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ひとつの空にあるように  作者: 長野 雪
出会いの冬
11/57

11.懐かしい声に支えられ

※出産に関する描写があります。

「……だんな様」


 ウィルは差し出された紅茶を受け取った。ようやく動揺が落ち着いてきていたが、それでも、シビントン夫人の様子を見る限り、あまり悠長にはしていられないのだろう。

 ふと、斜め前に座ってシビントン夫人の腰を当てられているアンジェラの手が、小刻みに震えているのに気が付いた。


「アンジェラ?」


 声を掛けられ、ウィルを見上げた少女は、何かを言いかけて、再び口を閉じてしまった。そんなアンジェラの手を、そっと包み込んだのは、先ほどまで痛みに苦しんでいたシビントン夫人だった。


「大丈夫よ。だから、そんなに震えないで」


 疲れているだろうに、優しく声を掛けるシビントン夫人に勇気づけられ、アンジェラはゆっくりと顔を上げた。その瞳は、まっすぐにウィルを射抜く。


「だんな様。シビントン夫人を動かすわけにはいきません。陣痛の間隔からしても……その、ここで、出産をさせていただくことはできないでしょうか」


 その発言に慌てたのは、彼女の背中を押したはずのシビントン夫人だった。


「アンジェラ? いえ、大丈夫よ。大丈夫です、領主様。ただ、今日はお休みをいただければ……」

「ダメです! そんな状態で、寒い中を歩いて戻るんですか? そんな無理はしちゃいけません!」


 アンジェラは、立ち上ろうとしたシビントン夫人を押しとどめた。妊婦に無理をさせてはいけない。それは、アンジェラが2度経験した母のお産で思い知ったことだ。


「構いません」


 アンジェラとシビントン夫人は、揃って口を閉じた。誰の返事だったのか。何に対する返事だったのか、とお互いの目に困惑の光を見てとって、発言者に向き直った。


「シビントン夫人。これから、ご主人と、誰か手伝いのできそうな人を連れてきます。……それまで、大丈夫ですか?」


 紅茶を煽るように飲み干し、ウィルが立ち上がった。


「アンジェラ、私が戻るまで、夫人を頼みましたよ」


 返事も聞かず、ウィルは部屋を出て行った。階段を上がる足音が聞こえたところで、ようやく二人の理解が追いつく。


「ここ、で?」

「……だんな様、許可してくださった?」


 顔を見合わせたところで、夫人を何度目かの痛みの波が襲い、アンジェラは慌てて腰を摩った。空いていた手を、夫人の手に滑り込ませて、ぎゅっと強く握る。


「大丈夫です。あたし、これでも8つのときに弟を取り上げたんです。だから、安心してください」


 夫人は痛みに耐えながら、返事の代わりに手を強く握り返した。


―――8歳のとき、弟を取り上げた。これは本当。

 でも、あの時は、色々な人が助けてくれた。たとえば、隣のおばあさん。たとえば、お向かいのお姉さん。2軒向こうのおばさん。

 アンジェラは、経験者である彼女らの指示に従って、弟を取り上げたのだ。

 記憶の奥底に沈んでしまった、あのときの記憶を掘り起こせ、掘り起こせと命令する。でも、出来のよくない自分の頭は、違う記憶ばかりを掘り当ててしまう。

 忌まわしいご主人様の記憶、犬小屋の記憶。……違う、これじゃない。もっと前の。

 初めての弟が生まれた日。……これも違う。もっと後の。

 あの時のことを必死で思い起こす。何を用意しろって言われたっけ? 何が必要になったんだっけ? 何を準備したんだっけ? 何を借りたんだっけ?


「アン、お湯を沸かして!」

「アン、清潔な布はないかい?」

「アン、床が汚れるから、下に何か敷くものを!」

「アン……!」


 頭の中にこだまする言葉に何とか整理をつけながら、アンジェラは数秒だけ目を閉じた。


「シビントン夫人。とりあえず、準備にとりかかるので、少しだけここを離れます」


 暖炉のそばに半分横になった夫人が頷くのを確認してから、アンジェラは走った。

 自分に割り当てられた部屋に駆け込み、クッションをいくつも寝台から持ち出すと、今度はそれを抱えたまま、1階のリネン類が置いてある部屋へ向かう。そこには新しいシーツと古いシーツが分けてしまってあると、夫人から教えてもらったばかりだ。

