戦場音楽・2
連合軍右翼の戦況は、一方的だった。
どだい、ベルベットと戦うには、ザーたちでは実力不足に過ぎた。上空から襲いかかるベルベットの魔法に、ザーたちは防戦一方であり、誰の目にもベルベットの勝利は目前と見えた。
無論、ザーとて歴戦の第八魔王軍において、将軍の地位を得る程の実力者であり、その配下も主力戦力に名を連ねられる程の手練れ揃い。ただの対空戦であれば、いくらでもやりようはあった。魔大陸では、空を飛ぶ相手との戦い方は、とうの昔に確立されているのだから。
しかし、醜悪姫ベルベットの醜悪姫たる所以が、ザーたちの反撃を許さない。
「滑空、来るぞ!! 回避、回避ぃ!!」
ベルベットが滑空姿勢に入ったと同時、ザーは仲間たちに全力回避を指示。凄まじい速度で飛来するベルベットの突撃を、ザーたちは余裕を持って回避する。しかし、動く事の叶わなかった戦場に根ざす植物たちは、ベルベットの攻撃を回避する事などできはしない。
グズグズと腐り始め、異臭を放つ植物。
茶色のなにかと化し、なおもジュウジュウとなにかを焼き続け、その周囲までも汚染し続ける。これこそ、ベルベットの参戦と同時に連合軍右翼が総撤退を開始した理由であり、彼女が醜悪姫と呼ばれる謂れである。
その毒々しい翅から放たれる鱗粉は、生物という生物を汚染し、腐食させる。触れて悪し、吸い込んで悪しと、接近戦を封じる絶対の防壁でもあった。一度放たれた鱗粉は、ベルベット自身にも制御できず、風向き次第では味方にも向かってしまう。平時は放出せずにいられるものの、戦闘中に放たれた鱗粉は、敵味方を問わずに腐らせるのだ。
味方である連合軍右翼が、早々に撤退したのも道理だろう。
世が世なら、ベルベットの参戦は国際条約でもって厳しく規制されてもおかしくない。醜悪姫ベルベットとは、つまりはBC兵器と同等の畏怖と忌避の念を、一身に受ける戦士なのだ。
上空から魔法を放つベルベットに、近接戦闘は許されず、同じように魔法を放つも、遠隔攻撃ではベルベットに利がある。ここにきて、数などなんの意味もない。ザーたちは一方的な劣勢を強いられていた。ベルベットの戦い方は、サイクロプスであるザーと最も相性の悪い類のものだったのも痛い。
おまけに、汚染された植物たちは、しばらくはその場に残り続け、触れれば肌が爛れてしまう。ザーたちの行動範囲は、狭まりつつあった。
ベルベットが確実性を重んじ、毒を使って行動範囲を狭める事に重点を置いていなければ、既に敗北していただろうと、ザー自身自覚していた。
一方的に嬲りものにされていたザーたちだったが、そんな苦境に嬉しい知らせが届く。
「援軍、援軍!! ヒリュシー殿だッ!!」
味方の歓喜の声に、ザーが自軍を振り返る。そこには、こちらに向かって飛翔する、翼人にして将軍であるヒリュシーがいた。同僚である将軍の参戦に、ザーはホッと胸をなで下ろす。このままベルベットとの戦闘を続けても、結末はジリ貧が目に見えており、ザーと同じ将軍の助けがきたのは、実にありがたい。
当然、この状況を自力で解決できなかった事には苦虫を噛み潰すような思いだったが、それでも勝利か名誉かと問われれば、勝利を優先するだけの分別はある。
無論、あのまま戦闘を続ければ、その名誉が示すのは、単なる戦死と同義であった事も、ザーの心情に深く寄与したのだろう。
そんな切迫したザーの思惑をあずかり知らぬ第八魔王軍としては、これ以上戦力を分散させたくはなかった。だが、ここでザーたちがベルベットに敗北すると、現在中央で戦っている軍勢の横腹が、あの醜悪姫に曝け出される危険に直面してしまう。そこをベルベットの腐敗毒に一網打尽にされてしまう恐れを思えば、ヒュリシーという虎の子を投入する事に、そう反対の声は上がらなかったのである。
第十二魔王軍のベルベットといえば、魔王に次ぐ危険人物として有名だった。魔王とは別の意味で、自由にさせると、魔王と同等以上に味方に損害が生まれるのだから、警戒しない方が愚かというものだ。
だからこそ、ザーたちで相手にならないのなら、第八魔王軍でも秘蔵と呼ばれる、新鋭の将軍を抽出したのだ。
ヒュリシーもまた、ザーと同じく新参と呼ばれる将軍である。元々、魔大陸の軍では翼人が重宝されるのだが、ヒュリシーはさらに魔法にも長じる逸材であった。上空からの魔法攻撃がどれ程の威力を持つかは、現在のザーたちとベルベットの戦闘を見れば明白だろう。
各将軍たちが重宝し、大事に育て上げたヒュリシーは、生え抜きばかりの第八魔王軍にしては珍しく、温室育ちの武人といえた。とはいえ、ここ魔大陸での温室が、必ずしも安穏とした場所であるとは、口が裂けても言えないのだが……。
