私の人生は私だけのもの
作中のリゼットの恋愛観はあくまでも彼女個人のものです。今後も変わることはありません。
「リゼット・アーヘンシュタイン公爵令嬢……いや、エリーゼ・アーヘンシュタイン公爵令嬢」
15歳の社交界デビューのデビュタント。
けれどそれは、同時に貴族の前世を調べる検査の場でもあった。
この国では、神に愛された者は前世がわかるとされている。主に魔力が膨大な者や聖女、王家の血筋の者などだ。
しかし、前世を判明させる術は精神への著しい負担を伴うため、15歳に一度きりと定められていた。
そうしてその生涯ただ一度のデビュタントの直前に、たった今自身の前世が判明した少女は絶望に打ちのめされていた。
「さあ、ご令嬢。こんなに喜ばしいことはございません」
検査官が呆然と立ち竦むリゼットににこやかに声をかける。
確かに、無理もない言い分だった。
リゼットの前世と判定されたエリーゼ・アーヘンシュタイン公爵令嬢とは、若くして亡くなったリゼットの叔母のことだ。
彼女は王太子の婚約者でもあった。
病弱な身でありながら、王太子の寵愛を一身に受け婚約者となったが、妃となる前に16歳で病で亡くなっていた。
最愛の婚約者を亡くした王太子は未だに独身を貫いている。
婚約者が生まれ変わるのを信じて。
「さあ、会場に参りましょう。殿下は大変なお喜びでございましょう!」
検査官はさも当然といった口振りで、リゼットを促した。
けれどリゼットの脚はその場に根を張った様に動こうとはしなかった。
「……お母様を呼んでいただけませんか?」
リゼットは震える声で検査官に願い出た。
涙ぐみ小刻みに肩を震わすその姿は愛らしく可憐で、あまりの僥倖に混乱しているのだろうと、検査官はリゼットの願いをすぐに聞き入れた。
「リゼット!」
「お母様!」
人払いをした検査の間に飛び込んで来た母は、真っ先にリゼットを抱きしめた。
「大丈夫。大丈夫よ」
温かい母の腕に抱かれて、ようやく緊張が解れたのかリゼットは子どもの様に泣きじゃくった。
「おか、お母様っ、わ、私、私が、叔母様だって!」
(私は、私なのにっ!)
怒りなのか絶望なのかわからない涙が、後から後から溢れてくる。
母はそんなリゼットを、ずっと抱きしめてくれていた。
「リゼットはどうしたいかしら?」
「ひっく……私?」
少しだけ涙が治った頃に、母はリゼットの頭を優しく撫でながら意思を確認してきた。
「このまま、前世の記憶とともに生きるか、」
「それは嫌っ!!」
母の言葉を遮って、リゼットは悲鳴の様な叫び声をあげた。
前世を判明させる術をかけられてからずっと、リゼットの頭の中はまるで嵐が吹き荒れている様だった。
知らない記憶に脳内が侵食されて、急速に蝕まれていく感覚。
恐ろしさと悍ましさで、気が触れてしまいそうだった。
父が兄で、祖父母が両親で、知らない男の人が婚約者で。
リゼットが大好きな乗馬は一度もしたことがないくせに、苦手な刺繍は好んでする儚げな少女。
そんな他人の記憶が渦を巻いて、リゼットがこれまで生きてきた記憶を暴力的に塗り替えようとしてくるのだ。
耐えられない苦痛だった。
「……なら、前世の記憶を永遠に失っても後悔しないかしら?」
「出来るの!?」
神の啓示の様な母の言葉に、思わずリゼットは期待に満ちた顔を向けた。
「ええ、出来るわ」
「お願いお母様!お願いです!!」
助けを求めて縋りついたリゼットに、母は優しく微笑む。
「わかったわ。ただ邸に帰ってからでないと動けないの。この場は我慢してデビュタントをこなさないといけないわ。出来る?」
母は、そう言うと泣き腫らしたリゼットの顔を心配そうに覗き込んだ。
リゼットは目元を拭うと、頭の中の声を振り切る様に大きく頷く。
