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ひとつの空にあるように  作者: 長野 雪
出会いの冬
10/57

10.記憶の中のあの人

―――あの時、嘘をつき通せばよかったのか。それとも、もっと前にすべての真実を明らかにしておけばよかったのか……。

―――何言ってるの! そんなことより、今日のメシをどうやって調達するのかを考えなよ! そりゃ、元は貴族だったのかもしれないけど、今ここにいるんだったら、まず自分が生きてることを確認して、ついでに懐具合も確認する! 懐が寂しかったら、ぐじぐじ悩む前にもっとやることあんだろ?

―――ここに住んでいる人間は、考え方がシンプルじゃな。

―――あったりまえよ! 毎日が生きるか死ぬかの戦いなんだから、そんなくだんないことで、イチイチ悩んでらんないって!

―――それもそうじゃの。せめてこの老いぼれが足手まといにならんようにせんとな。



.。:*·˚+.。:*·˚+.。:*·˚+.



「と、これが私とあなたの名前です」


 目の前で流麗な字を書いて見せたのは、主であるウィルであった。その向かいに座ったアンジェラは、居心地悪そうにお尻をもじもじと動かす。

 仕事に支障が出てしまうなら、とアンジェラは渋々、ウィルから文字を教わることにした。もちろん、新しいことを覚えるのが嫌なわけではない。ただ、教師役を主にさせることが問題なのだ。

 最初に教わったのは基本となる26種類の文字だ。これらの組み合わせで言葉を表せると聞いて、アンジェラは驚いた。まずは、これらを覚えることから始めた。

 そして、今、ウィルの略式の名前と自分の名前の綴りを教えてもらったところだ。ちなみに、ウィルの正式な名前というのはとても長いものらしく、本人も書きたくはないらしい。


「……」


 アンジェラは、教わったばかりの文字と格闘しながら、お手本を指でなぞっていた。


コン、コン


「領主様、少しよろしいでしょうか?」


 シビントン夫人に呼ばれたウィルは、部屋の入口で何か話し合っているようだった。その話題が、どうやらシビントン夫人の給金の話だと分かって興味をなくしたアンジェラは、再び手本に向き直った。

 言われた通りに3回ずつ基本の文字をなぞり終えたアンジェラは、恐る恐るペンの先にインクをつけて、粗悪品だから自由に使うように言われた紙におそるおそる乗せた。じわりとインクが滲むので、慌てて指で覚えた形を紙の上に広げる。

 最初に書いたのは、自分の名前ではなくウィルの名前だった。そう要求されたのではなく、こちらを優先させるべきだとアンジェラが判断したのだが……


(あれ?)


 略称の姓の部分を書き終えたところで、アンジェラの記憶に引っかかるものがあった。これと似たものを見た記憶が、いや、書いた……?

 アンジェラは震える手で、たった今書いたばかりの名前の隣に、つい先日、カークの前で見せたばかりの『記号』を描いた。前のご主人様のところにいたときに見た、宗教画、の―――


「おや、アンジェラ。飾り文字も書けるようになったんですか?」


 いつの間に話を終えたのか、ウィルがアンジェラの手元を覗きこんで来ていた。


「飾り、文字、ですか?」

「えぇ。……意図して描いたものではないのですか? 本来は、格式ばった手紙の宛名や、契約など特別なサインの場合にのみ使用される文字ですよ」


 血の気が引いたアンジェラの指先から、カタン、とペンが転がり落ちた。


(あたし、もしかしたら、とんでもないことを――――)

「そうそう、アンジェラ。今、シビントン夫人とも話をしていたのですけどね、あなたのお給金の話ですが」


 ショックで呆然としていたアンジェラは、予想だにしない単語に一気に現実に引き戻された。


「! とんでもないです。あ、あたしはだんな様にもらわれた身なのですから、そんな、お金なんて……」

「そういうわけにはいきません。一か月あたり銅貨2、30枚程度は出します」


 ウィルの告げた金額に、アンジェラの顔が凍り付いた。

 まだ、少女の記憶には自分につけられた価格が刻み込まれているのだ。あのとき、まだ10歳だったアンジェラは、その年齢・性別にしては破格の銅貨20枚で取引された。実際に彼女の手に入ったのは手数料をとられた銅貨18枚だが、それでもあのときを凌ぐには十分なものだった。

