13.嵐の後で
カランカラン、と来訪者を告げる鐘の音に、アンジェラはすっくと立ちあがった。
「だんな様、失礼します」
主と共にお茶をすることを強制されていた少女の素早い行動に、残されたウィルは大きなため息を隠さなかった。
(決して、悪い子ではないんですけどね)
順応力を見るに、賢くないわけではない。主である自分を怖がる様子も減ってきた。ただ、しみついた奴隷根性がいけないのだ。
自分の意見を口にするときに震える手も、頭を撫でようとしたときにビクつく体も、―――すべては不幸な境遇のせいであって、それさえなければ、あの年の頃の自分より何倍も賢く大人な人間だと確信さえ持てる。
「せめて、もう少し慣れてくれたらいいんですが」
原因は自分にもあるのだろう。夜の自分ではない自分。
「だんな様、メリッサさんがお見えです」
ウィルは駆けこんできたアンジェラを視界に入れるなり、慌てて思考の海から抜け出した。
「メリッサ……?」
はて、誰だったかと、記憶を掘り返すウィルに、「シビントン夫人のお母さんです」とアンジェラは答えた。アンジェラの賢いというのはこういうところだ。こうやって、人の心を読んだかのような行動をとることがある。それだけ、自分の主人の一挙一動に気を配っているということなのだろう。
「あの、玄関ホールにいらっしゃるのですが、どうすれば」
「すぐに行きます。アンジェラはお茶をお願いできますか? あぁ、3人分ですからね」
「は、はい、わかりました、だんな様」
ぱたぱたと走るアンジェラを見送りながら、もう少し落ち着いて行動するように教えなければ、と呟いてウィルもゆっくりと玄関ホールへと向かった。
―――メリッサは、少しだけ緊張した面持ちで玄関ホールに立っていた。ウィルのことを待ちながら、視線はちらちらと、昨日娘が出産した部屋に注がれている。
「どうも、お待たせしました」
階段をゆっくりと降りてくるウィルに、メリッサは深々と頭を下げた。「突然の訪問で、ご迷惑をおかけします」と紡いだ声には、紛れもなく感謝の心と、いくばくかの疲労が見えていた。
「こんなところで話すのもなんですから、どうぞ」
本来ならば、使用人が案内するところなのだろうが、この邸には使用人と呼べるのはもはやアンジェラだけだ。もちろん、ウィルとてそれに問題があるのは承知している。だが、夜の自分に問題がある以上、あまり人を雇い入れたくはなかった。
「領主様に、折り入ってお願いさせていただきたいことがありまして」
アンジェラがお茶を出すのを待って、メリッサはそう切り出した。その表情に、並々ならぬ決意のようなものを感じ、真正面に座るウィルも姿勢を正した。
そして、飛び出したメリッサの「お願い」は、ウィルの予想だにしなかったものだった。
「ぜひとも、領主様に孫の名前を考えていただきたいんです」
「ちょ、ちょっと待ってください。名付けなんて―――」
「このお邸で生ませていただいたのも、何かの縁でございましょう。娘も婿も、この案に賛成してくれました」
動揺を隠せないウィルとは真逆に、言い切ったメリッサはお茶に口をつけ「ほう」と息をついた。
「私は、そんなセンスがないんですよ。それに、元々考えていた名前があったと聞きましたし、それでよいのでは?」
「そう、ゲイルという名前を考えておりました。女であればミリーナと。……ですが、違うんです」
「違う?」
「どう見ても、あの子は『ゲイル』という顔だちではないと、娘も同じことを言っておりました。もっと別の名前を考えていただきたいのです」
なぜか「違う」ということに対し、メリッサは自信を持っているように見えた。
「ですが、そこで私に名前を頼むのもどうかと。違うと感じたのであれば、みなさんでまた相談して」
「この候補を絞り込むのに3か月もかかったんです。今度もまた同じくらいの時間がかかってしまうに違いありませんわ。でしたらぜひ、領主様に……あら、アンジェラ? 顔色が悪いのではないかしら?」
メリッサの指摘に、お茶は3つと言いつけたにも関わらず、頑なに拒否してウィルの後ろに控えていたアンジェラは、「そんなことはありません」と淡々と返事をした。振り返ったウィルの目には、顔色が悪いようには見えなかった。
「そう? 気のせいかしら? 変なこと言ってしまって、ごめんなさいね。あ、そうそう、マリアから言伝があったのを忘れていたわ。これを渡すようにって」
メリッサが鞄から取り出したぶ厚い紙束を、アンジェラに差し出した。端が紐で綴じられたそれに、誰よりもウィルが不安を覚えた。アンジェラは字が読めない。それは、アンジェラががこの国で最も貧しい階層の出だという証に他ならない。それを隠したいと言っていたのは、アンジェラ自身だ。万が一、蔑むような目で見られたら、と思うと耐えられないと。
だが、アンジェラはメリッサの視線に圧されるように、紙束をぺらぺらとめくって中を確認していた。
「何が書いてあるの? 私は内容を知らないのだけど」
純粋な好奇心からなのだろう、だが、メリッサの放った言葉にウィルは体を凍らせた。
「えぇと、名付けの件で―――」
