12.祈りは闇に
「領主様、誘われてくださいますね?」
おばあちゃんと呼ばれる存在になったその女性――シビントン夫人の母親――はそう言って、ウィルに詰め寄った。はっきり言って、領主に対する領民の態度ではないが、ウィルはそんなことで罰するような人間ではない。
「大丈夫ですよ。マリアの体調もありますし、昼頃から始めて夕方には終わる予定ですから」
領主の『病気』については、この邸のある町において知らない者はいない。夜になると、その性格が反転するという話は、町の隅々まで知れ渡っていた。
「もちろん、あの子も招待しますよ。娘と孫にとっては、命の恩人みたいなもんですから」
断る材料を的確に潰しながら、マリア・シビントンの母親、メリッサがウィルに返答を促す。その迫力に圧倒されたウィルは、ちょこまかと動いているアンジェラを呼んだ。
「はい、なんでしょうか、だんな様」
「実はですね、子供が生まれたお祝いに食事会を開いて、近所の方々を呼ぶのがこの近辺の慣習でして、こちらのメリッサが私たちを招待してくれるというのですが、あなたはどうしたいですか?」
アンジェラが小首を傾げてメリッサを見ると、何故か力強く頷かれた。
「あたしは、だんな様に従います」
使用人のお手本のような答えを返すアンジェラに、それをどう解釈したのか「では、受けてくださいますね」とメリッサが詰め寄る。数拍、瞑目したウィルは「お言葉に甘えます」と仕方なく頷いた。
(あんな大仕事の後に、あの子に食事を作らせるのも気が引けますし)
ウィルの視線の先では、アンジェラが部屋の片付けと洗濯にいそしんでいる。忙しく働いている彼女は、少なくともウィルと話をするときよりも、格段に生き生きとしているように見えた。
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「ごめんね。誘ったくせに手伝ってもらっちゃって」
「いえ、いいんです。動いていた方が気が楽ですから」
シビントン家の台所では、メリッサとアンジェラがばたばたと動き回っていた。
領主の邸で赤ん坊を生んだこともさることながら、子供の出生を祝う宴会に領主自身が来るということが、瞬く間に近所中に知れ渡り、物見高い人々代わる代わる宴席に足を運んで来たのだ。
ウィルは、その人柄もあって、領民に愛されているらしく、次々と話しかけてくる人々の応対に追われていた。当然、宴席のために準備した料理はすぐになくなり、その追加を慌てて作っているのがメリッサと、それを手伝うアンジェラである。
アンジェラは、家事に関してはその能力を存分に発揮していた。働きに出ていた両親や上の兄姉に代わって、いつの頃からか家事は彼女の仕事になっていたのである。奴隷となっていた頃には遠ざかっていたが、身体はしっかり覚えていたようだ。
「メリッサ、おめでとう」
まるで戦場のようになっていた台所に顔を出したのは、メリッサと同じ年ぐらいの女性だった。
「まぁ、姉さん。わざわざ来てくれたの?」
応対に出たメリッサの代わりに、アンジェラは鍋をかき回し、具材を切ってシチューを煮込む。
「なんか、すごいことになってるわね。領主様までいらっしゃって……」
「そうなのよ。領主様が来てるから、どんどんお祝いの人が増えてきて、大変なの」
「そう思って、手伝いに来たのよ」
メリッサの姉が腕まくりをした。持っていた荷物の中からは野菜と肉が出てくる。「助かるわ」と微笑んだメリッサの言葉は、手伝いと材料の両方に向けられていた。
「アンジェラ、新しい人手ができたから、あなたは宴席の方に戻っていいわよ。ありがとうね」
お皿を洗いながら「でも……」と逡巡するアンジェラに、「あなただって、主役の一人なんだから、楽しんでいらっしゃい」とメリッサは、手にしていたお皿を取り上げた。そして、ぐいぐい、と台所の外へと押し出す。