 それが、たった、一か月、それも、こんな優遇された状態で、なんて、彼女の中の金銭感覚が軋みを上げる。


「受け取れません」

「そういうわけにもいきませんよ。働いてもらっているからには、十分な額は支払わなくては。……私はあなたを買ったわけではありませんから」


 一歩も引きそうにない主を見て、アンジェラは心の中で嘆息した。何を言っても、あの頃の金銭感覚とドン底の生活を知らない彼が、生まれ落ちた時から貴族としての生活を送っているウィルには分かってもらえないだろうという確信があった。

 それならば、話題をすり替える方へと仕向けるだけだ。


「だんな様。あたしはここに来る途中に『娘兼小間使い』ということで承諾しました。自分の娘に給金を払うことは間違っているのではありませんか?」


 忘れていたかった『娘』という言葉を使ってまでも、アンジェラは給金を受け取らないことに固執した。自分の、こんな大したことのない労働に払われる対価が、あのころの自分を冒涜しているように思えて仕方がなかったのだ。


「いえ、それとこれとは話が違いますよ。それに『娘兼小間使い』なら、小間使いのあなたに給金を支給することは間違っていないと思いますが」

「それでも、あたしは受け取れません。そんな大金……」


 思わず自分の口から出た『大金』という言葉に、アンジェラは慌てて口を押さえた。高ぶった感情を宥めようとするものの、震える肩は隠しようもない。

 だが、そんなアンジェラを見るウィルの方に、何か勘づくところはあったようだった。


「わかりました。では、給金の代わりに『娘貯金』ということで、積み立てておきます。何かあった時に使えるように」

「……はい、だんな様」


 これ以上の妥協はないと悟ったアンジェラは、こくりと頷いた。その瞬間、何故か昨晩の記憶がフラッシュバックする。思い出したのは、アザミと四本足の動物だった。

 もしかしたら、今朝のカークの去り際の「いいこと」というのは、これだったのだろうか。そう考えたアンジェラは、少しだけ不機嫌そうに見えるウィルに対し、話題をこちらに持っていくことを思いつく。


「あの、だんな様?」

「何でしょう? どこか分からない綴りでも?」

「いえ、書き方は大丈夫だと思います。そうではなくて、えぇと、アザミと四つ足の動物の紋章を持つ方をご存知でしょうか?」


 ウィルの顔が明らかに変わった。固く強張った表情で、その青い瞳が真っ直ぐにアンジェラを見つめる。


「それは、……何の、話ですか?」

「昨晩のことなのですが、近所に住んでいたおじいさんの話をした時に、お二人とも知っていらっしゃるような口振りでしたので、……その、今朝のティオーテン様のお話はそれかと」