白色と茶褐色の混じる羽毛が全身を覆う、ガンダルヴァのヒュリシーは、重量を意識した軽装に身を包み、武器は短槍と、腰の短剣のみである。重い武装で機動力が落ちるより、攻撃は躱してしまえばいいというコンセプトの装備である。
当然ながら、ヒュリシーもまた、ベルベットに接近する事は難しい。たとえ鱗粉を吹き飛ばしたところで、次から次へと放たれるそれを払い続けながら戦闘もこなすのは、片手落ちになりかねない。ゆえに、戦闘は遠距離魔法戦となった。
高速で宙を飛び回りながら、御互いに魔法を放ち合う。ヒュリシーが炎の矢を放てば、ベルベットは水の障壁を張りつつ回避行動をとり、次の瞬間には風の刃を放つ。それに対するヒュリシーも、通常の飛行速度を風魔法で加速させて、音速に近い速度でベルベットの背後を取る。
実力者同士のドッグファイト。多種多様な魔法と、それを掻い潜る高速機動はは、もしここが戦場でなければ、じっくりと観戦していたい程に見応えがあった。色とりどりの魔法の光と、その間を鋭く飛び回る二人の戦士。いかな魔族といえど、目で追うのがようやくといった速さの戦闘は、もはやショーじみが華やかさである。
地上では、紀元前のような戦況が広がるかたわら、上空では現代航空戦以上の空中戦闘が行われているのだから、そのチグハグさを感じられる一人の魔王にしてみれば、なんとも気持ちの悪い戦場だろう。なにより、彼には高空から俯瞰してなお、この高速機動戦を観測しきれないもどかしさがあった。どだい、一般人じみた動体視力では、理解も認識も追いつかない領域の戦闘である。
そんな戦いに、地上のザーたちもまた、手出しする事ができなかった。よしんば、地上から援護のつもりで攻撃を放ったとしても、下手をすればその攻撃がヒュリシーの行動を阻害してしまいかねない。残念ながら、ザーとヒュリシーには、高速空中戦闘を地上から援護できるだけのつながりが欠如していた。
しかし、ここで手を休めるべきかとザーは思案する。できる事なら、戦功で先の失敗を糊塗したいザーにとって、ベルベットとの戦闘をヒュリシーに譲ってしまった事は、痛恨事であった。であれば、ここは次の戦果を求めるべきだろう。
ザーの視線は、予備戦力を剥がれた、しかも一度崩れた連合軍右翼を吸収する為、右往左往している敵本陣に向けられた。
魔大陸の戦における本陣というものは、適切な時期まで主力を温存する場所であり、つまりは戦場で最も戦力が集まっている場所である。そんな場所に、この程度の人数で突撃を敢行するなど、ほとんどただの自殺と同義である。だが、それでも魔王に魔法の一発でも使わせれば、ザーの立場としては大戦果である。後々必ずある、最高戦力同士での直接戦闘において、その一発の魔法が勝敗を決する事すらあり得るのだから。
決断したザーの行動は早かった。手早く配下の幹部たちを再編し、連合軍右翼を吸収して大きくなった敵本陣に向かって、駆け始める。その行動は、まるでベルベットが現れる前の状況に酷似していたが、一つだけ大きく違う点が存在した。
それは、既にザーの存在は連合軍側に視認されてしまっており、奇襲にはならなかったという点だ。ザーの突撃は、冷静に守勢を保った連合軍本陣の前衛に押しとどめられ、ザーたちに適した戦力の投入という、連合軍左翼でブギャンが強いられたような戦闘を、今度は第八魔王軍のザーたちが味わう事となった。
結果として、ザーの本陣襲撃をもってしても、戦況は膠着状態が維持された。
◯●◯
辛い……。……悲しい。痛い……。痛い。痛い。痛い、痛い。……悲しい……。
超高速で空を飛翔するベルベットは、胸中で悲鳴をあげていた。
美しい翅を羽ばたかせれば、自分を襲おうとする凶悪な魔法の雨霰から離れられる。ほんのわずかな間の安堵。だが、敵はそんな彼女に向けて、さらなる攻撃を見舞うのだ。ああ、なんと恐ろしい事だろう。
ベルベットは、魔族にしては珍しく、戦いを忌避する性分の女性だった。戦う事は恐ろしいし、痛いのは嫌だ。それで得られる賞賛などいらない、欲しくない。できる事なら、ただひっそりと、友人と生きていきたいと、彼女は常々思っている。
戦う事は、怖いのだ。死ぬ事以上に恐ろしい事など、他にない。痛いと、泣きたくなってしまうではないか。そんな苦痛以外のなにもない戦いを勝ち抜いても、得られるのは多少の財と、惜しみない賛辞のみ。しかも、その賞賛の中には、多大なる恐怖と、一摘みの嫌悪が混じっている。そんなものが、なんの慰めになるだろう。
そんなに嫌うなら、自分を戦場になど立たせないでほしい。それが、ベルベットの偽らざる本音だった。
