【第9話 君はCMDに何を見る!(入門編)】
試合を終えた直後の蘭は、ただ笑っていた。普段なら負けた後には、次の対戦で相手を張り倒すなどと意気込むのだが、今回は明らかに様子が違う。
彼女がデビューしてから今日に至るまで付き合ってきた整備士たちも、これには驚きを隠せないでいた。 チームの主任である初老の男もまた、そうだった。 雄叫びを上げたり愚痴を零したするパターンはあれども、こんなことは初めてだ。人一倍負けん気の強い蘭の闘争心を削ぎ、不快な思いもさせない。
……やはり、これもあのルーキーの力なのか。
主任の脳裏に、相手の少年の顔と名前が、はっきりと刻まれた。
蘭はまだ笑っている。戦いの後は、いつもCMDのことばかり考えていたというのに。
場を埋めるのは困惑。いや、それだけはない。
彼女に吊られて整備士たちも表情を柔らかくしていた。気付けば主任自身もそうだった。
いつしか困惑は消え、嬉々とした空気だけが格納庫内を循環していた。
勘違いしてはいけない。彼女らは敗者なのだ。だが今はそれを確認することすら、バカらしい行為と言えよう。
蘭は数分してから笑うのを止めると、
「んじゃ、ウチは部屋に戻っとるから……あとのこと頼むわー!」
上機嫌な口調とウィンクを皆に送り、エレベーターへと搭乗した。
蘭がいなくなると格納庫内の和やかな空気は一気に消え、整備士たちは各々の作業に戻っていく。
皆が黙々と仕事を熟す中、声がした。それは熱狂的な蘭のファンであることで有名な副主任だ。彼は興奮覚めやらぬ口調で、
「あ〜、蘭ちゃん可愛いなぁ……あのウィンクはミカエルとラファエルが合体した天使のようだ……」
意味の解らない例えだが、主任は目を光らせて食いついた。
「馬鹿野郎!既存の天使なんかメじゃねぇ!……あれは五番目の大天使様だ」
そう指摘され、副主任は苦しげな表情を浮かべた。おそらく自分の発言のレベルの低さに気付いたのだろう。
「い、いや……むしろ天使よりも更に上位の存在だと私は思っている!」
だからこそ己の次元を無理にでも押し拡げてきた。 主任は返されたことでの精神的ダメージによって、ぐうぅ、と唸ってのけ反るが、すぐに驚異的な精神力で復活を果たす。
「い、いやいや……俺は蘭ちゃんのことを旧アースを創り上げた女神だと確信したぁー!」
副主任が、ぐはぁー、と断末魔を上げて地面に昏倒した。
勝利した主任は勝ち誇った笑みで副主任を見下す。 すると騒ぎを聞き付けて集まって来た整備士たちが二人を眇しつつ、
「天使とか女神とかの例えはともかく……蘭ちゃんいいよなぁ……」
「明るくて元気で、俺らの太陽と言っても過言ではない……」
「何気にスタイルもいいし、意外に家庭的っぽいし……」
「オタクなとこもいい……」
銘々に好きなことを言い、幸せ全開な妄想モードに突入している。
それを聞いた主任は、目標を変更。浮かれた顔をじぃーと眺めてから、
「前々から思ってたんだが、まさか貴様ら蘭ちゃんのことを狙ってはいないだろうな?」
沈黙。もうそれが答えなような気はしたが、主任は敢えてこんな提案をした。
「よし。今から蘭ちゃんに気があるって奴は挙手しろ。本来ならミサイルに身体を縛り付けて第三アース辺りに射出するところだが……正直に手を挙げれば今回は許す」
即座に全員が手を挙げた。地面に倒れていた副主任もである。
「うむ、解ってる」
主任はそう前置きした上でその場を離れ、通信機の回線を開く。
「……ミサイル五本! 超特急で!」
『うわぁー、はめられたぁー!』
全員が一点に固まり主任から五メートル程度、離れる。
主任は、起き上がったばかりなのに先頭で楯代わりにされている副主任とその背後に疑いの眼差しを向けた。
「もう一つだけ聞いておく。これは噂なのだが……セルヴォランから蘭ちゃんの隠し撮り写真を買っている奴は挙手してみろ」
またもや全員が挙手した。
