戦場音楽・1
散発的な長射程の矢が行き交う上空を、気にかける事なく兵士たちは駆ける。前方にしか活路はないと知っているからだ。鉄色の小雨の中を、前へ前へと。
眼前で待ち構えるは、第九、第十二魔王連合軍。整然と守備を固めた彼等には、しかし隠しきれない動揺と恐怖があった。
第九、第十二魔王軍は、実戦経験の浅い魔王軍だ。無論、縄張りの治安維持も軍の仕事である以上、戦闘経験そのものが浅いわけではない。だが、そのような小競り合いと、魔王同士が覇を競うような、本物の戦場はまったくの別物であった。
いかに好戦的な魔族とはいえ、恐怖を感じないわけではない。迫る敵は、歴戦の第八魔王軍。自分たちとは違い、本物の戦場を知る古兵たちだ。恐ろしくないわけがない。
だが、彼等は乱れない。彼等が最も恐れるのは、死ではない。無様な死である。
強者を尊び、強さを信奉する彼等魔族にとって、戦場で無様を晒す事は、敗北以上に忌避する事である。ゆえに、彼等は兵として最善の行動を取る。
盾を構え、腰を落とし、呼吸を整える。雑兵である彼等にできる、最善の行動である。
「…………ォォォオォオォオォオォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ」
声が聞こえる。
第八魔王軍の、吶喊の雄叫びだ。風鳴りのようだったその声は、次第にその音量を増し、やがてビリビリと兵の鎧を震わせる。負けじと、第九、第十二魔王連合軍も叫ぶ。
幾万、幾十万の魔族たちが、互いに喉を裂かんばかりに声を絞り出している。その光景は、とんでもない規模の合唱のようである。
それもまた、間違いではないのだろう。彼等は今、全く同じ思いで、同じような声を上げているのだから。敵味方を問わずあがる、戦場に響く歌に、多くの戦士たちは高揚し、恐怖を薄れさせ、ある者は笑みすら浮かべている。
既に豪雨となっている矢の雨の音も、その程度の軽い音はこの歌にかき消され、誰の耳にも届きはしない。
——そして、とうとう彼我はぶつかり合う。
鳴り響く合唱に、硬質な合奏の音が加わる。剣が、槍が、斧が、盾が、鎧が、肌が、拳が、牙が、尾が、触手が、翼が奏でる、錚々たる伴奏。そこに適度な悲鳴が加味されて、前奏はここに完了した。
兵士たちの歌が、武器による合奏が、魔王による指揮のもとで奏でられる、壮大なオーケストラ。なんとも無骨で、リズムすら不安定な、壮絶で、鮮烈で、生々しく、荒々しく、豪快に、野卑にして粗野な、しかしだからこそ美しい戦場の音楽。
生物の、生命そのものを燃やして歌われる、咆哮という名の合唱。命をかけ、命を奪わんと奏でられる、剣戟という名の合奏。世に二つとない、唯一無二の音楽は、圧倒的奔流となり、もはや誰にも制御できない勢いで流れ続ける。
終わるのは、決着がついたときだけだ。
最初の一当てで優勢だったのは、守勢を堅持した第九、第十二魔王連合軍だった。勢いよく突撃してきた第八魔王軍に対し、いくつかの場所で勢いに押されて突破を許した隊列だったが、そうして突出した魔族を冷静に処理しつつ、穴を埋めた手腕は第八魔王軍の将軍をして、見事と思わせる程に迅速な対応だった。
しかし、歴戦の第八魔王軍が、その状況を座視するはずもなく、事態は早々に推移する。連合軍隊列に、均等に波状攻撃を仕掛けていた第八魔王軍は、突如としてその目標を連合軍左翼に極限し始めた。
隊列を乱すわけにもいかない連合軍側だったが、当然ながら一極集中し始めた攻撃を、左翼のみで持ち堪える事など出来はしない。また、第八魔王軍にはいまだ予備戦力が控えており、ここで中央が左翼の援護に向かえば、敵は確実に中央突破を目論む事だろう。
連合軍右翼は、突然左翼へと向かい始めた敵を追って攻撃を続けようとした為、隊列を崩した隙を突かれて少ないながらも被害が出ていた。兵を落ち着けて隊列を編成し直す為、即座の行動が遅れていた。
しかし、このままでは連合軍左翼は壊滅し、そこから中央、右翼も横腹を突かれる形で崩れるのは確実だった。地球の戦史でたとえるなら、斜線陣と呼ばれる戦術に近い。勿論、神聖隊はないし、陣そのものも斜線ではないが、攻撃を敵陣片翼に一極集中させ、一点突破ののちに敵の横腹を突いて殲滅を目論む戦術コンセプトは同じものである。
