最悪な一日
最悪な一日。
得てしてこんな言い回しをしてしまうと、まるでその後の救いまでを想像してしまう愚か者は多いだろう。
それはすなわち、『最悪』というものを『一日』に限定してしまったことが原因である。
小生の他にこの言葉を使った人間が、いかな状況に置いてこの言葉を用いたのかはわからぬが、『最悪』というものは『最悪』であり、『最悪』である。それは『最悪の一日』の後もまた後遺症を残すのが常である。最悪が最悪であるがゆえに。
つまり、『最悪の一日』の後に訪れるのは『最善の一日』ではなく、『次善の一日』ですらなく、『次悪の一日』になるものだ。
救いなどなく、ただ最悪を引きずったまま、次の日も、その次の日も状況を更訂するための『改善の一日』を目指して励むしかない。とはいえ、それはあくまで生き残ればの話であり、小生の目の前にある状況はそれを恐らく許さないだろう。
災害級の魔物、バハムートの口は小生の住む町へと刻々と近づいているのだ。町の中は蜂の巣をつついたような大騒ぎだ。今さらジタバタしても仕方がないだろうに。
結局のところ、先程から小生がつらつらと独白していた言葉は、この『最悪の一日』を生き延びる事のできた者への激励であり、未練である。
往々にして『最悪の一日』とは、『最期の日』になる事もある、という事だ。
その日は朝からついていなかった。
最悪の一日に相応しい始まりと言えよう。
朝、トイレでババモル虫を見つけてしまい、朝食に食べようと思っていたパンは昨日の雨のせいかカビていた。仕事に出掛ける途中、やたらと騒がしい家畜が脱走し、それを捕まえるのにたまたま通りかかった小生まで駆り出されたのである。全くもって最悪な一日の始まりだった。
しかし、この程度であればただちょっと運の悪い日だっただろう。まさかこの程度で『最悪』の名を冠する日を決める程、小生は子供ではない。ただそれは、ただ単にそれは、『最悪』の方が寝ぼけていただけの話だ。そして、仕事場に着いたあたりからこの日の『最悪』は本領を発揮し始めたのである。
家畜を追っていたせいで遅刻してしまった職場では、しかし小生の遅刻どころの話ではなかったようだ。
因みに、小生の職場はこの町の治安を守る騎士団の詰め所である。
とはいえ、小生に武術の心得があるわけではない。そもそも駐屯騎士団はこの地域を治める貴族が派遣したものであり、よそ者である。小生はこの町で生まれ、この町で暮らしてきた、立派なこの町の住民なのだ。
ああ、勘違いしないでくれたまえ。小生はこの日まで騎士団について隔意を持った事なんて無かったし、この日まである種尊敬もしていた。剣を持って戦い、人々を身を呈して守る騎士。小生は小生に出来ない事が出来る彼らを尊敬していたのだ。
いやはや、愚かしい限りである。小生もまだまだ若かった、という事だろう。
さて、閑話休題。というか愚痴はよそう。止まらない。
小生が職場に入れば、詰め所の中は上を下への大騒ぎだった。書類をあわててずた袋へ詰め込む騎士。荷車を用意する騎士。食料らしき袋を、その荷車へ積む騎士。
どうやら何か起こったのは間違いがないようだった。
小生がこの騎士団の詰め所や、町の商人、商業組合で見聞きした情報を統合し、今現在最もこの詰め所を騒がしうる要因。
すぐに答えは出た。しかし、結果としてそれは間違っていた。いや、実は結構合っていたのだが、根本の所で大間違いだった。筆記試験で回答は全て書き込んだのに、署名を忘れてしまったような大間違いだった。
さては、第13魔王がガナッシュ公国に現れたのだな。
この時の小生は、お恥ずかしながらこういう結論に至ったのである。
ガナッシュ公国が第13魔王を挑発している事は、既に結構な人間が知っていた。そして、第13魔王は神出鬼没で有名だ。ガナッシュ公国に現れるのは時間の問題だった。隣国とはいえ、我が国もまた平時と同じというわけにはいかないだろう事は、想像に容易い。
ならば小生も、騎士団の詰め所で働く者の端くれとして、せめて何かお役に立とう。そう決意して一歩踏み出した時、それは聞こえてきたのだ。
『早くしろ!!この町にバハムートが来る前に逃げないと、俺達まで死んじまうんだぞっ!!』
その後の事は語るまでもない。彼らは名誉ある、有言実行の騎士達だ。素早く荷造りを終え、馬を駆ってこの町を後にしたのである。
全ての住人に何の知らせもせずに。
無論、その理由がわからないわけではない。騎士とて兵士。地方貴族にとっては大事な戦力であり、無駄に消耗するのは愚か者だ。バハムートはその絶対的な暴力とは裏腹に、対処はしやすい魔物でもある。
すなわち放っておくこと。
さすれば勝手に死に絶え、勝手に被害は収まる。無駄に兵をぶつけて損耗させるなど、愚の骨頂。愚かもこれ極まれり、というのが騎士団の撤退理由だろう。
しかし、『だから許せ』『たがから仕方がない』と言われたところで、納得できる事では無いのである。特に、見捨てられた我々からしてみれば、切実な問題である。
多くの馬は騎士団が持っていってしまい、元々全住民を逃がせるような足など無い我々にとって、状況は既に終わってしまっていた。
終わりすぎるくらいに終わってしまっていた。
それから小生は、冒険者組合、商業組合に報告をして、町の各家々に警告して回ったのである。
しかしそれも、山の遥か向こうに山よりも大きな影を見るにあたり、不要となった。
誰もが理解したのである。『最悪』がすぐ傍まで迫ってきていることに。
ふむ。どうやら長々と独白し過ぎてしまっていたようだ。
こうして自宅の自室で、最期を迎える心積もりをしているのに、全くその気配がない。いったいいつになったら、バハムートは小生をその胃の腑に収めるつもりだろうか。まさか下卑た山賊でもあるまいに『お前は最後のデザートだぜ』等と言うつもりでもあるまい。女とはいえ、小生はそこまで魅力溢れる体つきをしているわけでもないしな。
いや、まぁ、なんだ………。死に際の冗談のつもりであったのだが、いざこうして中々看まかられないとなると、中々どうして面映ゆいものがあるな。
全く、何をやっているんだバハムートはっ!!やるなら一思いにやってほしいものだ。
しかし、その願いはあっさりと破られることとなった。
あるいはそれが、小生の願望通りの奇跡の光景であったとしても、なんと空気の読めない奇跡だろうか。
小生はこれから一生、あの下らない冗談を言った事を憶えていなければならないではないか。全くもって嘆かわしい。これからの人生に絶望すら覚える光景だ。
バハムートは大きな波と、大きな嵐、そして天使でも降臨しなければおかしいような、天から降り注ぐ光に呑み込まれていた。
こうして、愚かな小生の『最悪の一日』は、一日だけで終わったのである。