ベルベットとて、自分の戦い方が異質のものであるという事は、自覚している。だが、その戦い方をせねば、ベルベットは特筆するような能力を有していない、ただの魔族なのだ。多少魔法適正に優れている体を得たところで、魔大陸ではそんな戦士は枚挙にいとまがない。だからこそ、ベルベットはベルベットの異名通り、醜悪にでも戦い、勝利を収めるしかなかった。魔大陸は弱肉強食。弱い者には、自身の生殺与奪の権利すら認められないのである。
そして、本人が好むと好まざるとにかかわらず、ベルベットは強かった。
魔法使いにとって、最大の弱点が近接戦闘だ。だが、ベルベットと近接戦闘を行おうとする魔族などいない。魔王のような、彼女の毒がまったく効かない相手でもなければ、勝敗にかかわらず無事ではいられまい。
そう、ベルベットは魔族に対しては無類の強さを誇るのだが、魔王に対しては非常に弱いのである。だからこそ、彼女の名声はそこそこどまりであり、強さに固執する魔大陸であっても、完全には受け入れられていないのである。
だから、第十二魔王軍で魔王補佐という要職に就くベルベットは、常に一人で戦う。そうせざるを得ないから。味方すら、彼女の事を恐れるのだから、それは仕方のない事でもあった。
たった一人で戦うという事がどれだけ恐ろしいか……。どれだけの窮地でも、助けてくれる人などいない。どれだけ辛く、どれだけ痛く、どれだけ悲しくても、それには一人で耐えなければならない。自分が危機に陥っても、助けに来てくれる味方などいないと知っている。
あの人以外は……。
過去、自分を助けてくれたのは、彼女の放つ毒をものともしない、魔王プワソンただ一人だった。
以来、プワソンはベルベットにとって、唯一無二の友人であり、ベルベットが戦う理由は、常にプワソンの為でしかない。プワソンの民は、プワソンのものだから守っているにすぎず、第十二魔王軍はプワソンの配下だから、一応は巻き添えにしないように、最低限気を使っているだけだ。
現在のベルベットの行動基準は、プワソンであるといっても過言ではないのだ。
しかし、ベルベットとプワソンは、共に戦う事などできない。いざというときは、プワソンの為に彼女が身を盾にして戦わなければならないのだから。どれだけ親しい友人同士であろうと、それが魔王と配下という関係だ。
プワソンの為に体を張るのは、嫌ではない。たった一人の友人の為ならば、戦の恐怖も、怪我の痛みも、皆の恐怖の視線にも、耐えられる。だがそれは、耐えられる、というだけの事。
嗚呼……。
だからこそ、彼女は嘆く。怖い、と。悲しい、と……。
◯●◯
ヒュリシーがベルベットの飛行速度に合わせ、偏差攻撃を放つ。無数の炎の塊が、ベルベットを追い回す。ベルベットはそれを、必死に翅を羽ばたかせて躱す。ひらりひらりと、まるで爆炎に翻弄される木の葉のように、鮮烈な炎の光の間を、縫うように宙を翔ける。
ヒュリシーは、ベルベットの飛行能力が、自分よりも劣っている事に気付いていた。
空を飛べる事は、翼人にとっては当たり前の事だが、だからその能力の種族差、個人差には敏感だ。空中戦闘とはつまり、攻撃手段よりも飛行能力がどれだけ優れているのかの勝負であり、その点でベルベットはヒュリシーより二段は劣る程度の能力しか有していない。
まぁ、それはそうだろうな……。
風になぶられる頰を少し歪ませて、ヒュリシーは魔法攻撃から這々の体で逃げ出すベルベットの背から生える、頼りない蝶の翅を見やる。
あの程度の翅で、空を制す事など、できるはずもない。自分のような猛禽の翼や、竜のような皮膜の翼ならともかく、あのような脆弱な翅では、どれだけ鍛えようとも空中戦闘では心もとない。無論、あの翅から放たれる鱗粉の凶悪さは重々承知しているが、しかしそれだけで空中戦闘を制す事などできはしない、と。
それこそが、種族差というものだ。
すると突然、ベルベットは急旋回すると、ヒュリシーの方へと向かってきた。だが、ヒュリシーはそれを認識しても、落ち着いていた。
さもありなん。このまま遠距離魔法戦闘を継続すれば、いずれはジリ貧となり、ベルベットの勝利の目は失せる。ならば、彼女の最大の防御であり攻撃である、鱗粉による空間制圧に頼るのは、道理でもある。
だがそれは、空中から地上に行うのと、空中で空を飛ぶ相手に行うのとでは、まったく違う。空中において、たった一人の放った鱗粉など、すぐに拡散してしまう。空中には、ベルベットとヒュリシー以外、生き物もいない。腐敗した有機体が、その場にとどまる事もない。風に散らされた鱗粉では、危険度は半減どころか四分の一以下だ。
ゆえに、風向きにさえ気を付けていれば、ベルベットの毒にも対処可能であると、ヒュリシーは結論付けた。
さぁ、それでは追いかけっこといこうか!