この戦術は、第八魔王軍総大将であるベオルの弟、セルヴェによって発案されたものだ。魔族の兵の特性を熟知し、適切に運用する事で正面から連合軍の意表を突いた戦術だった。
名将エパメイノンダスがレウクトラの戦いで用いた斜線陣は、あの加減法を否定するスパルタ軍すら打ち破った戦術であり、彼の死後受け継いだピリッポス二世はギリシアを制覇し、その息子は彼のアレクサンダー大王である。余計な説明など不要な、史上稀に見る傑物である。
つまりは、この斜線陣はスパルタに近い精神構造であるところの、基本的に真っ向勝負が大好きな魔族には、鬼門に近い戦術といえるのだ。
レウクトラとの違いは、第八魔王軍の兵士が魔族であり、急速な機動によって戦力の一極集中を成し遂げた点だろう。足の遅い魔族を連合軍左翼に集め、足の速い兵を中央、極端に足の速い兵や空を飛べる兵を右翼に当てる事で、事前にその戦術が露呈する事を防いだのである。
連合軍と一当てしてから、急速に兵を連合軍左翼に移動させる事により、あわよくば中央と右翼の兵を左翼に引きつけ、大きく空いた右翼側から本陣を急襲するという目論見もあった。だが、流石に連合軍側もそこまで迂闊ではなく、右翼の兵が少数のみ釣り出されただけにとどまった。しかし、もしその目論見が崩れたところで、予備戦力を警戒する中央と右翼は、戦闘に加われない遊兵と化す。その二段構えこそ、セルヴェの作戦の要であった。
結果として、連合軍左翼は単独で、第八魔王軍のほぼ全軍の激烈な攻勢に耐えなければならず、中央や右翼が左翼の援護に回ろうと行動を始めれば、第八魔王軍の予備戦力が、これ見よがしに突撃準備を始める。連合軍は完全に、敵に行動のイニシアチブを握られてしまっており、身動きが取れなくなっていた。
現在、連合軍左翼には予備戦力も投入され、第八魔王軍のほぼ全力を受け止めているが、その攻撃は熾烈を極め、このままでは崩壊は時間の問題であった。つまり、連合軍にとって、左翼の援護は必須かつ火急であるにもかかわらず、中央も右翼も動かせない。辛うじて予備戦力を投入したものの、勢いでも数でも劣り、完全に焼け石に水でしかなかった。そこで、第九、第十二魔王連合軍は、苦肉の策へ打って出た。出ざるを得なかったと言うべきか。
主力幹部の、戦場投入である。
第九魔王サンジュ・アフアァ・ティグリの配下、狂獣卿ブギャンが、その赤茶の体毛を戦場の風に揺らしながら、左翼前線へと飛び込む。体長三m以上ある大猿は、その手に身の丈以上の棍を携えて、血風の中で踊る。
——一蹴である。
これまで、まるで戦場の主役とばかりに暴れまわっていた、第八魔王軍の精兵たちは、たった一人の魔族の登場で、蹴散らされてしまっていた。ブギャンが棍を振るえば、十人二十人の兵が空を舞う。浮き足立つ第八魔王軍の兵を、文字通り一騎当千の将ブギャンが、蟻の群れを蹴散らすかのように崩していく。
魔大陸の戦争は、量より質がものを言う。前哨戦に駆り出される魔族たちでは、魔王軍幹部の攻撃に寸毫も耐えられない。まさしく鎧袖一触に、快刀乱麻を断つ勢いで第八魔王軍の攻勢は、打ち破られた。だがしかし、この状況は連合軍にとって、好ましからざる流れであった。
案の定、ブギャンの元へ第八魔王軍の幹部である、キヒャー、ジュレ、ギギが現れ、戦闘を開始した。
ブギャンは、サンジュの配下のなかでも指折りの強者である。本来、このような序盤で体力を削っていいような将ではない。対して、キヒャー、ジュレ、ギギの三名は、ブギャンと比べればやや位が落ちる。三名でようやく、ブギャンの相手が務まる程度の強さしかない。
しかし、つまりそれは、ブギャンという強者を、それ以下の実力を持つ者で抑えているという事に他ならない。仮に、この戦いにブギャンが勝利したところで、そこにブギャンと同等の戦士が現れれば、勝利は厳しいだろう。