「はい!大丈夫です!」
◇
「エリーゼ……なのか!」
デビュタント会場に、万全の化粧直しの後に兄のエスコートで入場したリゼットは、すぐに目の前を立ち塞がれた。
王太子殿下その人に。
「……リゼット・アーヘンシュタインでございます。王太子殿下」
リゼットは、熱に浮かされた様な王太子の視線に耐えられず、カーテシーを執ると視線を伏せた。
「あ、ああ……いや、失礼。リゼット嬢」
王太子は、リゼットの様子にはっとした様に態度を変えると、改めてリゼットに手を差し出して来た。
「一曲お願いしたい」
「……はい」
断れるはずがない。相手は王太子だ。
リゼットはその手を取ると、王太子にリードされるままに踊り出した。
「また君と踊れるなんて夢のようだ……」
ダンスの間、間近で注がれる王太子の熱い視線も、夢見心地の声も、リゼットは気持ち悪くて堪らなかった。
王太子はリゼットより18歳も歳上である。親子ほど歳の離れた男に欲望をちらつかせた目で見られて気持ちの良い少女などいるわけがない。たとえ相手が麗しい王太子だとしても。
少なくとも、リゼットはお断りだった。
「お母様、早く!お願いします!」
邸に帰ると早々に、リゼットは母に泣きついた。父は王太子に呼び止められて、兄は友人たちと夜会を楽しんでいるため、まだ王宮から戻っていない。
母と二人のうちに済ませてしまいたかったのだ。
兄はともかく、父は妹の生まれ変わりだと知ると涙ながらに喜んでいた。
記憶を消すことに、賛成してくれるとは思えなかった。
「はいはい。じゃあこれを」
リゼットを宥めながら、母は一通の封筒を差し出した。
「これを、西の森の魔女様にお渡ししてね」
「え!」
西の森の魔女。
古代から生きるという、神にも等しい存在。その魔力は偉大で、この国の発展にも大きく寄与しているため、王家でも安易に口出し出来ない存在だった。
「必ず助けてくださるわ」
母が魔女とどんな関係かはわからなかったが、リゼットは封筒を両手で握りしめて素直に頷いた。
現状、たった一つの希望の光だ。
宵闇に紛れて、リゼットは魔力で強化された馬車で西の森へと出立した。
父に叱られることは気にしなくていいと、見送ってくれた母は笑っていた。
(お母様!ありがとう……ごめんなさい)
けれどただで済むはずがない。間違いなく父は、王太子妃の話を持って帰ってくるはずだ。
(早く!早く終わらせなくちゃ!)
西の森に着くまでの間、リゼットはずっと祈る様に願い続けていた。
西の森に着いた後、馬車から降りると辺り一面が霧に覆われて、リゼットは一人きりになっていた。
乗って来た馬車も、護衛も、侍女も、一人残らず姿を消してしまったのだ。
「!!」
恐怖に脚が震える。けれどここで怯むわけにはいかなかった。
リゼットは必死に考えを巡らせる。
「え」
リゼットの手の中の封筒から、まるで道しるべの様に一筋の光の線が現れた。
そこへ行けと、言われている気がした。
「よし」
リゼットは光に導かれるままに歩いて行く。どれくらい歩いたかわからなくなった頃、目の前に突然小さな家が現れた。
ギィィ
「おや、早かったわね」
「へっ!?」
錆びれた音と共に開いた扉からは、妙齢の美女が姿を見せた。
流れる様な黒髪に、真紅の瞳、真っ赤な唇。
人間離れした匂い立つ様な美しさは、きっと抑えきれない魔力の発露だ。
「……あ、あのっ、魔女様!」
思わずぼうっと見惚れてしまっていたリゼットは、はっとして声を上げた。
説明しなければと意気込んだ口は、けれど魔女の指先一振りで縫い止められて、手にしていた封筒だけが、空を飛び魔女の手中へと収められていた。
「!?」
魔女は母からの手紙を読み終えると、掌の上で封筒ごと跡形もなく消し去った。
(す、凄い!)