 きれいな手ぬぐい。お湯を張る桶、なにか掴むもの……。

 頭の中で響く記憶の中の懐かしい声に従って、アンジェラは用意できるものを片っ端から部屋に持ち込んだ。

 夫人の腰にクッションをあてがったり、古いシーツを敷いたり、痛みを耐える夫人の腰をさすったり、お湯を沸かしたり……


「大丈夫! 大丈夫ですから、落ち着いてください」

「でも、もうだめ、よ。……も、いたく、て」


 夫人を励ましながら、そう、まるで、産婆と夫とその他すべての行動を一人でさばきながら、必死で記憶を呼び覚ます。

 痛みの間隔がほとんどない。これは、もう……


「だめじゃないんです! なんとか赤ちゃんだって生まれてこようって頑張ってるんですから! お母さんが頑張らないで、どうするんですか!」


 少女の口から出た言葉は、そのまま誰かが母にかけた言葉だった。


「そう、ね。がんばらない、と」


 気を取り直したのか、ぐっと拳を握る夫人の汗を、アンジェラはそっと拭った。


「もうすぐだんな様が、産婆さんとか、旦那さんとか連れてきてくださいます。それまで、頑張りましょう!」


 勇気づけながら、アンジェラは何となく、間に合わないような気がしていた。―――そう。間に合わない。赤ちゃんは、もう、出て来ようとしてるんじゃないか、と。


(このまま、赤ちゃんを待たせてもいいの? 危険じゃないの? でも、お医者様でもないのに、そんな判断なんて―――)


 虚空を睨むように考え込むアンジェラの顔が、次第に険しいものに変わっていく。


「……アンジェラ?」


 ただならぬ様子に、問いかける夫人の声すら、遠くに響いた。


(迷ったときは……)


 隣のおばあちゃんの、偉大な一言が、頭の中によみがえった。


「自然に、まかせて」


 小さな声で反芻したアンジェラは、決意に光る瞳で夫人を見つめた。


「シビントン夫人。……もう、生む態勢に入りませんか?」

「え?」

「あまり、赤ちゃんを待たせてはいけない、そんな気がするんです」


 絶え間なく続く痛みに、赤ちゃんだけでなく夫人が持たないんじゃないかという不安がよぎったのも確かだ。


「これ以上、待っても、シビントン夫人の体力が奪われていくだけだと思うんです。だから―――」


 そっと夫人の額の汗を拭うアンジェラの決意に、夫人も頷いた。最良とは言えない決断かもしれないが、お産に臨む者、手伝いをする者の間に、決意が通じ合ったのは確かだ。そうして、たった二人の、子供の生を掴むための戦いが始まった。



.。:*·˚+.。:*·˚+.。:*·˚+.



「もう! あの子は、なんで黙っているのかしら!」


 馬車の幌の中、白い布をこれでもかとカバンに詰めた、中年の婦人が苛立たしげにつぶやいた。


「まぁまぁ、お義母さん。落ち着いてください」


 宥めようとしているのは、その隣に座るひょろりと痩せた男性だ。


「まったく! 痛みが来ているなら来ているって、ちゃんと言えばいいのに!」


 ぷんぷんと怒り続ける婦人の後ろには、彼女と同じか、もう少し年嵩としかさの女性がいる。彼女が産婆だ。幌の中で彼女だけが落ち着いた佇まいでじっと座っている。


「もうすぐで着きます」


 御者台で手綱を持つ青年――ウィルは、時々後ろの様子を振り返りながらムチを振るっていた。


「申し訳ありません。領主様」


 荷台に乗った男――フォレス・シビントンが頭を下げる。彼を乗せてから、かれこれ十回を超えようかという謝罪だった。


「ですから、いいんですよ。……実を言うと、私もこんな場面に居合わせることができて、嬉しいんですから」


 これ以上、気を遣わせないように、ウィルは微笑みを浮かべた。嬉しいと口にしつつ、心の中でとぐろを巻いている未知のものへの不安は表には出さない。

 開け放たれたままの門をくぐり、そのまま玄関横に馬車を付けると「着きました」と声を上げる。次々と母と産婆と夫が降りるのを待って、ウィルも御者台から飛び降りた。

 そして、彼らが玄関を開けた直後、耳に届いたのはむせたような猫の泣き声だった。

 顔を見合わせた彼らが玄関ホールを突っ切ってその部屋に駆け込んだ時、そこにいたのは、ぐったりとした元・妊婦と、腕まで血にまみれた少女と、元気よく泣き声をあげる赤ん坊だった。へその緒がまだ繋がっている状況を把握し、一番に動いたのは、産婆だった。

 腰に巻いたポケット満載のエプロンから糸とハサミを取り出すと、テキパキとした手つきで、へその緒の処理をする。


「ん、お湯も用意してあるし、清潔な布も十分にある。よくやったね」


 言葉少なくアンジェラを労った産婆は、用意していた熱湯と水とを、あっさり適温のお湯にしてしまうと、使えると判断したアンジェラにそのまま産湯を頼む。

 新しい生のための、色々なことが為されていくのを呆然と見守っていた新米父親は、産婆と義母に呼ばれ、おそるおそる自分の妻に近づいた。


「さ、気を抜くんじゃないよ。まだ後産ってもんがあるんだから」


 叱咤激励の言葉をかけて、それまでずっとアンジェラが立ったいた場所に、ベテランの産婆が立つ。それだけで、安堵の息を洩らしそうになったシビントン夫人は、産婆の言葉を理解するなり「え?」と隣の母親に目を向けた。