「ありがとうございます」
「やだわ、お礼を言うのはこっちよ。ぜんぶ含めてね」
ぺこりと一礼してから去っていく少女を見ながら、メリッサの姉が「あれ、誰なの?」と尋ねる。
「領主さまの新しい使用人みたい。でも、良い子よ。働き者だし、よく気が付くし、前の職場があまりにひどかったから、領主様が引き取ってきたみたいなんだけど」
「じゃ、住み込みなの? でも、それって……」
「そうなのよね。夜があれじゃ、厳しかったっていう職場と変わらないと思うんだけど……」
―――そんなふうに噂されているとも知らないアンジェラが台所を出たところで、まず顔を真っ赤に染めた新米父親――フォレス・シビントンに遭遇した。
「おぉ、アンジェラちゃん。いやはや、ありがたいありがたい」
涙に目を潤ませながら、フォレスが握手を求めてくる。いったい何がありがたいというんだろうか。
(酔っている人から逃げられないときは、適当に話を合わせなさいって言われたっけ)
それは、母から教えられたことだった。
「フォレスさんこそ、おめでとうございます」
当たり障りのない返事をしたはずなのに、彼の潤んだ目から、ぶわりと涙があふれ出した。
「アンジェラちゃんはいい子だねぇ。うちの子もアンジェラちゃんみたいに、いい子に育ってくれるといいんだけどね」
手を持ち上げたフォレスに、思わず身を縮めたものの、逃げる間もなくその手はアンジェラの頭に乗せられた。関節だけが太い手が、くしゃくしゃと少女の髪の毛をかき回す。
「お名前は決まったんですか?」
何のお仕事をしている人なんだろう、と疑問を抱えながら、思っていることとは全然別の質問をする。
「あぁ、男の子だから、アンジェラちゃんの名前をもらうわけにもいかないしねぇ。どうしようかねぇ」
考え込む素振りを見せたフォレスだったが、いきなり、うっ、と声を上げた。途端に、また涙があふれ出す。
「いやぁ、本当にありがたいありがたい」
これは永遠に続くのでは、とアンジェラが不安を感じたとき、遠くから自分を呼ぶ声が聞こえた。
「アンジェラ、こっちへ来て、抱いてあげてちょうだい」
人の輪の中心に座っている、シビントン夫人が、少女を呼んでいた。しかも「その人は放っておいて構わないから」とすっぱり切り捨てている。どうやら泣き上戸なのはいつものことらしい。
アンジェラはフォレスに小さく会釈をして、シビントン夫人の隣に駆け寄った。
「あらためて、おめでとうございます」
アンジェラの言葉に柔らかく微笑んだ夫人は、少女に赤ん坊を差し出した。困惑するアンジェラに、抱かせると、自分は「ふぅ」と息を吐いて、肩を軽く上下に動かす。
「ちょっと疲れちゃった。抱いててね」
お茶目な仕草で頼まれると、イヤとは言えない。腕にずっしりと重みはかかっているが、温かなぬくもりは愛しさを感じさせた。生後間もない赤ん坊は、まだ人間には遠い形でぐにゃぐにゃと頼りない。抱くよりも、どこかに寝かせておいた方が、と思ったが、よそ者だけに口に出せるはずもなかった。
夫人の隣に座っていた人に席を譲られ、赤子を抱えたままで座ったアンジェラは、すやすやと眠っている男の子に顔を緩ませた。
「男の子だそうですね。名前は決まっているんですか?」
気の利いた話題を見つけられずに、フォレスにしたのと同じことを尋ねる。
「そうね。生まれる前はいろいろと考えていたはずなのに、こうやって目の前に本人がいると、名前も迷っちゃうわね」
ふふふ、と柔らかに微笑む夫人は、既に母親の顔をしていた。
「女の子だったら、ほとんど決まっていたのよ? うちは、女性はみんなMから始まる名前って決まってるみたいだから」
(そういえば、メリッサさんと、マリアさん。確かに)
「男の子だったら、ゲイルって名前にしようって話していたんだけど、……何かイメージ違うのよね」