第九魔王軍の中から、キヒャーたち三名に相対し得る戦士が飛び出してくるが、第八魔王軍側からも同等の戦士が現れる。ブギャン打倒を念頭に、その他は同等の実力の戦士で拮抗させるつもりのようだ。
連合軍のブギャンへの加勢は成功しなかった以上、狂獣卿の打倒は時間の問題であると思えた。
連合軍左翼の攻防が激化した頃、中央と右翼にも動きがあった。第八魔王軍の予備戦力が、本陣の戦力を加えて、連合軍中央へと向かって進撃を始めたのだ。連合軍中央と右翼は、これを迎撃しつつ包囲を目論んだが、第八魔王軍側の予備戦力の中から、数名の魔族が飛び出したのである。それが意味するのは——
「ザー将軍を確認!! その他、第八魔王軍幹部と思しき数名!!」
——少数精鋭による、連合軍右翼の殲滅、もしくは遅滞であろう。
当然、連合軍側の右翼に並ぶ魔族たちでは、幹部である将軍の相手にもならない。つまり、相応の戦力を右翼へと傾けなければならないのである。
向かったのは、第十二魔王プワソン・エルム・アッタンジーム・トゥリアの腹心でもある、醜悪姫ベルベットだけである。ベルベットの参戦を知った連合軍右翼は、敵を前にしても一歩も退かなかった勇猛さを忘れたかのように、我先にとばかりに後退を始めた。その流れに逆行するのは、ただ一人。
薄く青味を帯びた長髪を揺らしながら、悠々と歩みを進める美女。まるで雪のような真っ白な肌に、戦場には似つかわしくないドレスを纏い、腰には鞘に収まったままの曲刀が下げられている。そんな彼女の一番の特徴は、背から生えた計四枚の翅である。
まるで蝶のような、大きな四枚の翅。色素の薄い彼女自身よりも、毒々しい色合いのその翅の方が本体のようですらあった。
悠々と戦場を歩くベルベット。まるで、味方こそが最も彼女を恐れるかのように、左右に割れて撤退する軍。その異様な光景は、当然ながら対峙する第八魔王軍にも確認できた。その最前で、ある者が叫ぶ。
「醜悪姫ベルベット殿とお見受けいたす!! 我が名はザー!! いざ!!」
そう名乗りを上げたサイクロプスのザーが、ベルベットへと肉薄する。対するベルベットは、蒼白の顔に一切の表情を浮かべず、無言のまま翅を羽ばたかせると空中へ飛び上がった。ザーとベルベットの戦いが始まった。
プワソンの懐刀であるベルベットに対するザーは、実力ではベルベットに遠く及ばない。しかし、この場には数名の幹部もいる。連合軍左翼同様、複数名でベルベットを引きつけつつ体力を削れば、戦況は第八魔王軍に有利に進む。
連合軍側は右翼が完全に崩れてしまっていたが、ザーたち精鋭部隊は少数であった為、この場を突破できるだけの余力がない。無論、だからこそ連合軍は、ベルベットが前に出て、右翼を退げたわけだが。
ザーたちとベルベットが戦闘を始めるのとほぼ同時に、中央では第八魔王軍と連合軍が小競り合いを再開していた。左右両翼で、幹部による熾烈な戦闘が行われているなか、中央だけは前哨戦と遜色ない小手調べの戦いが繰り広げられていた。
第八魔王軍は多くの幹部を左右に配置してしまっており、これ以上の戦力を前線に投入するのが躊躇われていた。なにせ、第八魔王軍には魔王という最大戦力がいないにも関わらず、連合軍側にはサンジュとプワソンと、二名も魔王がいるのだ。戦況を優勢に進める為とはいえ、これ以上の消耗は看過できない状況だった。
連合軍側としても、それ程楽観できる状況ではない。魔王は最大戦力であると同時に、軍の要。軽々に危険に晒せば、またぞろどのような策が待ち受けているかわからない。露払いもせず、魔王を戦場に立たせるわけにはいかないのである。
本来なら、ブギャンやベルベットとて、軽々しく前線に立たせるべきではない。しかし、状況は彼等の温存を許さない程に切迫していたのだ。
「ハハハハッ!! 温い! 温いぞッ!! 先程の戦士たちの方が、余程歯ごたえがあったわァッ!!」
しかし、連合軍左翼ではそのブギャンが、実に楽しそうに雄叫びをあげていた。キヒャーたち三名が限界を向かえて一時撤退をし、同じように三名の幹部がブギャンとの戦闘を継続していた。だが、その三名も既に満身創痍であった。