「まあ、いいわ。着いておいで」
「……は、はいっ!」
いつの間にか声は出せる様になっていた。
リゼットは慌てて魔女の後を追うと、そのまま家の中へと入って行った。
バタン
背後で扉の閉まる音がする。
振り返ると、そこにあったはずの扉はすでに無く、あるのは石造の壁だけだった。
(え)
「随分魔法と縁のない生活をしてるのね」
呆れた様な魔女の声に、リゼットはハッとして向き直った。
「申し訳ありません!」
「別に謝らなくてもいいけど」
「ですが」
なおも言い募ろうとするリゼットに既に興味を失ったのか、魔女は部屋の奥へと姿を消した。
まさか他人の家を勝手に歩き回る訳にもいかず、リゼットはどうすることも出来ずにその場に立ち尽くすしかなかった。
しばらくして戻って来た魔女の手には、薬瓶が握られていた。
「一応聞くけど、一回消したら戻す方法はないからね、前世の記憶。それでいいのね?」
薬瓶を手渡す前の最終確認とばかりに、魔女はじっとリゼットの目を見つめてきた。
「はい!勿論です」
リゼットの人生はリゼットのものだ。
どうして既に亡くなっている叔母に明け渡さなければならないのか。
叔母がどれだけ愛されていようが、望まれていようが、そんなことリゼットには関係なかった。
生まれて来てから今まで、リゼットが積み重ねて来た時間を奪い取る権利など、誰にも無いはずだ。
「ふうん。じゃあ、はい」
他人の心情になど興味無さそうな魔女から渡された薬瓶を、リゼットは宝物の様に両手で受け取った。
蓋を開けると、息が出来ないくらいの異臭が鼻をつく。
(ゔっ)
けれどこんな事で怯んではいられない。
リゼットは息を止めると、勢いよく薬瓶に口をつけて液体を流し込んだ。
『やめてっ!!』
その瞬間、頭の中を泣きながら懇願する声が響き渡り、リゼットの動きを得体の知れない力が止めようとした。
「!?」
リゼットは突然自由の効かなくなった身体に困惑したが、咄嗟に薬瓶を抱える様にして必死に死守した。怒りの余り心中で悪態をつく。
(さっさと成仏してくださいよ叔母様!!)
「へぇ……感じ悪いねぇ」
それまでリゼットの動きを黙って見ていた魔女の口から、苛立ちを含んだ声が漏れる。
途端に、リゼットの身体を拘束していた力が抜けて、一気に身体が軽くなる。
「早く飲んじゃいな」
「はいっ!!」
魔女に言われるまでもない。
リゼットは再び薬瓶に口をつけると、勢いよく飲み干したのだった。
◇
「リゼット・アーヘンシュタイン公爵令嬢でしょうか」
領地で一年静養した後、王都に戻ってから初めて訪れた夜会で、リゼットは不意に声をかけられた。
「……はい、そうですが」
自分とさして変わらない年頃の、淡い栗色の髪に碧眼の美しいその男性を、けれどリゼットは知らなかった。
声に滲んだ警戒に、目の前のその人は小さく笑った。
「突然失礼しました。私はアンセル・ホーデルムと申します。大公家の者です」
「!」
大公家とは王太子の兄の家だ。
側妃腹のため第一王子でありながら王太子には立たなかったが、王太子が未だに独身のため、このまま世継ぎを儲けなければ、大公家の嫡男が王太子の養子となる手筈になっていた。
「申し訳ございません、ご無礼を」
リゼットは慌てて非礼を詫びると、アンセルに向かってカーテシーを執る。
「ご丁寧にありがとうございます。少し、お話出来ないでしょうか?」
正直なところ、王家の人間とは関わりたくなかったのだが、アンセルの押し付けがましさの無い申し出にリゼットは自然と頷いていた。
遠くから、じっとリゼットの様子を窺う王太子の粘着質な視線に、気づいていたからかも知れない。
「……場所を移しましょうか」
リゼットが、怯えた様に一瞬視線を彷徨わせた意味を理解したのか、アンセルはさりげなく王太子の視界からリゼットを連れ出してくれた。
(優しい方だわ……)
すぐに人を信じてしまうのは箱入り娘ゆえだろうが、この国で王太子をリゼットに勧めない貴族など母ぐらいしかいない。