ゲイル、という名前を聞いて、アンジェラの脳裏に弟セイルの顔が浮かんだ。あの市場で別れてから会っていない、会うこともない弟。
「そういえば、アンジェラも弟くんがいるのよね? 弟くんの名前ってなんていうの?」
「あ、の、下の弟が、……あ、これ、あたしが取り上げた子なんですけど、アインって言って、上の弟が、セイルっていうんです」
ぐっと体に力を込めたせいで、言葉が妙に途切れ途切れになってしまった。自分のそんな声を聞いたせいで、余計に目が熱を持つのを感じる。
「あ、あの、お手洗い、どこですか?」
慌てて赤ん坊を母親に返し、アンジェラは部屋を出た。
途中、ウィルに声を掛けるべきか迷ったが、単なるトイレだし、少なくともシビントン夫人には告げてあるから大丈夫だろうと思った。それに何より、そんな余裕なんてなかった。
トイレのドアの横をすり抜け、路地に出たアンジェラは、家の横に積まれた木箱の影にしゃがみこんだ。
「あ……」
ぽろり、と涙がこぼれる。
弟たちの顔が浮かんだ。記憶の中から呼び起こしたその姿は、別れた当時のもの。あれから、弟たちも成長して、また違う顔になっているだろう。
元気だろうか。生活は大丈夫だろうか。……自分を、売っていないだろうか。
次々と、昔の思い出と、不安が浮かんでは消える。宴席に聞こえてしまうから、と両手で口を押さえた。こんな声はあの場所にはふさわしくない。だから、飲み込んでしまおう。
「セイル……、アイン……」
自分のことを「おねえちゃん」と呼んで慕ってくれた弟たち。毎日朝から夜まで働いていた父と母。そして、兄と姉。みんなで寄り添ってしのいだ寒さを思い出す。
「……ぅぁっ」
嗚咽が喉からこぼれるのを、必死で抑え込む。
(どうか誰にも聞こえていませんように。――生まれたばかりのあの子は、こんな気持ちを味わいませんように)
ひっそりと、ただ、祈った。
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「いや、よかったですね」
宵の口、無事に邸まで戻ってきたウィルは、紅茶のカップを両手で包み込んで息を吐いた。
「はい、だんな様は、忙しくありませんでしたか?」
その向かいで紅茶を飲むアンジェラは、少し緊張しながら同じようにカップを持っている。この邸に来てから十日と経っていないのに、アンジェラはここへ来るまで存在しか知らなかった紅茶を、既に味に慣れるほどに飲んでしまっていた。お茶は嗜好品のはずだが、本当に貴族というものは、嗜好品を消費する人種なのだと、頭の端っこの方で考える。それというのも、アンジェラがとうとうウィルと二人きりになってしまったことを、意識したくないからだ。これまで、昼間はシビントン夫人がいたけれど、今後はそうはいかない。つまり、この状況に慣れなければいけないのだ。
「あの、色々な人と、お話されていたようでしたけれど」
あの宴席の中、ウィルは酒や食事を勧められながら、領民の様々な訴えに耳を貸し続けていた。それこそ、本来は誕生祝のはずだったのに、その一角だけは、別空間に感じるくらいに。
「いいんですよ。あれが、私の仕事ですから。―――アンジェラこそ、台所を手伝っていたのでしょう? 疲れていませんか?」
ふるふると首を横に振ったアンジェラに、ウィルはまだ酒が残っているのか、少し上機嫌な表情を浮かべていた。
「幸い、色々と食べてしまったので、今日の夕食は必要ありません。いつでも休んでいいですからね?」
「はい」
頷きながら、アンジェラは休めるはずもないことは理解していた。身体は確かに疲労を訴えている。だが、宵の口に寝てしまうことに、罪悪感を覚えてしまっていた。
「私は、少し仕事をしてから休みます」
紅茶を飲みほしたウィルは席を立つと、そのまま書斎へと向かった。
(目が、赤くなっていましたね)
