吸血
「……まだ足りないんでしょう。吸っていいわよ」
「は……?」
困惑気味の声が、背中から聞こえる。
瑠璃はため息をついて、再び口を開いた。
「ここでは止めてほしいけど、寝室でならいいわ。襲わないって、約束するならね。煽ったのは私なのだし……きゃっ!」
言い終える前に、彼は瑠璃を抱えて走り出していた。
景色が音速で駆け抜けるような感覚に陥る。
何、これ……。
こんな能力があるなどとは聞いていない。と思う暇もなく、レインは一つの扉の前でキキっと急ブレーキをかけ、その扉を開け放った。
入るなりばたりと扉が占められ、驚く間もなく天蓋付きのベッドに体が投げ出される。
窓から入ってくる月明かりだけが、その部屋を照らした。おぼろげに見えるレインの姿。
しゅるりとネクタイを外す彼の姿が、ひどく艶めかしい。
ドクリと心臓の音が聞こえるのと同時に、レインは瑠璃へと覆いかぶさってきた。
ぎしり、とベッドが軋む音がする。
突然の展開に狼狽しながら、瑠璃はこれから起こる痛みに備えてぐっと体に力を込めた。
しかし。
肩に口を近づけて、彼はぴたりと動きを止めた。
「……?」
何とか首を動かしてレインのほうを向くと、迷いを孕んだ瞳と視線が絡まった。
「何しているの」
聞くと、彼は視線を泳がせた。
「……いや、細くて」
ぽつりと漏らされた声に、きょとんとする。
細いって、肩が?
その言葉を理解しながらも、意味をはかりかねて瑠璃は首を傾げた。
何を言っているのだろう。女性の肩などみんな男性よりも細いというのに。
「噛んだら、折れそうだ……」
不安げに、瞳が揺れる。
それを聞いて、瑠璃は呆けたように口をぽかんと開けた。
何を言っているのだ。ここまでしておきながら。
私が馬鹿みたいじゃない。
いらいらとして、瑠璃は自分でドレスをひっつかんだ。
そのままぐいっと布地を引っ張り、白い肩をさらけ出す。
レインがぎょっとしたのが分かった。
「ふざけないで、私はそんなに弱くないわ。私がいいというのなんてこれが最後かもしれないのに、そのチャンスを逃していいの?」
挑むようにレインを見据えて高慢に言い放つ。
その言葉に、彼の瞳が光ったように見えた。そして、するりと頭が再び瑠璃の肩口に沈んだ。
瞬間、鋭い痛みが肩を走り抜ける。
「っ!」
覚悟は決めていた。驚いたものの、悲鳴は上げなかった。
代わりに、痛みをこらえるように彼の背に腕を回し、シャツをひっつかむ。
視線だけを彼へそそぐと、吸血しながらもやはり優しく肩を掴んでいるレインの姿が見えた。
何で、そんなに優しいのよ。
痛い思いをしてるのはこちらだというのに、彼のほうが痛そうな顔をしている。
そして何故か、この感覚は初めてではないような気がした。
どこかで……こんなことをされた?
こんな衝撃的な出来事があったらたとえ零歳でも体が覚えていそうなものだが、その記憶はない。しかし何かを体が覚えている。そんな感覚だった。
しばらくして、彼はふっと口を肩から離した。
そして、そのまま横へどさりと横たわる。
痛みが増幅して、瑠璃は顔をしかめた。
ずきずきと痛む肩を押さえたとき、レインがこちらへ顔を向けた。
無言で半身を起こし、青い顔で横たわる瑠璃の傷口に手をかざす。
すうっと暖かい風が通り抜ける感覚にそっと手を外すと、そこは綺麗に治っていた。元通りのまっさらな肌だ。
息をのむ。
「……痛かったよな、すまない」
綺麗な顔が歪むのを見て、瑠璃はぼんやりする頭でゆるゆると首を横に振った。
「治ったじゃない。別にもう痛くないわよ」
しかし動きたいのに体が思うように動いてくれない。吸われた血が多かったのだろうか。
何とか手を動かしてレインに触れる。
「あなたのほうがつらそうよ。少し休んだら」
「……ああ」
ギュッと手を握るレイン。
彼はそのままベッドに入り、瑠璃に毛布を掛けた。
ぎこちない動作で瑠璃を抱きしめる。
「すまない」
「また謝る」
何度も謝る彼に、瑠璃は思わず眉をひそめた。
「私が最初にいいって言ったのは、こうなることも覚悟の上よ。あなたが謝ることじゃないし、謝られるとこっちの調子が狂うでしょ」
だから普通にしてほしいと告げると、彼の表情がやっと和らいだ。
「分かった。だが、さすがにつらくないか。何か食べるか?」
なんだか急に労わるような視線を向けられて、瑠璃はぎろりとレインを睨み付けた。
「だからやめてって言ってるじゃない。お願いだから普通にしてよ。私をそういう風に扱うってことはつまり私を下に見ているってことで、私を見下しているってことよ。だからやめて」
反論の暇も与えずに告げると、彼は一瞬固まって、何とか首を縦に振った。
「……分かった」
その返答に満足げに頷き、瑠璃はレインの胸に頭を押し付けた。
瑠璃らしからぬ行動にレインが狼狽える。
「る、瑠璃?」
「寝るわ」
端的に告げると、瑠璃は目を閉じた。
レインは唖然として硬直しているが、そんなことを気にしている余裕はなかった。
血を吸われたダメージは思いのほか大きかったようで、疲労感が半端じゃなかったのだ。
一分もたたないうちに、少女の意識はまどろみの中へと落ちていく。
すーすーと寝息を立てる少女の小さい体を見つめて、レインは体から力を抜いた。
こんなにも小さい体で、それでも少女は強い。しっかりと地に足をつけて立っている。
凛とした声を思い出して、レインもまた、静かに瞳を閉じた。