 会話を思い出しながら答えるアンジェラに対し、ウィルは額に手をあてて「詳しく話してください」と呟くように促した。


「信じぬ者は猜疑によって自らを滅ぼし、疑わぬ者は他人の手によって滅ぼされる。その言葉をっ?」


 突然、両肩を掴まれてアンジェラの声が跳ねた。いつの間にかウィルの顔が彼女の真正面に迫っていたのだ。


「それを、言ったのですか。その人が?」


 今までにない切羽詰まった様子に、アンジェラは驚きよりも先に距離の近さに恐怖を感じた。


「アンジェラ。教えてください。その方は今、どこに?」


 その剣幕に、アンジェラの体が震える。いつになく激しく聞き出そうとするウィルに対する驚きと恐怖で、心臓がぎゅっと縮むような思いがした。


「あ……の、だんな様。その方は、あたしの住んでいたところの、ほんの五件ほど先に住んでいました。でも、2年も前のことなので、今もそこにいるとは」

「クアントは? セラフィナは?」

「あの、フィーナさんとおっしゃるお孫さんはいらっしゃいました」


 ようやくアンジェラの怯えに気が付いたウィルは、慌ててパッと手を離した。


「すみません。アンジェラ。……少し、取り乱してしまいました」


 アンジェラは自分の肩が解放されて、ようやく安堵の息を洩らした。


「まさか、ご存命だとは思わなかったので」


 目を閉じ、どこか遠い昔を見るように空を仰いだウィルに、アンジェラは逡巡するような眼差しを向けた。これ以上の情報を伝えるべきかどうか、と考えて、……考えた挙句に、口を閉ざすことにした。聞かれるまでは答えないようにしよう、と。


「アンジェラ」

「はい、だんな様」

「その方について、いえ、その方々について、他に何か知っていることはありますか?」

「フィーナさん……いえ、セラフィナ様ともお話をしたことがあります。確か、それまではもう少しよい暮らしをしていたのを、働き手であった兄が亡くなってしまったからという話をされていました」


 アンジェラの言葉に、ウィルのまぶたが震えた。


「そう、ですか。クァントは、もう……」


 アンジェラが敢えてウィルに伝えていない情報はまだあった。これ以上、重ねて尋ねてくるだろうか、と思いながら、じっと主の次の言葉を待つ。

 だが、続く質問はなかった。


「……だんな様、あたしはこれで失礼します。今日はありがとうございました」


 自分が書き散らかした紙と、ウィルの書いた手本をまとめ、アンジェラは頭を下げる。そろそろシビントン夫人の手伝いに戻らなければ……これ以上、下手なことを聞かれないうちに、と立ち上がった少女を、ウィルが呼び止めた。


「アンジェラ、あなたの、住んでいた場所というのは?」

「申し訳ありませんが、あたしは、あたしの住んでいた場所がどういう名前で呼ばれていたのかもわかりません。ですが、ティオーテン様も同じことを言っていました。結局は、あたしが売られた時期を聞いて、そこからまず奴隷市場の位置を逆算する、と」

「そう、ですか。カークの情報網に任せた方が良さそうですね。……待ちますか」


 ウィルの言葉に小さく頷き、アンジェラは今度こそ部屋を出た。だんな様の気が落ち着くまでは、しばらく書斎に立ち入らない方が良さそうだ、と考えながら、一度自分の部屋へ向かう。


(あの二人が、どうやって暮らしているか、は、言わなくてよかったことだよね)


 自分からは言い出さなかった情報のことを考えると、少しだけ胸が痛む。でも、きっと今のだんな様に告げたところでどうしようもない情報だ。彼が気に掛けるフィーナが、今は春を売って暮らしている、だなんて。



.。:*·˚+.。:*·˚+.。:*·˚+.



 夕食後、ウィルは言葉少なに自分の部屋へと引き上げてしまった。ここ数日は何かとアンジェラとコミュニケーションをとろうとしていただけに、珍しいことだと思うが、やはり、あの二人のことが気になるんだろうと、アンジェラは結論づけた。

 仕事を終えたアンジェラだったが、何となく自分の部屋に戻る気にもなれず、台所の小さな作業台に腰掛けていた。

 ぼんやりと思い出すのはあの老人のことだ。あの人のしてくれる話は今までに聞いたことのない話ばかりで、よく小さな弟を連れて聞きに行ったものだった。ときどき、あまりにくだらないことで悩むものだから、子守りの延長みたいなもので叱り飛ばしてしまったのだけれど。


「まさか、本当にお貴族様だったなんて」


 確かに、日々を生活していくことにためらいばかり持っていたと思う。当時の自分は、悩んでいたって誰のお腹もふくれないし、よくこの年まで生きて来れたものだと感心していたのだけれど、それは随分と的外れだったようだ。


