んでいく。ウィルの手元にそんな手順はない。
「それは?」
「あの、食材がもったいないと思って」
片面が焼けた肉をひっくり返し、再び生地の整形に戻る。いくつかに分けた生地を薄くのばしていく手つきは淀みない。肉を焼き終えると肉汁の残ったそこにみじん切りにした香草を入れて、存分に旨味の滲んだ油を吸わせた。それを別の皿にとると、やや油の残っているところに生地を乗せていく。アンジェラが焼き上がった肉にソースをかけている間に、薄い生地はすぐに焼き上がった。熱々の生地に、肉汁をたっぷり吸った香草をくるくると巻いて、メインディッシュの隣に添える。
「あの、油とかもったいないと思って……。その、お口に合わなかったら」
「いえ、いただきます。そういう主婦の知恵の結晶のようなものほど美味しいと決まっていますから」
余計なことをしてしまったかと震えたアンジェラは、ウィルの一言に、ほっと安堵の表情を見せた。
.。:*·˚+.。:*·˚+.。:*·˚+.
―――朝がくる。それは1つの始まりだ。
アンジェラが目を開けたとき、ウィルは隣ですやすやと眠っていた。昨晩から彼に腕を貸していたせいで、布団からはみ出してしまっていた肩は冷え切っていたが、すぐ隣の熱源のおかげか、それほど寒くは感じなかった。
そして、妙に静かなことに気づく。普段ならもっと鳥の声などでうるさいはずなのに、部屋の中は妙に二人の呼吸音が耳についたのだ。
こんな静かな朝は、きっと。
隣のウィルを起こさないように、そっと腕とクッションを差し替えると、寝台を抜け出したアンジェラはカーテンを細く開けた。
「やっぱり……」
窓の外は一面の銀世界。白い悪魔がそこにいた。
―――下層階級では、冬になると5人に1人が餓死または凍死する。冬は最も厳しい季節で、とりわけ「白い悪魔」と呼ばれる雪は、忌むべきものであった。
この雪は、あの場所にも降っているのだろうか。自分がかつて暮らしていたあの町がどこにあったのか、ここからどれくらい離れているのかも分からない。
「下、行かないと」
これだけ寒いのだから、だんな様が起きる前に部屋を暖めておく必要があるだろう。ウィルの寝室をそっと抜け出して、手早く着替えると、まずは水を汲むために外へ出た。清涼で冷たい空気が肺に流れ込んできては、内側から覚醒を促す。雪は、まだ舞っていた。
ふと、真っ白な雪の絨毯に、妙なくぼみを見つけてアンジェラは近寄った。そして、小さく声を上げる。そこには小鳥が落ちていた。雪を払って息を吹きかけてもピクリとも動かないのは、死ぬ寸前だからか、それとも仮死状態だからか。
迷った末に、アンジェラは懐に小鳥を潜り込ませた。
「あっためたら、生き返るかな」
もしだめだったら、スープに入れて煮込んでしまおう。少しぐらいは食べでがあるはず。……と、そこまで考えて、その必要がないことに気づいた。ここでは食べ物に困ることはない。だから、わざわざ小鳥を捕まえて食べる必要もないのだ。
意識を切り替えるために、アンジェラはパンと両手で自分の頬を打つと、小走りで井戸へ向かった。
―――ウィルは、アンジェラが部屋を出て行く気配で目を覚ました。
「……また、やってしまいましたか」
少女が自分の部屋へ戻ったことを確認してから、呟きをこぼす。その表情は陰鬱なものだった。乱れた髪を手で整えながら体を起こすと、身を刺すような寒さに一気に覚醒が促された。着替える前に、と厚いカーテンを開け放ったところで、ようやく外の様子に気づく。
「静かだと思えば、雪、ですか」
眼下に広がる真っ白な景色に感嘆の言葉を洩らせば、ともにこぼれた息も白く染まった。
外の景色に目を奪われながら、寝ているときに隣にあったぬくもりを思い出す。褒められた行為ではないと理解しているが、夜の彼だけでなく、昼の自分もあのぬくもりを手放しがたいと感じていることは認めなければならない。それでも、何とか折り合いをつけなければ、と自分に言い聞かせつつ、テキパキと着替えて階下へ向かう。その先は、アンジェラがいるであろう台所だ。だが、少女は台所ではなく、その隣の部屋で暖炉に薪をくべているところだった。
「アンジェラ」
おはようございます、と声を掛けようとしたウィルは、そこで言葉を止めた。自分の姿に気が付いた少女が、慌てて暖炉の前に置いてあった何かを後ろ手に隠したからだ。
「お、おはようございます、だんな様。今日はお早いんですね。すぐ、朝食の支度をしますから」
拙い嘘を取り繕い、逃げるように台所へと向かうアンジェラに「待ってください」とウィルは呼び止めた。
「今のはなんですか?」
「あの、……何でもありません」