サンジュ配下のなかでも、名の知れた実力者であるブギャンを押さえるには、彼等は少々実力不足だった。キヒャー、ジュレ、ギギの三名は、個々人の実力では軍の主力になれるだけの戦闘力はないものの、非常に巧みな連携を取れる稀有な才能を有していた戦士だった。
同等の働きができる戦士は、いかな古参兵の多い第八魔王軍であろうと、そうそういるものではない。
ブギャンの剛力によって振るわれる棍が、三名のうちの一人を捉え、軽々と吹き飛ばす。その先は第八魔王軍の陣営であるものの、彼の戦線復帰は望めないだろう。
ブギャンと二名で対する事となった第八魔王軍幹部だったが、三名でも相手にならなかったブギャンに、二名で相対できるはずもない。彼等が地面と抱擁を交わしたのは、それから間もなくの事であった。
「さぁ、そちらの望み通り、前座は片付けたぞ!! 次は、このブギャンを倒せると夢想する本命の戦士が出てくるのであろうッ!? その驕り、真正面から打ち砕いてくれる!! 疾く前に出よ!!」
得物の棍を、突き立てるように地面に打ち付け、ブギャンは正面から敵の策を受けると言い放つ。その堂々たる姿勢に、敵味方双方から感嘆の念が発せられる。
威風堂々にして正々堂々。ブギャンのその姿勢は、力を信奉する魔族には好ましいものだった。ゆえに、第八魔王軍もこれ以上策を弄するつもりはなかった。
「我が名はギラ・ゼオール!! 第八魔王軍にて将軍位を賜る者なり!!」
そう言って前に出てきたのは、二足歩行の恐竜のような下半身に、人の上半身の青年だった。両方のこめかみからは角が生え、背からは皮膜の翼が生えているものの、身長は二mに届かない程度。ブギャンと対峙すれば、大人と子供程も身長差がある。
だが、ブギャンの顔には、油断などない。あるはずがない。
「衝角竜将のギラ殿か。これはまた、大物がでてきたものだ……。武人冥利につきるというものよ!!」
第八魔王軍の将軍の中でも、勇名を馳せた古参の将軍であるギラに、ブギャンは不敵な笑みを浮かべて言い放つ。
古くは戦乱の時代、第八魔王軍と第七魔王軍との戦争においてエキドナ配下の将として参戦し、今に至るまで現役であるギラは、ブギャンでも侮れる相手ではない。現第八魔王軍には、第七魔王の死後に統合された兵たちが所属しているが、ギラは当時からエキドナの配下であり、最もエキドナの信を得ている将といわれている。
ちなみにその戦争は、第八魔王エキドナと第七魔王との婚姻をもって和解するという、劇的な終結を迎えた、ある意味有名な戦である。
「いざ!!」
ブギャンの掛け声に、ギラもまた口角を上げて応える。
「ああ!! いざいざ!!」
実に楽しそうに、ブギャンとギラは構えを取り、誰が合図を出したわけでもないのに、まったくの同時に駆け出した。
頭突きのように頭から突撃したギラを、ブギャンの棍が受け止める。まるで巨大な岩石同士が衝突したかのような衝撃が周囲に伝播し、一部の魔族はその衝撃だけで気絶した。
ギリギリと悲鳴のような音を鳴らす、角と棍。それを挟み、ギラとブギャンは笑い合う。
「聞きしに勝る、衝角ですなぁ、ギラ殿!!」
「貴様こそ、随分と頑丈な棍よ。一気にへし折ってやるつもりであったが、目論見が崩れたわッ!!」
衝角竜将と呼ばれるギラの、最も得意とする戦い方は、その両角を用いた頭からの突撃である。多くの兵を引き連れ、敵軍の戦列を引き裂く貫陣の一撃は、恐怖とともに魔大陸全土に勇名を轟かす程である。
過去、その異名が気に入らぬと、群れで襲いかかってきた竜を血祭りにあげ、竜将を名乗る事を認めさせた実力者であり、魔王にも比肩する程に尊敬と信奉の念を受ける傑物である。
それを、たった一人で受け切ったブギャンもまた、見事というほかない。そう遠くない未来、ブギャンの名も、第九魔王軍にその人ありと語られる事だろう。
そんな魔族たちの衝突を上空から俯瞰していた、一人の魔王が一言こぼす。
「まったく。武人ってやつ等は……」
武人たちは、楽しそうに踊り、歌い続ける。この楽曲が鳴り止むまでは、決して止まらないとばかりに。音楽の悪魔すら呆れる、騒々しい音楽を。