「お腹の中で赤ちゃんのゆりかごをしていた部分も、出しておかないといけないのよ」


 そして、一番の大仕事を終えた妻に「今度はついているからな」と夫が声を掛けた。

 そんな家族から少し離れたところで、アンジェラは気の抜けるような泣き声を上げ続ける赤ん坊を、器用に産湯につからせていた。その顔は微笑んでいるようだった。

 その後、無事に後産を終えたシビントン夫人の母親に、新品のネルにくるませた赤ん坊を渡す。ようやく、母親と赤ん坊が握手が交わされたのを見てとると、そこで初めてアンジェラは自分の姿に気が付いた。初日にシビントン夫人から渡されたばかりのエプロンは、あちこちに赤っぽい染みが散っている。自分がここにいる必要はないと、エプロンを脱いで外の水場に向かおうとしたアンジェラは、部屋の入口に立ったままのウィルを見つけた。


「あ、の、だんな様?」


 ウィルは何も言わず、まじまじと少女を見つめていた。彼女の顔は、疲れに彩られているものの、どこか晴れやかな顔をしている。


「よく、がんばりましたね」


 ウィルは、そっと手を伸ばすと、アンジェラの頭を撫でた。少女は目をぱちくりとさせて、それを見上げる。

 頭を撫でている手から、腕をつたって、ウィルの顔へと視線をゆっくりと動かした。


「アンジェラ?」


 不審に思って問いかけたウィルに、少女は慌ててお辞儀した。「なんでもありません、ありがとうございますっ」と言い逃げると、横をすり抜けてあっという間に玄関から外へ飛び出して行ってしまった。

 そんなアンジェラを不思議そうに見送っていたウィルは、「領主様」と呼びかけられて視線を室内に戻した。


「どうも、申し訳ありません。家内を城の中で出産させていただくなんて……」


 フォレスは目に涙を浮かべながら、なぜか握手を求めてきた。それに応えながら、ウィルはすぐさま領主の仮面をかぶる。


「いえいえ、こちらこそ、夫人にはお世話になっておりますから。私の方こそ、臨月にも関わらず働かせてしまうような真似をして、申し訳ありません」


 そのウィルの言葉に感謝しているのか、それとも別の理由があるのか、フォレスの目からは涙があふれ出していた。まるで、涙腺が壊れてしまったようだ、とウィルは心の中だけで半歩身を引いた。


「それにお礼でしたら―――」


 さきほど外に出て行ったアンジェラを探す仕草をすると、フォレスもすぐにわかったようだ。


「えぇ、あの女の子ですね。家内にも聞きました。勇気づけてもらっただけでなく、子供まで取り上げてもらってしまって……」


 あふれ出した涙を拭うフォレスの肩の向こうでは、産婆が新しく母親となったシビントン夫人に何かを教えているようだった。それを、隣で赤ん坊を抱いた新米おばあちゃんも、頷きながら熱心に聞き入っている。

 日ごろ静かな邸の中が、幸せな騒がしさに包まれているのが不思議で、ウィルはどこか遠くを見るような目をした


「あの……だんな様」


 いつの間に戻ったのか、アンジェラがウィルの袖を小さく引いていた。


「その、みなさんにお茶を出してもよろしいでしょうか? その、お茶の葉が高価なことは知っていますけれど、でも―――」

「えぇ、ぜひお願いしますね、アンジェラ」

「はい」


 だんだんアンジェラの怯えるポイントが分かってきたのか、ウィルは彼女の言葉を遮るように許可を出した。アンジェラはアンジェラなりに考えていることがあって、けれど、それが主の不利益にならないか、主の不興を買わないかと、常に身構えているのだ。ならば、自分で考えることが、どれだけ良いことなのかを教え、導いてやればいい。そう思えるほどには、ウィルも彼女のいる生活に慣れてきた。

 もう、ほとんど準備していたのだろう。ほどなくお茶を運んできたアンジェラは、産婆やフォレスにカップを渡していく。その途中、授乳期にとってはいけない飲食物について産婆に注意をされ、慌てる場面も見られた。


「いい子ですね」


 いつの間に涙をひっこめたのか、フォレスがウィルに声を掛けた。


「前の職場がとんでもなく厳しかったようだと家内が言っていましたが、―――あんな様子をみると、まだ子供らしく見えますね」


 夫人に促されるように、まだちっちゃい赤ん坊の手に指を差し出しているアンジェラは、珍しく年相応に幼く見えて、ウィルは「確かに」と同意した。



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