ずっとアンジェラのことを気にかけていたわけではないが、少女の目が泣いた後のように少し腫れていたことには気づいていた。理由を問いただすのもどうかと思ってできなかったが、自分が町の人々の話を聞いていた時に、何かあったのだろうか、と考える。……と、あくびがこみ上げた。
「今日はさすがに疲れましたね。アンジェラも早く休んでくれるといいのですが」
眠気を振り払うように頬を軽く叩くと、書斎の机に向かう。今日、耳にしたばかりの苦情、陳情、改善案をまとめておく必要があった。
「橋の老朽化と、春先の花祭りの予算改善……」
もしかしたら、税金を増やすことも考えなくてはならないかもしれない。別の場所からひねり出すか、金をかける以外のことでやりくりするか、悩みながらも、思い出すままにペンを走らせる。
そんなウィルの耳に、階下で扉の閉められる音が届いた。続いて階段を上がる小さな足音。
(アンジェラも、疲れたみたいですね)
最後にパタンという音がして、静寂が戻る。彼女もどうやら自室に戻ったようだ。
「さて、もうひと頑張りしますか」
あくびを噛み殺し、ウィルはペンを握りなおした。
―――鳥の声と朝の光で目が覚めた。と、同時に、アンジェラはぎょっとして身を起こした。
「だ、だんな様?」
すぐ目の前にはウィルの顔があった。端正な顔立ちと、さらりと流れる銀の髪に、アンジェラの顔がカァッと熱を持つ。
2、3拍ほど見つめてしまったところで、昨晩は疲れてしまっていて鍵を閉め忘れていたのだと気が付いた。眠っている間に夜のだんな様が来たことは容易に想像できた。自分の体を見下ろして、特に変わったところも着衣の乱れもないことだけを確認して、ようやく鼓動が落ち着く。
「隣で眠っていただけですか?」
小さく囁いてみたところで、返事がないことは分かりきっている。昨日はウィルも疲れていたはずだ。
考えたところで仕方がないと割り切って、アンジェラは布団から抜け出した。眠るウィルの様子をちらちらと伺いながら静かに着替えると、音を立てないように階下へ降りていく。
(昨日は、びっくりしたよね)
朝からシビントン夫人の体調不良に慌て、そのまま昼頃に出産するまでは、ウィルが呼んで来てくれた産婆さんが来るまでは、緊張の連続だった。
その後は、一息つけるだろうと思っていたら、シビントン夫人の母であるメリッサから祝宴のお誘いがあって、知らない人の中に放り出されたことは、やっぱり気疲れが絶えなかった。
「名前、どうなったのかな」
誰にともなく呟きながら、勝手口から外に出る。うーん、と伸びをすると、冷たい空気に目が覚める思いだった。と、顔を洗おうとしたところで気づく。寒いと思ったら、昨日、井戸から汲み上げっぱなしになっていた桶に、氷が張っていた。
えい、と手近な石をぶつけて割ると、ぱりん、と音を立てて割れ、じわりと水がしみてくる。まるで、今のアンジェラの心境を示しているようで、なぜか笑いがこみ上げてきた。
緩衝材のようだったシビントン夫人が来られなくなったことで、アンジェラを取り巻く環境は随分と変わった。今日からは一人。いや、だんな様と二人きり。数日しか仕事を教わっていないけれど、それでも、何とかしなければならない。それがアンジェラの仕事なのだから。朝昼晩と食事を作り、掃除をして―――
「そういえば、食材ってどうしていたんだろう?」
素朴な疑問が浮かんだ。簡単なことほど、意外と教わっていない。
「だんな様に聞いてみるしかないのかな」
だんな様と話す時には、どうしても緊張してしまう。その一挙一動を見逃さないように、と。でも、これから二人きりになってしまうのならそれも克服しないといけない。
「……あぁ、そっか」
ふと、昨日、頭を撫でてくれたことを思い出し、何とかなるかもしれない、と思った。
仰いだ冬空は、憎らしいぐらいに透き通って青かった。