ヒュリシーも踵を返すと、高速で飛びすさりながら、ベルベットへと牽制程度の魔法を放つ。ベルベットの飛行能力では、ヒュリシーに追いつく事などできはしない。
ヒュリシーはベルベットとの間に、適度な距離を保ちつつ、魔法での攻撃を続ける。背後に向かって撃たねばならず、無駄撃ちになる可能性が高い為、より多くの魔力が必要である高威力の魔法は使えない。だが、それでも削れればよいと、ヒュリシーは考えて攻撃を続ける。
ただ、前方に向かって魔法を撃てるベルベットは、ヒュリシーと違って攻撃に制約はない。それなりに高威力の魔法が、ヒュリシーを襲う。それを、ときに回避し、躱しきれないときは魔法で防ぎつつ、彼女たちの空中戦闘は続く。
流石に、魔王の懐刀として名を馳せるだけはあると、苛烈な攻撃にさらされつつ、ヒュリシーはひとりごちる。肉薄される事こそ防いでいたが、ベルベットの動きと風向きに制限された回避行動は、第八魔王軍にて育てられ、空中戦のエリートであるヒュリシーをして、困難を極めた。なんとなれば、既に鱗粉も拡散したと思しき、準危険空域を横切る事すら厭わぬ回避を強いられてもいたのだ。
自慢の体毛も、かなりの部分が冒され、切り離され、さながら調理される前のまぐれ当り鳥のような、無様な姿に近付きつつあった。
しかしそれも、そろそろ限界だろう。ヒュリシーの消耗も限界に近いが、ベルベットの消耗はその比ではない。ただでさえ酸素の薄い空中戦で、荒い息を吐きつつ、ヒュリシーはベルベットの様子を観察する。
そこには、戦闘前と変わらない無表情の美貌に、酷使された体を証明する酸欠症状を浮かべたベルベットがいた。
空中戦闘に際し、魔王ならぬ魔族には、時間制限がある。それは、保持魔力量に起因する継戦能力だったり、肉体そのものの脆弱性だったり、現在ベルベットが直面している空気の薄さによる酸素不足であったりと、様々な理由による。ただの魔族同士の戦いにおいて、空中での長期戦闘は不可能である。
そういった原因を無視できる、魔王や龍や竜以外の存在にとって、やはり翼があろうと空は、主戦場たり得ないのである。
あるいは、とある魔王が勇者の仲間と、知識欲の赴くままに開発した、大気中から特定の成分を生成する風魔法が魔大陸に広まれば、状況は変わるかもしれないが……。
彼等二人の飛行速度は徐々に落ち、やがて空中に浮遊するまま、停止した。バサリバサリと風を打つヒュリシーの猛禽の翼と、パタパタと羽ばたくベルベットの蝶の翅。先程までは、目にも留まらぬ速さで空を縦横無尽に駆け回った両雄は、これまでが嘘のようにその姿を空中で静止させていた。
「御見事な戦い振りでございました、ベルベット殿。しかし、こたびは私の勝利を認めていただきたい」
勝利を確信しつつ、ヒュリシーは離れた場所で対峙するベルベットへ、大音声で語りかける。この状況にあっても、彼女の鱗粉に対する警戒は怠らない。
対するベルベットも、自分が空中戦闘ではヒュリシーに劣り、既に戦闘継続は難しいと、理解していた。だが、彼女は負けを認めない。
これまでも沈黙を守ってきた彼女の唇は、これまで通り動かない。表情という概念が抜け落ちたようなベルベットの鉄面皮の奥で、彼女は敗北を拒否していた。
しかし、既に勝敗は明白に思えた。そう、誰の目にも。ただ一人、ベルベットだけが、この状況でも敗北を認めていなかった。
沈黙が空を支配する。