こんな些細な行動だけで、リゼットのアンセルに対する好感度は既に上がっていた。
バルコニーのテーブル席につくと、果実水をいただきながら、リゼットはアンセルと向かい合って座った。
少し離れた場所には侍女と護衛が侍っている。深刻な話は出来ないが、軽い内緒話程度なら可能な距離だ。
「あの、公子様……お話とは?」
一体何の話があるのだろうか。
リゼットは困惑した態度を隠しきれないまま、アンセルに尋ねた。
「うん。そうだね」
アンセルは微笑んだままリゼットを見つめると、小さく頷く。
「リゼット嬢とお呼びしてもいいかな?アーヘンシュタイン公爵令嬢だと少し紛らわしいから」
「……構いませんわ」
アーヘンシュタイン公爵令嬢。
それはリゼットと叔母エリーゼ共通の呼び名だった。
同一視されるのは、こちらとて本意ではない。リゼットは、アンセルの申し出をそのまま受け入れた。
「ありがとう。では単刀直入に訊くよ。リゼット嬢は王太子殿下の妃になるつもりはあるのかな?」
「はぁ!?」
不躾な質問どころではなかった。
よりにもよって、リゼットが一番触れられたくない話題に切り込んでこられたのだ。
令嬢らしからぬ声を上げたとて仕方がない。
「訊いてどうなさるんですか?」
明らかに棘のある返答に、アンセルは破顔した。
さっきから予想外のアンセルの言動に、リゼットは戸惑うばかりだった。
(何なの?この人……)
「失礼。安心したものですから」
「安心?」
何が?とばかりにリゼットは首を傾げる。
全く話が見えて来なかったのだ。
「いえ、その様子では王太子妃になられることは無さそうだなと」
「はい!」
「ふふ。それなら我が家の先行きは変えずに済みますから。だから安心したと」
「我が家……」
アンセルの説明に、リゼットはそこでようやく思い至る。
ホーデルム大公家には三人の令息がいる。
嫡男の長男は、王太子の養子入りが既定路線とされており、実質大公家の跡取りは次男だ。末の三男は、母方の実家である侯爵家に養嗣子として入る予定だという。
「王太子殿下がご結婚されないために、我が家は長年控えの役割を果たして来ました」
「……」
「母は三人の子を産む必要に迫られ、末の弟の産後に身体を悪くして……今でも病がちです」
アンセルは苦労した母を思ってか、どこか苦しげだった。
「もし王太子殿下が今になって妃を迎えられるというなら……それ自体は大変喜ばしいことですが、我が家の未来は大きく変わります」
もし王太子に王子が生まれたなら、長年王太子教育を受けたアンセルは大公家を継ぎ、次弟は母方の侯爵家に養嗣子に入る。末弟の将来は未定になる。
今まで大公家が払って来た犠牲も努力も、全てが無に帰すのだ。
「それは余りにも我が家を愚弄していると、思われませんか?」
皮肉混じりのアンセルの問いに、リゼットは胸が締め付けられる思いがした。
(同じだ)
この人も、自分の人生を誰かに奪われることの憤りを知っているのだと。
「それにしても、リゼット嬢のお母上はさすがでしたね」
「え」
黙り込んでしまったリゼットに気を遣ったのか、唐突に話題を変えられ、反応が遅れた。
「王国一の才女と呼ばれる方だ」
「……はいっ!」
けれどすぐに母が褒められているのだとわかり、嬉しくなったリゼットは満面の笑みで返した。
「西の森の魔女相手では王家も手が出せない。彼女は付き合う相手を選ぶと聞きます。それだけお母上が優れているということです」
「ふふっ、そうなんです!」
あの日、前世の記憶を消し去る事が出来たのは、全て母の采配のおかげだった。
父にも王家にも悟られず、西の森にリゼットを向かわせ魔女に託した。
記憶を消した後は色々と面倒ではあったが、アーヘンシュタイン公爵家が罰せられることは無かった。
父が青ざめ、王太子が慟哭し、国王と王妃が絶望したくらいのものだ。兄など気にも留めていなかった。
「けど、お母様がどうして魔女様とお知り合いかは教えてもらえなくて……」