「よもや全員とはっ! 貴様ら、そこに直れー!」「いいじゃないか! これが私たちのパワーだ癒しだ心の拠り所だぁー!」
副主任がありったけの力説。そこで暴れていた主任の懐から一枚の写真がポロッと落下した。
それには〈AMF〉主催のイベント時にした蘭のコスプレ姿が写っていた。
「自分だって買ってるじゃないか! しかもレアもの! 人にばっか確認しといてズルイぞ!」
「……だって、聞かれなかったモーン。それに俺はいいんだ。蘭ちゃんは娘のような存在だ……との建前で通してるから」
「うわ……もうあらゆる意味で大人げねぇー!」
「馬鹿者っ! お前たちがレアものと称するものは全て大人買いだ!」
「お前のせいだったのかぁー! 俺なんて写真が手に入らないから発狂しかけたんだぞ!」
この後、稚拙な言い争いは徹夜で続くが、翌朝の蘭の顔を見ると全員が仲良く張り切って仕事に取り組んでいた。
〈AMF〉の会場は様々な施設で溢れている。
居住区、観光施設、娯楽施設、飲食店。他にも、ごく一部の人間しか知らない隠し施設など。
これらはプロランカーたちも生活の中で活用している。戦うアイドルことイリアも例外ではない。
彼女の潤沢を帯びた玉唇はコップに射されたストローの吸い口を優しく包み、その印象とは違い力強く吸い上げられたジュースを、喉を軽く鳴らして飲み込む。
唇から離れたストローが動きを得て、揺らされた氷はカランっと音を立てる。微かに漏れる吐息。汗を掻くコップ。白皙な小さい喉は渇きを覚えているのか、まだ僅かに動いて名残を伝える。
そこでイリアはハッとして、慌ただしく周囲を眺めた。
物陰や天井。テーブルの下。砂糖の入れ物の蓋まで開けて確認したところで。
「ど、どうしたの?」
疑問は対面に座っていたエクサからだ。イリアの突然の奇行に戸惑っている。 イリアは深く唸ってから髪に触れて、
「誰かに見られてた気がしたんだよね……」
「え? ストーカー……とか?」
憂色を漂わせ始めたエクサに、またも深く唸るイリア。
「さては……あたしが『華麗なる飲食承認委員』だということがバレたのかも」
エクサは気が抜けて椅子から転げそうになったが、何とか堪えた。
「……で、それは何?」
「うん……略して華食承って言うんだけどね……」
「その略し方は印象よくないね。……っていうかツッコミ待ち?」
一気に空気は和むが、イリアは顔色を変えない。
「最初はただのサークルだったけど、今では世界レベルにまで到達したんだよ」
「へぇー、じゃあ〈AMF〉の関係者の人にもメンバーがいたりするの?」
「ううん……最初からメンバーは変わってないよ。創設者あたし、会長あたしでメンバーはあたしだけ」
「それは明らかにサークルですらないよね……」
エクサの言い方に少しムッとしたイリアは唇を尖らせ、
「そんなことないッスよー。全国大会だってやったんだからぁ」
「え? そうなの?」
意外そうに驚くエクサに、イリアは染みじみと語り出す。
「凄かったッスよー……優勝者はもちろんのこと主催者、運営、審査員、みーんなイリアちゃん!」
「確かに、ある意味すごいけど……なに、その自己満足な大会っ!」
「表彰状を渡すのが難しかったんだよ? ……こう! こうやって身体を捻って!」
「そこまで凝らせるのも凄いよね」
「でも結局、無理だったから、そこだけは代理でレークスに頼んだッス」
「レークスさんも何やってんだっ!」
そこでエクサは一息をつき、注文したコーヒー牛乳を口に含んだ。それから周りを見渡すと、苦笑混じりにこう言った。。。
「やっぱり……なんとなく落ち着かない店だね」
「そうかなぁ……」
イリアも改めて周りを注視する。
壁には大昔に実在した歴代の海賊の肖像画が飾られ、鉄砲なども展示されている。テーブルの脚は無駄に多く、メニューにマニア専用も置かれている。