「なんだぁ? こんなところで」


 アンジェラは、背筋をピン、と伸ばした。いつもよりずいぶんと早い時間のお出ましだ。


「だんな様、……いえ、ウィルフレード様」

「なんだ? お前もまさかあのじいさんのこと考えてたわけじゃないだろうに。―――なんだ、図星か。カークに渡し損ねた情報でもあんのか?」

「いいえ、あのおじいさんとは、何度かお話をしたことがあったので、少し、思い出していただけです」

「そうか。まぁ、生きてるだけで驚きもんだったが。……茶、入れてくれよ」

「お酒でなくて、よろしいのでしょうか?」

「昨日、飲み尽くしちまったからな。誰かさんと一緒に」


 台所に立ったアンジェラは、燻っていた炭をおこして、お湯を沸かす支度をする。


(そういえば、あのお酒って、どうやって調達していたんだろう?)


 ウィルの寝室に葡萄酒が数本置かれていたことは、掃除の時に見ていたが、今朝片付けた酒瓶には、それ以外の蒸留酒や麦酒などの瓶もあったことを思い出し、首を傾げた。まさか、全てカークが持ってきたわけでもないだろう。


「そういえば、アンジェラ」

「はい、なんでしょう。だん……ウィルフレード様」

「お前、いつになったら、泣いたり笑ったりすんだ?」


 聞き返すこともできず、アンジェラの動きがぴたりと止まった。


「いや、最近のヤツの日記がだいたいお前のことばっかでよ。日記の最初か最後にあんだよ。『いつになったら感情を素直に出してくれるのか』ってな。読んでるこっちも、いい加減うざくて」

「……」

「……」


 きまずい沈黙が流れる。

 シュンシュン、とお湯が沸いた音で、ようやくアンジェラが動きだす。ポットとカップを用意したところで「お前も付き合えよ」と声が飛んできたので、カップは二つ取り出した。


「ウィルフレード様、どのお茶がよろしいでしょうか」


 シビントン夫人に教わった通り、いくつか銘柄を挙げるアンジェラに、ウィルがその中の1つを選択した。

 ポットにお茶の葉を入れ、砂時計をひっくり返す。蒸らす間の微妙な空白が、二人の心を重くした。


「……あの」

「なんだ?」

「あたしは、そんなに表情が乏しいのでしょうか?」

「お前、笑わねぇじゃん。驚くか、怯えるか、そのぐらいだろ?」


 思い当るふしがあって、アンジェラが考え込む。だが、砂時計を一瞥すると、カップに紅茶を注ぎ始めた。赤茶色の液体から、芳醇な香りが匂い立つ。


「できる限り、努力します」


 湯気に紛れ込ませるように呟いた言葉をちゃんと拾ったウィルは「ま、あせらずやれや」と軽く返事をした。



.。:*·˚+.。:*·˚+.。:*·˚+.



 とりあえず、夜のだんな様は腕枕で満足するらしい。

 確信を持ちながら、アンジェラは目を覚ました。だんな様が起きないうちに、そっとベッドから出る。


 昨日は昼のだんな様が早く寝たようだから、早起きの可能性がある。何より、だんな様の寝室で寝ているという事実を知られたくはなかった。

 アンジェラは、ぶかぶかの室内履きでそっと部屋を出る。そのまま、刺すような寒さの廊下を歩き、自分の部屋で着替えると階下へと降りていった。


「まだ、来てないのかな?」


 シビントン夫人の姿を見つけられずに、アンジェラはそのまま外へ出た。まだいつもより早い時間なのかもしれない。井戸の脇に置いた桶には、うっすらと氷が張っていた。かじかむ手に息を吹きかけて水を汲み上げたアンジェラは、そのまま顔を洗う。冷たい水が一気に彼女の眠気を追いやった。


「アンジェラ、早いのね」


 声をかけられ、それがシビントン夫人なのだと気づいたアンジェラは、弾む胸を押さえながら振り向いた。彼女は大きなお腹を手で支えながら歩いてくる。おそらく、丘の上にあるこの邸に来るのも辛いのではないだろうか。額には、うっすらと汗が浮かび、息は乱れていた。