即座に「何のことですか?」ととぼけられないあたり、まだ12の少女の浅はかさが見え隠れする。一人前以上の働きをする少女のそんな一面を見られて、ウィルは心のどこかでホッとしていた。
「両手を前に出してください」
「……」
「アンジェラ。別に怒ろうというわけではなくて、あなたの持っているそれが気になっているだけなんですよ」
視線を床に落としたアンジェラだったが、すぐに覚悟を決めたのか、そっと両手でそれを差し出した。
「外に、転がっていたんです。あっためれば、元気になるかなって」
「それは、小鳥……ですか?」
小さな少女の手の中で、白と黒の模様の小鳥が固まっていた。翼も目も固く閉じられていて、もはや死んでいるようにしか見えない。それを口にするかどうか迷っていると、なんとその小鳥が、ぱちり、と目を開いた。
驚く二人の注目を集めながら、小鳥が状況把握するまで、数秒の沈黙が横たわる。小鳥の方も驚いたのだろう、目を覚ませば、人間に捕らわれているのだから。突然、ぱたぱたとはばたき、アンジェラの手の上から飛び出していった。
「あっ!」
慌てて小鳥を捕まえようとするアンジェラだったが、闇雲に飛んで出口を探そうとする小鳥も、なかなかにすばしこい。向こうも死にもの狂いなのだから当たり前だ。
ウィルは、あちこちと飛び彷徨う小鳥を呆然と眺めることしかできなかった。捕まえようにも、小鳥は混乱しきってしまって、右へ左へと予測不可能な動きを繰り返していたからだ。
ふと、それを追っていたアンジェラが、ぴたり、と足を止めた。
「やっ!」
じっと両目で小鳥の動きを追っていたかと思うと、小鳥が自分の近くに来たタイミングで、気合の声を出して素早く小鳥を手の中におさめた。そして、間髪入れず、暴れる小鳥を包み込んだままで「申し訳ありません!」と頭を思い切り下げてきた。
「構いませんよ。まぁ、とりあえず、外に逃がしてあげてください」
ウィルの言葉に素直に従って、台所の向こうの勝手口へ向かうアンジェラを見送りながら、ウィルはこっそり称賛の拍手を送っていた。
(まるで猫みたいに俊敏でしたね)
小鳥をとらえたアンジェラの動きに、野生の輝きを見た……と思ったが、それは女性にとっての褒め言葉にはならないと、口にするのはやめることにする。
「お騒がせして申し訳ありません。あの、すぐに朝食にしますね」
「えぇ、以後は注意してくださいね」
苦笑しながら軽く注意をすると、アンジェラは少しだけ眉尻を下げた。それでも、ここへ来た当初のように、必要以上に怯える様子はない。
「あの、だんな様」
「はい、なんでしょう」
「その……ティオーテン様がいらっしゃったときに、だんな様がお飲みになったお酒なんですが、補充をしておいた方がよいのでしょうか?」
「……そういえば、寝室の瓶は軒並み消えていましたね。――隠しておいたとっておきまで――。えぇ、そうですね、補充しなくては」
小さく悪態をついたウィルは、自分を見上げる少女の表情が、随分と柔らかいことに改めて気が付いた。思わず、じっと彼女の顔を見つめてしまう。
「あの、だんな様、何か?」
「いえいえ、なんでもありません。そうですね、シビントン夫人のところへ訪問するついでに、買い出しに行きましょうか」
「お名前、決まったんですか?」
叱られてしょげていたはずのアンジェラが、期待を込めた目で見つめるのに、ウィルは瞠目した。
「あの……だんな様?」
「いえ、よく表情が変わるものだと―――」
ウィルの言葉に、はっとなったアンジェラは、少し決まり悪そうにもじもじとした後、意を決してその理由を口にした。
「あ、あの、あまり感情を外に出さないと、だんな様に心配されてしまうそうですので」
感情を封印してしまう方が楽だった。実際、前の主のところではそうしていた。
けれど、シビントン夫人の優しさに触れ、ウィルがそういう主ではないと、アンジェラにだって分かってきたのだ。
「え……あ、いや、別に、その、確かにその方が嬉しいのですが、―――私、言いましたか?」
「あ、いえ、その」
夜のウィルとの会話を話すべきか、それとも、とアンジェラの頭の中がぐるぐるとする。もし、話してしまえば、きっと夜のウィルが昼のウィルが付けているという日記を読んでいることまでバレてしまうだろう。
「ひ、ひみつ、です」
慌てた挙句のそんな言葉に、そこはかとなくウィルの視線が冷たく刺さった。
「……まぁ、構いませんが」
本当は、話の出所が知りたくてたまらなかったウィルだが、その欲求を小さな吐息とともに吐き出すと、微笑んだ。今は、自分を出すことを選択してくれた少女を受け入れることが先だ、と。