しかし外観や内装自体は今時のオシャレな喫茶店なので、違和感で溢れている。
確かに、どことなく変な造りではあるが、そこは慣れ。イリアはような常連は、もはや気にしない。
ここは〈AMF〉会場の表玄関の正面に位置する喫茶店『特攻隊』だ。
なぜこのような店名なのか。
それは店同士の勢力図が関係していた。
本来、エントランス近くや一階はグッズなどを売る店の聖域であり激戦区だった。飲食店などは入る隙もなく、上の階や遠い場所に店を開くのが普通であったのだ。
しかし、その常識を覆したのが此処だ。
周りはグッズ専門の業者ばかり。同業者にも容赦をしない、この業界。飲食店など、すぐに目の敵にされる。
解っている。だからこそ、その状況すら皮肉とする店名を付けたのだ。
客寄せの良い名前などは二の次なのである。
イリアは注文をしようと、テーブルに備え付けてあるボタンを押す。
すると、すぐさまカウンター付近で待機していた巨躯が動いた。
オールバック。左目には黒い眼帯。黒いタキシードを着た紳士風の男だ。
音を立てずに丁寧に近付いて来ていたが、やがて足を止めてしまった。まだ、こちらまで距離がある。
見るとスーツ姿の中年の男たちが、紳士風の男を取り囲んでいた。
紳士風の男は目を細めて相手を見てから、こちらに視線を送り会釈すると、そのまま男たちを引き連れてエントランスから出ていった。
呆然としているエクサ。 いつものことなので、イリアが声を掛けようとした瞬間、
「な、なんでもありませーんっ!」
と店の外から叫ぶ声が響いた。
何事かとイリアとエクサが視線を向けると、そこに現れたのはセルヴォランと、
「待て、貴様っ! なぜ私のトレーニングを覗き見していたのかと聞いているんだ!」
背後から槍を手に追い掛けるシュナ。
二人とも凄まじい速度で通路を横切り、通り過ぎてから再び戻って来た。
「質問に答えろ!」
シュナは槍を横薙の振るう。
「で、ですから、あれはワタシに内蔵されていた『覗きの王様☆ノゾキン、グー!』がワタシに勝手な性癖を与えて……しょええええ!」
迫り来る槍を器用に躱すセルヴォラン。
二人は数分間に渡りエントランス付近で争いを繰り広げると、風のように去って行った。
今度はイリアも揃って呆然としていると、紳士風の男が戻って来た。
先程と変わらず無表情。まるで少し休憩に行っただけだという風体だ。
「お待たせしました。ご注文はいかがなさいますか?」
紳士風の男は軽く頭を下げ、丁寧な口調で言った。イリアも気を取り直し、注文を伝えようとする。
だが、直前。
「ぬわぁああああああああああ!」
変わっているが、勢いは凄い掛け声がエントランス近くの通路に飛び込んだ。 声の主は店の前で急ブレーキ。きゅいいんっと音が鳴り、火花が上がり、地面が焦げる。
目に映ったのは、浅葱色の髪をハリセンで留めた少女。
蘭だ。
彼女はイリアたちを見ると店内に突入し、いきなりエクサの服の襟首を掴んだ。
「ちょいとエクサはん借りてくでぇ!」
「えっ!? ちょ……わあああああ!」
答えも待たずにスッ飛んでいく。
後に残るのは蘭の切迫した表情と、ハンドバックのように軽々と持って行かれたエクサの様子だけ。
イリアは数秒してから事態を飲み込み、
「ちょっと、ちょっと……エクサ君を返せぇー!」
叫び行こうとする。
しかし、その前に肩の重量に気付き後ろを振り返る。
そこにはグレーのスーツにピンク縁の眼鏡を掛けた怜悧そうな女性がいた。 イリアはその人物をよく知っていた。真面目で遊びの概念など存在しない堅物のマネージャーだ。
マネージャーはその硬く引き結んだ口を離す。
「緊急のお仕事が入りました」
それだけでイリアは全ては諦めた。この女の前では、どのような理由も道理も言い訳も演技も通じないのを知っているからだ。
泣く泣く会場を後にするイリア。
入口にはスーツ姿の男たちが地面に倒れていた。