「料理のレシピと、こまごまとした雑事について書かれているようです。助かります、と伝えてもらえますか?」
ウィルの声と同時に響いたその声を、彼は一瞬、空耳かと疑った。だが、彼の向かいに座るメリッサは「分かったわ」と承諾を告げる。
「……」
「だんな様? お茶のお替りですか?」
驚いた表情を隠さずにアンジェラを見つめるウィルに、少女はティーポットを手に尋ねる。
「いえ、あ、お願いします」
一番動揺したはずの少女が、何事もなかったかのようにお茶をすすめるのに、何故かウィルの方が言葉を噛んだ。メリッサさんもいかがですか、と尋ねたアンジェラは、てきぱきとお茶のお替りを注ぎ入れる。
「それで、名付けの件なのですが、お願いできますわね?」
少女を目の端で追いかけていたウィルは、慌てて目の前の問題に立ち戻った。
「ですから、私などに頼むよりも、みなさんで考えてあげられた方がよいと思いますが」
「えぇ、考えた結果が、領主さまにお頼みしよう、ということなのです」
「……」
それは、丸投げと言うのではないだろうか。
少しだけ胡乱な目つきになったウィルだったが、この後、メリッサによる説得が延々と続き、結局は折れて承諾することになった。もちろん、頑なに断ることもできただろうが、領民に慕われた結果だと思うと、少しガードが緩んでしまったことは想像に難くない。
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「……うぅ」
「あの、だんな様?」
「あぁ、なんでしょう?」
「カップを片付けてもよろしいですか?」
「あぁ、はい、どうぞ。―――そういえば、よくあの場を切り抜けましたね」
空のカップを差し出しながらウィルが尋ねた。もちろん、指しているのは、メリッサから紙束を受け取ったときのことだ。
「あの、昨晩、シビントン夫人から、まとめて渡すと聞いていましたから」
それに……と、アンジェラは件の紙束をパラパラとめくった。
「こういう形式で書かれているものは、料理のレシピぐらいだと思いまして」
アンジェラの指摘した通り、紙束の大半はレシピだった。上段に分量が書かれており、下段には調理法が書かれている。
「なるほど。……アンジェラ。あなたは本当に賢いですねぇ」
ガタン、とアンジェラの手にしていたトレイが音を立てて机に置かれた。
「何を言っているんですか! あ、あたしなんかが、賢いわけないじゃないですか!」
「あれ、気づいていなかったんですか? 誰に教えられたわけでもなく単語を知っていたり、誰に言いつけられたわけでもなく仕事を自分から見つけるということは、賢い人にしかできないことだと思いますよ?」
「そ、そんなわけがありません。こんなことは誰にだって―――」
「あぁ、照れているんですか」
図星を刺され、うぅ、とうなるアンジェラの耳は真っ赤に染まっていた。内心では、アンジェラの感情を引き出せたと、小躍りしているウィルは、表だけなら微笑ましく見守っているだけだ。
「カップ、片付けます……」
少しだけ肩を落としたアンジェラは、仕事に戻ろうとする。
「あ、そうでした、アンジェラ」
「はい、だんな様」
「メリッサに顔色が悪いと言われていましたが、大丈夫ですか?」
「はい、問題ありません」
「本当に?」
「大丈夫です。明かりの加減でそう見えただけでしょう」
「本当に、ですか?」
「本当です」
「……」
「……」
ウィルが目だけで「本当に?」と尋ねるのに、アンジェラは同じく目線だけで「本当です」と答えた。そんな睨みあいがしばし続き、とうとうアンジェラが折れた。
「あの、だんな様?」
「なんでしょう? 言いたいことがあるのなら、何でも言ってください。なんと言っても父と娘ですから」
笑みを浮かべて答えるウィルに、アンジェラは黙って非難の眼差しを向けた。
「大丈夫ですよ? 私もメリッサを見習って、少し強引に出てみることにしただけですから。さぁ、どうぞ?」
どうやら、ウィルはメリッサから受けたストレスを少女にお裾分けしようとしているらしい。それを察したアンジェラは「はぁ」と息をついた。
「だんな様は、ずるい、と思います」
「そうですね。今の私はかなりずるくなっていますよ。まぁ、昔からズル賢い子供でしたから」
「……本当に、何もありませんよ?」
「嘘ですね」
ウィルはあっさりと一蹴した。
「本当に何でもないなら、そんなに泣きそうな顔をしないものですよ?」
ずっと気になっていたのだ。昨晩、目を腫らしていたアンジェラのことが。そして、メリッサの話を聞くにつれて、影を落としていく表情が。
「これは地です」
「本当に?」
どうやら、ウィルが引く気がないと悟ったのだろう。アンジェラは、目を閉じて、息を大きく吐いた。
「では、だんな様。一言だけよろしいですか?」
「えぇ、どうぞ?」
目を開けたアンジェラは、今度は息を大きく吸った。
「後生ですから、あたしの弟たちの名前を付けようなんて口にしないでください」
言い切るや否や、逃げるようにトレイを持って部屋を出て行ったアンジェラを見送るウィルは、ぽっかりと口を開けていた。
「……なるほど、それは思いつきませんでした」