あの日、薬瓶の中身を飲み干したリゼットが意識を失った後、リゼットを探し回っていた護衛や侍女に発見され無事に帰ることが出来たが、魔女の家は跡形もなく消えていた。
それから魔女の家での不思議な体験をいくら母に尋ねても、笑顔ではぐらかされるばかりだった。
「いいんじゃないですか?」
「え」
「お母上にも秘密があったって。親子だからといって、全て知る必要は無いですよ」
そんなリゼットの小さな不満を、アンセルは何てことは無いと言ったのだ。
「そう……かも知れませんね」
不思議なことに、アンセルに言われて初めて、リゼットは納得していた。
(本当に不思議だわ)
アンセルには何か不思議な力があるのかも知れないと、まじまじと見つめてしまったくらいだ。
「どうかしましたか?」
「いえ……」
不思議そうに視線を返されて、リゼットは咄嗟に視線を逸らしてしまった。
どうしてか、無性に気恥ずかしかったのだ。
「お嬢様!」
リゼットが一人であたふたとしていると、控えていた侍女が血相を変えて走り寄って来た。
「王太子殿下がこちらに向かわれてます!」
「!!」
リゼットを探しているのだ。
王太子に直接声をかけられてしまっては、おいそれとは拒否出来ない。
最初からおかしいとは思っていたのだ。
夜会に来て早々に母を王妃に呼びつけられ、父はどこかに消えてしまった。兄はいつも通り友人達の輪の中にいる。
リゼットだけが不自然に無防備な状態に置かれていた。
まるで誰かに声をかけさせる為の様に。
「……いやっ」
震える声でリゼットは首を振った。
王太子と話したくない。
すぐ側で、熱を帯びた視線を向けられるのもご免だ。
どうして誰もわかってくれないのだろう。
親子ほども歳の離れた男性から、異性として性的な視線を向けられることがどれだけの恐怖か。たとえそれが王太子だとしても。
遂には泣き出してしまったリゼットに、それまで黙って事態を見守っていたアンセルが、口を開いた。
「リゼット嬢は王太子殿下の妃にはなりたくないのですよね?」
「そうですっ!」
「理由をお聞きしても?」
「気持ち悪いからですっ!」
「は……?」
リゼットの心からの叫びに、アンセルは目を丸くした。
「気持ち悪いし怖いんです!私まだ16歳ですよ?18歳も上の男性なんてお父様と同じにしか見えませんっ!」
「!?」
「しかも前世の婚約者の生まれ変わりだとかで王太子殿下が見てるのは私じゃない!叔母様です!どうして私が叔母様の身代わりにこの身も人生も差し出さなきゃならないんですか!?」
「!!」
「絶対に!嫌!ですっ!!」
シンと静まり返ったテラスに、興奮したリゼットの泣き声だけが響き渡る。
遠目には、護衛が侍女に合図を送って寄越している。
王太子が近づいているのだ。
「リゼット嬢」
アンセルは勢いよく立ち上がると、リゼットの側まで来て跪いた。
「それなら私と婚約してくださいませんか?」
「ふぇ??」
言われていることの意味がすぐにはわからなくて、リゼットは間抜けな声しか返せなかった。
「私の婚約者になってください」
「!!」
リゼットを見上げるアンセルの眼差しは真剣そのもので、ようやく何を言われたのか、リゼットの鈍った頭でも理解出来た。
「あ、あのっ!」
「はい」
これだけは言わなくてはと、リゼットは無意識に声を上げていた。
「わ、私!恋がしてみたくてっ!」
「恋?」
「政略結婚で構わないんです!でも出来れば、婚約期間に好意を持ってから嫁ぎたくて……」
「なるほど」
それが幼い頃からのリゼットのささやかな夢だった。
それなのに、前世のお下がりの恋なんて絶対にお断りだった。そんなもの、リゼット自身の感情じゃない。
「私と、恋をしてくださいますか?」
真っ直ぐにアンセルを見つめて、リゼットは問う。
「してくださるなら……努力だけでもしてくださるなら、貴方と婚約します!」
言いながら涙が溢れて止まらなかった。
もう何の感情なのかすら、リゼットにもわからなかった。
「ええ、勿論です」
「!!」