「おはようございます。シビントン夫人」


 アンジェラは、まじまじと夫人の顔を見た。


「あの、顔色が―――」

「あら、やだ、そうなの? でも、大丈夫よ。ちょっと体がだるいだけだし」


 微笑む顔もどこか青い。その顔色に、アンジェラは母親を思い出した。いつだったか、弟がお腹の中にいた時だ。今の夫人のように青い顔をして帰ってきて―――


「だめです! ちゃんとおやすみとらないとダメなんです! お腹に赤ちゃんいるんですから……!」


 とりあえず中に入りましょう、と、アンジェラは夫人を先導して歩いた。そこで、まだ暖炉の火をおこしていないことに気づき、薪を取りに裏手にまわる。


「先に行っていてください。昨晩、薪が終わりかけだったので、取ってきますから」


 こういうところはお金のあるお邸で良かったと思う。

―――あの時は、できるだけ毛布や服を集めて、みんなで母に寄り添って、あっためて―――

 記憶が頭の中を疾走する。

 とりあえず、一度に運べる限界ぎりぎりの薪を持って、アンジェラは部屋の中に入った。だが、そこで、信じられないものを目にする。玄関に倒れている夫人。青ざめた顔は痛みに蹂躙されていた。


「シビントン夫人!」


 少女の叫びが玄関ホールに響き渡る。


「アンジェラ、……っ」


 何か伝えようと名前を読んだシビントン夫人だが、突然、襲いかかった痛みに呻き声を飲み込んだ。


「歩けますか? 歩けないなら―――」


 歩けないなら、どうしようというのだろうか? だが、こんな寒い玄関に一時たりとも置いてはいけない。


「だ、いじょうぶ。大丈夫よ。だから、……あぅっ」


 お腹を押さえて呻く夫人の様子に、アンジェラの心が決まった。薪を玄関ホールに置いて、夫人を運ぶべく肩に手をかける。


「アンジェラ? ! シビントン夫人!」


 声は、階段の上から響いた。アンジェラの見上げた先には階段を駆け下りてくるウィルの姿があった。


「だんな様!」


 頼みにしていいのか、それとも……

 ウィルを良い雇い主だとは思っているが、こんな時にどういった判断を下すのか分からず狼狽えてしまう。


「とりあえず、そちらの部屋まで運びます。アンジェラは先に行ってください!」


 胸を撫で下ろしたアンジェラだったが、そんな場合ではないと思い直し、部屋に残っていた薪で何とか火を起こす。そこにちょうどウィルに抱え上げられた夫人がやってきた。

 柔らかな毛足の絨毯に横たえられた夫人を横目に、火種を持って隣の台所に走る。かまどに火を移して湯を沸かし始めた。


「シビントン夫人、どこが痛みますか?」


 扉一つ隔てた向こう側から、慌てた様子のウィルの声が聞こえた。湯が沸騰するまでにかかる時間をみながら、アンジェラは駆け戻る。たぶん、という予感はあった。


「陣痛ですか? それとも別の?」


 え、と声をあげるウィルを視界にも入れずに問う。頼りにならないと考えているのではなく、純粋にそれを知った彼の反応が見たくなかったのだ。


「わ、からない、わ。でも、今は少しおさまってるみたい。起き抜けにも、少し痛みは来てたのだけど、でも、産婆さんの話では、まだ―――」


 息を整えながら答える夫人に、アンジェラは記憶を総動員して、これからどうすればいいのかを模索する。


「腰、痛くなってますか? さすった方がいいですか?」


 一番年の離れた弟が生まれたのは、三年前の春のことだった。その時のことを思い出しながら、1つずつ確認をしていく。


「え、まさか……」


 ウィルがようやくその可能性に思い立ったようで、驚愕の表情を浮かべた。


「あ、お湯!」


 忘れていた、とアンジェラは台所に駆け戻る。

 夫人の隣に取り残されたウィルの口から、決定的な言葉が洩れた。


「うまれるんですか?」


 白湯を入れようとしていた少女の耳に、それは確信となって聞こえた。



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