それなのに、アンセルは事も無げに頷いた。
「リゼット嬢、私と恋をしてください」
「はいっ!」
アンセルに差し出された手を、泣き笑いのリゼットは力一杯握り返した。
結局、王太子がその場に現れた時には、リゼットはアンセルの首にしがみついて泣きじゃくっていたのだが、その行動が引き起こす事態まで、もう頭が回らなかったのだ。
◇
「リゼット」
王都からほど近い公爵領の一つに、その日リゼットはアンセルと訪れていた。
この地は有数の馬産地で、今後忙しくなる前にリゼットの趣味の乗馬を一緒に楽しむためだった。
「アンセル様、あの木まで競争しましょう!」
そう言うなり、リゼットは乗っていた愛馬を駆け出した。
生き生きとしたリゼットをアンセルは優しく見つめると、その後を追いかけて行った。
「では王妃様も離宮に移られたのですか?」
乗馬を終えて、テラスで遅い朝食を取りながらたわいもない会話を楽しんでいたところに、リゼットはアンセルの口から思いがけない事実を知らされた。
「ああ、元王太子殿下の件で責任を取られたそうだよ」
「まぁ……」
元王太子
リゼットが、泣きじゃくりながら夜会でアンセルからの婚約の申し出を受けた後、彼は錯乱した。
「離せ!私の婚約者だっ!!」と。
その場の騒ぎを聞きつけてやって来た王は、リゼットとアンセルの姿を目にして全てを悟ったのか、王太子を諌めるとその場から自身と共に退かせた。
何も言わずに去って行った王の代わりにアンセルに真っ青な顔で尋ねたのは、彼の父である大公だった。
「アンセル……お前は」
厄介なと言いたかったのか、よくやったと言いたかったのか、言葉にならなかった父に向かって、アンセルは高らかに宣言した。
「リゼット・アーヘンシュタイン公爵令嬢に婚約を申し込み、お受けいただきました」
アンセルの覚悟を決めた顔を見ると、大公は黙って頷いた。
そうしてそのまま、リゼットとの婚約を大公家として認めたのだった。
そうなれば逃げ腰のリゼットの父も、二人の婚約を認めざるを得なかった。
母は心からの祝福をくれ、兄は興味なさそうに祝いの言葉をくれた。
心配していた両家からの反対もなく、リゼットとアンセルの婚約は成立した。
王からも、孫の婚約に祝意が伝えられた。
納得しなかったのは、王太子ただ一人だった。
婚約を結んだリゼットとアンセルは、忙しい中でも時間を作りお互いを知る努力を重ねた。好きなもの、苦手なもの。行きたい場所や、やってみたいこと。
急速に近づいて行く距離に、二人の間を流れる空気には明らかに好意が混じっていた。
誰もが初々しく始まったばかりの恋人たちを、微笑ましく見守った。
王太子一人を除いて。
彼はもはや、この世から魂を解き放ってしまっていたのかも知れない。
王太子はある時、アンセルの殺害とリゼットの誘拐を企てた。
アンセルをリゼットの目の前で殺した後、王太子宮でリゼットの純潔を奪い、自身のものにしてしまおうと画策したのだ。
けれどその企みは事前に王の知るところとなり、王太子は廃嫡の上、離宮で生涯幽閉となった。
その企みを王に明かしたのは王妃だった。
「ご自身のこれ迄のあり様も、後悔されてるみたいだよ」
王太子の教育自体を。我儘を聞いて独身を許してしまった事を。側妃を目の敵にするあまり、第一王子の立太子を阻んだ事も。
「何だか少し、お気の毒な気もしますわ……」
リゼットは悲しげに眉を下げると、それ以上何と言えば良いかわからずに、口を噤んでしまう。
リゼットは、王妃が嫉妬の余り側妃を毒殺したことも、大公を長年敵陣の最前線に追いやっていたことも知らなかった。
「そうだね」
アンセルは王妃に同情するリゼットに、同意するかの様に優しく頷いた。
わざわざ汚い事情を知らせる気など、無かったからだ。
「ところでリゼ」
悲しげに沈んでいたリゼットの顔が、途端に明るく弾ける。
リゼットはアンセルに彼だけの愛称で呼ばれる事が、嬉しくてたまらなかったのだ。
(特別に愛されてる感じがするもの!)
「なんですの?」
満面の笑みでアンセルを見つめるリゼットの手を、そっと自身の掌で包み込むと、アンセルは愛しげに目を細めた。
「西の森の魔女殿がね」
「魔女様?」
「婚約祝いだと、母に薬をくださったんだ」
「お義母様に?」
「ああ」
アンセルの母は末子の産後の肥立が悪く、長年床に臥せがちになっていた。
アンセルも弟たちも、元気な母の姿などもう10年近く見ていなかった。
「それがね、その薬を飲んでから見違える様に健康を取り戻したんだよ」
「まあ!」
「ありがたいよ……言葉では言い尽くせないくらい感謝している。魔女殿にも、君にも」
「私、ですか?」
魔女様はわかるけどと、小さく呟きながらリゼットは小首を傾げた。
そんなリゼットの姿に、アンセルは一層愛おしそうに微笑んだ。
「リゼのおかげだよ。魔女殿は気に入った相手のためにしか動かないからね」
純粋で、真っ直ぐで、素直で。
喜怒哀楽がはっきりとした感情豊かなリゼットは、腹に一物ある人種に好かれ易いのだろう。
自分の様に。
アンセルは口には出さずに、心の中だけでそう結論付けていた。
「ん〜?よくわからないんですが……お義母様がお元気になられたなら嬉しいです!次にお会い出来る日が楽しみっ」
わからない事はそれ以上考えることを止めて、リゼットは嬉しい事実に目を向ける事にした。
「義母上と一緒にリゼのヴェールを編むと張り切っていたよ」
「まぁ!」
「多分あの二人にかかれば大作になるね」
「楽しみですわ」
結婚式までの楽しみが増えた。二人の母によるヴェールを想像しただけでも、リゼットの胸は期待でいっぱいになる。
「でも少し心苦しいかな」
そんなリゼットとは裏腹に、そう言ったアンセルの表情はどこか冴えなかった。
「リゼは王太子妃になりたくなかっただろう」
「え?」
突然なにを言い出すのだろうと、リゼットは目を丸くした。
「なのに結局王太子妃だ。今だって毎日妃教育を詰め込まれている……辛くない?」
確かに以前アンセルに訊かれた時、リゼットは
「王太子の妃にはなりたくない」と答えていた。
けれどそれは、王太子妃になりたくないとは似て非なるものなのだ。
そんな事をずっと気にしていたのかと、リゼットはアンセルの妙な律義さが可愛いくて、思わず声を出して笑ってしまった。
「ふふふ。おかしな方ね。アンセル様と婚約する時点で、いずれは王太子妃になるのは決まってましたわ」
「まあ、そうだけど……」
「それに……」
「それに?」
少しだけ、言葉を探す様に口篭ったリゼットに、アンセルがその先を求めた。
もうすっかり機嫌は直ったらしく、先をねだるその瞳は、どこか愉しげに輝いて見えた。
「私が自分で決めたんですもの。誰のためでもなく、私自身の意思で!」
そう、あの日アンセルの手を取ったのはリゼットの意思だった。
自分自身の人生を生きるために。
「そっか。そうだね」
迷いなく言い切ったリゼットに相貌を綻ばせると、アンセルはリゼットの手を引き寄せて、そのまま自身の膝の上で抱きしめた。
「あ、アンセル様!?」
婚約者とはいえ、恋人同士の触れ合いにはまだ慣れない。
リゼットは、爆音で鳴り響く心臓の音がアンセルに聞こえてしまうのではと、恥ずかしさのあまり顔を伏せた。
けれど伏せた先がアンセルの首筋だったものだから、余計に身体が密着して、自身の鼓動がアンセルの鼓動と混じり合ってしまっていることに、リゼットだけがずっと気づいていないのだった。
【補足】
初登場
リゼット15歳、王太子33歳、リゼット父35歳
一年後
リゼット16歳、アンセル18歳、王太子34歳、リゼット父36歳
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